本日はヨシュア記です。ヨシュア記はモーセの死後、ヨシュアに率いられ、カナンの地に侵入するイスラエルの民の物語です。クリスチャンにとって重要な問題を孕んでいる書物です。重要な問題と言うのは「戦争」と「聖絶」の問題です。ヨシュア記では神が戦争の先頭に立ち、また、戦いの勝利のあと、すべての命を完全に絶つこと、即ち「聖絶」を要求している、問題です。この社会倫理に関する根本問題は私自身、今一つ納得できる解釈を持っていませんが、その問題は、別の機会に譲ることとして、本日はイスラエルの民が最初に占領する町エリコにまつわる一つの話からです。
では聖書本文に入ります。2:1をみるとふたりの斥候が派遣され、彼らは遊女ラハブの家に泊まります。おそらく、エリコの支配者からは疑われることを避けるため敢えて遊女のところに泊まったのでしょう。「ラハブ」という名前の意味は「広い」と言う意味で、普通名詞や形容詞としてはよく使われる言葉ですが人間の名前として使用されているのはここにおいてだけです。エリコの町は大きな町で、その町をかこっている城壁は幅が広いものだったようですし、エレミヤ書にその意味で「広い」という言葉を使っている箇所もあります。このラハブの家族はこの城壁を住まいとしていたようです。そのため「広い」という意味で「ラハブ」の名がつけられたのかもしれません。“広い城壁を家としている遊女”という訳です。
遊女というのはヘブル語では「zo:na:」といいます。遊女という言葉が出てくる旧約聖書の箇所をみると、申命記23:18があります。そこでは「どんな誓願のためでも、遊女のもうけや犬のかせぎをあなたの神、主の家に持って行ってはならない。これはどちらも、あなたの神、主の忌みきらわれるものである」と言われています。忌み嫌われる者とされていますが罪ある者とはされていません。他の旧約聖書の箇所をみてもこの「zo:na:」を罪と言っている箇所はありません。軽蔑されていたし、忌み嫌われる者として扱われたにしても、「罪」として言われていないことは注意するべきです。どんな女性だって好き好んで遊女になる人間などいないはずです。にもかかわらず、経済的報酬をあてにした売春行為は、古来から存在します。聖書はそのような女性を罪ある者とあえて言わないのです。性を、お金をかせぐ手段にすることは、創造主の摂理に反していることは明白だと思われますが、申命記はそれを直ちに、罪即ち神の命に反することには含めていないのです。十戒には「姦淫してはならない」とあります。結婚している者が他の異性と性的関係をもってはならない、ということです。姦淫は結婚という神聖な契約を破るものだからです。日本語では姦通の方が当たっていると思います。ヘブル語で姦淫する、は「na:af」です。遊女とは全く別の系統の言葉です。これらから解る通り、罪はまず神に対してのことであり、姦淫は神の定めた秩序に反しているから罪なのです。遊女については罪と定められていないことは遊女とならざるを得ない女性を神は、罪に定め、裁かれはしない、ということを意味します。
新約聖書には姦淫の女の話が出てきます。主イエスが姦淫の女について、彼女を石打ちの刑にせよ、という律法学者やパリサイ派の人々に対し、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」とおっしゃられたところ、だれも石をなげるものはいなかった、というお話です。新約聖書原本はギリシャ語を見てみると、「moikyu:wo」という言葉で、十戒の「姦淫するな」のギリシャ語訳と同じ言葉です。新約聖書のヘブル語訳でも十戒の「姦淫」と同じ言葉です。この女性が姦淫・姦通することになったのには、よくよくの事情があったのだろうと思いますが、モーセ律法で死に値するとされていることは間違いありません。ラハブはこの「姦淫の女」とは異なり、そもそも罪ある者とされていない、ということです。
この新約聖書・ヨハネ福音書の話のところでは、どうしても申し上げておきたいことがあります。まず十戒は、そもそもはイスラエルの男性に命じられたことで、イスラエルの女性を単独で罪に定めたり、するものではない、ということです。姦通の女性については、その相手となった男性が罪に定められ死罪になるのですが、律法ではその時一緒に女性も殺されなければならない、と言っているのです。律法違反はあくまでも第一次的には男性にあります。ヨハネ福音書では、律法学者やパリサイ人は、男性の方のことは忘れて、女性だけが石打ちの刑に値するかのように言っているように見えます。女性の方にも問題ある、とは思いますが、まず、最初に、これを行った男性の罪が問われなければならないのです。女性もその協力者として、同罪である、というのがモーセ律法です。律法の本来の趣旨から見れば、女性だけが罪に問われるなどありえません。その意味で、主イエスがこの姦淫の女を許したのは律法の本来の趣旨に合致しているのだ、という解釈をすることもできます。この解釈からすれば、主イエスは当然のことを為された、ということにもなります。ここで律法学者やパリサイ人が女性の罪を云々するのは律法の一面だけをとりあげるもので律法の偽善的適用であることは間違いありません。
