偶像にささげた肉
第一コリント8章1~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。今週からレントに入ります。レントというのは、イースター、つまり復活祭から数えて46日前のことです。46というと中途半端な数に思えるでしょうが、日曜日を除くとちょうど40日間になります。40日といえば、公生涯に入る前のイエス様が荒野で飲まず食わずの断食を行った期間です。私たちもまた、受難を乗り越えて復活に至った主イエスの苦難を覚えて、厳かな日々を過ごしていく、それがレントの意味です。

欧米では、レントの期間中クリスチャンが何か好きなものを断念する、ということをよくします。私がイギリスで留学生活を始めて最初のレントの時、神学部の友人の女性がレントの期間は紅茶を飲まない、と私に話したので、「どうしてそんなことをするのですか?」と聞くと、レントの期間は主イエスの苦難を覚える時なので、私も自分の好きな紅茶をレントの期間は我慢するのです、と説明してくれました。日本でもレントの期間にそのようなことをされているクリスチャンの方もたくさんおられるのかもしれませんが、私はそれまで恥ずかしながらレントの期間に何かを我慢するというようなことをしたことがなかったので、その友人の話は大変新鮮に響きました。

さて、レントの期間は46日で終わりますが、ではもし皆さんが一生の間、何かを我慢する、あきらめるとしたらどうでしょうか?特に皆さんの大好物な食べ物を46日間ではなく、一生涯あきらめなければならないとしたら、どんな風に感じるでしょうか。今日の聖書箇所の最後では、パウロは今後いっさい肉を食べません、と宣言しています。すごい発言ですね。皆さんも、これから一生お肉が食べられない、とんかつも、チキンナゲットも、牛丼も、ハンバーグも食べられないとしたら、なんと悲しいことでしょうか。では、なぜパウロはそんな大胆なというか、驚くべき決断をしなければならなかったのか、そのことを考えながら今日の聖書箇所を読んでまいりたいと思います。

今日の主題は、説教題にもあるように「偶像にささげた肉」です。先週までの三週間は、主に「結婚」というテーマについて学びましたが、今週からは「食事」が大きなテーマになります。とりわけ重要なのは「お肉」の問題です。この問題を考える時に、当時の食糧事情のことを踏まえる必要があります。今の時代、私たちはさまざまな種類のお肉を比較的安い値段で買うことができます。霜降り牛とか、高級ブランドの肉でなければ、手ごろな値段の肉はスーパーでいくらでも手に入ります。私たちはスーパーで肉を買うときに、「この肉は食べてもよいのだろうか?」などと考えたり悩んだりすることはまずないでしょう。では、例えば仏壇にお供えしたまんじゅうなどを「これは仏様に捧げたまんじゅうです」と言って出されたら、それを食べることに何かためらいのようなものを感じないでしょうか?クリスチャンになる前は、そんなことは気にもしなかったかもしれませんが、偶像礼拝に気をつけなさい、と口を酸っぱくして注意されているクリスチャンの方は、仏壇とか神棚へのお供え物、と聞くと強い警戒感を持つでしょう。偶像にささげたまんじゅうを食べてよいものだろうか?と。パウロの時代のコリントのクリスチャンたちにも、お肉についてこれと同じような問題を抱えていました。というのは、当時市場で売っていたお肉は、全てとは言いませんがその多くは神殿でギリシャ・ローマの神々にささげられたものだったからです。今のような飽食の時代と違い、当時は肉は希少品、高級品でした。そんな中で、肉が日々たくさん製造される場所、それが神殿でした。ギリシャやローマの神々に供え物として毎日家畜が神殿に運ばれ、そこで牛やヤギなどの家畜は屠られ、その一部は焼かれて煙として神々にささげられ、残った肉は食用として市場に売られました。神殿は一種の食肉加工場、ブッチャーだったのです。ですから、市場で肉を買う場合、すべてとは言いませんが、その多くは異教の神々へのお供え物のお肉のお下がりだったのです。そして、当時のコリントにはありとあらゆる神々がいて、それらの神々のための神殿がありました。まず、アフロディテという愛の女神に捧げられた神殿がありました。アフロディテは英語で言えばヴィーナスです。愛の女神と言っても、その神殿には神殿娼婦がたくさんいたと言われていますので、性愛の女神といったところでしょうか。他にもギリシャ神話の主神ゼウスの息子であるアポロンや、他にもオリエントの神々などたくさんいました。そして特に重要なのは、アプロンなどの神話上の神々ではなく、生きた人間、あるいは最近死んだ人間を拝む宗教が当時大流行していたことです。生きた人間を拝むなんてことがあるのかしら、と思われるかもしれませんが、この日本だって百年前には天皇を現人神と拝んでいたことを忘れてはいけません。そうです、当時のコリントでは死んだ皇帝たちや、現職の皇帝やその家族が神々として礼拝されていたのです。ちょうどパウロが活躍していた時代、コリントのあるアカイア州は、州全体の宗教として皇帝礼拝を定めました。州全体の宗教になるということは、皇帝礼拝を維持するために市民には税金が課されるということです。アカイア州に住んでいる人はどの神様を礼拝していようと、公式宗教としての皇帝礼拝を支えるために税金を払わなければなりませんでした。そのような皇帝たちを礼拝するための神殿がありました。私もコリントに行ったことがありますが、皇帝礼拝をしていた神殿の遺跡を見たことがあります。そして、皇帝にささげられた家畜のお肉も市場で売られていました。また、宗教だけでなくスポーツ観戦にも皇帝礼拝がかかわっていました。古代のコリントでは古代オリンピックと並ぶ権威あるスポーツ大会である、イストミア大会が2年に一度、開催されていました。このスポーツ大会はローマ皇帝とその家族を讃えるために開催されたので、そこでも皇帝を礼拝するためにたくさんの動物が屠られ、その肉を食べるための大きな宴会が開催されていました。ですからスポーツ観戦と皇帝礼拝とお肉のパーティーが同時に行われるようなものです。

では、あなたがコリントに住むクリスチャンだとして、このイストミア大会の晩さん会に招待されたらどうするでしょうか?質問を変えれば、そこで偶像にささげた肉が出された時、それを躊躇なく食べられるでしょうか。そもそも、クリスチャンは「偶像にささげた肉」を食べてもよいのでしょうか?聖書は何と言っているでしょうか?答えははっきりしています。食べてはいけないのです。これは、教会の会議でも一番古い会議であるエルサレム会議で決定されたことでした。エルサレム会議というのは何かといえば、最初教会のメンバーは全員ユダヤ人でした。イエス様もユダヤ人、十二使徒もユダヤ人、パウロもユダヤ人でした。ユダヤ人であれば、当然のように男性は割礼を受け、モーセの律法を守っていました。それはイエスを信じてクリスチャンになった後も変わりませんでした。では、もともとユダヤ人でない外国人、聖書では異邦人と呼ばれますが、ギリシャ人やローマ人のようにユダヤ人でない者がクリスチャンになった場合、彼らもユダヤ人のように割礼を受けて、モーセの律法を守るべきかどうか、という問題が生じました。その問題を話し合ったのがエルサレム会議でした。そこでは異邦人はモーセの律法を守る必要がないことが決議されました。そこでエルサレム教会が各地の教会に書き送った手紙を見てみましょう。使徒の働きの15章28節から29節です。

聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことに決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。

と、このようにあります。異邦人クリスチャンにとっては良い知らせです。というのも、モーセの律法は613もあるので、クリスチャンになったらこの613の戒めを全部覚えて守りなさい、と言われたらどうでしょうか。もうやってられないわけです。そこで、エルサレム教会は本当にミニマムな、必要最小限の教えだけを守るようにと教えたのです。その最小限の教えの筆頭にあるのが「偶像に供えた物」でした。これはつまり、偶像にささげた動物の肉、ということです。しかし、手に入るほとんどの肉が偶像にささげられた肉であるコリントにおいて、この戒めを真面目に守ると、肉を食べることそのものを我慢することになりかねません。肉が大好きな人に、それが耐えられるでしょうか?そして、このような問題が今日の聖書箇所の背景となっているのです。

2.本文

さて、今日の箇所は、

次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。

という、一見謎のような書き出しになっています。コリントの人たちは、「偶像にささげた肉」について、いったいどんな知識を持っていたのでしょうか。ここでの偶像とは、ギリシャ・ローマの神々と言い換えた方が意味が通じます。ですから、「我々は皆、ギリシャやローマの神々にささげた肉について知識を持っている」というような意味になります。

ギリシャやローマのたくさんの神々を信じていたコリントの人たちに、パウロが福音を宣べ伝えた時に真っ先に教えたのは、「神様はたくさんいるのではなく、唯一だ」ということでした。アフロディテやアポロンなどの神々は人間の想像の産物であり、実在しないこと、またもし存在するとしても、それは神ではなく悪霊の類に過ぎないこと、またローマ皇帝もただの人間であって神ではないこと、真の神は、イエス・キリストとその父なる神のみなのだ、とパウロは教えました。この「知識」はコリントの人たちには新鮮な驚きだったでしょう。今まで神々だと信じていたものが、実は存在しないもので、空想の産物に過ぎないものである、あるいはそれらは神を装う悪霊にすぎないのだ、だからそうした神々を拝まなくてもたたりがあるとか、ばちがあたるなどということはない、ということを彼らは知識として持ったのです。

そこで彼らはさらに考えたのです。教会の教えでは、偶像、つまり偽りの神々にささげた肉は食べてはいけないことになっているが、実際はそんな神々は存在しない、そして存在しないものに捧げた肉は、ただ肉である。あるいはよしんばそれらが存在するとしても、それは神々ではなく悪霊である。悪霊にささげた肉をどうしようが、ばちが当たることはない。かえってそれらを平然と食べることこそ、唯一の神とキリストへの信仰を証しすることになるのだ、というふうに考えたのです。

彼らはそのような知識を誇り、「自分たちは自由だ。どんな肉を食べてもよいし、神々に動物をささげる神殿の儀式やスポーツ大会に参加してもよい。神々はいない、あるいは彼らは本物の神々ではないと知ったうえでそれらの神々への礼拝に参加するのは偶像礼拝には当たらない。なぜなら我々はそんな神々を信じていないからだ。」というように、自分たちの自由を主張しだしたのです。

このようなことを言いだしたコリントの人たちに、パウロはどうしたでしょうか?「いや、あなたがたは間違っている。エルサレム会議の決定に従いなさい。偶像にささげた肉は食べてはいけないのだ」とは言いませんでした。むしろ、パウロはあえて相手の土俵に乗って議論を進めます。つまりコリントの人たちの、いわばへ理屈も理屈だと認め、その上で相手の誤りを正そうとしたのです。

そこでパウロは、「確かにあなたがたは知識を持っているし、その知識は正しい」と、コリントの人々の主張を認めます。しかし、次にすかさずこう言います。

しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。

と、そのように言うのです。あなたがたの知識は、愛のために用いられていないのだ、ということを指摘したのです。

人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。

ここで「知っている」となっている動詞は完了形、つまり自分はもう完全に知っているのだ、自分の知識は完璧なのだ、と誇っているニュアンスが伝わります。しかしパウロはそのような高ぶりを戒めます。「その人は、知らねばならないことをまだ知らないのです」と。では、知らねばならないこととは一体なんでしょうか?

3節は、「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです」というのは、どうも前の文とつながりがわるく、何を言っているのかよく分からないというように思われるかもしれません。ここでは人が神に知られているかどうかが問題なのではなく、人が何を知っているのか、知るべきなのかが問題だからです。実は、この箇所の原文のギリシャ語の写本を見ると、最も古い写本には「神を」や「神に」という言葉は含まれていません。するとどうなるかといえば、こういう訳になります。

しかし、もし人が愛するなら、その人は本当に「知っている」ということになるのです。

つまり、「知識」というものは、愛のために用いられて初めて真の知識となる、ということです。私は写本の証拠から見ても、文脈から考えても、この訳の方が正しいように思います。そのような理解に立って、パウロのいう愛に基づく真の知識とはどんなものなのかを考えていきましょう。

4節では、「私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています」とあるように、クリスチャンが持つ最初の知識とは、神は唯一であり、それ以外に神は存在しないということです。しかし、いわゆる神々というものは存在しないとしても、霊的な存在がいない、という意味ではありません。パウロはサタンの存在を信じていましたし、悪霊たちが活動していることも信じていました。そして偶像の背後には、こうした霊的な力が働いていることも信じていました。「なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが」とは、神々と呼ばれる存在は実際は存在しないか、あるいは悪霊なのだが、仮にそれらを神々と呼んだとしても、私たちには唯一の父なる神と、唯一の主であるイエス・キリストがいるだけなのだ、とパウロは言います。パウロが言うだけでなく、コリントの人々もそのような知識を持っていました。

あるクリスチャンの人たちは、このような知識に基づき、ギリシャやローマの神々への礼拝や献げものをする集会に自由に出入りをしていました。神々などはいないし、いたとしてもそれらはキリストによって滅ぼされる悪霊にすぎないのだから、それらへの礼拝に参加しても自分の心も体も汚されることはありえない、だからその時に神殿で出される偶像にささげたお肉を食べてもまったく構わないのだ、と考える人たちがいたのです。パウロはこのような人たちを「強い人」と呼びます。

しかし、そのように割り切って考えられない人たちがいます。かつてそれらの神々を礼拝していた他の人々は、そのような神々への礼拝に再び加わると、かつてそれらの神々を信じていた時の記憶や感情が呼び起こされてしまい、いくらそれらの神々はいないと頭では分かっていても、心の中ではそれらの神々に対する恐れや畏敬の念を感じてしまうのです。しかし、そのように思ってしまうことで、その人の良心は汚されます。そのことが7節に書かれています。

