召命、再び
エレミヤ書15章15~21節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は幸いなペンテコステ主日礼拝を献げることができましたが、今日から再びエレミヤ書から学んでまいります。今日の説教タイトルは「召命、再び」です。エレミヤ書からの最初の説教が「エレミヤの召命」でしたが、一度神に召されたエレミヤが、再度その召しを新たにされる、というのが今日のメッセージの内容です。では、なぜ召しを新たにされる必要があったのかといえば、それはエレミヤが一度自らの召命を見失ってしまう、神の召しに背を向けてしまうという、そういう状態に落ち込んでしまったからです。どうしてエレミヤはそのような状態に落ち込んでしまったのか、また神はどのようにしてエレミヤを再びその使命へと呼び戻したのか、そのことを考えて参りたいと思います。

今日の私たちの生きる社会には、「燃え尽き症候群」という心の病があります。今まで仕事に人一倍熱心に取り組んでいた人が、燃え尽きてしまう、バーンアウトしてしまい、仕事への熱意を失う、やる気を失う、ひどい場合には人とのかかわりそのものを避けるようになる、そういう状態のことです。24時間働きます、というような猛烈サラリーマンの多かった昭和の時代にしばしば言われ始めた言葉ですが、昨今ではコロナと第一線で戦う医療関係者にそうした人が多いと言われています。

燃え尽き症候群になってしまう人や仕事の特徴をいくつか挙げると、「プライベートな時間が取れない」というのがあります。仕事を離れていても、いつ呼び出されるか分からない、常に緊張感を強いられるような仕事です。お医者さんは休んでいる時でもいつでも急患で呼び出されます。特に今回のコロナ問題は日々情勢が刻々と変わっていきましたので、休んでいてもずっと緊張感から解放されなかった医師の方も少なくなかったでしょう。

また、燃え尽き症候群になる場合の特徴として「一生懸命やっているのに、自分の仕事が評価されていないと感じてしまう」ということがあります。今回のコロナ問題でも罹患者が急増しましたが、治療に当たる医師としては「私はコロナの患者は診ません」というように仕事を選べません。したがって、どんどん仕事は増えます。しかし他方で、コロナの治療に当たる医療関係者が差別を受けることも増えました。訪問看護をしている方が、「お前のせいでコロナが広がる」などと心ないことを言われたという話も聞きます。人を助けるために骨身を削って働いているのに、感謝されることもなく、かえって非難されてしまうと、もうやる気も何も失ってしまうでしょう。

また、燃え尽き症候群になりやすい仕事の特徴として、「感情労働」ということがあります。人々の生の感情に向き合わざるを得ないということです。医師と言うのは、それこそ生死の問題に係わります。患者さん本人やその家族の動揺、不安、怒り、悲しみなどを受け止めなければなりません。人の感情を受け止めて、自分の感情を出すのは押さえる、控えるというのは大変疲れる、精神的なエネルギーを消耗させるものです。さらには、たとえ医療ミスがなかったとしても、患者を救えなかった場合には、自分の無力さ、時には罪悪感すら覚える医者もいます。こういうストレスに心が折れてしまい、燃え尽きてしまうというケースもあります。

このように、私たちのライフライン、つまり命綱に係わる大切な仕事をする人ほど、燃え尽き症候群になってしまう可能性が高いのです。そして、聖書に登場する預言者たちにも、まさに燃え尽き症候群と呼ぶべき状態に陥った人たちがいます。預言者は、他でもない神様その人から次々と重大な任務、仕事を与えられます。その任務とは、神の民を滅びから救い出すために警告を発するというまことに貴い仕事なのですが、その警告を発するという任務が人から感謝されることはなく、むしろ激しい反発や怒り、あるいはあざけりなどを招いてしまうのです。預言者が人々のために一生懸命働けば働くほど人々から孤立し、孤独の道を歩まなければならなくなるのです。今日の招詞で読んでいただいた北イスラエルの預言者エリヤもまさに燃え尽き症候群を経験した人でした。エリヤは三年もの間、雨が降らずに飢饉が広がるという預言をイスラエルに与えました。こんな預言をしても誰も喜ばないわけですが、実際にその通りの深刻な飢饉が到来し、エリヤも異邦人の貧しいやもめに匿われてこの三年間を耐え忍びました。そして、その後にバアルの預言者たちとの壮絶な戦いをして、ついにイスラエルに雨をもたらしたのですが、そのことに感謝されるどころか、かえって命を狙われることになります。エリヤもこの展開に疲れ果てて、もうダメです、神様ギブアップです、と弱音を吐きます。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」と語ったり、「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています」とイスラエルの人たちを非難したりしています。そのようなエリヤを神がどのように癒し、また力づけたのかが列王記に書かれています。

しかし今日はこのエリヤではなく、名前は似ていますが彼とはだいぶ性格が異なるもう一人の預言者、エレミヤの燃え尽き症候群とそこからの癒しについて考えてみたいと思います。

2.本文

エレミヤは20歳そこそこで神に召されました。それから40年もの長きにわたって預言者としての苦難の人生を歩むわけですが、とりわけその預言者人生の前半は挫折に次ぐ挫折を経験しています。まずエレミヤは、「北からの脅威が迫っている」と人々に警告しますが、その北からの脅威というのが一向に実現せず、人々からは「あいつは偽預言者」だとあざけられました。それが実現したのは、なんとエレミヤが預言者としての活動を終える時でした。

また、エレミヤはヨシヤ王の宗教改革を支持し、地方の神殿を廃止して中央のエルサレム神殿のみで唯一の神を礼拝するという宗教政策の実現に協力しました。しかしそのことは、彼の郷里であるアナトテの人々の地方神殿での祭司職という仕事を奪うという結果になり、エレミヤは自分の故郷の人たちから恨まれ、命さえ狙われました。このように、エレミヤ自身は一生懸命人々のために働いているつもりなのに、かえって人々を怒らせたり、殺されそうになったり、あるいは馬鹿にされたりしました。

しかも、エレミヤを励ましたり、慰めてくれるはずの家族さえ、彼にはいませんでした。彼は神から結婚をすることを禁じられていたからです。16章の2節には、次のような主の言葉があります。

あなたは妻をめとるな。また、この所で、息子や娘を持つな。

なぜ神はこのような過酷な命令をエレミヤに与えたのでしょうか。これは、聖書にしばしば登場する象徴行動と呼ばれるものです。象徴行動とは、預言の内容を言葉ではなく、行動を通じて視覚的に人々に伝えようとするものです。例えばエレミヤは、土の焼き物のびんを買い、人々の前でそれを砕きました。それは、神がエルサレムを裁き、エルサレムはこのびんのように粉々に砕かれる、というメッセージを伝えるものでした。神がエレミヤに結婚してはならない、と命じたのは、イスラエルの人々の息子や娘が神の裁きによって、戦争や飢饉によって死ぬことになるので、子どもを持たない方がよいのだ、という過酷なメッセージを伝えるためでした。また神はエレミヤに「宴会の家に行き、いっしょにすわって食べたり飲んだりしてはならない」とも命じました。これも象徴行動で、イスラエルには神の裁きによって宴会がなくなる、ということを示すためでした。しかし、このような象徴行動をすることで、エレミヤはイスラエルの社会生活から自分を切り離し、孤独の中を歩まざるを得なくなったのです。エレミヤは、すっかり人々の嫌われ者になってしまいました。不吉なことを言う奴、不愉快な気分にさせる奴、ということで人々から目の敵にされてしまったのです。エレミヤはそのような自分の立場を嘆いて、15章の10節でこう言っています。

ああ。悲しいことだ。
わたしの母が私を産んだので、
私は国中の争いの相手、
けんかの相手になっている。
私は貸したことも、借りたこともないのに、
みな、私をのろっている。

エレミヤは、私など産まれてこなければよかったのだ、と嘆くのです。彼の母親が聞いたらどんなに悲しむでしょうか。しかし、エレミヤは他の場所でも同じようなことを言っています。母親だけでなく、父親のことも語っているのが20章の14節です。

私の生まれた日は、のろわれよ。
母が私を産んだその日は、
祝福されるな。
私の父に、
「あなたに男の子が生まれた。」と言って伝え、
彼を大いに喜ばせた人は、のろわれよ。
その人は、主がくつがえして
悔いない町々のようになれ。
朝には彼に叫びを聞かせ、
真昼にはときの声を聞かせよ。
彼は、私が胎内にいるとき、私を殺さず、
私の母を私の墓とせず、
彼女の胎を、永久に
みごもったままにして
おかなかったのだから。
なぜ、私は労苦と苦悩に会うために
胎を出たのか。
私の一生は恥のうちに終わるのか。

と、このように気が狂わんばかりの独白をしています。エレミヤは面倒を起こす男、空気の読めない奴、和を乱す厄介者として国中で有名になってしまいました。仲間外れ、村八分です。エレミヤ書を読むと、彼が繊細な人間だったことが分かります。彼は追い詰められていました。そんな彼も、初めは神の預言者とされ、神の言葉を語ることを喜んでいたのです。今日の聖書箇所の16節にあるように、エレミヤはこう語っています。

私はあなたのみことばを見つけ出し、
それを食べました。
あなたのみことばは、私にとって
楽しみとなり、心の喜びとなりました。

エレミヤは、初めて神様から預言書としての召された時、そしてみことばを与えられた時、大変喜び、神の言葉を貪るように食べ、そしてその言葉を人々に語ったのでした。しかし、人々の反応は冷たいものでした。一生懸命やっても誰にも評価されず、かえって憎まれる、そんな経験をしていくうちに、初めの喜びは消えていきました。また、先ほども言いましたが、神からイスラエルの人たちと通常の社交的な交わりを持つことを禁じられ、孤独に苦しむようになりました。その苦しみをつづったのが17節です。

私は、戯れる者たちの集まりにすわったことも、
こおどりして喜んだこともありません。
私はあなたの御手によって、
ひとりですわっていました。
あなたが憤りで私を満たしたからです。

エレミヤは友もなく、一人ぼっちで座っていました。悲しいだけでなく、怒りすらこみあげてきました。なんで自分ばかりがこんな目に遭うのだ、いったい自分がどんな悪いことをしたというのだ、とふつふつと怒りが込み上げてくるのです。しかも、その怒りの矛先はイスラエルの民ではなく、自分を召し出した神に向かったのでした。エレミヤの神への怒りがストレートに述べられているのが20章の7節以降です。

主よ。あなたが私を惑わしたので、
私はあなたに惑わされました。
あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。
私は一日中、物笑いとなり、
みなが私をあざけります。
私は、語ることに、わめき、
「暴虐だ。暴行だ。」と叫ばなければなりません。
私への主のみことばが、一日中、
そしりとなり、笑いぐさとなるのです。
私は、「主のことばを宣べ伝えまい。
もう主の名で語るまい。」と思いました。
主のみことばは私の心のうちで、
骨の中に閉じ込められて
燃えさかる火のようになり、
私はうちにしまっておくのに
耐えられません。

エレミヤは神に対し、「あなたが私を惑わしたのだ」と文句を言います。これを直訳すると、「あなたは私を誘惑しました」というようなニュアンスになります。まるで結婚詐欺に遭って怒っている人の口調です。神によって騙され、私は物笑いの種になってしまった、と言わんばかりです。神に対してすごいことを言う、と思われるかもしれません。しかしエレミヤは、精神的に追い詰められ、いわゆる切れてしまった状態にあったと言えるでしょう。彼は人々に「暴虐だ。暴行だ」と叫び続けました。その語る内容がそのようなものだっただけでなく、人々に聞いてもらおうとして大声で叫んだということも意味しているのでしょう。しかし、そんなことばかり叫ぶエレミヤのことを周りの人々はただの変人としか見てくれないのです。それで、もうこんなことは止めよう、主のことばを語るのは終わりにしよう、とまで思いつめます。しかし、主のことばを胸の内に閉じ込めようとすると、そのことばは胸の内で燃え始め、エレミヤは苦しくなります。それを外に出さずにはおられないのです。しかし、神のことばを伝えれば、人々を怒らせたり、笑われたり、そんな結果になります。エレミヤはこのどうしようもない負のサイクルにはまり込んでしまったのです。

おそらくエレミヤはこの時、「もうだめだ。こんなことを続けていれば、自分はダメになってしまう。もう神のことばも預言者としての役目も全部やめよう。しょせん自分はそんな器ではなかったのだ。こんなことは止めで、普通の人間として生きて行こう」と思ったのでしょう。神に暴言とも言える言葉を吐いて、神に背を向けていた時期があったように思われます。それは短い時間だったのか、あるいはある程度長い時間だったのかは分かりません。しかし、その心が神と神の与える使命とから離れてしまった時期があったのでしょう。

人間、燃え尽きてしまった時には静かにするしかありません。休息と沈黙、それがエレミヤに必要だったのです。エレミヤの先輩預言者、エリヤにも同じようなことがありました。アハブ王の妻イゼベルから命を狙われ、命からがら逃げ延びたエリヤも燃え尽きてしまいました。その時、神はエリヤを休ませ、静かに自分と向き合う時間を与えました。彼は四十日四十夜、かつてのモーセのようにシナイ山で一人で神と向き合うことで、自らの召命を再確認されたのでした。

エレミヤも、自分の人生の目的を見失い、神すらも見失う、そのような暗い時間を過ごしたはずです。しかし、そのような暗やみの中で、彼は神の恵みを垣間見た瞬間があったのです。エレミヤの20章は絶望的な、真っ暗なエレミヤの独白が続きますが、その中に僅かな光がさすように、主を賛美する言葉が現れるのです。そこをお読みします。13節です。

主に向かって歌い、主をほめたたえよ。
主が貧しい者のいのちを、
悪を行う者どもの手から救い出したからだ。

ここで言われている「貧しい者」とは、単に経済的な貧しさではないように思います。むしろ主イエスが言われた「心の貧しい者」、絶望の余り、すべての希望を失って、神よりほかに頼るものがなくなってしまった者、そんな人でしょう。まさにエレミヤがそうでした。その貧しい私を、神は救い出してくださる、だから主を賛美しよう、そう思えたのです。エレミヤは絶望の淵で、再び主への信頼を見出したのです。エレミヤは、もう一度神に立ち返ろうとします。

そのようなエレミヤに対し、神はこう語りかけました。それが今日のみことばの最後の部分、15章の19節です。

あなたが帰って来るなら、
わたしはあなたを帰らせ、
わたしの前に立たせよう。
もし、あなたが、卑しいことではなく、
尊いことを言うなら、
あなたはわたしの口のようになる。

この神の言葉には厳しさがあります。ここには、放蕩息子の帰りを無条件に受け入れる父のような神のイメージはありません。むしろ、「もしあなたが方向を変えるなら」、すなわち15節から18節までのような卑しい泣き言から離れ、もう一度自分の召しに立ち返ろうというのなら、私はそれを許すという、そんな厳しい響きがあります。なぜならエレミヤは放蕩息子ではなかったからです。神は、神から遠く離れた罪人が帰ってくるのを喜んで迎えられます。しかし、既に神の子とされて、神のために働いている人に対しては、更なる高みを目指すように、背中を押されるのが神なのです。ロシア正教の司祭の方が、「西側の描くイエスは『あなたが泣くなら私も泣こう』というイエスだが、東方正教会のイエスは『泣くのはやめて、私に従ってきなさい』というイエスだ」という話をされているのを聞いたことがあります。確かに、神は、そしてイエスはその両面を持っておられる方です。神は私たちの辛さや悲しみをよく分かってくださる方ですが、同時に私たちを成長させよう、キリストの身の丈まで成長するようにと叱咤激励する神でもあるのです。神はただ私たちを休ませるだけではないのです。私たちを育て上げようと願っておられます。

