エレミヤのその後
エレミヤ書42章1~22節

1.導入

みなさま、おはようございます。エレミヤ書からの連続説教も今日で16回目、残すところあと2回となりました。今日のメッセージは、エレミヤの人生の最後の日々、エルサレムが陥落し、ユダ王国に遣わされた預言者としての使命を終えた後の人生の最晩年について学んでまいりたいと思います。エルサレムが陥落した時、エレミヤはもう60歳になっていました。今日では人生100年時代と呼ばれるようになりましたが、当時は60歳というともう現役を退く年でした。過酷な預言者人生を送ったエレミヤですので、せめて余生は平穏な人生を送りたかったでしょうが、そうはいかなかったのです。彼の人生は、その終わりまで苦難に満ちたものでした。

さて前回は、エルサレムが滅びる直前に行われた、エレミヤとユダ王国最後の王ゼデキヤの密談の場面を見ました。エレミヤは、もうすぐバビロンがエルサレムを滅ぼすために戻ってくる、それまでの間に早くバビロンに降伏して生き延びなさいと強く勧めます。その言葉を受け入れたゼデキヤ王ですが、結局徹底抗戦を叫ぶ部下たちを恐れて決断できず、エルサレムはとうとうバビロンによって攻め滅ぼされました。その顛末は、本日交読文でお読みした通りです。バビロンの王ネブカデレザルは、エルサレムが陥落するとき、部下に命じて囚われの身だったエレミヤを保護させました。なぜバビロンの王がイスラエルの預言者を保護したのか、その詳しい理由は書かれていません。おそらく、早い段階でバビロンに投降していた親バビロン派のユダヤ人たちが、バビロンの王にエレミヤのことを伝えていたのでしょう。エレミヤは、イスラエルの神はバビロンの王を覇者に定めたと預言していましたら、そのことを聞いたバビロンの王も悪い思いはしなかったのでしょう。エレミヤを助け出すことにしたのです。

しかし、40章の前半を見ますと、保護されたはずのエレミヤは、戦争捕虜として鎖につながれて、バビロンに連行されそうになっています。おそらく戦争直後の混乱で、エレミヤを保護するようにとのバビロンの王の命令が末端の兵士にまでは伝わっていなかったのでしょう。バビロンの王からエレミヤ保護を命じられていた侍従長は慌ててエレミヤを捕虜の中から再び助け出し、釈放します。そしてエレミヤに、自分と一緒にバビロンに行ってもよいし、エルサレムに残ってもよい、好きな道を選びなさい、と語ります。エレミヤはエルサレムに残ることを選択します。廃墟になったエルサレムの人々を励ますことに残りの人生を費やそうと思ったのかもしれません。ではこれから、その後にエレミヤとエルサレムの人々に何が起こったのかを見てまいります。

2.本文

エルサレムの主だった人々がバビロンに捕囚の民として連行されていく中、エレミヤはエルサレムに残された人々と共にいることを選びました。バビロンの王は、廃墟となったエルサレムとユダヤ地方の治安維持のために、生き残ったユダヤ人のリーダーたちの中からゲダルヤという人物を選び、ユダヤ地方の総督にしました。ゲダルヤはシャファンの一族の者でした。シャファンの一族のことはご記憶でしょうか。この一族はエルサレムの有力な一門でしたが、これまで迫害されて殺されそうになったエレミヤを何度も守ってきた人々でした。彼らはエレミヤを信じていたので、エレミヤの言う通りバビロンに従うべきだと信じていました。つまり、エルサレムで籠城していた人々の中では珍しく親バビロン派の人たちだったのです。バビロン側もそのことを知っていて、占領したエルサレムの統治をシャファン一族のゲダルヤに委ねたのです。アメリカも太平洋戦争後に日本を占領した時に、戦前から親米派と目されていた吉田茂を日本のトップに据えましたが、それと少し似ているかもしれません。エルサレムに残ることに決めたエレミヤは、このゲダルヤの下に身を寄せました。

バビロンによって全土を焦土にされ、王様は連れ去られ、宗教生活の中心であった神殿も破壊され、失意のどん底にあったエルサレムの人たちも、新しい総督ゲダルヤのリーダーシップの下で少しずつ落ち着きを取り戻していきました。ゲダルヤの政策は、基本的にエレミヤの預言に従ったものでした。すなわち、バビロンに仕えなさい、バビロンに従うことであなたがたは平和になる、というものでした。バビロンへの敵意は捨てて、バビロンと友好的にやっていこうというものです。かつての日本も、鬼畜米英を叫んでいましたが、戦後はアメリカに従っていくことで繁栄を手に入れていきましたが、それと似たところがあるでしょうか。その結果、段々とエルサレムやその周辺の人々の暮らし向きも上向いてきました。しかし、この平和な日々は長くは続きませんでした。以前の説教で、ゼデキヤ王は周辺の国々の王たちから反バビロン連合に加わるように誘われていたということをお話ししましたが、パレスチナの王国にはバビロンに反感を持つ国が少なくありませんでした。そのうちの一つ、アモン人の王は、エルサレムとユダヤの地が親バビロン派のゲダルヤによって治められているのが面白くありません。ユダ王国最後の王ゼデキヤも、バビロンに敗れたときにアモン人の王のところに逃げ延びようとしていましたので、アモン人の王はユダ王国の王室とは親しかったのでしょう。そこで、アモン人の王はユダ王国の王家の生き残りである王子イシュマエルに使いを送って、こうけしかけます。「世が世なら、君はイスラエルの王となるべき人だ。ところがどうだ、バビロンにしっぽを振って出世したかつての家来の下にいるなんて、惨めなものじゃないか。さあ、あのゲダルヤなど殺めてしまいなさい。私も君に協力するから」と、こんな具合にささやいたのでしょう。王子イシュマエルも家族をバビロンに殺されたり捕虜にされたりしていたので、バビロンにべったりのシャファンの一族とゲダルヤに良からぬ思いを抱いていたのでしょう。このアモン人の誘いに乗ってしまいます。この陰謀を察知した総督ゲダルヤの友人たちは、「王子イシュマエルが君の命を狙っているぞ」、と警告します。中でも将校のヨハナンは、機先を制して、イシュマエルを殺してしまおうと進言します。このヨハナンというのは大事な人物なので、覚えておいてください。しかしゲダルヤは少しお人よしというか、あまり人を疑うようなタイプの人ではなかったのでしょう。王家の人イシュマエルのことを、そんな風に悪く言うものではない、とたしなめて取り合いません。

しかし、このゲダルヤの鷹揚さは高くつきました。イシュマエルたちは無警戒のゲダルヤを食事に誘うのですが、その時に、彼を不意打ちで殺害してしまったのです。だまし討ちです。イシュマエルはゲダルヤだけでなく、そこにいたバビロンの将校たちまで殺してしまったのです。終戦直後の日本でいえば、日本の総理大臣だけでなく、アメリカのGHQの将校まで暗殺してしまうようなものです。日本でマッカーサーや吉田茂がもし暗殺されていたなら、戦後の復興など吹っ飛んで再び日本は大混乱に陥ったでしょう。しかし、まさにそのような最悪の出来事がエルサレムとその住民たちに起きたのです。

イシュマエルら暗殺者たちは、多くの同胞のユダヤの人々をだまし討ちで殺したり、捕虜にしましたが、ごく少数で行動したものですから彼らも危ない橋を渡っていたのです。ゲダルヤの友ヨハナンたちがイシュマエルの凶行を知って反撃に出るのと、多勢に無勢で勝ち目はないと見てアモン人の王のところにさっさと逃げてしまいました。そしてユダヤの地に残されたのは、ゲダルヤにイシュマエルの悪だくみについて警告したヨハナンとその仲間だけになりました。そこで、彼らは大変危険な状況に置かれました。彼らにはバビロンに反逆する気など毛頭ありませんでした。しかし、問題はバビロンの王が彼らのことをどう思うかでした。バビロンの王としては自分の任命した総督ゲダルヤと、バビロンの兵士たちが殺されたのですから、これは間違いなく謀反です。首謀者はイシュマエルだとしても、バビロンの王はヨハナンたちのことも共謀者として疑うでしょう。なぜなら、ヨハナンがゲダルヤの友ならば、イシュマエルは彼らも殺したはずだからです。そして今やイシュマエルがいなくなったとあっては、バビロンの王はヨハナンたちをゲダルヤ殺しの下手人として捕まえるでしょう。彼らは総督殺しの汚名を着せられて、処刑されてしまうかもしれません。そういう最悪のシナリオを考えて、彼らはエジプトに逃げることにしました。エジプトならかつての同盟国として、自分たちをかくまってくれるだろうと。しかし、彼らは自分たちの決断に自信が持てませんでした。そこで、そのことについての神からのお墨付きを得ようとして、預言者エレミヤに神からのみ言葉を与えてくれ、と願うのです。ここまでが、今日お読みいただいた42章の背景です。ヨハナンたちはエレミヤにこう願います。

あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。

そして彼らは、エレミヤを通じて語られる言葉がどんなものであっても、たとえそれが彼らの期待に反したものだったとしても、私たちは主の言葉に従います、と誓ったのです。彼らの願いを受けて、エレミヤは十日間神に祈り、神からの言葉を待ちました。それからどんな神の言葉をエレミヤが受けたのか、それは今日お読みいただいた42章に書いてある通りです。ユダヤの地に留まりなさい、バビロンの王の報復を恐れてはいけない、主がバビロンの王を動かし、あなたがたを憐れむようにしてくださる、と。しかし、もしエジプトに逃げるなら、あなたがたには災いが臨むだろう。剣とききんと疫病で死ぬことになるだろう、とエレミヤは警告します。しかもエレミヤは、彼らが神の言うことを聞くと誓ったのにそれを守らずにエジプトに下るだろう、と彼らが自分の話した神の託宣に従わないということまで預言しました。

さて、このエレミヤの話を聞いたヨハナンたちはどうしたでしょうか。「いいえ、エレミヤよ。十日前に誓った通り、私たちはあなたを通じて語られるどんな神のご命令にも聞き従います。ユダヤに残ります」と答えたでしょうか。残念ながら、そうではありませんでした。43章の2節と3節をお読みします。

すると、ホシャヤの子アザルヤと、カレアハの子ヨハナンと、高ぶった人たちはみな、エレミヤに告げていった。「あなたは偽りを語っている。私たちの神、主は『エジプトに行って寄留してはならない。』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。ネリヤの子バルクが、あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、私たちをカルデヤ人の手に渡して、私たちを死なせ、また、私たちをバビロンへ引いて行かせようとしているのだ。」

と、こういうのです。エレミヤよ、あんたは嘘をついている、とまで言うのです。この言葉から分かるのは、彼らの方こそ嘘をついていたということです。彼らはエレミヤに対し、神の言葉がどんなものであっても従うから、私たちに神のみ言葉を下さい、と誓いました。しかし彼らは、神の言葉を聞く前からエジプトに逃げることを固く心に決めていたのです。彼らは単に、自分たちの決断について神様からのお墨付きが欲しかった、それだけだったのです。彼らは本当に神を信頼し、神の命じることならなんでも従うというような素直さ、従順さを持っていませんでした。むしろ、うなじの怖い人々だったのです。ですから、エレミヤが、いや神様が自分たちの思い通りのことを言ってくれないと知って、神に従おうとはしませんでした。彼らは神の御心(みこころ)よりも、自分たちの御心(おこころ)にしたがったのです。 

しかし、私たちも彼らを笑うことはできません。私たちもまた、神に従うことよりも神に私たちの願う通りに動いてもらおう、神が自分たちの思い通りに行動してくれるようにと願う者ではないでしょうか。また、神よりも自分の判断を信頼してしまうような、そんな者ではないでしょうか。神の前に本当に謙虚になる、神の言葉に心から従うというのは本当に難しいものです。神が私たちの人生に試練や苦難を与えるのも、私たちの頑なな心が砕かれて、神の前にへりくだり、神に従うことを学ぶためなのです。

さて、エレミヤたちの話に戻りますが、結局、ヨハナンたちはエレミヤの言うことを聞かず、無理やりエレミヤやバルクをも連れてエジプトに下りました。このエレミヤとバルクを連れて行ったことに、彼らの動揺する気持ちが見透かされているように思われます。エレミヤとバルクが神の名をかたって嘘を語ったと彼らが本当に信じていたのなら、エレミヤたちを殺すかユダヤの地に置き去りにするかしたはずです。しかし、彼らは実はエレミヤが本当のことを語っていることを心の奥では知っていたのかもしれません。ですからエレミヤたちに一緒に来てほしかったのです。これからエジプトに行って、本当に困ったことになったときに、エレミヤを頼ることもあるかもしれない、と考えたのでしょう。エレミヤにとってはなんとも迷惑な話ですが、彼と盟友のバルクは心ならずもエジプトに連れていかれることになりました。エレミヤたちは、シナイ半島の荒れ野を旅してとうとうエジプトの王パロの宮殿の前までたどり着きました。かつてモーセに率いられた出エジプトのルートを逆戻りしたわけです。しかしエレミヤはここで非常に大胆な行動に出ます。なんと、このパロの宮殿はバビロンによって滅ぼされる、エジプトの神殿はバビロンの王ネブカデレザルによって破壊される、と宣言したのです。今でいえば、亡命先の国のど真ん中で、並み居る記者たちの前で「あなたたちの国は遠からず滅ぼされる」と宣言するようなものです。このエレミヤの突然の行動に、ヨハナンたちが慌てふためいたのが目に浮かぶようです。

しかし、ともあれエルサレムの生き残り組はエジプトに亡命を受け入れてもらい、エジプトでの生活が始まりました。彼らの暮らしが44章に書かれていますが、そこには驚くべきことが書かれています。エジプトに亡命したユダヤ人たちは、なんと天の女王を拝み始めました。エジプトは、様々な神々が礼拝されている、混合宗教のメッカのようなところでした。そのような多神教的な宗教的環境にユダヤ人たちは順応しようとして、彼らもイスラエルの神以外の神々を拝み始めたのです。エレミヤはそのことに怒り、あなたがたは偶像礼拝をしたために神の怒りを買い、国を失ったことをもう忘れたのか、と厳しく彼らを批判します。しかし、言われたほうも今度は黙っていません。彼らは、エルサレムが滅んだのは偶像礼拝のためではない、逆だ、むしろ天の女王を礼拝するのを止めたので、国が滅んでしまったのだ、だから今こそ私たちは天の女王を礼拝するのだ、とこのように開き直るのです。この、全く反省のないユダヤ人を前にして、エレミヤが何と言ったか。エレミヤの最後の言葉が44章27節に残されています。それをお読みします。

見よ。わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの国にいるすべてのユダヤ人は、剣とききんによって、ついには滅び絶える。

このような悲惨な宣告をしなければならないとは、エレミヤの胸も張り裂けそうだったでしょう。もうエレミヤもおじいさんです。みんなの喜ぶ顔が見たかったはずです。みんなが嫌がることなど言いたくなかったでしょう。しかし、ユダヤの人たちがあまりにも頑なで、また神を畏れないので、このような厳しいことを言わざるを得なかったのです。この後にエレミヤに何が起こったのかは聖書には記されていませんが、言い伝えによれば親エジプト派の人たちによってエジプトで殺されたと言われています。それが本当だとすると、この偉大な預言者の終わりとしてはあまりに悲劇的なものです。

3.結論

今日は、エルサレムが陥落した後の、エレミヤの人生の最終局面について学んでまいりました。エレミヤの最後は本当に気の毒なものでした。彼が一番行きたくなかったエジプトに無理やり行かされ、そこで同胞の人々がイスラエルの神を捨てて再び偶像礼拝にのめり込むのを目撃し、そして同胞の手によって異国の地で殺されてしまったのですから。この時、神はいったい何をしていたのでしょうか?神はエレミヤに対し、「わたしは必ずあなたを助け出す」と何度も何度も約束されたではありませんか。それなのに、なぜエレミヤはこんな悲惨な余生を送らなければならなかったのでしょうか。まさにエレミヤは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びたいような気持だったでしょう。こんなにも全身全霊で神に仕えた人を私たちは知りません。40年もの間、その人生のすべてを神にささげ、その間何度も殺されかけ、ののしられ、それでも不屈の信念で神とその召命に従いとおしたエレミヤ、その偉大な人物の晩年がこのようなものとは、私たちはなんともやりきれない思いがいたします。ここに人生の不条理、そして神の御心の不思議があります。なぜ神を信じる人、神に忠実に、まっすぐに生きる人が苦しみの人生を送るのでしょうか。この、義人の理不尽な苦しみというのは聖書全体の最も深刻で重要なテーマになっていきます。エレミヤの先輩である預言者モーセやエリヤ、旧約聖書のヨブ記、旧約と新約の間の中間時代に書かれたユダヤ人たちによる文書、そして新約聖書の主イエスや使徒パウロなど、神に仕える人の人生は幸いよりも苦難に満ちたものとなっていきます。

しかし、エレミヤの人生がいかに報われないものに見えたとしても、その人生は意味のない苦役に見えたとしても、彼の生きざまは真実なものとして私たちに迫ってきます。エレミヤは生涯正式なポストには縁がない人物でした。王家の一員でもないし、大祭司の一員でもありませんでした。無名無冠の彼のことを記録にとどめる必要などなかったのにもかかわらず、それでも彼の生きざまに衝撃を受けた人たちは、必死で彼の語ったことを書き留め、保存しました。それを読んだ後世の人々も深く感動し、何世代もの多くの人たちに勇気を与えてきました。エレミヤは愚直な人でした。まったく空気の読めない、いや読まない人でした。しかし、確かに彼は神に出会った人なのです。彼の壮絶な人生を支えたのは、真の神との遭遇という深い霊的な経験だったのです。神に捉えられ、神の言葉を語らずにはおられなかった、たとえその結果すべてを失うことになったとしても。

けれども、すべてを失ったエレミヤはすべてを得たのです。彼はこの世では不朽の名を得て、そして天においては神から冠を得たのです。この愚かなようで崇高な生き方に、私たちもほんの少しでも近づきたいと願うものです。エレミヤの人生を思い起こしながら、今週も歩んでまいりたいと思います。お祈りします。

エレミヤを召し出し、エレミヤと共におられた神よ、その御名を賛美いたします。エレミヤはあなたの真の僕(しもべ)でした。彼はあなたに従いぬきました。しかし、人々は彼を認めず、あるいはいいようにあしらい、彼を通じて語られる神の言葉に従いませんでした。そのために彼がどんなに苦しんだか、そのことを深く思わされます。私たちもエレミヤに逆らった人々と同じく、うなじの怖い愚かな民です。しかし、どうか私たちに砕かれた心をお与えください。エレミヤのように、誠実に神と人とに仕える人生を送ることが出来るように、私たちを強めてください。今週の日々の歩みをどうかお守りください。エレミヤと同じく苦難の生涯を過ごされたわれらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

ダウンロード