神に信頼する
マタイ福音書6章19~34節

1.序論

みなさま、おはようございます。私たちはイエスの教えをまとめた箇所である「山上の垂訓」を学び続けています。そこには大変有名な教えが数多く含まれていますが、今日のみことばも非常によく知られている、キリスト教のエッセンスとも言われる箇所です。そこには私たちの日々の生活に直接かかわること、私たちに安心安全を与えてくれるものは何なのか、という根本的な問いかけが含まれています。私たちに安心を与えてくれるのはお金なのか、神様なのか、という問いです。

人生百年時代と言われるようになり、老後に備えて貯蓄するべきだ、あるいは投資すべきだと政府が盛んに喧伝しています。仕事を辞めて、働かない、働けない期間が数十年にも及ぶかもしれないということで、年金だけに頼れないのだということが言われています。そういう不安な時代に、少しでも多く貯蓄をしておこうと考える方にとって、今日の主イエスのみことばは、励ましというよりも耳に痛いと感じられるかもしれません。自分は神様ではなくお金に信頼しているのではないか、頼っているのではないかと考え、老後の心配ばかりしている自分は不信仰なのではと、そのように思ってしまうかもしれません。主イエスも、「だから、あすのための心配は不要です」とか、「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」とおっしゃっているではないですか。私たちも、明日のことは全部神様に任せて、取り越し苦労をしないで主を信頼して歩むのが信仰者としての正しい在り方なのだ、とそのように思えるかもしれません。

しかし、私はあえてそのような見方とは違う話を今日の説教でさせていただきます。私たちが将来のことを心配して、将来のために行動するのはよいことです。野のけものを見なさい。あのクマだって、長い冬に備えて動けるうちに必死に食糧を集めようとしているではないですか。そのために人間界は大変な迷惑を被っていますが、クマも必死なのです。ですから人間が将来に備えて蓄えるのは当然のことです。主イエスの教えについては、それがどのような状況の人に対して語られたのかをよく考える必要があります。今日の箇所のイエスの教え、特に後半部分の教えは、これから長い老後に備えて貯蓄に励んでいる21世紀の現役世代に対して語られたことばではありません。むしろ、イエスの直接のお弟子さんたちに対して語られた言葉です。イエスは彼らを伝道旅行に送り出しますが、その際にこのように言われました。マタイ福音書10章9節と10節をお読みします。

銅巻に金貨や銀貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。

いわば一文無しで伝道旅行に送り出された彼らは、大変心細かったと思いますが、そのような弟子たちに徹底的に神に信頼することを教えているのがこの箇所なのです。しかし、イエスは別の機会、すなわちご自身が天に帰られる前にはこう言っています。ルカ福音書22章35節と36節です。

それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ、何もありませんでした。」そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」

とこのように言われ、将来の困難に備えていろいろ準備するようにおっしゃっています。神様が守ってくれるから何も心配はいらない、準備する必要はない、とはおっしゃっていないのです。ですから、今日の箇所のイエスの教えをあらゆる状況に当てはまる普遍的な教えと考える必要はありません。ある場合には、これらの教えはとても大切ですが、別の場合には、この言葉通りに実行することはむしろ危険なことにもなりえます。聖書の言葉はまさに諸刃の剣です。使い方を誤ると、かえって自分で自分を傷つけてしまうことにもなりかねません。聖書を読む際は、そのことを常に注意する必要があります。

2.本論

では、さっそく今日のみことばを詳しく見て参りましょう。ここでは「天に宝を積みなさい」と言われていますが、それをさらにわかりやすく言うならば「天に貯金をしなさい」ということになるでしょう。私たちは将来に備えて銀行に預金をするわけですが、天国にも銀行のようなものがある、ということをイエスがおっしゃっているように思えます。そうだとすると、この世だけでなくあの世にも預金のたくさんある金持ちと預金のない貧乏人がいるというということになり、げんなりするかもしれません。貧富の格差はこの世だけにしておいてほしい、と考える方も多いでしょう。しかし、来世、あるいは来るべき世において、私たちが受ける報いには差がある、というのは聖書が繰り返し教えている内容です。使徒パウロはコリント教会への手紙でこう述べています。第二コリント5章10節をお読みします。

なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れ、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

ここで言われている、肉体において善を行うことによって受ける報いのことをイエスは「天に積んだ宝」と呼んでいるのです。つまり神様は、私たちが地上の生涯においてなしたよき業に必ず報いを下さるということです。では、そのよき業とは具体的にはどんなことかと言えば、主イエスがこう言われました。

まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。

このように、貧しい人たち、小さな人たちに行ったことに対して、主は必ず報いをお与えになると約束しています。これが「天に宝を積む」ということです。私たちは退職した後の20年、30年の人生のために一生懸命貯金をします。20年ほどの期間のためにそうするのであれば、私たちの死後の時間は永遠ですので、その永遠にそなえてなお一層貯蓄すべきではないでしょうか。私たちもたゆまず、できる範囲で困った人たちを支えていきたいと願うものです。そうすれば、私たちは天国に貯蓄できるようになるのですから。

ただ、ここで注意したいのは、この世の自分自身の将来や老後に備えて貯蓄することそのものは悪いことでもなんでもなく、むしろ必要なのだということです。イエス様の教えは、聞き手にインパクトを与えるために割と大げさなところがあります。「あなたの手が罪を犯すなら、その手を切り落としなさい」などの教えが典型的ですが、それを文字通りに実行したら大変なことになります。ですから、この世で貯蓄する、蓄えることを一切悪だと考えるような、そういう極端に走らないことは大切です。聖書を読むうえで、常識的な感覚を持って読むのは大事なことなのです。私たちはこの世における老後のためにも、またこの世での人生を終えた後の来世での人生のためにも、その両方のために備えておきなさい、というのがポイントなのです。

さて、次に出てくる「目」の話は、なんだか前後の文脈にそぐわないように思われるかもしれません。私たちに本当の安心安全を与えてくれるのは天の宝、天国での貯金なのだから、善い行いに励みなさいと教えておられるイエスが突然、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身は明るいが、もし目が悪ければ、あなたの全身は暗いでしょう」と語るのは、いったいどうしたわけでしょうか。天に宝を積むことと、目がよいこととの間にどんな関係があるというのでしょうか。実はここで「目が健全だ」と言っているのは、私たちが貧しい人たちに気前が良いことのたとえなのです。どうしてそういう話になるのか、訳が分からないと思われるかもしれませんが、ここでは少し専門的な話が必要になります。この箇所を理解するためには、マタイ福音書の書かれたギリシア語にさかのぼって考えてみる必要があります。ここで「健全」と訳されているギリシア語はホプロウスという言葉で、その言葉には「純粋な」、あるいは「一途な」という意味合いもあります。そしてこの形容詞の名詞形であるホプロテイスという単語の意味は「気前が良い」、「物惜しみしない」という意味なのです。どうも福音書記者のマタイはこのようなギリシア語の意味を知っていて、この単語を用いたようなのです。つまり、目が良い、目が健全な人というのは気前の良い個人を意味していて、その人が物惜しみしないと、体、つまり周囲の人たちや社会全体が明るくなる、というような意味合いを込めているものと思われます。一種のごろ合わせをしているのであり、ギリシア語を知らないとこの下りの意味合いがつかめないとも言えます。ともかくも、この「目」の話も、貧しい人に気前良くして天に宝を積みなさいという先の教えの続きなのです。

次の24節はとても重要な教えですが、誤解をしないようにしたいみことばでもあります。「だれでも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」ここで誤解しないでいただきたいのは、イエスは私たちに富や財産を一切持つな、とおっしゃっているのではありません。さらにいえば、お金を稼ぐために働くことが悪いと言っているわけではありません。お金が何か汚らわしいものだと言っているのでもありません。むしろ、働く目的をはっきりとさせなさい、ということです。つまり、神のために、神の国の建設のために働くということをすればしっかりと給料もついてくるので、お金のことは心配せずに自分の天職、与えられた仕事や責任をしっかりと果たしなさいということです。お金は良い働きをすればついてくるものですが、お金を得るための行為がすべて良いものとは限りません。仕事の内容が明らかに神の御心に沿わない、人をだましたり傷つけたりするものだとわかっているのに、それがお金が儲かるからという理由でその仕事に手を染めるならば、その人は神様ではなくお金に仕えることになります。私たちが仕えるのは神おひとりです。そして神に仕えるというのは何も特別なことをしなければならないわけではありません。別に牧師にならなくても神様に仕えることはできます。世の中の役に立つ仕事であれば何であれ、それに一生懸命打ち込む人は、神にお仕えしているのです。

