結婚について
第一コリント7章1~16節

1.導入

みなさま、おはようございます。早いもので、第一コリントからの説教も11回目になります。今日の箇所から、パウロは新しい問題を取り扱います。7章の冒頭に、「あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが」とありますが、パウロはここから、コリントの人たちがパウロに手紙を送って尋ねてきたいろいろな質問に対して答え始めます。これは逆に言えば、この第一コリントの1章から6章までにパウロが取り扱ってきた問題は、コリントの人々がパウロに尋ねてこなかった内容、むしろパウロに隠しておきたかった内容だ、ということになります。それはそうですね。自分たちが派閥を作って内部抗争を繰り返しているとか、教会員の中で、自分の義理の母親と性的関係を持ってしまった人がいるとか、はたまた売春宿に通っている教会員がいるとか、そんなことがパウロの耳に入れれば、パウロが怒るに決まっています。ですから彼らはそれらをパウロの耳に入れたくなかったのです。またパウロは当時、アジアの大都市エペソにいましたから、パウロに手紙を送るとその内容がエペソの教会の人々にも伝わってしまい、自分たちコリント教会の恥が白日の下にさらされ、彼らからは軽蔑されてしまうだろうという不安を抱いたのです。ですから彼らはパウロに手紙を送ったとき、こうした内容には蓋をして、7章以降に書かれている、もう少しまともなというか、穏便な質問だけを書き送ったのです。

しかし、彼らのそのような隠れた意図を、パウロはお見通しでした。パウロはこのコリントの教会への手紙を書くときに、彼らがいろいろ質問してきたことについて、この7章になってようやく答えを書き始めます。そして、私たちがこれまで読んできたその前の箇所、つまり1章から6章までは、彼らの質問に対してではなく、彼らが隠そうとしていた問題を取り扱ったのです。ここからパウロがかなり怒っているのがわかります。なんで隠すのですか?私はお見通しなんですよ、と子供が悪事を隠そうとしているのを怒る親のような気持だったでしょう。そしてコリント教会がこの手紙を受け取って、文字の読める人がみんなの前でパウロの手紙を大声で読み上げたときに、聞いていた教会の人たちはさぞばつの悪い思いをしたことでしょう。前にも言いましたが、当時のギリシャ社会では字が読める人は1割もいなかったでしょうから、手紙というのは読むというより聞くもの、文字が読める人が朗読するのを聞くというのが普通のことだったのです。「パウロ先生はみんなご存じだったんだな、やっぱり隠し事はいけないなあ」、と思ったことでしょう。

このように、パウロは1章から6章まで、彼らの隠れた罪について、厳しく叱責しました。それからやっと、彼らが聞いてきた内容について指示を与えています。彼らが手紙でどんなことを聞いてきたのかは、7章以降を読めばだいたいのことは分かります。彼らが聞いてきた内容は、私たち21世紀に生きるクリスチャンにとっても非常に関心の高いものばかりです。彼らの聞いてきた内容は、「離婚についてどう考えるべきか?」、「クリスチャンではない夫婦で、その一人がクリスチャンになった場合、その結婚関係を続けるべきか?」、「独身の信者は結婚についてどう考えるべきか?」、「再婚についてはどうか?」、そして「偶像に献げた肉を食べてもよいのか?」などです。このうちの最後の質問、偶像に献げた肉の問題は、当時の社会について知っておかないと何を言っているのかよくわかりません。しかし、結婚や性的な問題についての事柄は、今日の私たちにも大いに関係のある、ある意味で時代を超えた普遍的な問題だと言えます。特に今日の聖書箇所は、非常に具体的で、生々しいとすらいえる内容ですが、同時に分かりづらい、難しい箇所でもあります。そこで今日はこの手紙が書かれた時代背景にも十分注意しながら、じっくりと読んで参りたいと思います。

2.本文

まず1節を読みましょう。1節の前半については、書いてあるとおりですが、その後半の部分、「男が女に触れないのは良いことです」という言葉の意味によく注意しなければなりません。ここをさっと読むと、これはパウロが言っている言葉なのかと思われるかもしれません。たしかに、6章では売春宿に通いながらも、「これは罪ではない」と豪語する倒錯したクリスチャンに対してパウロが叱責していたので、この「男が女に触れないのは良いことです」という言葉もふしだらな男女関係を戒めたものと読めないこともありません。しかしこの言葉は、むしろ逆の極端な立場、つまり売春宿に行くのは全く問題ないと考える人とは正反対の、性的な事柄はすべてよくないと考える人たち、夫婦間の性的な営みさえやめるべきだと考える極端な人たちが言っている言葉をパウロが引用したと考えるべきでしょう。