もう一つ重要なことは、このラハブが一家の主人としてふるまっていることです。外来の人のもてなしは主人の役割ですし、斥候に対し、自分の家族を代表して交渉をしています。夫が出てきていないことから見て、独身女性であったように思われます。何らかの事情があって結婚できなかった、のでしょう。両親が、仕事ができず、彼女が一家を支えなければならず、婚期を逸したのかもしれません。また、エリコの地で軽蔑される身分の生まれであり、遊女のようなことをして生活の糧を売るしかなかったのかもしれません。日本でいう部落民のような存在です。私は、後者の見方をしています。当時カナンの地にあってこの地に侵入しようとしている放浪の民、イスラエルに味方をしたのは、人と認められていないいわば不可触民のような人々だったのではないか、と思うからです。2:13に「私の父、母、兄弟、姉妹」と言っていますので、彼女が一家の主人として家族を守る立場にあったことが推察されます。旧約聖書には時々このようなしっかり者の女性が登場します。ギリシャ社会、ローマ社会、中国の王朝などと比較しても女性の地位は相対的に高かったことが随所に、見て取れます。この女性の地位が相対的に高い社会は女性が経済活動の重要な部分を担っている社会です。イスラエル社会は小規模な牧畜と農業の兼務という社会ですから、特に農業における女性の役割が大きな社会でした。ラハブはエリコの住民で血統的にはイスラエルではありませんが、何らかの関係で、ヤハウェを信仰していたようですから、イスラエルの家族関係に近い状態にあったと思われます。
12-13節をみると、ここでラハブは斥候と一つの取引を致します。斥候に協力するからエリコに攻め込む時にラハブの親族は「死から救い出してください」というのです。そしてその証拠を求めます。12節で「主にかけて私に誓ってください」と言います。この「主にかけて」は他の箇所では「主にあって」と訳される言葉です。直訳英語では「in God」です。ここを見ると「主にあって」即ち「在主」というキリスト者が手紙の結びで使う言葉が実は「主にかけて誓う」というような重大な重みをもった言葉である、ということがわかります。このラハブの要求に対し斥候は「いのちにかけて誓おう」と答えます。おそらく「主にかけて誓う」ことは畏れ多いことなのでそれに準ずることとして「いのちにかけて誓う」としたのだと思われます。「主にあって」の言葉の重大さが更に了解されます。ラハブは城壁から彼らをつり降ろしでやり、追手がいなくなるまで3日間山地で身を隠しておくように勧めます。
そしてこの「誓い」という言葉は「のろい」を意味する言葉と同じですから、20節の“誓いから解かれる”とは“のろいを解かれる”という意味です。そして斥候たちは帰って、すべてをヨシュアに報告します。24節で斥候は「主は、あの地をことごとく私たちの手に渡されました」と言っています。エリコ城内での協力者を見つけたのでこの地を攻め取ることができることは確実です、と言っています。ヨシュアが言うのならまだしも斥候が「主が渡された」というような表現をすることは、ただ事ではありません。ラハブに「いのちにかけて誓って」きた訳ですから、このエリコ攻略は成功する、ということに心から確信をもっていたのだと想像されます。先ほどラハブの信仰をみましたが、斥候たちの信仰も見上げたものです。信仰は「主なる神」への信頼ですから、この斥候たちの言葉は明確な信仰告白です。
この結末は6:22以降にでてきます。25節をお読みします。「しかし、遊女ラハブとその父の家族と彼女に属するすべての者とは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブはイスラエルの中に住んだ。今日もそうである。これは、ヨシュアがエリコを偵察させるために遣わした使者たちを、ラハブがかくまったからである」とあります。一点、注意すべき点があります。それは「彼女に属するすべての者」を救出した、と言われていることです。これは神が一つの集団として扱う人々を指して言う時の表現です。一種の部族を指している、と言って良いでしょう。しかも遊女ラハブをその部族の代表者としているのです。そして「ラハブはイスラエルの中に住んだ」と言われています。これは“イスラエルの一員とされた”ことを意味します。イスラエルの歴史のなかに刻まれることになります。当然のことながらイスラエルの歴史が語られる時、彼女の名前も語られるということです。イスラエルの歴史が思い起こされる時、彼女の名前も想起されます。遊女ラハブの名が、です。これは聖書での女性の扱いからして全く異例な扱いですし、ましてや遊女がこのような取扱いをされるのは全くの異例中の異例です。
このことから見られるように、ラハブの名はイスラエル及びユダの庶民のなかで語り継がれていたものと想像されます。旧約聖書ではヨシュア記以降、彼女は登場致しません。また旧約外典とか偽典とか聖書に類する文書にもラハブの名は出てきません。従って、いわばイスラエルの正統的歴史ではラハブはまともな座はなかった、と言えます。しかし、庶民の中では、伝承として生きていたと想像されます。なお、ラハブと訳されている箇所はヨブ記、詩編、イザヤ書、にもありますが、これらはエジプトを指す神学的言葉とされており、否定的意味で使用されています。ヘブル語の母音も異なります。ヨシュア記のラハブはむしろ「ラーハーブ」であり、詩編等のラハブは「ラハブ」で長音ではありません。
