1.序論
みなさま、おはようございます。いよいよ今日からアドベント、主のご降誕を待ち望む季節に入りました。このアドベント期間は通常の説教、今はマタイ福音書からの講解説教ですが、そこから離れて、主のご降誕を待ち望むのにふさわしい聖句を取り上げたいと思います。それは、旧約聖書の中で主イエスのことを預言していると解釈されてきた聖書箇所を取り上げたいと思います。
さて、旧約聖書というのは私たちキリスト教徒にとっても新約聖書と並ぶ正典、カノンなわけですが、旧約聖書というのは本来ユダヤ教の正典です。ユダヤ人が自分たちの民族の聖なる歴史、つまりアブラハムを先祖とするイスラエル民族が如何にして神に選ばれ、神によって導かれてきたのかを記しているのが旧約聖書です。あるクリスチャンの方が、旧約聖書を読んで、そこに書いてあるのはイスラエルの歴史であることを見出して、なんでこれがクリスチャンにとっても聖書なのかわからないという率直な感想を述べておられました。そのように感じたことは、多くの人にとって一度や二度ではないと思います。それでも旧約聖書がクリスチャンにとっての正典として重んじられてきたのは、そこに主イエスを預言した箇所がたくさん含まれていると信じられてきたからです。主イエスの活躍を予告した箇所が多くあるので、旧約聖書はクリスチャンにとって重要なのだと、そういうことです。
ただ、こんなことを言うと驚かれるかもしれませんが、旧約聖書の預言は実は元々の意味では主イエスの預言ではないけれど、後の時代になって主イエスの預言として理解されるようになった箇所がいくつもあります。というのも、預言というのはそもそも曖昧なもので、いかようにも解釈できる要素があるからです。また、そもそも預言というのは一つの意味だけではなく多くの意味を持ちうるものなのかもしれません。預言を語った預言者自体が知らなかった意味がその預言に含まれているということもありうるのです。そういう預言を一つ見てみましょう。新約聖書のへブル書の12章25節から27節までをお読みします。
語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われました。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天をも揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。
さて、ここでヘブル書の記者が引用している「わたしは、もう一度、地だけではなく、天をも揺り動かす。」は旧約聖書のハガイ書から引用されています。ここでは、天から降ってこられる再臨のキリストが地を揺り動かして、揺り動かされるものを取り除かれる、そのことの預言として理解しています。しかし、この言葉を語ったハガイは明らかにそのようなことを預言したのではありません。ハガイとは、バビロン捕囚が終わってユダヤの地に帰還したユダヤ人たちに、ダビデ王家の子孫でペルシアの総督だったゼルバベルと共に第二神殿を建築するように励ました人です。キリスト誕生の時代から五百年も前の時代を生きた人です。ハガイは、このゼルバベルこそバビロンによって滅ぼされたダビデ王朝を復興してくれる人だと思って預言のことばを残しました。それがハガイ書2章22節から23節までをお読みします。
ユダの総督ゼルバベルに次のように言え。わたしは天と地とを揺り動かし、もろもろの王国の王座をくつがえし、異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる。その日、―万軍の主の御告げ―シュアルティエルの子、わがしもべゼルバベルよ、わたしはあなたを選び取る。―主の御告げ―わたしはあなたを印形のようにする。わたしがあなたを選んだからだ。―万軍の主の御告げ―
このように、ダビデの子孫であるゼルバベルが異邦人の国々を滅ぼしダビデ王朝を再興することを預言して「わたしは天と地とを揺り動かし」と語っているのです。では、このゼルバベルはどうなったかといえば、当時のユダヤを支配していたペルシア帝国から警戒されてしまいます。もともとは名門であるダビデ家の子孫だからユダヤの地を治めやすいだろうという政治的配慮があってペルシアがユダヤ総督として派遣したのですが、総督という地位に満足せずダビデ家の王家を再建してペルシアから独立しようとするのではないか、と警戒したのです。それでゼルバベルはペルシア総督の任を解かれ歴史の表舞台からは消えてしまいます。彼がその後どうなったのか、それについての歴史は残っていません。つまり、ずばり言いますとハガイの預言は実現しなかったのです。この実現しなかった預言をヘブル書の著者は再解釈して、キリストの再臨についての預言と見なしたのです。
