1.序論
みなさま、おはようございます。毎月末の日曜日は、サムエル記から離れて新約聖書からメッセージさせていただいております。というわけで、今日もヤコブ書からみことばを取り次がせていただきます。
“舌を制するヤコブの手紙3章1~12節” の続きを読む
みなさま、おはようございます。毎月末の日曜日は、サムエル記から離れて新約聖書からメッセージさせていただいております。というわけで、今日もヤコブ書からみことばを取り次がせていただきます。
“舌を制するみなさま、おはようございます。早いもので、第一サムエル記からの説教も今日で30回目になります。そして、第一サムエル記もいよいよ最終盤にさしかかってきました。第一サムエル記はサウル王の死によって終わります。その意味で、サウルはダビデと並ぶ第一サムエル記の主役ともいえる存在です。とはいえ上り坂のダビデに比べ、転落の人生を歩むサウルはまさにかませ犬のような存在ですが、サウルもまた第一サムエル記の、そしてイスラエルの歴史における非常に重要な人物であることは間違いありません。
“サムエルの亡霊みなさま、おはようございます。今日もサムエル記から、ダビデの生涯について学んで参りましょう。今日の説教タイトルは「策士ダビデ」ですが、ダビデのことを「策士」と呼ぶことに違和感を持たれるかもしれません。ダビデと言えば、巨人ゴリヤテにも小手先の策を弄さずに正々堂々と立ち向かっていくイメージがあるので、策士という呼び名はダビデにはふさわしくないと思われるかもしれません。しかし今回の聖書箇所のダビデは、非常に食えない人物であるという印象を与えるのです。
“策士ダビデみなさま、おはようございます。毎月の月末はサムエル記の講解説教から離れて新約聖書からメッセージをさせていただいておりますが、今日もヤコブ書からメッセージをさせていただきます。今日の箇所は、新約聖書の中でも最も有名で、かつ議論を呼ぶ箇所の一つだとされるところです。
“行いによって義とされるみなさま、おはようございます。私たちはサムエル記を読み進めていますが、この物語もいよいよ前半の山場を迎えます。第一サムエル記の二人の主役は初代の王サウルと二代目の王ダビデです。主役と言っても、サウルの方は悪役、ヒールのような役回りをしていますが、この二人の神から油注がれた者たちの間の対立にどのように決着が付くのか、それが第一サムエル記の大きな関心事、テーマでした。
“報復するは、神にありみなさま、おはようございます。前回は、サウルの命を簡単に奪う機会があったのにもかかわらず、見逃したダビデの行動に心を動かされたサウルが、ついにダビデを認め、あなたこそイスラエルの王にふさわしいと語る感動的な場面を学びました。しかし、今回の箇所は前回の話とは直接関係のない話になっています。むしろ、今日のエピソードは次の26章の話の重要な伏線になっています。先週もお話ししましたように、来週取り上げる26章は24章の話と非常によく似ています。細かい点は違うものの、ダビデが絶好の機会があったにもかかわらずサウルの命を奪わずに、そのことがダビデとサウルの和解につながるという基本的なプロットは全く同じです。そして、24章と26章とは、おそらく同じ出来事についての異なる二つの伝承だろうということもお話ししました。この件の説明は繰り返しませんが、ではなぜ同じ話を二度繰り返す必要があったのかといえば、今日の25章の話の上に26章のサウルとダビデの和解の話が成り立つからです。ですから今週と来週の話は、一つの長いエピソードの前編と後編というような意味合いで聞いていただきたいと思います。
“愚かな夫と賢い妻みなさま、おはようございます。私たちは今、サウル王に命を狙われたダビデが、彼の追求から逃げ回っているという場面を読み進めています。しかしここで一つの疑問が生まれてきます。「攻撃は最大の防御」という言葉が示すように、ただ追っ手から逃げ回るだけでは仕方がないのではないか、反撃をすべきではないかということです。しかも、ダビデは全くの無実なのにサウル王から命を狙われるという理不尽な状況にあります。サウルに反撃を仕掛けても道義的には何の問題もないようにも思われます。そしてそのような千載一遇のチャンスが巡ってきた、というのが今日の場面です。その時ダビデはどのように行動したのか、またそれはなぜなのか、ということを考えて参りたいと思います。
“あなたは私より義だみなさま、おはようございます。今日もサムエル記から、みことばを聞いていきましょう。私たちは、ダビデがサウル王に命を狙われているために、あてのない逃避行をしているところを読み進めています。しかしダビデはその苦しみの中で多くのものを得ていきます。まず、彼は多くの仲間を得ました。危機や苦難の中をダビデと共に歩んだ人々は、ダビデにとって信頼できる部下たちになっていきます。またダビデは目には見えないけれど、非常に大切なことを得ていきます。彼が学んだことの一つが、神に信頼することの大切さ、信仰の大切さでした。ダビデはこの苦難の旅を通じて、神への本物の信仰を身に付けていきます。今日の聖書箇所でも、ダビデはいくつかの出来事を通じて本物の信仰の重要性を学んでいくのです。
“神の御心に従うみなさま、おはようございます。今日は月末ですので、通例通り新約聖書の「ヤコブの手紙」からメッセージをさせていただきます。ヤコブの手紙には、行いの重要性の強調や、試練に対する心構えなど、いくつかの重要なテーマがありますが、今日の箇所もそうした柱となるテーマの一つ、「貧しさ」についてです。それも霊的、精神的な貧しさということではなく、経済的な貧困の問題です。
“貧しい人への態度みなさま、ペンテコステおめでとうございます。そのように申し上げてからこう言うのも何なのですが、「ペンテコステ」というのはいったい何なのか、と尋ねられることがしばしばあります。ペンテコステはクリスマス、イースターと並ぶキリスト教の三大主日と言われますが、他の二つと比べてポピュラーであるかという意味では少し見劣りしてしまうのは否めないように思います。また、それが何を祝うものなのか、分かりにくいということもあるようです。
“神の霊に満たされる