では、ヨシュア記の「ラハブ」は新約ではどうなっているでしょうか。なんと、マタイ1:5、ヘブル書11:31、ヤコブ書2:25の三か所にラハブが登場します。へブル書、ヤコブ書の部分は先ほど招詞や聖書購読でお読みした個所です。まずマタイ1:5です。これは主イエス・キリストの系図が書かれている箇所です。ユダ族の系図の中でルツ記に登場するボアズという人物が居ますが、その母としてラハブの名があげられているのです。ボアズは異邦人ルツを妻とした信仰の偉人です。その父はサルモンと言いますがその妻としてラハブが登場するのです。新約聖書のここの系図は異邦人や女性が登場することで有名な箇所ですが、なんと遊女ラハブが信仰の偉人ボアズの母として登場するのです。先ほどのヨシュア記での記述と関連づければ「ラハブはイスラエルの中に住んだ」と言われていますから、イスラエルの民とされたのち、ユダ族のサルモンの妻となった、ということになります。マタイ1:5では「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ」とありますから、所謂めかけの存在でいたのかもしれません。「~によって」と言う場合通常は正式に結婚した妻によって、ということですが、そうでない時もないわけではありません。複数の妻が許容されていましたから、その一人の妻となった遊女ラハブ、ということかもしれません。それにしても、マタイ1章の主イエスの系図の中に、異邦人であり、女性であり、遊女であったラハブの名があげられている、ことは驚き以外のなにものでもありません。このことからも聖書は遊女であったという経歴を罪人とはみていない、と推測することは許される、と思います。
更に4-5cに成立したとされているラビの言説を集めたタルムードの中では、ラハブは何とあの、モーセの後継者であるヨシュアの妻となり、その子孫には預言者エレミヤやエゼキエルがいる、となっているそうです。ちょっと「やりすぎ」という感もありますが、このラハブがユダヤ人の中で信仰者の母ということで語り伝えられていったことは確かです。
そしてヘブル書とヤコブ書です。ヘブル書11:31をお読みします。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました」とあります。ヘブル書はユダヤ人キリスト者を読者と想定した文書といわれていますが、そのため、旧約聖書を引用しつつ新約の信仰、即ち主イエス・キリストへの信仰を述べています。そこで信仰による救いを語るためラハブの例を引き合いに出しているのです。いわば「信仰の人ラハブ」です。先にあげたラハブの信仰告白からして、このような場所で引用されるに値する人物とは思いますが、ヨシュア記以降ずっと記録にない遊女が信仰の偉人とされて登場するのですから驚くべきことです。
次にヤコブ書2:25をお読みします。「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか」とあります。こちらは「義人ラハブ」です。ヤコブ書は「行い」の必要性を言っていることで有名な文書です。「行いを伴った信仰」を強調する意味からも重要です。そのヤコブ書はラハブが斥候を助けた行いにより「義」と認められた、と告げています。ラハブの信仰の表れとして斥候に協力する、という行動になった訳ですから、その行いの部分を信仰の証と理解するのは当然のことです。ヤコブ書が書かれた当時はキリスト者に対する迫害が本格化してきた時期ですので、とかく、この世の人々からのがれ、キリスト者だけで祈りの時をもつ、という傾向になりがちな時、ラハブの行動を思い起こし、キリスト者を勇気づけ、迫害にある他のキリスト者を救う努力をすることを意図していたと思われます。
ラハブがあのようなことをしたことがエリコの人々にしたことが知られたら、彼女の死は確実であったでしょうし、彼女の親族や仲間も悲劇的な事態になっていたでしょう。そのなかで「主なる神」への信仰を告白し、神の使者を助ける行いをしたラハブはやはり、「信仰の人」に入れられるべきでしょう。過去の経歴など無関係です。私たちもラハブの信仰にならい、主の証人として勇気をもって歩みたいものです。祈ります。
ご在天の父なる御神様、この時を感謝いたします。今日はヨシュア記のなかから、遊女ラハブのことについて学びました。聖書はこの遊女を罪ある者とは言っていない事、また信仰者、更には義人としてこの遊女を見ていることを知りました。更に新約の時代には主イエスの系図にさえ入れられることになったことも見ました。私たちに、彼女の信仰に倣う者となる勇気をお与えください。救い主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン