召命について
第一コリント7章17~24節

1.導入

みなさま、こんにちは。1月も、はや今日で終わりになります。今日の第一コリント書からの説教は「召命について」です。「召命」というテーマではこれまでも何度かお話をしています。「召命」という言葉は普通の日常会話ではあまり使いませんが、神学校ではよく使われる言葉です。将来牧会者になることを志して神学校の門をくぐる人に、真っ先に問われるのは「召命はありますか?」という問いです。神から牧会者として召されているという確信があるのかを問われるのです。これは教会の教師になるための試験の時も同じです。あなたはこの職責に召されているという神からの声を聞いたのか、その確信があるのか、と問われるのです。では、神からの召命とはどんなものでしょうか?

有名なものでは「イザヤの召命」や「エレミヤの召命」、そして「パウロの召命」があります。イザヤは神殿に広がる主の栄光のヴィジョンを目撃して恐れるのですが、その時神がこう語られるのを聞きます。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」そこでイザヤは「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と応えます。それに対してエレミヤは、神の召しにひるんでしまい、「私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません」と答えました。そのエレミヤに対し、神は「私があなたを守る」と約束して、エレミヤを励まします。そして、この手紙の著者のパウロも劇的な召命体験を持っています。教会を滅ぼすために東奔西走するパウロに対し、主イエスが現れ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と語りかけられます。この経験を通じてパウロの人生は百八十度の方向転換を遂げます。

しかし、このようなドラマティックな召命物語を聞くと、普通のクリスチャンの方は、「召命」など、自分とは関係ないことだ、と思われるかもしれません。召命という言葉には、神を信じてはいるけれど、神から特別な任務は与えられていなかった人が、それまでの生活や仕事を離れ、特別な責任を負うようになる、預言者とか宣教者になる、という意味があります。しかし、もっと一般的な意味としての召命、召しとは、それは神を信じるということです。今まで神を知らなかった人が、神に呼ばれ、神を信じるようになる、これが「召し」なのです。ですから、それは入信とか、回心と呼んでもよいものです。実際、「召し」とは、原語のギリシャ語では「呼ぶ」という意味です。キリスト者はみな神から呼ばれた者たちなのですが、呼ばれたときにその人はすでに結婚している場合もあれば、結婚していない場合もあり、または奴隷だったり自由人だったりするわけです。私たちにはみな、社会的な立場というものがあります。キリスト者になったときに、そのような自分の置かれている状況についてどう考えるべきか、それを変えるべきかどうか、というのが今回の箇所のテーマになっています。

2.本文

さて、今日与えられている聖書箇所は、結婚についてのパウロの教えに挟まれるような格好になっています。結婚についてのパウロの教えのエッセンスを一言でいえば、そのままの状態にとどまっていなさい、というものでした。キリスト者として神に呼ばれる、召されたときに結婚している場合はそのままでいなさい、配偶者がキリスト者であってもなくても、その結婚状態にとどまっていなさい、また一人でいる人は、もしそれが出来るならば、一人で留まっていなさい、と教えます。むろん、先週学んだように、パウロは様々なケースについて具体的な指示や助言を与えましたが、原則は「今の状態にとどまりなさい」というものでした。そして今日の箇所では結婚ではなくて、人種や社会的身分がテーマになっていますが、それらについても「召された時の状態にとどまっていなさい」ということが三度も繰り返されます。

こう聞くと、がっかりされる方もおられるかもしれません。パウロはガチガチの現状維持派、保守反動のかたまりのような人物ではないかと。特に、「召されたときに奴隷であった人も、それを気にしてはいけません」という下りを読むと、幻滅を覚えるという方もおられるでしょう。アメリカの公民権運動、特にマルティン・ルーサー・キング牧師の死を乗り越えて奴隷解放にルーツを持つ人種差別撤廃に向けてのムーブメントが盛り上がったのを目撃してきた私たちにとって、パウロの言うことは余りにも消極的に思えるのです。パウロは奴隷制度などという、人権を無視した制度を容認していたのか、と。しかし、そのように早急に結論付けるべきではないでしょう。パウロはこの7章で、男と女という性別、割礼のあるユダヤ人か割礼のない異邦人かという人種の違い、そして自由人か奴隷かという社会的身分の違い、この三つについて語っています。実はパウロは、この三つについて他の箇所でも語っています。その箇所をご一緒に見てみましょう。ガラテヤ書の3章28節です。

ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

ここでもパウロは男女の性別、人種の違い、そして社会的な身分について語っていますが、それらの区別はキリストにおいてもはやないのだ、と語っています。これは当時の時代背景を考えれば、ものすごく進歩的な、あるいは革命的と言ってもよいほどの発言です。このように、パウロは決して保守反動の人ではありませんでした。にもかかわらず、今日の箇所では、パウロは人種の違い、社会的な身分の違いがあることを認めながらも、その現状を変えようとするな、と教えます。それはどうしてなのでしょうか。

