1.導入
みなさま、おはようございます。第一コリント書簡からの学びも今回で10回目になりますが、コリント教会の人々へのパウロの言葉もますます熱を帯びたものとなっています。今日の箇所のテーマは、ずばり「からだ」です。パウロの手紙を読むときに注意してほしい点があります。それは「肉」と「からだ」というふたつの言葉に注意するということです。ギリシャ語の原語では「肉」はサルク、「からだ」はソーマという言葉で、パウロはこれらを使い分けています。「肉」という言葉は、パウロの手紙の中では多くの場合否定的な意味で使われます。たとえばガラテヤ書の「肉の願うことは御霊に逆らい」(ガラテヤ5:16)という言葉がその典型です。「肉」というのは罪が働く領域である、そういうニュアンスがあります。それに対し、「からだ」にはそのような否定的な意味合いはありません。パウロは人間の「からだ」についてどう考えているのか、ということがとてもよく分かるのが今日の聖書箇所です。パウロの教えを要約すれば、「からだを大事にしなさい、大切に扱いなさい」ということです。からだを大事にしない、からだを粗末に扱うということの今日的な例では、軽いケースではアルコール中毒、はなはだしい場合はドラッグ中毒があります。アルコール、あるいはドラッグと呼ばれるものは一時的な高揚感を与えますが、それを続けるとからだは確実に蝕まれていきます。一時の快楽と引き換えに、からだを売り渡しているようなものです。「自分のからだなんだから、好きにさせてくれ」と思う方もいるかもしれません。しかし、神を信じる者にとっては、からだは親から頂いたものであり、また究極的には神からいただいたものです。自分勝手に好きなようにしてよいものではないのです。
しかし、コリントの教会の人の中には「からだ」を大切にしない人たちがいました。別に彼らはアヘンや麻薬に手を出していたわけではありません。ただ、からだを何か低級なものと考える傾向があったのです。女性の方には非常に不快な言い方であるのをあらかじめお断りしていますが、こう考える人たちがいたのです。「からだの欲は、あれこれ考えずに満たせばいいのだ。腹がすいたら食べ物を買って食えばいい。性欲がわいたら女を買って抱けばいい。そんなことは罪でも何でもない」と、このように考える人たちがいたのです。コリントという都市は貿易港で、性風俗の盛んな場所でしたから、娼婦を買うということは簡単にできたことでした。また、ギリシャには「霊肉二元論」という考え方が広まっていました。肉は滅びゆくもの、かりそめのもの、霊は永遠不滅のもの、という考え方で、ギリシャの哲学者プラトンによると、ソクラテスは人間のからだは不滅の霊を閉じ込めている牢獄のようなものであり、したがって死んでからだが滅びるのは良いことなのだ、なぜなら霊がからだから解放されて天国に行けるからだ、と教えたとされます。ソクラテスが死を恐れなかったのは、そういう世界観を持っていたからでした。このような世界観に立てば、からだというのはかりそめのもの、いずれ滅びゆくものであり、そのからだから生まれる食欲とか性欲もいわば必要悪であり、適当に満たしておけばよいのだ、ということになります。
このような考え方を持つコリントの信徒たちを諭しているのが、今日の聖書箇所なのです。
2.本文
さて、12節ですが、パウロはここで唐突に「すべてのことが私には許されたことです」と書いています。これはどういう意味なのでしょうか?誤解しないようにしたいのですが、パウロはここで、「私、使徒パウロにはどんなことでも許されている。私は何でもしてもよいのだ」と宣言しているのではないということです。むしろそのように言っていたのは、パウロが手紙を書いているコリントの教会の人たちでした。ですからパウロはここで、「あなたがたは『私にはすべてのことが許されている』と言っていますね。そのことについて論じましょう」と言っているのです。これは第一コリント書簡の特徴なのですが、パウロは自分が反対している事柄で、コリントの人たちが言っていることを突然持ち出しています。「あなたがたはこう言っている、ということだが…」というような前置きをせずに、彼らが言っていること、ここでは「すべてのことが私には許されたことです」という言葉をそのまま持ち出しています。
ではこのコリントの人たちが言っていた言い回しを理解するために、5章以降の問題を少し振り返ってみましょう。まずパウロは、自分の父親の血のつながらない義母と肉体関係を持ってしまったコリントの信徒について、そのような人と一切交際をするなと命じます。次いでパウロは、教会内の金銭的な争いを解決しようとローマの法廷に訴え出たコリントの信徒に対し、なぜ信仰者ではない人に裁いてもらおうとするのか、それはいけないと戒めます。それどころか、なぜあなたは自分の利益を弁護しようとするのか、むしろ喜んで騙されなさい、不利益を受けなさいと教えます。このようなパウロの教えに対し、パウロの言っていることは厳しすぎるし、道理に合わないと言って反発する人もいました。彼らは、パウロ自身が「私たちはもう律法の下にいない。自由だ」と言っているではないか、とパウロの教えを曲解して反論したのでしょう。世間の人々が不道徳だと思うかもしれないが、私たちはあらゆる法律から自由であり、もう世間の目など気にしなくていいのだ、世の中の古臭い道徳的な縛りなど、もはや私たちには関係ないのだ、という人たちがいたのです。彼らは、「すべてのことが私には許されたことです」というのをモットーにしていました。
