1.序論
みなさま、おはようございます。今年初めの主日礼拝をこのように迎えられることに感謝します。アドベントの期間中はイザヤ書を取り上げていたので久しぶりになりますが、昨年から続けてきたサムエル記の講解説教を今年も継続して参ります。
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みなさま、おはようございます。今年初めの主日礼拝をこのように迎えられることに感謝します。アドベントの期間中はイザヤ書を取り上げていたので久しぶりになりますが、昨年から続けてきたサムエル記の講解説教を今年も継続して参ります。
“正しい道を教えようみなさま、おはようございます。今朝から教会のカレンダーではアドベントに入ります。イスラエルに真の王としてお生まれになったイエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスを待ち望む期間です。主イエスは「王」という存在についての考え方を革命的に変えました。当時の人々が考える王の姿とは、人々の上に権力を振るい、人びとを支配する、そのような存在でした。しかし主イエスはその生涯を通じて仕える王、人びとを支配するのではなく、むしろ人々のために命さえ差し出す、そのような謙虚で慈愛に満ちた王の姿を示したのでした。そのような主イエスの姿は、私たちすべてが範とすべきものです。アドベントの期間は、そのようなイエスの歩みを思いつつ歩んで参りたいものです。
“サウルの勝利みなさま、おはようございます。今、私たちはイスラエルの初代の王となるサウルがいかに神から選ばれ、また人々から受け入れられていくのかを学んでいます。イスラエルに初めて王制が導入される、その歴史的瞬間について学んでいるのです。前回は、預言者サムエルから王としての油注ぎを受けたサウルが、三つのしるしを与えられるところを学びました。三つのしるしとは、それぞれ「王」、「祭司」、「預言者」に対応したもので、サウルにはこの三職が与えられることを暗示したものでした。つまりサウルは人々を統治する王であるだけでなく、人々と神との関係を仲立ちする祭司としての役割、また神の御心を告げる預言者としての役割をも与えられるのです。その証拠として、サウルには圧倒的な聖霊の注ぎが与えられました。こうしてサウルはまったく新しい人へと変えられました。
“サウル、王として宣言されるみなさま、おはようございます。サムエル記の学びは、前回からサウル王の話に入りました。前回の説教でもお話ししましたが、一般的にクリスチャンの間では、サウル王のイメージは正直に申し上げてよくないと思います。以前、改革者の神学者が書いた本を読みましたが、その本ではサウル王は永遠の滅びに定められているに違いない、というようなことが書かれていました。どうも、ダビデ王の命をしつこく狙う嫉妬深い王様、というイメージが定着しているようです。
“サウル、油を注がれるみなさま、おはようございます。サムエル記からの説教も早いもので、今日で9回目になります。前回の箇所では、イスラエルの人々が王を立てたいとサムエルに願い出ました。それまではイスラエルには王はいませんでした。なぜならイスラエルを王として導くのは神ご自身だったからです。しかし、人々は見えない神よりも、目に見える人間の王を求めました。勇敢で強いリーダーシップを持った王を立てて、彼によって外敵から守ってもらおうとしたのです。しかし神は王という存在の危険性をイスラエルの人々に指摘しました。王があなたがたのために戦うよりもむしろ、あなたがたが王のために戦わなければならなくなると。戦いだけではなく、王は日常生活のいろんな場面で、人々の権利や自由を侵害するだろうとも警告しました。
“青年サウルみなさま、おはようございます。今日もサムエル記から学んで参りましょう。さて、前回の箇所でもお話ししましたように、サムエル記の1章から7章まではひとまとまりの話になっています。これはサムエルを主人公とする話で、サムエルは士師としてイスラエルを一つにまとめる働きをしていました。
“王を求める民みなさま、おはようございます。今日はサムエル記の7章を読んでいただきましたが、サムエル記の1章から7章までは、ひとまとまりの物語だと言えます。それはサムエルを主人公とした物語です。8章以降は、イスラエルの初代の王となるサウルがストーリーの中心になりますが、それはそのままイスラエルが王制に移行していくという話でもあります。それに対してこの7章までは、イスラエルが「士師」と呼ばれるリーダーたちに率いられる最後の時代を過ごしているという、そういうことになります。
“最後の士師サムエルみなさま、おはようございます。前回に続いて、今日も「主の箱」、「契約の箱」を巡るペリシテ人とイスラエル人との間の一連の騒動について見て参ります。聖書テクストを詳しく見る前に、この契約の箱のはらむ問題について少し考えたいと思います。この契約の箱は、一歩間違えればイスラエルを偶像礼拝に導きかねない、そのような問題を抱えているという話をさせていただきます。
“一体何が起こっているのか?みなさま、おはようございます。サムエル記からの説教も、今回で五回目となります。さて、今日の箇所ですが、お読みになられてどのようにお感じになったでしょうか?なんだか本当の話とは思えない、おとぎ話かファンタジー小説のように思われたかもしれません。もちろんこれは聖書のテクストですから、そんな失礼なことは考えたこともない、思いもよらないことだ、とお考えになる方もおられるでしょう。しかし、クリスチャンでない方が今日の箇所を読んでどう思うかと考えると、「これは聖書の話というよりも、おとぎ話の類いではないのですか?」という反応が返ってくるのを容易に想像できます。
“おとぎ話としてではなくみなさま、おはようございます。サムエル記からの説教は、今日で四回目になります。これまでは、ハンナ、サムエル、エリとその息子たちというように、個人の信仰の在り方に注目してきましたが、今日の箇所からは個人の問題を越えたイスラエル民族全体の命運、政治的な話にテーマが移っていきます。しかし、それは個人の命運とは無関係にではありません。前回の箇所では、イスラエルの霊的指導者であるはずのエリの息子たちが道を踏み外し、それに対して神はサムエルを通じて裁きを宣告するという場面を学びました。しかし、その裁きはエリとその息子たちだけでなく、イスラエル全体に及びます。指導者の罪が、彼らの率いる群れ全体、民族全体に悪影響を及ぼすということです。リーダーの責任の重大さを改めて思わされる箇所です。
“奪われた契約の箱