さて、エレミヤにお話を戻すと、神はエレミヤに「あなたは彼らのところに帰ってはならない」と命じます。エレミヤは神の器なのです。その召しを捨てて、普通の人に戻るわけにはいかないのです。私たちキリスト者も、一度歩み始めた道を引き返すことは出来ません。疲れ果てて、立ち止まることはあるかもしれません。そんなときは休めばよいのです。しかし、元気を取り戻したのなら、再び前を向いて歩み出すべきなのです。

この時、神はエレミヤに彼を初めに召し出した時と同じ言葉を与えました。エレミヤ書1章の最後の言葉と同じ言葉を与えます。すなわち、こう言われました。

わたしはあなたを、この民に対し、
堅固な青銅の城壁とする。
彼らは、あなたと戦っても、勝てない。
わたしがあなたとともにいて、
あなたを救い、あなたを助け出すからだ。

神は、エレミヤを再び召し出されました。この二度目の召命が、具体的にはいつのことだったのか、正確には分かりません。しかし、エレミヤ書を読んでいると、エレミヤという人物の性格が変化していくのを感じます。最初は感受性の強い、ナイーブとも呼びたくなるような面がありましたが、段々と鍛え抜かれた、熟練の預言者、どんな困難にもひるまない、不撓不屈の人物へと変わっていくのです。まさに神は、試練を通してエレミヤを鍛え抜き、神のスポークスマンに相応しい人物へと変えていったのです。また、神はエレミヤを孤独のままにはしておきませんでした。エレミヤには信頼できる盟友が与えられます。エレミヤの言葉を忠実に書き記した書記のバルクのことです。また、中央政府の中にもエレミヤの理解者、庇護者が現れました。シャファンという有力なエルサレムの一門が、エレミヤを助けました。神はエレミヤに必要なものをすべて備えてくださったのです。

3.結論

今日は預言者エレミヤが、自らに課された過酷な召命に耐え切れず、燃え尽きてしまった時のことを学びました。私たちは、エレミヤほどの過酷な要求を神から課されることはないかもしれませんが、しかし自分の仕事や人生に行き詰まる、もうこれ以上進めないと思うような時があるかもしれません。そのような時にどうしたらよいか。私たちがエレミヤから学べることの一つは、その率直さです。神に向かって、あんなことを言ってよいのか、と思うようなことをエレミヤは思い、思うだけでなく口にしました。だからこそ、彼の思いをこのようにして聖書の中で読むことが出来るのです。ですから、私たちも本当に辛い時は、自分の気持ちを隠さずに吐き出すべきです。神に対して祈り、また信頼できる人に語ってよいし、またそうした方がいいのです。語ることで、私たちは癒されます。後で振り返れば、口にしなければよかったと思うような恥ずかしい愚痴でも、話してしまうことで楽になれるなら話すべきです。神様は大きい方ですから、それを受け止めて下さいます。

同時に、神は私たちがいつまでも自分の殻に閉じこもることをお喜びにはなりません。私たちにはなすべきことがあり、それを続けていかなければなりません。十分に休んだなら、また歩き始めるべきです。言うべきことを示されれば、勇気をもって語るべきです。最近、アメリカで黒人差別に抗議するための平和的デモを催涙弾で排除し、そのあとに教会の前で聖書を掲げるという大統領のパフォーマンスに対し、教会の内外から非難の声が上がりました。ニューヨークのクオモ知事は、聖書は掲げるのではなく、読むものだと語りましたが、もっと言えば読むだけでなく、実践すべきものです。しかし、アメリカにも権力に屈しない預言者的スピリットが息づいているのを見てうれしくなりました。私たちも聖書の目指す社会的公正を語り、また実行していきたいと願うものです。私たちは今日も明日も前を向いて歩んで参りましょう。お祈りします。

エレミヤを召し出し、燃え尽きたように思えた彼を再度召し出された神よ、その御名を賛美します。エレミヤの壮絶な人生、耐えがたいような人生をもあなたは支えてくださいました。私たちもそれぞれ課題や困難、試練を抱え込みながら歩む者ですが、どうか私たちの日々の歩みを支えてください。私たちの人生を通じて、あなたが望むことを成し遂げてください。我らの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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