また、彼らはギリシャの霊肉二元論の影響も受けていたので、肉的な事柄には価値がない、価値があるのは霊的な事柄だけなのだ、肉的な事柄、例えば食欲とか性欲とかは、どうでもいいことなので、お腹がすけば食べればいいし、性欲があれば売春婦のところに行けばいい。そういう霊的ではないことは大したことではないので、思うとおりに自由にしたらよろしい、とこう考えて、それを行動に移しました。そのような人たちに向かってパウロは、彼らの口にするスローガンを繰り返したのです。パウロはひとまず彼らの言うことに同意するふりをします。「そうです、あなたがたの言うとおり、確かに私たちは今や自由の身です。すべては私たちのものであり、私たちにはどんなことをもする自由が与えられています。」しかし、自由とはいったい何のためなのでしょうか。もし私たちが皆自由だとして、それで皆が好き勝手なことをすれば、私たちは本当に自由になれるでしょうか。極端な例を挙げれば、他の人が私の者を奪って、「それは私の自由だ。私にはすべてが許されているのだ。君も君の自由を追求すればよいではないか」などと言われたて、仕返しに彼の持ち物を奪い取ったなら、私やその人は本当に自由だと言えるでしょうか。人のものでも、自分のものでも、好きなものは何でも自由にとってもよいということになれば、そこに本当の自由があることになるのでしょうか。もちろんそうではありません。仮になにをしてもよいとしても、なんでも好きなことをすることで自分や他人が幸せになる、ということにはならないのです。そこでパウロは「しかし、すべてが益になるわけではありません」と語ったのです。
実際、私は自由だといっても、守銭奴という言葉があるように、お金をたくさん持っていても、もっと欲しいという欲望の奴隷になってしまうことがあります。お金は塩水だと言われます。飲めば飲むほど、もっと飲みたくなるという意味です。食欲や性欲も、無制限にそれを追求していくと、それらの奴隷になってしまいます。食べ過ぎていいことはありません。太ったり、病気になったりします。それでもその人は本当に自由だと言えるのでしょうか。ですからパウロは欲望の奴隷になることを戒めて、「しかし、私はどんなことにも支配されはしません」と語っているのです。
クリスチャンの持っている本当の自由とは、罪の力からの自由です。イエス様は言われました、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」そしてこうも言われました、「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」イエス様の与えてくださる自由とは、罪を犯す自由ではなく、罪の力からの自由なのです。キリストは私たちを罪の奴隷という状態から自由にしてくださったのです。キリストを信じる者は主にあって自由であり、もはや罪の奴隷ではありません。パウロは、「私たちには罪を犯す自由がある」と語るコリントの人々に対し、あなたがたは単に罪に支配されているだけなのですよ、と厳しい現実を突きつけたのです。
次の「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります」というのもコリント人たちが語っていたスローガンです。腹が減ったら、それは取るに足らない肉の欲求なのだから、食べればよい、同じように性欲を感じたら女性を買えばよい、といって売春宿に行っていたコリントの信徒たちがいたのです。しかし、信者のからだは肉欲に仕えるためにあるのではありません。パウロはこう言います、「からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです」と。最後の「主はからだのためです」というのは非常に重い言葉です。わたしたちのからだが主のためにある、というのは分かるのですが、主がわたしたちのからだのためにある、というのはどういうことでしょうか。ここでの「からだ」とは単数形であり、すなわち主のからだである教会を指します。主は神の教会を罪の力から贖うために、自分のいのちを捨てられました。ですから、「主はからだのためです」とは、主は教会のために命をも捨てられた、ということも意味しているように思われます。わたしたちのからだは、キリストのいのちという尊い犠牲によって買い取られたものです。ですからわたしたちは自分のからだを大切にしなければならないのです。
14節には「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます」とあります。神は主イエスをよみがえらせましたが、それはイエスのからだをよみがえらせた、ということです。復活とは、霊のよみがえりではなく、からだのよみがえりなのです。そして復活した主のからの手足には、十字架で受けた傷が残されていたと言われています。つまり、復活前のイエスのからだと、復活後のイエスのからだには、何らかの関連性、連続性があるのです。私たちの場合も同じ事がいえます。私たちの復活のからだも、今のからだが土台になります。もし私たちの今のからだが罪の性質にまみれていると、それが復活のからだにも悪い影響を及ぼす可能性があります。私たちが今持っているからだは自分で選んだものではありませんが、復活のからだについては今の私たちの生き方が影響を及ぼすという意味では、私たちが自分自身で選び取ったからだ、自分の今の人生の選択の結果ともいえるのです。ですから、私たちは復活のからだについては誰にも文句はいえません。私たちは今のからだを大事にしなくてはなりません。
15節以降では、さらに重要なことが書かれています。「あなたがたのからだはキリストのからだの一部」だ、というのです。教会はキリストのからだである、ということはこれまでも何度もお話ししてきました。しかしそれだけでなく、私たち一人一人のからだも、キリストのからだの一部なのです。私たちのからだは私たちのものであると同時に、キリストのものでもあるのです。キリストさまのからだを、罪の道具として使ってよいでしょうか?キリスト者が遊女と性的関係を持つことは、キリストご自身が遊女と性的関係を持つことなのです。それはなんと恐ろしいことでしょうか。神がそのようなことをする人を滅ぼさないでしょうか。
このように、性的欲望を自由に追及することには、恐るべき結果が伴います。それは単にのどが渇いたから水を飲む、というような体の一時的な必要を充たすこととは根本的に異なります。性的関係の本質は人と人との人格的交わりであり、ほんの一時の肉欲の満たしなどではないのです。これは結婚をしている場合にも言えることです。婚姻関係にある性生活はもちろん神の定めたものですが、それを単なる性的な快楽の道具にしてしまうと、段々と夫婦関係そのものがおかしくなってしまいます。それが深い人格的交わりであることを忘れないようにすべきでしょう。
パウロはさらに、「遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか」と書きます。私たちは同時に、キリストとも一つからだ、遊女とも一つからだになることはできません。遊女と一つになれば、キリストとは切り離されてしまうのです。遊女、遊女と言うと何か特定の職業の人を差別しているようで嫌な感じがするかもしれませんが、これは遊女に限った話ではなく、朱に交われば赤くなる、というように、私たちのこころもからだも、深く付き合う人によって非常に強く影響を受けるのです。
そしてクリスチャンは主イエスとの深い交わりに招かれています。パウロは、「しかし、主と交われば、一つ霊となります」と書いています。ここで「一つのからだとなる」ではなく、「一つの霊となる」としていることは注目されますね。ここでパウロが「霊」ということに言及したのは、キリストのからだは聖霊の宮である、ということの道備えをしたのだと思われます。
さて、次の18節は少しややこしい箇所です。からだを大切にする、からだを清く保つために不品行を避けなさいというパウロに対し、反発するコリント教会の人々がいました。彼らは「人が犯す罪はすべて、からだの外のものだ」とパウロに反論します。つまり、18節の二行目はパウロの言葉ではなく、パウロに反発するコリントの人たちの言葉なのです。彼らはイエスの言葉を知っていて、それを用いたのかもしれません。主イエスは「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです」(マルコ7:15)と言われました。これは、汚れた食べ物を食べると汚れてしまうと考えていた人に対し、食べ物よりもあなたを本当に汚すのは心の中の悪い思いである、とイエスは警告されたのでした。しかし、これを曲解すると、からだの外にある遊女によって人は汚されることはない、ということになってしまいます。パウロは、このような屁理屈を退けます。遊女と一つになることは、からだに対して罪を犯すことだと指摘し、ではあなたがたの「からだ」とはいったい何なのか、そのことを説明します。
パウロは、あなたがたのからだは神の神殿なのだ、とずばりと語ります。「神殿」と言われても、私たち日本人はピンと来ないかもしれません。伊勢神宮とか出雲大社とか、そういう由緒ある神社仏閣を思い浮かべるかもしれません。日本には神社仏閣が無数にあります。しかし、ユダヤ人にとっては礼拝をささげるべき神殿はたった一つでした。エルサレムにある神殿の重要性、それは私たち日本人には想像もつかないものです。そこは神の栄光と神の霊が宿る場所であり、地上における唯一の聖なる空間、神を礼拝するのにふさわしいたった一つの場所でした。ですからユダヤ人にとって、神殿とは神聖犯すべからざる絶対的な空間でした。彼らが清めの儀式にあれほどこだわったのも、万が一にも神の家である神殿を汚すようなことがないためでした。その聖なる神殿の中で売春を行ったらどうなるでしょうか?そのような人は即刻石打ちの刑に処されます。ですから、神の神殿であるからだを持つキリスト者が自分から娼婦の館に行って、そのからだを汚すなどということはあり得ないのです。
そして最後に、パウロは非常に強いことばを語ります。私たちのからだは私たちのからであっても、もはや私たちのからだではありません。イエス様がその貴い命を代価として買い取って下さったものなのです。贖う、というのは買い戻すという意味です。古代のイスラエルでは、自分の親戚が借金が返済できずに自分自身を借金のかたとして奴隷として差し出した場合、その奴隷になってしまった親戚を身請けするために借金を代わりに弁済するという制度がありました。キリストは、私たちの返しきれない借金を代わりに払って下さったのです。では誰に支払ったのか、と疑問に思うかもしれませんが、これは私たちにキリストの救いのわざの意味を理解させるための一つの喩えであり、パウロはここで贖いの細かいメカニズムや理論を説明しようとしたのではないことに注意しましょう。原始教会の信仰とは、キリストが命を投げ出したことが私たちの贖い、買い戻しをもたらしたということです。そしてこれは真理なのです。私たちは罪と死から今や自由になったのです。ですから私たちは、私たちのために膨大な負債を払ってくださった方に深い恩義があります。私たちはもはや自分のためではなく、この方のために生きるのです。ですから、私たちは自分のからだをもって神の栄光を現す必要があるのです。ここでも「からだをもって」と言われていることがとても大切です。「からだ」というのは極めて重要なものなのです。パウロはローマ人への手紙の12章1節でも、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と語ります。からだは神の神殿であると同時に、神に献げられる供え物でもあるのです。「からだ」というものがどれほど重要なのかが分かるでしょう。
私たちのからだは、ある意味で戦場です。私たちのからだは神によって罪の支配から買い戻されていますが、罪は支配権を取り戻そうと、私たちのからだに様々な誘惑を仕掛けてきます。私たちはそれに抗い、戦い、キリストのからだであり、神の神殿である私たちのからだを清く保たなければならないのです。
3.結論
さて、今日はパウロがコリントの信徒たちに対し、彼らの「からだ」をどのように扱うべきか、その教えについて詳しく学びました。コリントの人々は、クリスチャンになったからといって、これまでしてきた世の楽しみから遠ざかることを嫌がりました。自分のからだを、この世の楽しみを味わうために使いたかったのです。まあ、気持ちはわかりますね。今までやってきたことを、クリスチャンになったからといって、急にやめろと言われてもできないよ、ということは誰しもが思うことかもしれません。とくに、自分のからだが聖なる神殿だ、などと言われても全然実感がわかないかもしれません。しかし、例えば私たちが本当に好きな人、憧れている人がいて、その人が自分の家に来るとなれば、当然家をピカピカにしたいと思うはずです。私たちも敬愛するイエス様、そしてキリストの霊を私たちのからだという家にお迎えするわけですから、当然家をきれいにして気持ちよくお迎えしたいですね。そう考えれば、パウロの言っていることも無理難題だとは思えなくなるでしょう。イエス様に気持ちよく住んでいただくために、私たちの生き方を少しでもよくしよう、そう願うときに聖霊は確かに私たちのうちに働いてくださるのです。これからも主に喜ばれる歩みができるように、ひと言祈りましょう。
天におられます父なる神様。そのお名前を賛美いたします。聖なる方、清い方であられるあなたが私たちの中に住んでおられる、それはなんと驚くべき、恐れ多いことでしょうか。私たちは到底そのような召しにふさわしい者ではありませんが、しかし私たちを選んでくださったのは主ご自身です。ですから私たちは主の憐みと導きに信頼し、歩んでいくことを願うものです。世の中は大変な状況ですが、今後も礼拝が続けられるように私たちを守ってください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン