1.序論
みなさま、おはようございます。第一ペテロの連続説教を今年の2月から始めましたが、今回が最終回になります。さまざまなテーマが扱われている書簡でしたが、今日はその結びの箇所を読んで参ります。
今日の説教タイトルは「へりくだりなさい」です。へりくだること、というのは聖書の中で繰り返し勧められている教えです。今日の箇所でペテロ自身も旧約聖書から引用していますが、それは箴言の3章34節です。「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける」とあります。実際、神はへりくだる者に恵みを賜る方です。北イスラエル王国にアハブという王様がいました。彼は妻イゼベルの影響を受けてイスラエルにバアル礼拝を蔓延させて、預言者エリヤから厳しく糾弾された人物ですが、彼がへりくだったときに神は彼に憐みを施しています。第一列王記21章29節には次のような主のことばがあります。
あなたはアハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。
とあります。アハブのようにイスラエルの神の前に大きな罪を犯した王でさえ、へりくだったときにその罪が赦されているのです。へりくだることがどれほど重要か、お分かりいただけると思います。
では、私たちにとって「へりくだる」というのは具体的にはどのような行動なのでしょうか。私たちは何をすれば「へりくだった」ことになるのでしょうか。たとえば東大生が「自分はそんなに頭よくないですよ」と言ったり、あるいははっとするほどの美人の女性が「わたしはそんなにかわいくないです」などと言ったとして、彼らが「へりくだった」ことになるのでしょうか?いえ、むしろ嫌味に響きますし、「あなた、ほんとはそんなこと思ってないでしょ?」と逆に突っ込まれたりすることもあるでしょう。もちろん、秀才ぞろいの東大生の中でもさらに頭のいい人というのは必ずいるので、そういう人と比較して「自分はそんなに頭がよくない」ということを痛感し、それをそのまま言葉にしたのかもしれません。あの将棋の藤井聡太さんが「自分はまだまだ未熟です」とおっしゃっていましたが、これは藤井さんの目指す高邁な理想と比較して自分はまだまだだ、と言っているわけであり、その高すぎる理想からかけ離れたところにいる凡人からすると、これは謙遜のことばというより、逆に藤井さんの偉大さを示すことばのように思えてきます。何が言いたいかと言えば、どんなにすごい人でも上には上がいるもので、その上を見上げれば誰でも謙遜な思いになる、へりくだることになるのですが、しかし今日のペテロの勧める「へりくだり」はこのような意味でのへりくだることとは少し違うように思えます。
ペテロの教える「へりくだる」ことの意味は、当時のローマ世界の社会状況を考慮しないことには理解できません。当時のローマ世界は厳然とした身分社会であり、奴隷と主人、妻と夫の間には明確な上下関係がありました。それらの様々な身分の人々が、同じ一つの教会に加わった場合に何が起こるでしょうか。それは、教会の中にそうした身分の違いをそのまま持ち込むということでした。現実社会の中での主人と奴隷は、教会の中でも主人と奴隷であるということです。実際、使徒パウロの建て上げた教会であるコリント教会ではこのようなことが起こっていました。コリント教会の中で、お金持ちの有力者たちは聖餐式の前後で豪勢な食事を楽しんでいたのに対し、貧しい人々はそれらの食事にありつくことができずに外で立ちんぼをしているというようなことがありました。パウロもペテロも、神の下に平等であるはずの神の教会でこのような事態になることを深く憂慮していました。原始教会には社会的には身分の低い者、貧しい者が圧倒的に多かったのです。そのような中に、富んだ人、身分の高い人がいると周りの人を見下すようになります。彼らは別に自分が高慢にふるまっているという意識はなく、普段通りに行動していると思っているわけですが、しかし教会の中で「普段通り」では困るのです。ペテロやパウロが繰り返し教会員に対して「へりくだりさい」と教えた背景には、このような事情がありました。あの神の子であるイエスでさえ、へりくだってしもべの姿になって貧しい人々に仕えたのだから、あなたがたこの世の身分の高い人も自分を低くして貧しい人に仕えなさい、というのがペテロの言いたいことでした。この点を念頭に置きながら、さっそく今日のテクストを読んで参りましょう。
2.本論
では、1節から読んで参りましょう。ペテロは手紙を書き送っている教会の長老たち、つまり教会のリーダーたちに対して、ペテロは彼らの仲間の一人として勧告しています。ここにペテロの謙遜さを見ることができます。ペテロはあの主イエスの十二使徒のリーダーであり、原始教会の中で特別な立場にあった人です。現代で言えば、教団の議長のような立場です。各個教会のリーダーたちの上に立つ存在、彼らにイエスから直接教わったことを伝える立場にあります。しかし、そのようにマウントを取ることはせずに、自分も彼らの仲間の一人なのだ、というへりくだった態度で、彼らにも「へりくだるように」と勧めているのです。ペテロは自ら模範を示しているのです。3節で、「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」と教えています。模範とはどんな模範かといえば、それは進んで人に仕える、特に弱い立場の人々に対して仕えるという行動において模範を示すということです。今日の世の中で大きな問題となっているいわゆるカルト宗教は、これとはまったく逆で、信徒を支配して信徒たちからできるだけ多くを搾り取ろうとします。彼らはまさに「卑しい利得を求めて」宗教をやっているわけです。もちろん、どんな宗教でもその運営のためにはお金がかかりますので、会員の人に支えてもらうのは必要なことです。しかし、必要以上に立派な建物を建てたり、教会のリーダーたちがいい暮らしをするために信徒たちに多くの献金を要求するのは許されることではないと私は考えています。主イエスは、自分のために立派な建物を建てようとはされなかったし、法外な献金を要求することもなさいませんでした。むしろ、貧しい生活に甘んじて人々を助けていました。こういう人を「へりくだった人」と呼ぶのであり、ペテロは教会のリーダーたちにそのように行動するように勧めているのです。
また、そうしたリーダーたちの指導を受ける立場の人々に対してもペテロは語りかけています。5節の「若い人たち」というのは、「新しい人たち」と訳すこともできます。ネオスというギリシア語には新しいという意味もあるからです。ですからペテロがここで語りかけているのは文字通りの意味での若者たちではなく、むしろ教会に加わって日の浅い人たち、いわゆる新参者と呼ばれる人たちに対してであると思われます。彼らに対して、教会のリーダーである長老たちがへりくだった態度で接してきた場合でも、彼らを馬鹿にしたりせず、むしろ尊重して従いなさいと教えているのです。彼らの謙遜さは弱さではなく強さを表しているからです。ペテロは長老たちも、また教会に来たばかりの人も、互いに謙遜でありなさい、お互いにへりくだりなさいと教えています。
さて、次の6節ですが、「へりくだりなさい」と訳されている言葉を意訳するならば、「自分の卑しい地位、卑しい立場を受け入れなさい」となります。ペテロが書き送った教会の人々は、社会的には低い身分の人々が多かったのです。彼らは元々身分が低かった上に、キリスト教徒になることでさらに社会的な立場は悪くなりました。ペテロは、そのような社会的にはみじめな立場にいる信徒たちに対し、神がふさわしい時に必ずあなたがたを高めてくださるので、今はそのような状態を耐え忍ぶようにと教えているのです。もちろん、そんな状態にいることはつらいことです。悲しいと思うこともあるでしょう。ペテロは、そのようなつらさをすべて神の前に打ち明けるように、明け渡すようにと語ります。神である主イエスも、人としては社会の底辺のようなところで暮らしておられました。そのイエスはあなたのつらさをよくわかってくださる、だから主イエスを信頼しなさい、またその主イエスをあらゆるものの上に立つ方にまで高めてくださった神を信頼しなさい、と教えているのです。
8節、9節では、そのような苦難を耐え忍ぶキリスト者にとっての最大の敵のことが語られています。それが悪魔です。悪魔とはいったい何者なのかというのは非常に深刻なテーマですが、私たちの社会の中にも善人と悪人とがいるように、私たちの目には見えない霊的な世界にも、良い霊と悪い霊がいて、そのどちらも私たちの精神に影響を及ぼしているというのが聖書の教えです。ただ、悪霊とか悪魔とかいうと、あまりにも神話的で今日のような科学が高度に発達した時代にはそぐわないと思われるかもしれません。しかし、「悪魔」という言葉は用いなくても、そのような霊的な実体があるということは、今日の世界でも信じられないことではないのです。たとえば心理学者のユングは、私たちの心は深いところで無意識の集合意識につながっているというような説を唱えました。その集合意識は必ずしもよい影響を私たちの精神に及ぼしているのではなく、悪い影響、負の影響を及ぼすものがあります。例えばナチスドイツの時代、ドイツ人たちは不の集合意識に振り回されていた、というようなことをユングは述べていました。ちょっと難しい話になってしまいましたが、聖書の語る悪魔とか悪霊は、このような負の集合意識だと考えてもよいかもしれません。悪魔という言葉を使いたくない人は、負の集合意識という言葉で語ってもよいと思います。なぜなら悪魔というのは一つの人格というよりも、ある種の空気のようなものと考えられるからです。「悪い空気に支配される」という言い方を私たちはしますが、これは悪い霊が多くの人に影響を及ぼしていると考えてもよいでしょう。
「朱に交われば赤くなる」ということわざが示すように、私たちは悪い人とばかり付き合っていると、だんだんと私たちの性格も悪いほうに傾いていきます。同様に、私たちの内なる霊も、悪い霊の影響を受けるとだんだんと悪いほうに傾いていくのです。ですから、私たちは自分たちの精神が悪い霊の影響下に入らないように、私たちの霊を見張っている、気を付けておく必要があります。とくに、社会的に不遇な状態に長いこと置かれていると、心の中に不満や怒りが鬱積していきます。そのような不満を抱えた人が、悪魔の餌食になりやすいのです。悪魔は不満を持つ私たちの心に語り掛け、その怒りをますます激しくしようと火をつけます。そうして私たちが怒りや不満の心にすっかり飲み込まれてしまうと、悪魔は私たちを操りやすくなります。そうならないように、私たちは「神の力強い御手の下」にいる必要があります。そのような神の守りのしたにあるならば、私たちは悪魔に立ち向かうことができます。自分一人では悪魔のような巨大な霊的影響力に抗うことはできなくても、神という万能のお方がともにいてくださるなら、そういう力に抗うことができるのです。そのように神とともに歩むキリスト者に対し、ペテロは力強い約束のことばを与えてくれます。それが10節です。
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
このように、今のしばらくの苦しみを通り抜ければ、私たちは強い、不動の者とされるのです。この約束の言葉を信じてペテロの教会の人々が歩んでいったように、私たちもまた今の厳しい時代を歩んで参りましょう。
3.結論
まとめになります。これまで約一年間、ペテロの第一の手紙を読んで参りました。この書簡を通じて強調されているのは、現在の苦難を耐え忍ぶ必要性と、将来の希望の大きさです。ペテロが手紙を書き送った教会の人々は、様々な苦難を経験していました。そうした人々に対し、ペテロが強調したことは、キリストもまた苦難の中を歩まれたという事実です。イエスが苦しまれたのは私たちの罪のためですが、同時にそれは私たちに模範を残すためでした。私たちもまた、彼の足跡に倣って歩むようにと招かれているのです。そのようにへりくだって地上の生涯を歩まれたキリストを神は大いに高め、あらゆる名に勝る名を与えられました。このようなキリストの歩みがすべてのキリスト者がたどるべきパターン、パラダイムなのです。神はへりくだる者を高めてくださいます。それを信じて歩むこと、ペテロのメッセージを一言で要約すればそういうことになります。
来週からいよいよアドベントが始まりますが、貧しい中に生まれ、人々の苦しみを担って歩まれたキリストの歩みを思いつつ、アドベントの中を歩んで参りましょう。お祈りします。
へりくだる者に恵みを賜る神様、そのお名前を賛美します。ペテロの教えを胸に刻み、これからの大事な季節を歩むことができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