しかし、預言とはこういうものなのかもしれません。それを語った預言者ですら気が付かなかった意味がその預言に隠されているということです。ハガイはゼルバベルのことだと思って語った預言の言葉が実は主イエスを指し示す預言だったということです。こういう預言は、実際は旧約聖書にはいくつもあります。今日のダニエル書の七十週の預言もそうしたものの一つです。では、さっそくダニエル書9章を読んで参りましょう。
2.本論
ダニエル書からメッセージをするのは、当教会では私にとって二度目なのですが、ダニエル書は非常に難しい書です。ダニエル書には様々な解釈があることを念頭に置いたうえで、ここでは学問、学術の世界で広く認められている見解をお話しします。保守的な聖書解釈に立つ人は、まったく別の解釈をするでしょうが、ここではアカデミックな世界の代表的な見解に立ってお話しするということです。
預言者ダニエルはバビロン捕囚の時代、つまり紀元前六世紀に生きた時代の人だとされていますが、実際にこのダニエル書が書かれたのはそれから四百年後、紀元前二世紀だと考えられています。当時、ユダヤ人はユダヤを支配するシリアの王アンティオコス四世と独立戦争を戦っていました。アンティオコス四世はアンティオコス・エピファネスとも言われ、ユダヤ人にとってはあのアドルフ・ヒトラーと並ぶ反ユダヤ主義の象徴のような人物です。ある意味ではヒトラー以上にユダヤ人には嫌われている人物と言えるかもしれません。というのも、アンティオコス四世は宗教としてのユダヤ教そのものを根絶しようとした人物だからです。彼はユダヤ人にユダヤ教を捨てさせて、ユダヤ人であることをやめさせようとした人物だとされています。アンティオコス四世はユダヤ人にユダヤ教を捨てるように迫り、ユダヤ人のシンボルである割礼という儀式をやめるように強要し、子供に割礼を施した人を殺せという命令すら出しました。それだけではなく、ユダヤ人にとって最も聖なる場所、神の霊が宿るとされるエルサレムの神殿を冒涜しました。神殿で、ユダヤ人にとっては不浄な動物とされる豚を屠りました。それだけでなく、唯一神信仰のユダヤ人にとっては由々しきこと、赦されざることを行いました。それはギリシアの最高神であるゼウスの偶像を神殿に置いたことでした。主イエスが「荒らす憎むべきものが聖なる場所に立ったのを見たならば」と預言した、「荒らす憎むべきもの」の原型がこのアンティオコスの設置したゼウス像だとされています。
このような理不尽な宗教迫害を行うアンティオコスに対するユダヤ人の命がけの抵抗運動、ゲリラ戦争が始まり、そのリーダーがユダ・マカバイと呼ばれる人でした。ダニエル書で未来の出来事として預言されているのは、このアンティオコスに対するマカバイ一族の独立戦争のことなのです。つまりこういうことです。マカバイ戦争の時代である紀元前二世紀に生きていたある人物がいました。その無名の人物が四百年前の伝説の人物であるダニエルという名を借りて書いたのがダニエル書だということです。彼は、ダニエル書を書くことで、反乱を戦う同胞のユダヤ人たちを励まそうとしていたのです。いにしえの預言者ダニエルによれば、私たちは敵に打ち勝つ運命にある、だからがんばれ!とういうことです。今日の七十週の預言もまさにそのようなもので、アンティオコスによって汚されてしまった神殿を取り戻す、回復させることを預言しているということです。ですから、ダニエル書の舞台設定は紀元前六世紀なのに、書かれている内容はそこから四百年後の紀元前二世紀のマカバイ戦争という出来事なのです。なんだかとてもややこしいですが、たとえて言うならば明治維新の前の時代に生きた人物が、幕末の志士たちに対して、聖徳太子や空海のような伝説の偉人があなたがたの勝利を予言しているから頑張りなさい、と励ますような感じでしょうか。実際は、作者自身は明治維新の時代に生きていて、いま目の前で起きている出来事を語っているのですが、その語り部をはるか昔の時代に生きた伝説の人物に設定しているのです。このように、紀元前二世紀に生きていたダニエル書の著者は、今目の前で起こっている出来事を、四百年前に生きていた預言者が未来を語っているという風に描いているのです。
過去の人物の中でも、なぜダニエルを選んだのかと言えば、アンティオコスと戦っているユダヤ人たちはバビロン捕囚後に再建された神殿、それは第二神殿と呼ばれますが、アンティオコスによって汚された神殿を取りもどすために戦っているのですが、ダニエルも同様に、バビロンによって破壊された第一神殿の回復を祈っているからです。マカバイ戦争の戦士たちとダニエルは、このように同じ神殿再建のために戦っている、遠い時代に隔てられてはいますが、同志だということになります。
さて、では再度テクストに戻ります。1節を見てみましょう。伝承によれば、ダニエルはバビロン捕囚によってバビロンの王に仕え、そこで宰相にまで出世しました。しかし、そのバビロンはペルシアによって倒され、ダニエルは今度はペルシア王朝に仕えることになりました。この1節は、ダニエルがそのような境遇だったことを語っています。ダニエルはその時、故郷であるエルサレムを思っていました。エルサレムはバビロンによって破壊され、有名な第一神殿、別名ソロモン神殿とも呼ばれますが、その神殿は廃墟になっていました。遠く異国にいるダニエルは、そのエルサレムの神殿が再建されることを熱望していました。そして彼は、預言エレミヤの言葉を調べていたところ、その再建がもうすぐ実現するという希望を持ちました。その箇所を読んでみましょう。エレミヤ書25章11節と12節です。
この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、―主の御告げ―またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。
このように、ユダヤ人たちを滅ぼしたバビロンは滅ぼされると預言されているのです。実際、そのバビロンはペルシアによって滅ぼされました。ダニエルは、時が来たのだと思い、神に向かって、今こそエルサレムを復興し、神殿を再建してくださいと祈ります。実際の歴史はその通りになりました。ペルシアのキュロス王はバビロンに囚われていたユダヤ人を解放して祖国に帰してあげて、さらにはダレイオス王は神殿再建のための援助を行いました。神殿は紀元前587年に壊されましたが、それから約70年後の紀元前516年ごろ神殿は再建されています。こうなると、ダニエルの祈りは聞かれて、めでたく神殿は再建されたということになります。
しかし、なんとここでダニエルにその時示された神の啓示は別のことを語っていたのです。それが、少し飛びますが24節です。ここで「七十週」という言葉が出てきますが、原語のヘブライ語では「七の七十」となっています。これはどういう意味かと言えば、預言者エレミヤが語った七十年、その七倍の四百九十年という意味です。一週間は七日なので、週というのは「七」という意味でもありますが、七十年の七倍というのがここの意味です。つまり神のメッセンジャーである天使ガブリエルはダニエルに、神殿は七十年ではなくその七倍の月日を経て再建されると語っているのです。これは実際の歴史とは違うのですが、ダニエル書の著者にとって問題なのは、紀元前516年に神殿が再建されたことではありません。むしろそこから数百年後の現在、目の前でアンティオコスによって汚されている神殿がいつ再建されるのか、ということが問題なのです。そこで、七十年の七倍ということにして、今まさに起こっていることをダニエルが預言しているという風に語っているのです。
さて、細かい説明を省きますと、26節、「油注がれた者が断たれ」とありますが、これは油注がれた当時の大祭司であるオニアス三世という人物が紀元前171年にアンティコスによって殺害されたことを指すと思われます。次の「来るべき君主の民が町と聖所を破壊する」とありますが、これはアンティオコスに率いられたシリア軍がエルサレムとその神殿を蹂躙することを指しています。27節で、「彼は半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる」、とありますが、これはアンティオコスが7の半分、つまり三年半の間エルサレム神殿の正常なささげ物を止めさせたことを指します。しかし、そのアンティオコスがついには滅ぼされるというくだりで預言は終わります。このように、今神殿に狼藉を働いているアンティオコスは滅ぼされる、だからあなたがたの戦いは勝利に終わるだろう、というのがこの預言のメッセージなのです。
しかし、キリスト教の最初の世代の人々は、この七十週の預言をこのようには読みませんでした。むしろ、まさに彼らの生きていた時代の預言だと解釈したのです。もう実現してしまった預言など意味がない、私たちが知りたいのはこれから起こることなのだ、というのが我々人間の思いなのですが、最初のクリスチャンたちもまさにそう思ったのです。それで、この七十週の預言を彼らの生きた紀元一世紀の予言として再解釈しました。彼らは26節の「油注がれた者が断たれ」というのを、紀元前二世紀の油注がれた大祭司ではなく、むしろ紀元一世紀の油注がれたメシア、イエスのことだと考えたのです。つまり、「油注がれたイエス・キリストが断たれた、十字架で死なれた」と理解しました。そして、その後の「来るべき君主の民が町と聖所を破壊する」という箇所を、紀元前二世紀に神殿を荒らしたアンティオコスではなく、紀元一世紀にユダヤ人と戦争をして神殿を破壊したローマの将軍、ティトスだと理解しました。実際、キリストが十字架にかけられた四十年後にエルサレムとその神殿はローマ帝国の将軍ティトスによって破壊されています。さらには、27節で、「彼は半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる」というところを、アンティオコスが神殿のささげものを中止させたことではなく、むしろイエス・キリストが自らを最後のいけにえとしてささげることで、神殿の犠牲制度そのものを一時的にではなく永遠に終わらせた、という意味に解しました。このように、オリジナルな意味とは全く違う解釈をこの七十年の預言に施したのです。この解釈が正しいかどうか、私にはわかりません。正しいのかもしれません。つまり、ダニエル書の著者は自分では気づかないうちに、キリストのことを預言していたのかもしれない、ということです。その可能性もありますし、だからこそ預言の解釈は難しいのです。
しかし、話はここでは終わりません。なんと、現代のキリスト教徒たち、なかでも原理主義的キリスト教と呼ばれる人たちは、この七十週の預言にさらに別の解釈を施しているのです。彼らによれば、この七十週の預言は紀元前二世紀のマカバイ戦争のことでも、紀元一世紀のキリストの預言でもなく、むしろ未来の預言だというのです。彼らはこの預言が過去に成就したという解釈に満足できずに、さらに未来の預言として再解釈しているのです。彼らは26節の「油注がれた者が断たれ」というのを、「油注がれたイエス・キリストが断たれ」と理解する古代のキリスト教徒たちの解釈は受け入れました。しかし、そこで預言の実現は止まり、最後の一周、つまり最後の七年間だけは未来に起きるのだと主張しているのです。その後の「来るべき君主の民が町と聖所を破壊する」という箇所は、二千年前のローマ将軍ティトスのことではなく、未来に現れる反キリストと呼ばれる悪魔的な人物がエルサレムとそこにある神殿を破壊することだというのです。彼は、「彼は半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる」、つまりエルサレム神殿でのささげものを中止する人物でもあるというのです。でも、現在のエルサレムにはユダヤ人のための神殿はなく、むしろ破壊されてしまった神殿跡には今はイスラム教の寺院が立っています。ここはイスラム教の三大聖地の一つになっています。先ほど述べた解釈に立つ人は、そのイスラム教の寺院はいずれ壊されてそこにユダヤの第三神殿が建てられ、そこに反キリストが現れるというのです。でも、イスラム教の寺院に代えてユダヤの神殿を建てようものなら、世界中のイスラム教の人々が激怒し、それこそ第三次世界大戦になってしまうでしょう。しかし、原理主義の人たちはそれでもいいのだ、それがハルマゲドンの戦いで、それが終わるとキリストが再臨して平和な時代が来るのだ、というようなことを語ります。つまり、平和なキリストの王国を作るために悲惨なハルマゲドンの戦いをしなければならない、というのです。私はこういう話を聞いていると、あのオウム真理教を思い出してしまいます。世界を変えるために大混乱が起きることは必要なことなのだ、というのは非常に危険な考えで、主イエスの願いとも違うと思うのです。イエスはローマを倒すために立ちあがってくれ、私たちのために武器を取って戦ってくれと叫ぶ民衆の声を聞かずに、むしろご自身が十字架にかかることで反乱や暴動が起きないようにし、自らを犠牲にして人々を救った、つまり戦争を回避したからです。
3.結論
まとめになります。今回はとても難しい内容になりました。一度聞いただけではよく理解できなかった、という方もおられると思います。しかし、話のポイントはこうです。つまり、旧約聖書でキリストの預言だとされている箇所は、本当にそう言えるのかという判断が難しいということです。皆さんは「だまし絵」というのを見たことがあると思います。ある絵が見方によっては老婆に見えたり、少女に見えたりする絵のことです。同じように、今日の「七十週」の預言においても、それがキリストを指していると解釈する人もいれば、反対にそれが反キリストを預言していると見る人もいるのです。ですから、旧約聖書を読んでいて、「あっ、これはイエス様のことだ」と思える箇所があったとしても、その判断が本当に正しいのか、よくよく吟味したほうがよいということです。
では、アドベント第一週という大事な日に、なぜこんな難しいメッセージをしたのかといえば、それは聖書の取り扱いについてくれぐれも注意すべきだからです。私たちは聖書の中に、自分の見たいもの、読みたいものを見出してしまうことが多いということです。本当の意味はそうではないのに、自分の願望を聖書に投影して違う意味に解釈してしまうのです。こういうのを日本の言い方では「我田引水」と言います。七十週の預言のようなあいまいな預言はどうにでも解釈できてしまうことは先に述べたとおりです。そのあいまいさを利用して、好き勝手な解釈を施して、政治的な目的で利用してはいけないということです。
また、聖書の預言というのは「未来予知」ではない、というのも大事なポイントです。聖書の預言は、お医者さんによる診断に似ています。医者は私たちの体をチェックし、また私たちの生活習慣を聞いて、「あなたはこんな生活を続けて入れば、一年後に死にますよ」という診断を下します。本当に一年後にその人が死んでしまったら、お医者さんの預言は成就したということになるのでしょうか?いいえ、お医者様はそんなことを願っていなかったのです。むしろ生活習慣を改めて、長生きしてもらうことが医者の願いでした。私たちの心がけ次第で未来は変えられるのです。聖書の預言もそれと同じです。神様は私たちの生活習慣だけでなく、霊的な状態をご覧になっています。私たちの心が憎しみや妬みで一杯で、人のことを考えずに自分のことばかり考える状態であれば、私たちの未来には必ず不幸が生じます。争いや不和が生じるからです。ですから神様は「あなたがたが悔い改めなければ死ぬ」とおっしゃるのです。もちろん神様は私たちが予言通りに死ぬことを願っておられません。生活を変えることを願っておられます。そういう警告を発するために神は何人もの預言者をこの世に送り、最後に主イエス・キリストを遣わしたのです。主イエスはこの世に滅びと裁きをもたらすために世に来られたのではありません。むしろ、私たちが主イエスの言葉を聞き入れて、平和に生きることを願っておられるのです。そうすれば私たちの文明はノアの大洪水のような破局を迎えることなく、長く繁栄を続けることができます。「聖書は世の終わりを預言している」というようなことがいる人がいますが、聖書が本当に未来について何を語っているのかというのは判断が難しいのは、今日の「七十週」の預言からも明らかです。そしてもし聖書が本当に未来の破局について語っているとしても、それは変えることのできる未来だということを強調したいと思います。未来は決まっているのではなく、私たちの心がけ次第で変えることができます。聖書は決定論や宿命論、つまり未来は変えることができないというような見方を拒否しています。預言者ヨナは神の言葉としてニネベの破局を予告しましたが、ニネベの人々が悔い改めたので、その未来は回避されました。同じように、私たちが変わることで未来の破局を避けること、それこそが神がこの世に主イエスを遣わした目的なのです。人類の未来は、確かに予断を許さない状態にあります。人類は恐ろしい兵器を作り出し、そして戦争を捨てることができません。ますます恐ろしい武器さえ作り出そうとしています。こうしてみると、未来は暗いように感じられるかもしれません。しかし、私たちはそのような暗い未来を明るい未来に変えることができます。そのために主イエスの平和の教えに聞き従う必要があるのです。そのことを思いながら、アドベントを歩んで参りましょう。
平和の主よ、そのお名前を賛美します。私たちはあなたがこの世に来られた意味を深く考える時期を歩んでおります。どうか私たちに平和の道を示し、またそれを実践する勇気をお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

