この方はキリストだ
ヨハネ福音書7:40-52
守屋彰夫牧師

主題 <神からの真理

ヨハネによる福音書7章は、「仮庵の祭り」が近づいている時期(2節)にイエスはガリラヤを巡っておられた。「仮庵の祭り」は、ユダヤ暦の三大祭りの一つです。すべての収穫の刈り入れが済んだ秋に祝われました。祭りの1週間、木の枝で造った小屋に宿り、先祖が荒野を放浪中、神が幕屋に宿って彼らを守られたことへの感謝を新たにするお祭りです。

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守屋彰夫牧師
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真理をあかしする聖霊
ヨハネ福音書15章26節~16章15節

1.序論

みなさま、ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステは、クリスマス、イースターと並ぶキリスト教の三大主日の一つです。クリスマスとイースターはそれぞれイエス・キリストの誕生と復活を祝う日ですが、ペンテコステはイエスではなく聖霊に係わる日です。しかし、イエスは歴史上の人物なのでイメージが持ちやすいですが、聖霊はその名の通り「霊」ですので、どうもとらえどころがないと多くの方が感じられていると思います。そこで、今日の聖書テクストを詳しく見ていく前に、聖霊について少しお話しさせていただきたいと思います。

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それぞれの召命
ヨハネ福音書21章1~23節

1.導入

みなさま、おはようございます。実は私は先週体調を崩しまして、微熱と強い腹痛に悩まされ、食事が喉を通らなくなりました。コロナの方は病院で2度検査して陰性でしたので、コロナの心配はなかったのですが、胃腸が強い炎症を起こしているとのことでした。その後は回復して、今日無事に講壇に立つことができたことを主に感謝していますが、そのような事情で先週は説教準備のための十分な時間が取れませんでした。そこで、今回は急遽予定を変更しまして、かなり前にお話ししたメッセージに手を入れて、お話しさせていただくことにしました。来週からは再びマルコ福音書の講解説教に戻ります。

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生ける水としての聖霊
ヨハネ福音書4章1~42節

1.導入

みなさま、ペンテコステおめでとうございます。おめでとうございます、と言った後に説明するのも変ですが、ペンテコステとは、死者の中から復活した後に天に戻られたイエスに代わって、教会の主として、またリーダーとして聖霊が教会に与えられたことをお祝いする日です。イエスという指導者を失った教会に、新たに聖霊という指導者が与えられたのです。ペンテコステは、クリスマスとイースターと並んで、キリスト教の三大主日の一つとされています。しかし、クリスマスやイースターと比べると、ペンテコステは世間一般ではほとんど知られていない、地味な主日だと思われているのではないでしょうか。クリスマスはイエス様の誕生日ということで分かりやすく、今やクリスチャンのみならず、すべての人のお祭りのようになっています。それに対してイースターは、イエスの復活を祝う日ですが、死んだ人がよみがえるというのは確かに一般の方には信じがたいことかもしれませんが、テレビなどで海外の盛大で荘厳な復活祭の様子がしばしば報道されていることもあって、かなり認知度が上がっていると思います。私も今年の春、近くのトップというスーパーで買い物をしていると、「イースターはイエス・キリストの復活を祝う記念日です。みなさんこの機会にぜひ卵を買いましょう」という場内アナウンスを聞いて、イースターも日本でとうとう市民権を得たな、とうれしく思いました。それに対し、ペンテコステと聞いてもほとんどの日本の方からは「それ何?」という反応しか返ってこないように思います。

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マグダラのマリヤと復活のイエス
ヨハネ福音書20章1~18節

1.導入

みなさま、復活主日おめでとうございます。2千年前、この方こそ私たちの救い主に違いないとイエスに期待をかけていた弟子たちは、イエスが十字架に架かって死んでしまったことに絶望し、イエスによって始められた運動は空中分解してしまったように見えました。みな、イエスの弟子だということを周囲の人々に隠し、自分の命を守ろうとしました。もう夢は終わったのだと、自分の元の生業に戻ろうとしました。しかし、彼らは突然勇気に溢れて、どんな反対に遭おうともイエスは全世界の王である、主であると大胆に宣べ伝えるようになりました。何が臆病だった彼らを変えたのか、命さえ惜しまずにイエスのことを宣べ伝えるようになったのはなぜなのか。この驚くべき変化の理由として、彼らは主がよみがえったのを目撃したからだ、と福音書は語ります。この驚くべき体験が、すべてを変えてしまったのです。今日は復活の主を最初に目撃した人、復活したイエスに最初に再会した幸いな人について見てまいりたいと思います。

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復活の経験
ヨハネ福音書11章17~27節

1.導入

みなさま、復活祭おめでとうございます。復活祭はキリスト教の祝祭の中でも最大かつ最も大切な日です。初代教会からの伝統を最もよく保っていると言われるギリシャ正教にはクリスマスを含む12の大祭がありますが、復活祭はこの12の中には含まれない、別格の大祭とされます。なぜなら、主イエス・キリストの公生涯において、この復活という出来事ほど重要なものはないからです。パウロは、もしキリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は全く意味のないものとなる、と語っています。その箇所、第一コリントの15章14節を開いてみましょう。

そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

そこで今朝は、主イエスが復活したことと、私たちの救いの関係について考えてみたいと思います。私たちプロテスタント教会では救いを語るときに復活よりも十字架に強調点が置かれるからです。私たちは「イエスの十字架によって救われた」とは言っても、「イエスの復活によって救われた」と言うことはほとんどないのではないでしょうか?私たちの罪のために、私たちの身代わりとしてイエス様が十字架で死んでくださった、だから私たちは救われるのだと。しかしパウロは、イエスが十字架で死んだだけでは私たちは救われないのだ、ということを強く訴えています。先ほどのコリント書の続きでパウロはこう書いています。

そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

と、こう語っています。十字架だけでは十分ではないのです。

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イエスの祈り
ヨハネ福音書17章6-19節

1.序論

みなさま、おはようございます。イースターおめでとうございます。言うまでもないですが、昨今の緊迫した状況の中でこのように礼拝を守れること自体、感謝すべきことです。同時に私も、こんな情勢の中で礼拝をしてもいいのだろうか、中止すべきではないか、と日々心が揺れました。こういう時に、神様が「続けなさい」とか、「やめなさい」と指示してくださればありがたいと思いますが、しかし主は私たちがそれぞれ深く祈って、個々人で判断することを求めておられるように思いました。ローマ書の14章5節の、

ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

というみことばが与えられました。イースターだから、特別な日だから、今日はなんとしても礼拝を守りたい、という方もおられます。また、たとえどんな日であろうと、神様からいただいた命を大切にすべきだ、だから断腸の思いで自重しよう、と信じる方もおられます。どちらも信仰に基づく確信ならば、正しいのです。私もそこで、今日説教壇に立つように召された者として、確信に基づいて話したいと思います。日々不安を感じる中で生活している私たちですが、今日は復活の主、イエスの祈りから慰めと励ましを得たいと思います。

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僕(しもべ)となられた王
ヨハネ福音書13章1-17節

1. 序論

みなさま、おはようございます。当教会に就任して初めての説教が、主イエスのエルサレム入城を記念する棕櫚(シュロ)の主日となったことに、感慨深いものがあります。棕櫚の主日というのは、イエスがエルサレムに入城した時に、人々が棕櫚の枝を振ってイエスの入城を歓迎した出来事を記念する日です。シュロとはヤシの一種で、ほうきにも使われる丈夫な枝をならせます。その枝を振ることには、勝利者である王様を迎えるという意味がありました。しかし、それからわずか6日目にはイエスは逮捕され、十字架に架けられて死ぬことになります。その当時のエルサレムはものすごい数の人々で溢れかえっていました。今年の夏の東京オリンピックは延期になりましたが、もしこの夏に開かれていたら、この東京は世界中の人々で溢れかえっていたでしょう。イエスが最後の1週間を過ごされたエルサレムも、まさにそんな状況でした。なぜなら、その時にはエルサレムでは過越の祭りが祝われていたからです。過越の祭りというのは、イエスの時代からさらに千数百年ほど前に、エジプトで奴隷にされていたイスラエルの人々を、神がモーセを遣わすことで解放したことを記念するお祭りです。神は、イスラエルの人々を自由にしなさい、とエジプトの王ファラオに命じますが、ファラオはそれを拒否します。そこで神は10の災いをエジプトの地に下し、そして最後の10番目の災いが下ると、ファラオもとうとう降参して、イスラエル人を自由にします。その時のことを記念するのが過越の祭りでした。その祭りは夜祝われますが、その日には、各家庭は子羊を屠り、夜中に過越の食事をとるのです。

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