前回の説教でも言いましたが、第一コリントではパウロはコリント教会の人々が言っているスローガンを、まるで自分の言葉であるかもように引用している部分が少なくありません。例えば何をしてもよいのだと勘違いしていたコリント教会の人々、道徳的な束縛を嫌い、やりたい放題に生きたいコリントのクリスチャンが語っていたスローガン、「すべてのことが私には許されたことです」という言葉をパウロは6章12節で引用しています。それと同じように、極端な禁欲主義者のコリント教会の人のことば、「男が女に触れないのは良いことです」というスローガンをパウロはこの1節で引用しているのです。

こういう極端な禁欲思想、性的な行為を一切禁止する思想はキリスト教の長い歴史の中で何度も現れました。例えばヨーロッパでは11世紀ごろにカタリ派と呼ばれる人たちがいました。「カタリ派」とは「清浄なる者、清らかな者」という意味で、物質的、生理的な欲求、例えば食欲や性欲などを汚れたものと見做す人たちでした。このような人たちの思想的な背景はプラトン主義やグノーシス主義の霊肉二元論で、霊的なものは良いが、肉的なものは悪い、汚れている、と考えたのです。パウロの時代には、まだグノーシス主義は登場していませんでしたが、その萌芽といいますか、さきがけのような考え方に染まっている人たちがいました。彼らは6章11節でパウロが語った、「しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」という言葉を霊肉二元論的に捉え、自分たちは聖なる、清い者だから、性的なことによって汚されてはならない、だから「男が女に触れないのは良いことです」ということを言い出したのです。

しかし、パウロはもちろんこうした霊肉二元論的な見方に同意してはいません。次の2節の訳は、おそらく誤解を招くものだと思います。「不品行」という言葉のギリシャ語はポルネイアで、ポルノという言葉の語源となったものですが、この訳ですと、ポルノを避けるために独身男性は結婚しなさい、未婚の女性も結婚しなさい、と結婚のすすめを語っているような印象を受けます。しかしここでの意味は、そうではありません。ここで「持つ」と訳されている動詞は、5章1節で「父の妻を妻にしている」と訳されているのと同じ動詞です。ありていに言えば、「持つ」とは「肉体関係を持つ、セックスをする」という意味の婉曲的な言い方なのです。ですからパウロがここで言っているのは、「男は自分の妻と肉体関係を持ちなさい、妻は自分の夫と肉体関係を持ちなさい」というほどの意味なのです。しかし、私たちにとってこれは何とも不思議なアドバイスです。なんでこんな当たり前のことをパウロは言っているのかと。その背景には、先ほど言いましたように極端な禁欲主義がありました。今まで普通に夫婦生活を営んでいたのに、夫あるいは妻がクリスチャンになり、夫婦の営みまで汚れたものだと思うようになり、夫あるいは妻と夜の営みをするのをやめてしまう人がいたのです。そうなると、もう一方は当然不満が溜まります。妻から拒否された夫は売春宿に通い始めたり、あるいは夫から拒否された妻は「金妻」のように不倫に走ったりしてしまうわけです。このような乱れが生じるのを懸念したパウロは、実にリアルなアドバイスをここでしているわけです。そこで3節で、「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい」と言っているのです。ここでの「義務」とは夜の営みをしっかりしなさいということです。

そしてパウロは4節で非常に注目すべきことを語っています。それは、夫は妻の体を自由にする権利を持ち、妻は夫の体を自由にする権利を持つ、と言っているのです。男女同権の時代に生きる私たちからすれば当たり前のことを言っているだけのように思われるかもしれませんが、古代の地中海社会では圧倒的に夫の権利が強く、妻は夫の所有物のように見なされていたことを忘れてはなりません。そのような時代に、妻は夫の体を意のままにする権利を持つ、というのはびっくりするような、革命的なことでした。使徒パウロは決して男尊女卑の保守反動的な人ではなく、今日の男女平等の思想的な基礎を作った人だとさえ言えます。

しかし、パウロはここで一つの条件を持ち出します。「ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません」と言います。つまり、両者が納得したときには、夫婦双方は夜の営みについての責任から解放されるということです。6節では、パウロはこれらのことをコリントの教会の人たちに積極的に勧めているのではない、と断ります。7節では、もし可能ならパウロのように独身でいるのは良いことだといいます。しかし、一人でいることでかえって情欲で身を焦がすようなことになり、サタンから誘惑されてはいけないともいいます。パウロのように自制できる場合はともかく、そうでないならば普通に結婚して性生活も普通に送るべきだと言います。このように、非常にリアルな、現実的な勧告をしているのです。