その理由の一つは、来週学ぶ箇所である31節にあります。それは「この世の有様は過ぎ去るからです」という言葉です。パウロは、世界の終わりが近いと信じていました。イエス・キリストがすぐにでも天から戻って来られ、今の世界秩序は終わると信じていました。キリストが来られた後の新しい世界では、男女の区別、人種の違い、あるいは社会的身分の違い、そんなものはみな無くなる、無意味になる、だから今の時代に慌てて社会改革を実施して奴隷制度を廃止しようとか、人種差別をなくそうとか、そんなことをする必要はないのだ、というような考え方がパウロの言葉の裏側にはあります。

しかし、パウロの時代から二千年も経った今から考えれば、世の終わりが近いというパウロの期待は実現しなかったことが分かります。ただ、これはパウロが間違えたとか、そういうことではありません。主イエスも言われたように、いつ世の終わりが来るのか、それは誰も知らないからです。使徒パウロといえども、キリストの再臨の時期は教えられていませんでした。それは何年か先かもしれないし、数千年先かもしれません。したがって、私たちはパウロのように緊張感を持つべきでありますが、同時に気長にというか、長い目で歴史を展望する余裕を持つ必要もあるのです。その意味では、ここでパウロが勧めている内容を必ずしも文字通りに受け止めるべきではない、と言うことが許されるのではないかと思います。どういうことかといえば、例えば奴隷制度の問題です。パウロは奴隷制度をあまり問題視していないように見えますが、それは奴隷制度を支える社会構造そのものが長続きしないと思っていたからです。しかし、その社会構造はパウロが考えていたよりもずっと長続きしました。なんと、科学技術が開花した近代と呼ばれる時代にも奴隷制度は存続していたのです。そしてあろうことか、体制側に回ったキリスト教徒たちが、パウロの言葉を盾にして、奴隷制度を維持したり、肯定したりしてきました。その結果、神の前に人類はみな平等であるというキリスト教の理念は歪められてきたのです。聖書の言葉は何でも文字通りに守ろう、受け止めようという姿勢は、こうした弊害を生み出しうるのです。ですから、聖書の言葉は、その言葉が語られた時代の制約を受けているということも事実として受け止めるべきでしょう。今日の私たちの社会には奴隷制度はありませんが、しかし異常なまでの貧富の拡大という別の問題があります。今世界で最も貧しい人たちと、最も豊かな人たちとの経済格差は200万倍以上だと言われます。人間一人一人の価値が神の前に平等だとするならば、このような格差は認められるでしょうか。しかも、この格差社会の先頭を走っているのはキリスト教国と呼ばれるアメリカです。聖書は、ヨベルの年に象徴されるように、極端な経済格差のない社会を目指しているにもかかわらず、です。私たちは、今の社会はどうせ遠からず過ぎ去るのだから、現状を変えようとする必要はない、などという風には考えずに、平和的な手段で、しかも積極的に、より平等な社会を築くために努力すべきなのです。奴隷制度が容認できないように、極度な格差社会も人間の尊厳を奪うものです。そのことに、キリスト者はもっと敏感であるべきでしょう。

さて、このように、パウロが積極的に社会的身分の違いを是正しようとしなかった理由の一つは、「世の終わりが近い」というパウロの期待にあったのですが、しかしそれだけではありません。もう一つの大事な理由は、社会的な地位や身分を変えようと願うあまり、一番大切なこと、つまり神の戒めを守ることがおろそかになってはいけない、という配慮があったのです。そこで18、19節を見てみましょう。

召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。

この言葉を理解するには、当時の社会的慣習についての知識が必要になります。「召されたとき割礼を受けていたのなら」という下りを分かりやすく言い換えるならば、「もしあなたがキリスト者として神から召されたときにユダヤ人であったなら」ということになります。割礼を受けているというのはユダヤ人であることのトレードマークだからです。しかし、自分がユダヤ人であるのを恥じて、ユダヤ人のシンボルである割礼の跡を消そうとする人たちもいました。最近はアメリカ文化の人気も少し下火になりましたが、以前は「アメリカナイズ」される、という言葉があったように、日本人でも日本文化ではなく、より進んだアメリカ文化に憧れ、アメリカ人のような格好をするのがかっこいいんだ、と思う人が少なくありませんでした。古代のユダヤ人の中にも、当時の最先端の文明であったギリシャ文化に憧れ、ギリシャ人のようになりたい、生きたいと願った人たちがいました。パウロの時から約200年ほど前のことを記した第一マカバイ記には次のような記述があります。