次の8節は、意味がとても難しい箇所です。ここの訳ですと、何を食べてもそれで私たちの神との関係がより親密になるわけではない、食べても食べなくてもどっちでもいい、とパウロがコリントの人たちに語っているように見えます。しかしここでの問題は、肉を食べるという行為が人の信仰のつまずきとなりかねない、ということです。ですから、食べても食べなくてもどちらでもよろしい、という話ではないはずです。この箇所の解釈として、これはパウロの言葉ではなく、偶像にささげた肉を食べている人たちが自分たちを正当化するために語っているスローガンだというのがあります。前にも、「すべてのことは許されている」という開き直ったスローガンがありましたが、それと同じだということです。ですから8節の前半は「食物が私たちに神の裁きをもたらすことはない」というコリントの人々のスローガンだと思われます。それに対して8節の後半では、パウロは「ええ、確かに食べることそれ自体は益にも損にもなりません」と、いったんコリントの人々の主張を受け入れます。しかし、「ただし」とパウロは言います。

あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。

と語ります。ここがこの8章全体のポイントです。パウロは律法を振りかざして、コリントの人たちに「あれをするな」、「これをしてはだめだ」とは言いません。むしろ、あなたがたには何でもする権利がある、ということを認めます。しかし、パウロが問うているのは、「あなたがたのすることは、愛に基づいていますか?」ということです。あなたが当然しても良いこと、する権利があることを実際に行うことで、ほかの人が傷つくとしたら、それでもあなたは自分の権利を行使しますか?とパウロは問うのです。パウロは続けて言います。

知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。

仲間のクリスチャンが異教の神々を礼拝する神殿で美味しそうにお肉を食べているのを目撃した他のクリスチャンが、「ああ、偶像を拝む神殿に行ってもいいんだ。そこで食事してもいいんだ」と気が大きくなり、一度は捨てたはずの偶像礼拝の世界に戻っていく。そうすると、そこには恐ろしい結末が待っています。その人は、滅んでしまうかもしれないのです。「滅びてしまいます」というのは非常に強い言葉ですが、これは警告として受け止めるべき言葉です。強い人たちがその知識に基づいて自分の権利を行使した結果が、仲間の信者の滅びだというのです。このような知識は愛に基づかない知識です。自分の事ばかり考えて、自分の権利ばかり主張して、その結果他人にどのような影響を及ぼすのか、それを考えないような人は知識を、そして愛を持ってはいないのです。そこでパウロはこう締めくくります。

あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。

パウロは、人のつまずきとなることは、キリストに対して罪を犯すことだと言います。そんなことになるくらいなら、私は肉をたべてもいいという権利を捨てます、と宣言しているのです。

3.結論

さて、今日は「偶像にささげた肉」と題してお話ししました。肉を食べることは、今も昔も人間にとって大きな喜びです。キリスト教を信仰するようになったからと言って、肉を食べるのをあきらめなければならないとすれば、何とも残念だし、何と不自由な宗教なのか、と怒りすら覚える方もおられるでしょう。コリントの人たちもそのような思いを抱いていました。というのも、当時は今日のようにスーパーに行けば手頃にどんな種類の肉でも買えるような時代ではなかったのです。神殿で異教の神々にささげた肉の残りは大変貴重なお肉の供給源でした。「偶像にささげた肉は食べてはならぬ」という教会の教えに縛られてはたまらない、と彼らは「知識」を駆使して、偶像にささげた肉を食べても問題はない、という理屈を作りあげました。

それに対してパウロは、「教会会議の決定だから黙って従いなさい」というように上から目線で頭ごなしに叱ることはしませんでした。あくまで彼らの言い分を聞いたうえで、「では、あなたが振る舞うことで、教会の徳が高まるのでしょうか。その振る舞いは愛に基づいているのでしょうか」と問うのです。このような接し方には私たちも多くを学ぶことができるでしょう。そしてパウロは諭すだけでなく、愛に基づく行動とはどんなものなのかを身をもって示そうとしました。パウロは、自ら身を切る覚悟を示したのです。兄弟の為なら、自分はもう肉を食べなくてもいい、自分の当然の権利を捨てる、と言い切りました。このようなパウロの生き方を見るとき、私たちは「キリスト者の自由、権利」とは一体何なのか、ということを考えさせられます。自由とは、なんでも好きなことをする権利、という意味ではもちろんありません。むしろ、人の徳を高めるためなら喜んで自分の権利を捨てるような自由、そのような自由でした。このパウロの生き方に倣うことは私たちにとっても大きなチャレンジです。しかし、それは主イエスの生き方そのものでした。このレントの期間、私たちはそのような主の歩みを思いつつ、それに倣う生き方を願いながら歩んで参りたいと願います。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今朝は食事について、しかも肉という私たちも大変なじみのある問題についてのパウロの教えを学びました。私たちは自由だし、どんなことでもする権利がありますが、そのように自分の権利を主張することが、果たして愛に基づくものかどうか、今一度問われました。主イエスも、神の子としてのあらゆる権利を行使せずに、むしろ仕える者として歩まれました。そのような主の歩みを覚えつつ、私たちもレントの期間を過ごすことができますように。私たちの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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