今日のカトリック教会で大問題になっているのは、神父たちの性的な不祥事や性的虐待です。アメリカで数百人という数を聞くと、アメリカの神父はみんなこんな不祥事を犯していると思われるかもしれませんが、世界にはカトリックの司祭は40万人以上いて、北米にも2万人以上の司祭がいると思われますから、二百人というと1%くらいです。しかし、それでもこれだけの数の不祥事が起きると言うことは、すべての神父が終生独身でいるというのには無理があるように思われます。もちろん私はここで、カトリックの長い歴史を持つ伝統を批判しているわけではありません。司祭が独身であることのメリットも当然あるのですから。しかし、パウロのように独身者として生きることが出来る賜物を与えられた人がいる一方、それがそもそも無理な人もいるのです。ですから絶対独身でいなければならないとか、また反対に絶対に結婚しなければならないとか、そういうものではないのです。結婚についても、各人が与えられた召しと賜物に従って決めるべきことです。

さて、8節以降では未婚者、既婚者などの様々な場合についての具体的なアドバイスをしています。未婚者、あるいは配偶者と死別したやもめに関しては、一人でいるのは良いけれど、自制できないようなら結婚すべきだ、とここでも先の場合と同じ原則を繰り返しています。

そして既婚者については明確に離婚を禁じます。それはパウロの命令ではなく、イエス・キリストご自身の命令としてパウロは語っています。ユダヤ社会では、夫の方だけが離婚をする権利があるという不平等な状態でしたが、主イエスは夫であろうと妻であろうと、不貞、つまり片方が不倫に走った場合以外は離婚をしてはいけないと命じておられます。しかし、11節ではパウロは、実際の具体的な状況に対応するために、キリストの命令ではない、パウロ独自の勧告を伝えます。それは、何らかの理由で、既に離婚してしまっている場合です。そのように離婚してしまった場合には、そのまま独身であり続けることは認めますが、他の人と結婚するのは禁じています。しかし、別れた人と、よりを戻すことだけは認めています。このように、非常に具体的なアドバイスが続きます。

13節からは、信者と未信者との結婚関係について語ります。ユダヤ人の場合は、夫婦ともに神の契約の民ですから、信者と未信者の結婚というのは原則としてあり得ません。しかし、異邦人の場合は二人ともクリスチャンではない夫婦の片方が信者になる、ということが実際にありました。それまで未信者同士の夫婦の片方が信者になるのです。この場合、もしかすると信者になった人は未信者の配偶者と別れて、クリスチャンの人と再婚したいと願うようになるかもしれません。しかしパウロはそのことをきっぱりと禁じています。未信者の配偶者が結婚関係に留まりたいと願うのならば、結婚生活を続けるべきだと言うのです。その理由として、パウロはこう説明します。

なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。

これは驚くべき発言です。パウロの時代のユダヤ人たち、キリストを信じていない多くのユダヤ人たちはユダヤ人以外の人々、つまり異邦人たちとの接触を避けようとしました。異邦人だけでなく、ユダヤ人の中でも罪びとと呼ばれる人たち、徴税人や売春をしているような人たちとはかかわろうとしませんでした。彼らに触れると自分が汚されてしまう、と思っていたからです。現代でも人々が風邪とかインフルエンザとかコロナ感染者の人に近づこうとしないのは、彼らからうつされてしまうのを心配してのことです。あまり適切な比喩ではないかもしれませんが、当時のユダヤ人たちが罪びとに近づこうとしなかったのは、それに近い感覚、つまり彼らの汚れをうつされてしまうという、そういう懸念を抱いていたからなのです。

けれどもイエス様はこうした罪びとに積極的にかかわり、彼らに触れました。イエス様が彼らの汚れで汚されてしまうのではなく、むしろ罪びとの方がイエス様の清さによって清くされたのです。これは、当時のユダヤ人たちにとっては衝撃的なことでした。パウロはここで、そのことをクリスチャンにも当てはめています。つまり、信者が未信者の配偶者と共に暮らしても、未信者の汚れによって信者が汚されることはなく、かえって信者の聖性によって未信者の夫、妻、あるいは子供が聖なる者とされる、と言っているのです。キリストの聖さに与るクリスチャンの聖性とは、他の人をも聖なる者とするほどの力があるのです。

