第一次バビロン捕囚
エレミヤ書24章1~10節

1.導入

みなさま、おはようございます。早いもので、エレミヤ書からのメッセージも今日で10回目になります。今後もあと2か月ほどは、エレミヤ書からメッセージをさせていただきますが、その際にお願いしたいのは、今日お手元にお配りした「補助レジュメⅡ」を、ぜひ毎週お持ちいただきたいということです。何度も言いますが、エレミヤ書の記述は年代順に並んでいません。エレミヤ書を読んでいると、時々迷路をさまよっているような気持になります。迷路を進んでいると、一度通ったはずの道にまた戻ってしまうということがありますが、エレミヤ書の場合でも、ある歴史上の出来事について読んだ後に、何章も読み進んでからまた戻ってきてしまうというようなことがあるのです。ですからエレミヤ書を読むうえでは、迷子にならないように、今自分がどこを歩いているのか、どの時代の出来事を読んでいるのかを確認していく必要があります。今日お渡ししたレジュメは、その意味でお役に立つことと思います。

私の今後の説教は、基本的にはこのレジュメの歴史の流れに沿ってお話ししますので、まずこのレジュメについて簡単にご説明したいと思います。先日お配りしたレジュメのⅠでは、エレミヤの40年間の預言者としての歩みをまとめましたが、今回はエレミヤの後半生、特にヨシヤ王が死んだ後のエレミヤの歩みをより詳しく書きました。ここには、ユダ王国16代の王ヨシヤの跡を継いだ4人の王の名が記されています。ヨシヤ王の三人の息子が17代、18代、そして20代目のユダ王国の王に次々と就任しました。19代目の王は、ヨシヤ王の孫、そして18代の王エホヤキムの息子でした。しかし、17代と19代の王は短命でそれぞれ3か月だけの王様でした。17代の王エホアハズは三か月後にエジプトに捕虜として連れていかれ、19代の王エホヤキンは三か月後にバビロンに連行されました。このたった三か月間だけ南ユダの19代目の王だったエホヤキンとその家来たちがバビロンに連行された出来事を「第一次バビロン捕囚」と呼びます。そして、その第一次バビロン捕囚が今日の説教のテーマになります。

2.本文

私たちはよく、第一次バビロン捕囚、第二次バビロン捕囚というような言い方をするで、バビロンは二度に分けてユダ王国の人たちをバビロンに連れて行ったという印象を持たれているかもしれません。しかし、第一次と第二次のバビロン捕囚は全く別物です。第二次バビロン捕囚は紀元前587年の出来事ですが、その時には南ユダ王国そのものが消滅しています。国が完全に滅び、イスラエルの宗教の中心であるソロモン神殿も崩壊するという、文字通りの終わり、破局です。これに匹敵するようなイスラエルの歴史上の出来事は、主イエスが十字架にかけられてから40年後のエルサレムの崩壊、ヘロデ神殿と呼ばれた第二神殿の崩壊だけです。その時からユダヤ人たちは、二千年もの間国を失って世界中に散らされてしまいました。第二次バビロン捕囚の時にも、エルサレムには全く希望がなくなってしまいました。王はいなくなり、神殿も消滅し、イスラエルの地に住むことすら許されなくなったのですから。

それに対して、今日学んでいる第一次バビロン捕囚はそこまでの悲劇的な出来事ではありませんでした。たしかに王様はバビロンに連れていかれましたが、それに代わる新しい王も立てられたし、なによりも神殿は、その中の宝物の一部は奪われたものの、建物そのものは無傷だったので、ユダヤ人たちは変わることなく神への礼拝を続けることが出来たのです。バビロンにとっても、第一次バビロン捕囚とはユダ王国そのものの破壊を意図したのではなく、あくまでもバビロンへの反逆を予防するため、王国の有力者たちを人質にとった、そのように考えるべきです。

そもそもなぜ第一次バビロン捕囚が起きたのかというと、それは18代の王エホヤキムがバビロンに反逆したからでした。南ユダ王国は、北にバビロン、南にエジプトという二つの超大国に挟まれていました。日本で譬えるならば、冷戦時代のアメリカとソ連、現在のアメリカと中国という二つの超大国の板挟みになっているという状態です。南ユダ王国はその二つの超大国のはざまで常に揺れ動いていました。はじめエホヤキムはエジプトのおかげで王になったので、当然エジプトに仕えていましたが、そのエジプトと戦ったバビロンは、完膚なきまでに叩きのめしました。そこでエホヤキムも勝ち馬につこうとバビロンに乗り換えたのですが、すぐにバビロンに仕えるのが嫌になって反逆しました。しかし、反逆は失敗しました。簡単にバビロンにひねりつぶされてエホヤキムは戦死し、その跡を息子のエホヤキンが継いだのですが、バビロンは彼を信用せず、即位して三か月後には彼をバビロンに捕虜として連行することにしました。その時、彼だけではなく有力な貴族、軍人、職人など合わせて1万人ほど連れて行きました。その中には、あの有名な大預言者ダニエルも含まれていました。ダニエルは捕虜となった先のバビロンで大出世し、宰相にまで昇り詰めています。ほかにも、エレミヤと同じく大預言者とされるエゼキエルも捕囚の民の一人で、彼は捕囚の5年目に神から預言者として召されています。

このように、捕虜として祖国から切り離されるという悲劇の中から大預言者たちが生まれていったわけですが、しかし当時のユダ王国の人々の中には捕囚に連れていかれずに、ユダ王国に残ってそこで権力を持ち続けることが出来た人たちも大勢いました。1万人というのは大きな数でしたが、当時の南ユダ王国には数十万人の人たちがいましたので、全体からみれば決して大きな数ではありませんでした。問題は数というより質でした。バビロンは、ユダ王国の中でも特に優秀な人たち、バビロンの帝国拡大のために役立つような、使えそうな人たちばかりを選んだので、そういう各分野のエリートたちを引き抜かれたユダ王国は人材難に直面しました。それでも、別の見方をすればユダ王国に残った人たちからすれば出世のライバルがいなくなったわけです。太平洋戦争後の日本でも、多くのエリート官僚や大企業のトップが公職追放されたので、追放されずに残った人たちが異例の大抜擢・大出世をしたということがありましたが、そんな状況だったのです。王となったゼデキヤ自身も、自分の兄弟たちが次々と王になる中で冷や飯を食っていたのですが、兄弟たちがエジプトやバビロンに敗れたことでやっと自分にお鉢が回ってきたわけです。

このように考えると、バビロンに連れていかれた人たちと、南ユダ王国に残った人たちと、どちらがラッキーかと言えば、当然祖国に残ることが出来た人たちだ、ということになるでしょう。実際、当時のユダヤの人たちもそのように感じていました。しかし、エレミヤはそのような見方を否定しました。それが今日のみことばの背景です。エレミヤはこう言いました。

見ると、主の宮の前に、二かごのいちじくが置かれている。一つのかごは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものである。

聖書では、「いちじく」とはイスラエルの霊的な状態を象徴する果物です。主イエスがエルサレムに上られ、エルサレム神殿に裁きを宣告する前に、実のなっていないいいちじくの木を呪ったという場面をご記憶かと思いますが、あれはイエス様が実のならないいちじくの木に怒ったとかそういう単純なことではなく、いちじくの木の象徴されるイスラエル、実を結ばないイスラエルに神の裁きが下ることを象徴的な行動で示されたのです。今日の箇所の「いちじくの木」も、同じくイスラエルの霊的状態を表します。非常に良いいちじくとは、捕囚の民としてバビロンに連行されていった人たちの霊的状態を表し、非常に悪いいちじくの木とは、捕囚を免れ、運よくエルサレムに留まることができた人たちの霊的な状態を表しているのです。バビロンに連れていかれる人たち、エルサレムに残った人たちから見れば不運な人達について、神はこう言われました。

イスラエルの神、主は、こう仰せられる。この良いいちじくのように、わたしは、この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにしようと思う。わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かせない。また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。

とこのように、大変慰めと励ましに満ちた素晴らしい約束を捕囚の民に与えておられるのです。実際、神は彼らにエゼキエルやダニエルという、傑出した大預言者を遣わしています。エルサレムを追われ、遠い異国で暮らしていたユダヤの人たちは、これまで当たり前のように思っていたこと、すなわち礼拝をすることが出来なくなってしまいました。ユダヤ人にとって神に礼拝を献げることのできる唯一の場所は、エルサレム神殿だけだったからです。では、彼らは礼拝をすることをあきらめてしまったのかといえば、そうではありませんでした。ダニエル書6章には、捕囚の身のユダヤ人たちがどのように神を礼拝していたのかが書かれています。ダニエル書6章10節をお読みします。

ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。 —彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。— 彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

預言者ダニエルは捕囚の身でしたが、この時には支配者はバビロンからメド・ペルシャに代わっていました。その時、メド・ペルシャの王は自分以外に対して祈る者は殺されるというとんでもない命令を出しました。ダニエルはそのような命令が出たことを知りながら、エルサレムを向いていつもと変わらずにイスラエルの神を礼拝していたのです。ダニエルだけではありません。バビロンの王によって燃える日の炉の中に投げ込まれたダニエルの三人の仲間たちのように、捕囚の身でありながら、またどんな迫害や脅迫を受けても、イスラエルの神を礼拝し続けた人たちがいたのです。たしかに彼らは神殿で礼拝をすることができなくなりました。それは彼らにとって本当に辛いことでしたが、それでも唯一の礼拝の場であるエルサレムを向いて、勇気をもって神を礼拝し、賛美し続けたのです。

そして神殿での礼拝ができないという欠けを、彼らは神のことばを非常に大事にすることで補ったのです。実際、旧約聖書が現在の形に編纂され始めたのはバビロン捕囚の間だと言われています。彼らは祖国から遠く離れた地で、自分たちに伝えられてきた様々な神のことばを、明確な文書としてまとめ始めたのです。異国の地で必死に自分たちの信仰を守ろうとした彼らの努力によって、聖書の編纂が始まったのです。神は暗黒の捕囚の日々を、全世界のあらゆる人々のための宝、すなわち聖書が誕生するための準備期間にしてくださったのです。

しかし他方で、運よくエルサレムに残ることが出来たと安堵していた人たちに対する神の言葉は大変厳しいものでした。8節以降をお読みします。

しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように、—まことに主はこう仰せられる―わたしは、ユダの王ゼデキヤと、そのつかさたち、エルサレムの残りの者と、この国に残されている者、およびエジプトの国に住みついている者とを、このようにする。わたしは彼らを地のすべての王国のおののき、悩みとし、わたしが追い散らすすべての所で、そしり、物笑いの種、なぶりもの、のろいとする。わたしは彼らのうちに、剣と、ききんと、疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。

と、このように、全く救いがないような神の裁きが下されます。なぜこんなに違うのか、なぜ捕囚の民には良い約束が与えられ、残った民には呪いのことばが下されたのか、その答えは彼らの霊的な状態にありました。運よくエルサレムに残った人たちは、悔い改めの機会を逃してしまい、さらなる霊的な混迷へと向かっていったのです。エルサレムに残った人々の霊的な状態がどうだったのかについて、預言者エゼキエルが証言しています。エゼキエルはエルサレムから遠く離れた地にいたのに、エルサレム神殿で何が行われているのかを、神によって示されたのです。そのことを記しているエゼキエル書8章の8節以降をお読みします。

この方は私に仰せられた。「人の子よ。さあ、壁に穴をあけて通り抜けよ。」私が壁に穴をあけて通り抜けると、一つの入り口があった。この方は私に仰せられた。「入って行き、彼らがここでしている悪い忌みきらうべきことを見よ。」私が入って行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っており、その中にはシャファンの子ヤアザヌヤも立っていて、彼らはみなその手に香炉を持ち、その香の濃い雲が立ち上っていた。この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた』と言っている。」

イスラエルの七十人の長老とありますが、七十人とは民族全体を代表する数字です。ですから彼らは南ユダ王国を支配する指導者たちだということです。シャファンとは、預言者エレミヤを守ってくれたエルサレムの有力な一族でしたが、その一族の者の中にも、堂々と偶像礼拝に加わる人がいたのです。シャファンの一族はヨシヤ王に協力して、イスラエルから偶像の撲滅を図った人たちでしたが、そうした一門の中にすら、公然と神に反逆する人がいたのです。ここには恐ろしい皮肉があります。神殿から遠く離れた捕囚の民が必死に神殿の方を向いて神を礼拝しているのに、その神殿の中では民の指導者たちによって恐るべき背信行為が行われていたのです。彼らは勝手に、「イスラエルの神はもう私たちのことを見てはいないのだ」と言って、ほかの神々を礼拝していました。彼らは蛇や獣の像を作って、それらに対して拝んでいたのです。あれほどヨシヤ王やエレミヤが力を尽くして偶像礼拝から離れるようにと叫び続けたのに、彼らはまさに神の家で堂々と偶像礼拝をしていたのです。14節では女たちがタンムズのために泣いていたとありますが、タンムズの神様とはバビロンの神々の一人で、タンムズは黄泉に下る神だと信じられていたので、黄泉に下るタンムズの神のために泣くというのは礼拝儀式でした。また、16節では太陽崇拝をしている人々のことが描かれています。神の家であるはずのエルサレム神殿はまさに異国の神々の偶像の巣窟になっていました。まさに南ユダ王国は非常に悪い、食べることのできないいちじくの実でした。彼らは自分たちがエルサレムに残ることが出来たのが、神の憐みのゆえだということに気が付かなかったのです。むしろ、イスラエルの神は自分たちを守ることはできない、むしろ近隣諸国の人々と同じように彼らの神々を拝んで、彼らとうまく付き合っていけば、自分たちには災いが来ないと考えるようになってしまったのでした。

エルサレムは本当にひどい状態になっていました。バビロン捕囚に連れていかれた人々は、そのような腐った実を食べないで済んだだけ、かえって幸いだったのです。バビロンに連れていかれた人たちは、偶像礼拝の中心地であるバビロンの地で、主神マルドゥクなどの巨大な偶像に取り囲まれていましたが、それでも自分たちの神への信仰を捨てませんでした。しかし、偶像が一切ないはずの聖なるエルサレム神殿は、今や偶像で覆われてしまい、人々はイスラエルの神は自分たちを見てはおられないとうそぶくようになってしまっていたのです。エレミヤの激しい預言の言葉も、このようなエルサレムの甚だしい堕落を知ると、そのわけがわかるような気がいたします。

3.結論

今日は、バビロン捕囚によってエルサレムを去らなければならなかった人々と、エルサレムに残ることが出来た人々、その二つのグループの状態と運命について学びました。人間的に考えれば、エルサレムに残れたほうがラッキーだったということになるのでしょうが、こと信仰面に関しては、そうではなかったのです。

捕囚の民は、イスラエルの共同体からも、そして彼らが誇りとしていたエルサレム神殿からも切り離されてしまいましたが、彼らは神を礼拝することを止めずに、そして自分たちが受け継いだみことばをしっかりと保ち、今日の私たち人類への偉大なるプレゼントである聖書の編纂を始めました。艱難汝を玉にする、という言葉がありますが、苦難と逆境の中で彼らの信仰はかえって強められたのです。

それに対し、エルサレムに残った人たちはその幸運を活かすことが出来ずに、かえって唯一の神を見失って周辺諸国の人々と同じような偶像礼拝に逆戻りし、神の家である神殿を汚して神の激しい怒りを招きました。彼らの不信仰のゆえに、エルサレムとその神殿は灰燼に帰してしまったのでした。おそらく彼らの心には油断があったのでしょう。自分たちは幸運なのだ、イスラエルの神に頼らなくても、周辺諸国の大国の間をうまいこと泳いでいけば自分たちは平和だ、などと偽りの自信を持つようになってしまったのです。その結果、第一次バビロン捕囚とは比較にならない民族の悲劇、第二次バビロン捕囚と神殿の喪失という恐ろしい事態を招いてしまったのです。

私たちもここから大事な教訓を学ぶことができます。私たちが苦しい状況、世間的に見ればアンラッキーな状況に置かれたとしても、それは必ずしも悪いことではないのかも知れません。もしそのような時に、真の神への信仰を持ち続け、忠実に歩むなら、そうした中で私たちの信仰は磨かれ、強められ、神から喜ばれるような人格を形作っていくことができるでしょう。私たちは今まさに困難な状況の中を歩んでいます。コロナ問題は、ある期間自粛すれば収束するというようなものではなく、1年とかそういうスパンで考えなくてはならない問題だということが明らかになりました。こういう中で社会生活を続け、教会生活を守っていくということは、気持ちの面で大変なことです。これをすればよい、この期間だけ我慢すればよい、というものではなく、ずっと緊張感を保ち続けなければならないからです。私から申し上げたいのは、義務感で礼拝をする、宗教活動を守るということはすべきではないということです。神様は私たちが毎週礼拝をしないと許さない、お怒りになるとか、そういう神ではありません。神は、私たちの心と体の健康を心から案じて下さっています。私たちが礼拝を献げるのは、その神様から新しい力、生きていくための力をいただくためです。困難な状況、だれの言うことを信じていいのかわからない状況、そんな時だからこそ礼拝に来て、神の導きを願うのです。私たちには当然恐れや不安はあります。しかし、主が私たちを見ておられる、という確信をしっかり持って、前を向いて進んでまいりたいと心から願います。今週の皆さんの歩み、また8月の歩みが守られるように、ともに祈りましょう。

あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで(詩篇123:1-2)

恵みと憐みに富みたもう神、そのお名前を賛美します。今朝は、バビロン捕囚という試練を通じてその信仰を練り上げていった人々、反対に幸運にもかかわらず堕落していった人々を学びました。私たちが前者の道を歩むことができるように、私たちを導き、強めてください。まだまだ様々な試練が続きますが、私たちを守ってください。私たちもあなたの前を誠実に歩みます。われらの救い主、われらを友と呼んでくださるお方、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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