新しい契約
エレミヤ書31章23~40節

1.導入

みなさま、おはようございます。半年間かけて、エレミヤ書に取り組んでまいりましたが、今日はその最終回になります。前回は、エレミヤの人生の終わりがどのようなものだったかを学びました。20歳そこそこの青年時代からすべてを神に献げ尽くした人物の生涯の終わりとしては、それはあまりにも悲劇的なものでした。このような義人の苦しみ、神に心から仕えた人の受けた苦難の意味をどう考えるのか、というのは聖書における一つの重大なテーマです。神に仕える人は神に守られるべきではないか、なぜ神は僕を見捨てたもうたのか、という問いは、実にイエス・キリストの十字架にまで続く大きな問いなのです。しかし今日は、エレミヤの生涯の軌跡を追うよりも、そのような苦難の人生を経てエレミヤの思想がどのように深められていったのかを考えてまいりたいと思います。エレミヤという偉大な預言者の思想、あるいは神学の深まりの軌跡を考えていこうということです。

神学というと難しく感じられるかもしれません。しかし、私たちキリスト者は皆、ある意味では神学者なのです。神学者とは、神について、神とはどんな方なのかを考える人、思いめぐらす人です。「神」という言葉から、私たち人間は様々なイメージを思い浮かべます。古今東西、あらゆる文化において神は信じられてきましたが、神に対するイメージというのは文化によって相当異なります。現代の文明社会では、神を信じていないという人が増えてきましたが、そういう人たちでさえ、「神」についての何らかのイメージを持っているものです。最近「神ってる」という言葉が流行語になりましたが、これも「神」について人々が何らかの共通のイメージを抱いているからこそこういう言い方ができるのです。多くの人が思うのは、神というのは人間をはるかに超えた力や知恵を持つ、そういう存在、あるいは穢れた人間とは異なる聖なる存在、このように思います。しかし私たちクリスチャンは、何を差し置いても「神は愛である」と告白します。神とは圧倒的な力だ、パワーなのだと考えたり、あるいは人間が絶対に近寄ることもできない、はるかに遠い聖なる存在なのだと、そういうふうに神を捉えるよりも、神は愛だ、ということを強調します。では神が愛だとはどういう意味なのか、神の愛とはどんなものか、と問われれば、それはイエス・キリストというお方、この人の生きざま、この人の愛、これこそが神の愛を最も明確に私たちに示してくれたのだ、とこう告白するのです。そして、神をこのような愛のお方として理解するときに、私たちは神についてのある特定の見解、見方を人々に表明しているのですから、私たちは立派に神学している、と言えるのです。

このように、私たちの神に対するイメージは、イエス・キリストとの出会いを通じて形作られていきます。ではエレミヤの場合はどうだったのでしょうか。エレミヤは神に出会った人です。しかも、普通の信仰者が体験するような神の出会いというものをはるかに超えた、直接的で強烈な神との出会いを経験した人です。しかもその出会いは40年にもわたる、大変長い期間に及ぶものでした。この神との出会いを経験する前は、エレミヤも子供の時からモーセの律法の書を読むことなどを通じて、神についていくばくかのことは知っていたでしょう。しかし、神の僕として、神とのより深い人格的交流を続けることによって、エレミヤの神についての理解は格段に深まっていきます。エレミヤは、より深く神を知るようになっていったのです。今日は、神の真の僕であるエレミヤから、神について、人間について、そして神と人間との関係について学んでまいりたいと思います。

2.本文

今日お読みいただいたエレミヤ書31章は「慰めの書」と呼ばれる部分で、イスラエルの民の罪に対する厳しい糾弾や裁きの宣告が続くエレミヤ書の中では、際立った章だと言えます。エレミヤの人生は、神との格闘の人生だったと言えます。神はエレミヤに、人々に厳しいメッセージを届けるようにと迫ります。エレミヤは、頑なな民がそのようなメッセージを受け付けないのを知って、それを言いたくはありません、と抵抗します。しかし、神の言葉はエレミヤの上に重くのしかかり、エレミヤはその言葉を吐き出さないわけにはいかない、そういう苦悶に満ちたプロセスが繰り返されます。

神は預言者に何事かを伝える際に、主に二つの方法を取られます。一つは預言者が目ざめている時に、その耳に向かって言葉を直接伝えることです。預言者は初め、それが神の言葉なのか、あるいは幻聴なのか、戸惑ったことだろうと思われます。現代の心理学によれば、このように耳に何かが聞こえてくる、響いてくるという状況は、聞く者に非常な苦痛を与えると言われています。聞く者にとっては神の言葉が耳に突き刺さってくるような、頭が割れるような、非常な痛みを伴う体験なのです。主は、エレミヤの耳に直接語りかけるという形でコミュニケーションをとることが多かったのです。そしてこのような体験は、実はエレミヤには大変な苦しみでした。そのことが暗示されているのが20章9節です。

私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はしまっておくのに疲れて耐えられません。」

このように、神の言葉はエレミヤに迫ってくる、逃れたくても逃れることのできない重荷のようなものでした。しかし、預言者に言葉を直接語りかけるというこうした方法とは別の手段もありました。それは言葉ではなく、ヴィジョン、幻を見せるというものです。旧約聖書では、アブラハムのひ孫でエジプトの宰相になったヨセフ、あるいはエレミヤより一世代後の預言者ダニエルなどが、神から夢やヴィジョンの形で預言を受け取りました。このような場合には、預言者は苦痛を感じることなく、夢うつつの状態で神からのメッセージを受け取るのです。今日の箇所でエレミヤが神から受けたものは、ヴィジョン、幻でした。しかもそれは恐ろしい幻ではなく、楽しい夢のようなヴィジョンでした。31章ではエレミヤはリラックスし、さらには喜びに満たされているとさえ言えます。それが端的に示されているのが26節です。そこをお読みします。

ここで、私は目ざめて、見渡した。私の眠りはここちよかった。

エレミヤは夢を見ていたのでしょうか。エレミヤは眠りの中で、神から美しいヴィジョン、イスラエルの幸いな未来の幻を示され、心地よい気分になっていたのでした。楽しい夢を見た後に起きると、その余韻が残っているものですが、エレミヤもそんな状態でした。エレミヤが見た幻とは、イスラエルの回復、かつてアッシリアに滅ぼされてしまった北イスラエル王国の10部族、そしてまさにエレミヤの目の前で滅ぼされようとしている南ユダ王国の人々、これらの人々が皆、神の永遠の愛によって回復される、そういう夢を見たのです。エレミヤは、これまでも神からヴィジョンを受け取ったことがありましたが、それは楽しいものというより、むしろまがまがしいもの、恐怖を感じるものでした。それはイスラエルに下る神の裁きの幻だったからです。そんな恐ろしいヴィジョンばかりを見せられてきたエレミヤにとって、神とは怒る神、恐るべき方だったのかもしれません。特に今日お読みいただいた章の前の30章では、イスラエルの通らなければならない恐るべき運命が語られています。30章の5節から7節をお読みします。

まことに主はこう仰せられる。「おののきの声を、われわれは聞いた。恐怖があって平安はない。男が子を産めるか、さあ、尋ねてみよ。わたしが見るのに、なぜ、男がみな、産婦のように腰に手を当てているのか。なぜ、みなの顔が青くなっているのか。ああ、その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の日だ。しかし彼はそれから救われる。」

イスラエルはこれから、空前絶後の苦難に直面しなければなりません。子供の産めない男性が妊婦のように苦しむ、ということが言われています。しかし、それは終わりではないのです。イスラエルは神に裁かれた、ジ・エンドだ、というわけではないのです。主はそうした状況からイスラエルを救われる、そういう約束も同時に与えられました。エレミヤが見た喜ばしい夢とは、そのような救いについての夢でした。エレミヤは怒る神、裁きを下す神ではなく、救う神、ご自身の民をとことんまで愛し抜く神の姿を見たのです。この31章では、そのような神の姿が描かれています。特に美しいのは、今日の31章の2章以降です。そこをお読みします。

主はこう仰せられる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。」主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。」

神はイスラエルを愛しています。神は「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」と言われます。では、なぜ神はそのイスラエルに激しい怒りをもって臨んだのでしょうか。神のイスラエルへの怒りが激しかったのは、その愛が大きかったからです。よく言われることですが、愛の反対は憎しみではありません。愛の反対とは無関心です。「あんな奴は、どうでもいい。私には関係ない」と、こういう態度をとるのは、愛を全く感じない対象に対してです。神はイスラエルを愛していました。だからこそ、イスラエルの裏切りに怒りを感じたのです。親が子供に怒るのは、子供を愛しているからです。子供を愛するがゆえに、子供に間違った道を歩んでほしくないと願うがゆえに、親は子に怒り、時には厳しい罰を与えます。しかしそれは愛から出ていることなのです。エレミヤも、神のイスラエルへの激しい怒りの背後にある、こうした神の強い愛をはっきりと知りました。それが20節です。

エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。
それとも、喜びの子なのだろうか。
わたしは彼のことを語るたびに、
いつも必ず彼のことを思い出す。
それゆえ、わたしのはらわたは
彼のためにわななき、
わたしは彼をあわれまずにはいられない。

神のはらわたは、エフライムのためにわななきます。はらわたがわななく、というのはどういう状態なのか、うまくは言えませんが、これはヘブル語特有の言い回しで、その意味は「私は彼を慕い求める」とも訳すことができます。「エフライム」というのはイスラエル12部族の一つのエフライム族のことです。ご承知のように、ダビデ、ソロモンによって打ち立てられたイスラエル王国はソロモンの死後北と南の王国に分裂します。南ユダ王国はダビデ王の家系の王が統治しましたが、北イスラエル王国の初代の王ヤロブアムはエフライム族出身でした。それで北イスラエル王国はしばしばエフライムと呼ばれます。北イスラエル王国は南ユダ王国が滅びる100年以上も前に滅亡しており、北王国を形成していた10部族は失われた10部族と呼ばれ、行方不明になっていました。その10部族を慕い求めて、神のはらわたがわななく、というのです。エレミヤは、とうの昔に滅んでしまった北イスラエルの人々のためにわななく神を知ったのでした。神はご自身のものとされた民を決して忘れず、見捨てることはない、ということをエレミヤは確信していきます。神はイスラエルの罪を怒り、裁いたけれど、しかしイスラエルのために平和を、そして将来と希望を用意されているのです。その将来の希望を一言で言い表すのなら、それは「新しい契約」と呼ばれるものでした。「契約」という言葉は難しいかもしれませんが、ここでは結婚と言い換えてもよいかもしれません。神とイスラエルとの関係はしばしば夫婦関係にたとえられますが、その関係は壊れてしまいました。神はその壊れた結婚関係を立て直すといっておられるのです。離婚した夫婦がもう一度やり直すように、神はイスラエルとの壊れた関係をやり直します、そのことを「新しい契約」と呼んでいるのです。しかし、失敗した結婚をやり直すためには、なぜ失敗してしまったのかについての反省が必要です。反省がなければ、また同じ失敗を繰り返すだけだからです。では神とイスラエルとの関係はどうして壊れてしまったのでしょうか?それはイスラエルの罪のためだ、イスラエルが神を裏切ったからだ、ということになりますが、しかし話はそう簡単ではないのです。イスラエルも、何も好き好んで神を裏切ったわけではないのです。なぜイスラエルの人々は神を裏切ってしまったのか?それは、どうしようもない不安のためでした。イスラエルの人たちが偶像と呼ばれるほかの神々の下に走ってしまったのは、不安のためでした。私たちも、いつも生活の不安を抱えて歩んではいないでしょうか。健康が損なわれて病気になる不安、事故のために体が不自由になってしまう不安、農業を営んでいる人は、気候不順のために作物の収穫が不調に終わってしまう不安、仕事をしている人であれば失業してしまう不安、私たちの日常生活は不安だらけなのです。イスラエルの人々も同じでした。周囲を大国や敵対的な国々にぐるっと囲まれた小国として、どうやって生き残るか、あるいは干ばつや洪水などの自然災害の脅威を常に感じながら、どうやったら安定した収穫が得られるのか、そういう生存のための不安をいつも感じていました。彼らには先祖からずっと仕えてきた神がいます。しかし、その神はエジプトの神よりも強いのだろうか、無敵のバビロンの背後にいる神よりも強いのだろうか。バビロンやエジプトの神々にも敬意を払うべきではないだろうか。また、イスラエルの人々に日々の糧を提供してくれる農業についてもそうです。イスラエルの神は砂漠の神です。モーセに率いられた出エジプトの民が砂漠をさまよう中で、彼らを導いてくれた神です。しかし、今や彼らは砂漠ではなく農地で暮らしています。イスラエルの神は農業には不得手ではないのか。豊作の神であるバアルにも敬意を払うべきではないだろうか。このように考えると、イスラエルの神だけでなく、ほかの神々も拝んだほうが安心ではないか、という風に思えてくるでしょう。私たちも彼らのことを笑えません。日本にも、星の数ほど神々がいます。商売繁盛の神様、縁結びの神様、安産の神様、受験の神様、等々です。そんな神様本当にいるんだろうか、と思いながらも、少しでも不安が和らぐのなら、とそういう神様にお参りするのです。そういう不安から出る行動を笑うわけにもいきません。困った時の神頼みというように、普段どんなに強がっていても、いざとなれば人間は何かにすがらなくてはやっていけません。そして、すがるものが多ければ多いほど安心でしょう。イスラエルの人たちも、まさにそのように行動してしまいました。神は人ではないので、そのような不安に動揺することはありません。しかし、イスラエルは神のパートナーだからと言って、神のように完璧にはなれないのです。本質的に弱くもろい人間は不安だらけなのです。ですから、ついふらふらしてしまうのです。しかしイスラエルの神は唯一の神です。自分だけを信頼してほしい、偽りの神々を信頼しないでほしい、と強く願われる神です。そのためにイスラエルの人々の背信に怒るのです。しかし、その神は憐み深い神です。神は人間の持つどうしようもない弱さ、不安のあまりに愚かな行動に走ってしまう人間を深く理解しておられます。ですから、彼らをただ怒るだけでなく、その根本の問題、病を治療しよう、不安のあまり右往左往してしまう人間性そのものを癒してあげようと、そのように心を決められたのです。エレミヤの語る新しい契約とは、そのような契約のことです。神はイスラエルの人々の弱さを包んであげようとされるのです。ですから神は自ら人となられたのです。私たち人間と同じ弱さを身にまとい、人間と同じように日々の生活の不安の中で暮らしながら、同じ仲間として人間に必要なものを与えてあげようと、そう心に決められたのです。人間と同じ土俵に立つこと、人間との連帯の中で、人間と共に歩むことを神は決意なさったのです。それが新しい契約です。ですから人となられた神であるイエス・キリストこそ新しい契約です。イエス様こそ、神と人間の新しい結婚関係、真のパートナーシップのあるべき姿を示してくださったのです。そのとき、「人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ」というエレミヤの預言が成就するのです。エレミヤは、苦難に満ちた預言者人生の果てに、このような素晴らしい未来がイスラエルに、そして人類全体に約束されていることを知ったのです。そして、そのようなことを成し遂げて下さる神の、人類への愛を知ったのです。エレミヤの晩年は確かに不遇なものではありましたが、エレミヤがこのような希望を抱きつつその人生の終わりの日々を過ごしたことを忘れないようにしましょう。

3.結論

今日は、エレミヤ書からの連続説教の最後として、エレミヤの思想の深まり、その終着点について考えてまいりました。エレミヤがたどり着いたのは、神の将来のヴィジョンでした。それは「新しい契約」と呼ばれるもので、その時神は人間の持つどうしようもない弱さ、不安のあまり神を何度も裏切ってしまう根本的な弱さ、その弱さそのものを癒してくださる、正してくださる、そのような未来をエレミヤは垣間見ることができたのです。ではどうやって?というところまではエレミヤには知らされてはいませんでした。まさか神ご自身が人となられ、人と同じような弱さや苦しみの中を歩まれるとまでは、想像できなかったでしょう。しかし、確かに神はその民との、そして人類との関係を新たにされる、ということについては確信を抱いて死んでいったのです。彼の苦難の人生の果てにあったのは絶望ではなく希望だったのです。そして私たちは、エレミヤの夢見た希望が実現した時代に生きているのです。その幸いを覚え、またエレミヤの気高くも赤裸々な人生を思いながら、ひと言お祈りしましょう。

エレミヤを召し出し、エレミヤを導き、またエレミヤに素晴らしい未来のヴィジョンを示された神様、そのお名前を賛美します。エレミヤが夢見た未来は、ついに人となられた神であるイエス・キリストにおいて実現しました。私たちは私たちの弱さを深く思いやって下さる方、主イエス・キリストと共に歩みことができます。そのことを心から感謝します。私たちはエレミヤのような勇敢な生き方とは程遠い生き方をするものではありますが、しかしこのような信仰の先達を持った幸いにも感謝します。あなたがいつもエレミヤを見守ってくださったように、私たちを見守ってください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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