1.序論
みなさま、おはようございます。これまで毎月の月末はヤコブの手紙を学んで参りましたが、その講解説教も終わりましたので、これからはペテロの手紙第一を読み進めて参ります。今日は月末ではなく、第三週ですが、本書簡に親しむためにも、今月だけは二回連続して本書簡から説教させていただくことにしました。
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みなさま、おはようございます。これまで毎月の月末はヤコブの手紙を学んで参りましたが、その講解説教も終わりましたので、これからはペテロの手紙第一を読み進めて参ります。今日は月末ではなく、第三週ですが、本書簡に親しむためにも、今月だけは二回連続して本書簡から説教させていただくことにしました。
“信仰と救いみなさま、おはようございます。前回の説教で、私は二つの問いを提起しました。それは、ダビデがバテ・シェバ事件のことを本当に悔い改めていたのかという問いと、神はダビデのすべての罪を赦したのか、また赦したとするならば、その赦しとはいかなるものなのか、ということです。どういうことかと言えば、例えばある生徒が学校の大事な掃除道具を壊してしまったとします。その際に先生は、「もういいよ。このことは一切忘れてあげる」というかもしれないし、あるいは「あなたのしたことは赦してあげます。ただし、その掃除道具が壊れてしまったせいで他の生徒さんたちが不自由しているので、あなたはこれから一週間放課後に残って教室の掃除をしてくださいね」というかもしれません。どちらも赦したことには違いはないですが、その中身はだいぶ違いますよね。
“惨劇と悲劇みなさま、おはようございます。第二サムエル記を読み進めて参りましたが、前回はサムエル記全体の中でも重大な分岐点となる箇所でした。それは、ダビデが途方もない罪を積み重ねていく場面でした。彼は自分のために命がけで戦っている兵士の妻を寝取ってしまい、その罪を隠すためその勇敢な兵士を戦場で謀略によって殺します。罪を隠すためにさらなる罪を重ねていく、そのような泥沼にはまっていくダビデの行状を見て参りました。
“ダビデは悔い改めたかみなさま、おはようございます。昨年から毎月の月末にはヤコブの手紙を学んで参りましたが、いよいよ今回で最終回になります。そこで今日は、ヤコブの手紙全般を振り返りながら今日のみことばを読み解いていきたいと思います。
“ヤコブの勧告みなさま、おはようございます。今日はサムエル記の中でも、いやおそらくは聖書全体の中でも、最も衝撃的な箇所の一つを読んでいます。それは、我らが英雄であったはずのダビデが決定的な、また致命的な過ちを犯す場面です。それも悲劇的、宿命的な過ち、つまり避けようのない過ちではなく、ただひたすら浅ましく、不愉快な過ちです。しかも、たった一度の過ちではなく、罪の上に罪を積み重ねていくという、泥沼にはまりこむような過ちなのです。そして、この出来事を契機としてダビデ家はボロボロになっていきます。
“ダビデ家崩壊の始まりみなさま、おはようございます。私たちはサムエル記を読み進めて参りましたが、いよいよ物語は後半部分に入りました。といいますのも、今日のサムエル記下の9章からサムエル記の続編である列王記上の2章までは一つのまとまりになっているからです。それは一般的には「王位継承物語」と呼ばれています。今やイスラエルの王となったダビデの王座がその子ソロモンに受け継がれていくまでの過程を描いているのです。古今東西、王位をめぐる後継者争いは絶えないのですが、御多分に漏れず、ダビデ家の王位継承もすんなりとはいかず、数々のお家騒動を引き起こします。
“ダビデの誠意みなさま、おはようございます。主の年2025年の最初の礼拝を皆さまと共に主に献げられることを感謝します。今年の説教も、昨年に続きましてサムエル記を読み進めて参ります。昨年は主にサムエル記の前半、上巻を読んできましたが、そこで描かれるダビデは若き英雄、苦難においても神への信頼を失わない立派な神のしもべでした。しかし、これまでと違い、王となって地位と富を独占するようになる今後のダビデの歩みは神に選ばれた聖者とは程遠いものになっていきます。むしろそれは浅ましい、エゴイスティックな王で、自業自得で惨めな晩年を送ることになります。ダビデは王としても父親としても失格であるということが、これから起こる一連の出来事で明らかになっていきます。そのような今後のダビデの歩みを考えると、今日の箇所は驚くべき内容です。ダビデがどれほどひどい罪を犯そうとも、彼から恵みが取り去られることはないのだということがその内容だからです。
“ダビデとの契約みなさま、おはようございます。早いもので、本日が2024年の最後の主日礼拝になります。この一年間も主に守られてこうして教会の歩みを続けられたことを心から感謝します。今日はヤコブの手紙からみことばを取り次がせていただきます。ヤコブの手紙は今年の二月から毎月月末にメッセージさせていただいておりますが、来年の一月で最終回になります。ですから、ちょうど丸一年かけてヤコブ書を学んできたことになります。
“忍耐への報いみなさま、クリスマスおめでとうございます。この喜ばしい主日を皆さまと共に祝えることに感謝です。さて、今日の説教タイトルは「イエスの父」です。ただ、イエスの父、と聞いてもそれが誰のことなのか、少し考えてしまうかもしれません。といいますのも、イエス御自身がおっしゃられているように、イエスの父、アッバとは父なる神のことを指すのではないか、とまず私たちは考えます。しかし、イエスを個人的によく知る当時のナザレの人々はイエスのことを「この人は、ヨセフの子ではないか」(ルカ4:22)と言っていました。
“イエスの父みなさま、おはようございます。今日はアドベント第三週になります。いよいよ次週はクリスマス礼拝になりますが、今日の聖書箇所はクリスマスを待ち望むうえで大変重要な箇所です。実際のところイザヤ書53章は、旧約聖書の中でも最も有名な箇所の一つです。
“苦難のしもべ