これは、6章でパウロが語っていたことと矛盾するように聞こえるかもしれません。「遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか」と16節で書いていますが、この理屈でいくと、信者ではない配偶者が、何か非常に深刻な隠れた罪、それも偶像礼拝のように、本人は悪いとは思っていなくてもクリスチャンとしては受け入れられない罪を犯している場合に、その配偶者と夫婦の営みをすることでその穢れを身に受けてしまうのではないか、と思うかもしれません。確かにそういう可能性も否定できません。それでもパウロは、もし未信者の配偶者が願うのなら、結婚に留まりなさい、と命じます。ここにパウロの牧会者としての知恵と配慮があるように思います。信者と未信者がつりあわないくびきを負うことに反対するパウロですが、しかし結婚とは神が定めた制度であり、それがたとえ信者と未信者とのつりあわないくびきの上に成り立っているとしても、それを重んじるべきだ、ということです。このことは結婚だけでなく、私たちの様々な社会生活において未信者の方々と共に働く際に大いに示唆に富んでいることだと思われます。とはいえ、パウロは次のようにも言います。

しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。

パウロは、未信者の相手が望むならば結婚を続けるように命じますが、未信者の相手が離れたいなら、そうさせなさい、と言います。そのような場合は、結婚の誓いに縛られることはない、と言っているのです。これは、たとえ神が定めた結婚という制度の下であっても、信者と未信者との関係はつりあわないくびきであり続ける、という別の真理から導かれることです。そのような関係はもろい土台の上に立っているのです。ですから、その関係が壊れるなら、壊れるままにしなさい、とパウロは一見非情にも聞こえる言葉を書いています。そして理由も、なかなか厳しいものです。

なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。

これは、未信者の配偶者を持つ信者の方には大変厳しく響く言葉でしょう。未信者の配偶者の救いのために祈らない人はおられないでしょう。その人が救えるかどうか、あなたには分からないのだ、というのはひどく突き放した言葉に聞こえます。むろん、神もあなたの配偶者が救われることを望んでおられます。私たちの今年の年間主題聖句である「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」とある通りです。これは神の願いなのですから、私たちは救われていない家族のために熱心に祈るべきです。しかし同時に、その人が救われるかどうかは分からないのです。誰が救われるか、というのは神のみがご存知の隠された神秘に属することであり、私たちはその分を犯してはいけません。謙虚になるべきです。信者と未信者との関係でいえば、その家族関係は、神の家族関係の絆の強さに優るものではない、とパウロは言っているのです。

3.結論

今日はパウロの結婚についての教えを学んできました。この教えはまだ続きますので、今日は第一回目ということになります。まず感銘を受けるのが、パウロの教えは当時の男尊女卑のギリシャ・ローマ、あるいはユダヤ的な考え方を完全に乗り越えていることです。当時は夫の権利ばかりが圧倒的に強く、妻は夫の所有物のようにみなされていましたが、パウロは二人がまったく同権であると教えています。また、夜の夫婦生活についても積極的にその意義を認め、禁欲主義とは無縁でした。その一方で、主に仕えるために一人でいると決め、またそれが出来る人はそうすればよい、と教えるように結婚至上主義でもありませんでした。

さらに注目されるのは、未信者同士の夫婦の一方が信仰に入った場合でも、その夫婦生活は続けられるべきだ、と教えたことです。これは神が定めた結婚という制度を重んじる、現実的な教えです。しかし他方で、未信者がその関係を続けるのを望まないなら、それを続ける必要がないとも言います。このように、非常に細心の注意を払った、具体的な教えを書き綴っています。私たち日本においても、信者と未信者との結婚関係をどう考えるかというのは重要な問題であり続けています。注意したいのは、ここでパウロが書いている指示をすべて文字通りに守ろうとすることには無理があるということです。パウロの時代と私たちの時代とは多くの面で異なっています。特に日本では信者と未信者が結婚しているケースが非常に多いですが、それを否定的に考えるよりも、伝道のためのチャンスとして積極的にとらえるべきですし、同時に未信者は信者の配偶者によって聖められている、という言葉も肯定的に受け止めるべきでしょう。私たちは、パウロが具体的な指示を与える上での聖書的な前提というものは何かをよく考えて、それを今日の問題に適用すべきだということです。この複雑な21世紀という時代において、神の御心を行っていくには知恵が必要なのです。そのような知恵を与えてくださるように、共に祈りましょう。

天地を創造し、男女を創造し、また結婚という制度を定められた神よ。そのお名前を賛美します。今日はパウロがコリントの人々から尋ねられた様々な問いに対し、非常に注意深い、牧会的な指示を与えているところを学びました。私たち日本のキリスト者は社会の圧倒的な少数者であり、未信者との関係に常に心を砕いています。どうか私たちに具体的な問題を取り扱っていく知恵をお与えください。私たちの主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

ダウンロード