民の中のある者たちは進んで王のもとに出かけて行き、異邦人の習慣を採用する許可を受けた。こうして彼らは異邦人の流儀に従ってエルサレムで鍛錬場を建て、割礼の跡を消し、聖なる契約を離れ、異邦人と軛を共にし、悪にその身を引き渡した。(第一マカバイ1:13-15)

鍛錬場とはギムナシウムと呼ばれるギリシャの競技場のことで、人々はそこで肉体美を誇るために裸でスポーツをしました。裸になると、ユダヤ人たちは割礼を受けていることが分かってしまうので、ギリシャ人と同じようになるために割礼の跡を消す手術を受けるユダヤ人もいたのです。つまり、割礼の跡を消そうとするユダヤ人とは、ギリシャ人のようになって自分のステイタスを上げたい、より進んだ文明人、かっこいい存在になりたいという、そういう人たちのことでした。今の日本でいえば、アメリカ人のようになりたい、あるいは洗練された金髪のヨーロッパ人のようになりたい、というような人たちのことです。パウロはそうであってはならない、といいます。キリストに召された者は既に神の子なのです。その上どんなステイタスが欲しいというのでしょうか?そのようなことに気を揉むよりも、今与えられている状況の中で愛によって働く信仰に生きなさい、というのがパウロの教えなのです。

召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。」というのも同じことです。割礼を受けていない者とはギリシャ人のような異邦人のことです。異邦人が神に召されてクリスチャンになった時、彼らを教え導いていたのは昔からの神の民であるユダヤ人クリスチャンたちでした。ユダヤ人のクリスチャンたちは皆割礼を受けていましたから、異邦人クリスチャンの中には「自分もパウロやペテロのように割礼を受けたい。それはアブラハムに与えられた契約の民のしるしなのだから」と思った人がいたのです。この場合は、割礼を受けることで自分の教会の中でのステイタスを上げることが出来ると思ったのです。しかしパウロはそれも禁じます。キリストにある者は、割礼を受けていようといまいと、皆既にアブラハムの子孫なのです。だから、割礼を受けることでステイタスが上がることはないし、そもそもそんなことを気にしていること自体がおかしいのだ。あなたは人より偉くなろうとするのではなく、かえってキリストのように仕える者になりなさい、というのがパウロの言わんとしていることなのです。ですから、パウロが召されたときの状態にとどまりなさい、と教えた背後には、キリスト者としての生き方は社会的地位の上昇を目指すものではなく、むしろ進んで仕える者になりなさい、というイエス様の教えがあるのです。その次の20節ですが、このギリシャ語はなかなか訳すのが難しいものです。直訳すれば

おのおのは、召されたときのクレイシスにとどまっていなさい。

となります。クレイシスとは「召し」や「召命」と訳される言葉ですが、そうなると「召されたときの召しに留まっていなさい」という同音反復のようになり、意味がよくわからないので、クレイシスを「身分」とか「状態」というように訳されますが、要は召された時のままでいなさい、という意味です。奴隷の人は奴隷のままで、ユダヤ人はユダヤ人のままで、結婚している人は結婚した状態のままで、ということです。立場や身分は変わりませんが、しかしその状態の中での生き方そのもの、生きる態度が変わらなければならない、これがパウロの教えです。

さて、そして問題の21節です。この箇所は、かつてアメリカの黒人奴隷制を正当化するために用いられたという歴史があるため、特に問題となる箇所です。ただ、当時のローマ帝政下の奴隷制度は、19世紀のアメリカ合衆国の奴隷制度とはずいぶん違っていたことも注意すべきです。アメリカの奴隷制度の問題は、それが人種差別に基づいていたことです。奴隷になるのは黒人だけでしたが、それは黒人が白人より劣っているという誤った信念に基づいた制度でした。しかしローマ帝国では人種に関係なく、だれでも奴隷になる可能性がありました。戦争で負ければ奴隷になってしまうリスクは誰にでもあったのです。また、奴隷には確かに様々な制約がありましたが、他方で生活が保障されていた安定した身分でもありました。奴隷から自由人になってしまうと、自分で三度三度の食事のために稼がなければならないので、かえって困窮してしまう人もいたのです。ですから自由になれるのに、奴隷のままでいたいという人もいました。また、身分の高い人の奴隷で、特にその主人から信頼されている場合には、その奴隷自身も高いステイタスを持つ者と見なされました。このように、一言で奴隷と言っても19世紀の黒人奴隷のように劣悪で差別された状態にいたとは限りませんでした。こういう背景を踏まえて21節を読みましょう。

奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。

とあります。パウロは、キリストにある者は自由なのだ、と繰り返し語りますので、奴隷の身分でクリスチャンになった人は自分の身分が恥ずかしい、自由な身に相応しく自由市民になりたい、という人もいました。しかしパウロは、そのことを気にするな、といいます。主はその人を奴隷の立場にいる人として召したのですが、主の目にはその人は自由です。ただ、その人は奴隷という身分を通じて主に仕え、人に仕えるように、とパウロは促しているのです。その次の節はなかなか難しい箇所です。聖書協会共同訳では、「自由の身になれるとしても、そのままでいなさい」、つまり奴隷の身分のままでいなさい、となっていますが、新改訳では「むしろ自由になりなさい」と正反対の訳になっています。原文では、「もし自由になることが出来るのなら、それを活用しなさい」となっています。では、何を活用するのか、ということは明記されていません。自由になるチャンスを活用しなさい、という風にとれば新改訳のようになるし、「むしろ今の状態、つまり奴隷の身分をよく用いなさい」ととれば聖書協会共同訳のようになります。個人的には、どちらにもとれると思います。パウロは「今の状況をよく用いなさい」という、非常に柔軟なアドバイスをしているということです。自由になる機会を捉えて何が何でも自由になれ、ということでは必ずしもありません。自由の身であろうと奴隷の身であろうと、とにかく今ある状態を最善に用いて主に仕えなさい、隣人に仕えなさい、というのがパウロのポイントです。むしろパウロはこの世におけるステイタスをクリスチャンが気にしすぎることの方を心配しているのです。奴隷は奴隷という身分を最大限用いて主の栄光を現し、自由人は自由人という身分を最大限生かして主の栄光を現すべきなのです。クリスチャンとは主にあって自由な者ですが、主の奴隷でもあるのです。これがクリスチャンのステイタス、本当の身分なので、過ぎ去っていくこの世の身分、ステイタスにこだわってはならない、というのがパウロの一番言いたいことなのです。

さて、パウロは「奴隷であっても気にするな」といいながら、23節では「人間の奴隷となってはいけません」と命じます。これはどういう意味でしょうか?パウロは気が変わったのでしょうか?いずれにせよ、現在の日本には奴隷制度などありませんから、この勧告は私たちには関係のないことなのでしょうか?そうではありません。パウロはコリントの人たちに奴隷であってもそれを気にするな、と言ったばかりなのですから、ここでは文字通りの意味での奴隷制度の話をしているわけではなく、比喩的な意味で語っているのです。パウロが言っているのは「この世の価値観の奴隷になるな」ということです。当時のローマ人も、今の現代人と同じようにステイタスを非常に気にしていました。現代人のステイタスシンボルとは、麻布や広尾に住んだり、ベンツやBMに乗ったり、東大など一流大学を卒業したり、高い給与を貰える会社に勤めたりすることでしょうが、当時のローマ人やギリシャ人も同じでした。少しでも上に行こう、高いステイタスを得よう、というのが彼らの価値観でした。パウロはそのようなこの世の知恵、この世の価値観の奴隷になってはならない、と言っているのです。だから、今自分がどんな身分なのか、どんなステイタスなのかを気にせずに、「おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」と言う言葉を三度もこの短いセクションの中で繰り返したのです。

3.結論

さて、今日は「召命について」と題してお話をさせていただきました。神から召されたクリスチャンは、神の子という身分、これ以上ない高いステイタスを頂きます。しかし、その身分に比べて、今の自分の社会的な身分はみすぼらしいと思えてしまうかもしれません。しかし、神はこの私たちの身分、立場へと私たちを召したのです。私たちの現在の身分は神が私たちに割り当てられたものなのです。ですからこの身分をもっと高い位に変えようと頑張るよりも、むしろ謙虚な思いで、今の身分を通じて神に仕え、また人に仕えなさい、というのがパウロの教えです。もちろん、この世のおかしな、また不条理で理不尽な身分制度や差別や偏見をなくすために努力するのは大切なことです。19世紀の人種差別に基づく奴隷制度を廃止したのは素晴らしいことでしたし、南アフリカのアパルトヘイトを打ち壊したのも素晴らしいことでした。しかし、この世の制度は一朝一夕で変えられるものではないことも確かです。それを暴力的な手段を用いずに変えていくことは根気のいる、時間のかかることでもあります。しかし、制度は変わらなくても自分を変えることは出来ます。いや、むしろ神に自分を変えて頂くことは出来ます。私たち一人一人が主によって変えられ、そしてその輪がどんどん広がっていけば、社会が、そして世界が変わるのです。そのことを信じ、主によって変えられていくことを願いつつ、今週も歩んで参りましょう。お祈りします。

私たちそれぞれを子として召してくださった父なる神様、そのお名前を賛美します。私たちの社会は、自分たちの身分や立場に敏感です。「スクール・カースト」という言葉があるように、そうした意識は子供たちの間にも広がっています。しかし、私たち主にある者は、主の前にすでに尊いものであり、また主の前に平等な者であります。ですから、この世の身分や立場にこだわりすぎることなく、それぞれの置かれた立場で主に仕え、人に仕えることができますように。今週の私たちの歩みを祝してください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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