さて、それでは25節から34節までを読んでまいりましょう。今日の箇所の中でも中心的な箇所です。ここで主イエスは、野生動物にも神様は十分な食料を与えてくださっている。人間は動物よりも神様によってよほど大事な存在なのだから、なおさら十分な衣食住を提供してくださるだろう、というのが基本的なメッセージの内容です。しかし、冒頭でお話ししたクマの場合のように、野生動物に十分な食糧が備えられているのかといえば、そうともいえないケースも少なくありません。また、クリスチャンでも日々の糧を得られずに苦しんでいる人々も多くいます。パレスチナ、特にガザの住民の人々は衣食住のすべてを奪われて苦しんでいますが、あの地域の住民の中にはかなりの数のクリスチャンがいると言われています。そういう厳しい現実を見ると、イエスの言葉はあまりにも楽観的なのではないか、理想主義的なのではないか、と思えてくるかもしれません。明日のことを心配するな、という教えも厳しすぎるようにも思えます。私たちは将来について心配するものです。たとえば35年ものの住宅ローンを組んでいる人は、将来にわたってちゃんとローンを返済できるのかと、未来について心配するわけですが、そのような心配は理解できるものですし、悪いことではないはずです。

ですから、このイエスの教えを無理に21世紀の近代社会に生きる私たちの生活に当てはめる必要はありません。むしろ、これらの言葉をイエスが誰に語ったのかについて、注意が必要です。先ほど申しましたように、これらの言葉は仕事を捨ててイエスに従い、イエスと一緒に旅をしていた十二使徒をはじめとするイエスの直接の弟子たちに向かって語られた言葉です。彼らは財布も持たずに身一つでイエスから伝道旅行に送り出された人々です。ですから、どんな人も明日のことを心配すべきではない、というように一般化して受け止めるべきではありません。

むしろ、いちばん大事で、誰にでも当てはまるイエスの言葉は33節です。イエスは「神の国とその義をまず第一に求めなさい」と教えておられますが、これは異邦人たちが良い服や良い食事、つまり良い生活を第一に求めることと明らかに対比されています。イエスに従って歩む私たちの人生の目的は、人より良い生活を送ることではありません。それは世の中の人たちが一番に求めるものであっても、イエスの弟子たちはそうではなかったし、それは現代に生きる私たちにとっても同様です。私たちの人生の目的は、イエスが成し遂げようとしていること、つまりこの地上世界に神の支配をもたらすことを実現することです。そのように神の国建設のために一生懸命働く者のために、父なる神は必要なものを必ず備えてくださる、そういう人々に日々の糧も老後の貯えも与えてくださる、だからそれを信じ、神に信頼しなさい、というのがイエスの教えだったのです。

3.結論

まとめになります。今日は私たち皆が切に求めるもの、すなわち安全や安心を得るために、私たちがそのように考え、行動すべきかをイエスが教えている箇所を学びました。イエスの教えをさっと読むと、私たちが安心安全のために頼りにするもの、すなわちお金を信頼してはいけない、神だけを信頼しなさいと教えておられるように思えるかもしれません。しかし、イエスが「あれかこれか」、お金か神様かの二者択一を迫っている、というふうにとらえるべきではありません。なぜなら私たちが生きていく上ではお金は必要不可欠なものであり、そして神様はあらゆるものを私たちに提供してくださる方なので、もちろん私たちは神様なしに生きてはいけないのです。端的に言えば、どちらも必要なのです。将来への不安に備えて、貯蓄をするということは悪いことではないのです。ただ、忘れてはいけないのは、「将来」というのは私たちの地上の生涯、近年では長い方では100年ぐらいですが、その期間だけ無事に暮らせればよい、ということではないのです。私たちにはその100年の先の人生もあるのです。ですから、この世での将来の生活に備えるのと同時に、その先の人生についても備えなさい、それが「天に宝を積みなさい」というイエス様の教えの真意なのです。

また、特に25節以上のみことばにも注意が必要です。私たちは毎日、「何を着ていこうか、何を食べようか」ということに気を使います。イエス様はそういう私たちの日常的な行動を批判しているのではありません。また、将来私たちの人生に起きるかもしれない様々なリスクを心配し、備えるという行動を批判しているのでもありません。むしろ、これらの教えは財布も持たずに伝道旅行に送り出された弟子たちに向けられたものだということです。もちろん、神が私たちの日々の糧を心配してくださって、それらを提供してくださっているというのは本当です。しかし、私たちは2千年前と比べて非常に複雑な世界に生きています。平均寿命も驚くほど伸びました。ですから、このような時代を生き抜くために様々な備えをすることは、神に信頼することと矛盾しないどころか、必要なことなのです。主イエスの教えを自分に適用する際には、イエスが誰に、どんな状況で語られたのかをきちんと理解しなければなりません。そのうえで、主イエスの教えのエッセンスを私たちは日々の生活に生かすべきなのです。お祈りします。

私たちに日々の糧を備えてくださる父なる神様、そのお名前を賛美します。私たちは主に信頼し、同時に私たちに与えられた能力を生かして、今日を生き、明日に備えることができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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