1.序論
みなさま、おはようございます。私たちは主イエスの「山上の垂訓」を学んでいます。前回までは、六つの「モーセはこう言うが、わたしはこう言う」という一連の教えを学びました。モーセは旧約聖書の律法を象徴していますので、イエスは旧約聖書の神の教えをさらに深める、律法の中身を前進させるということをなさったのです。
そして今回の箇所も、旧約聖書に基づく宗教であるユダヤ教の重要な三つの宗教実践、すなわち貧しい人への施し、祈り、断食の三つを扱っています。あらゆる宗教には、柱となるような宗教実践があります。キリスト教の場合は、毎週日曜の礼拝への参加、日々の聖書通読、祈りが三つの柱となる宗教実践だといわれています。ではユダヤ教とキリスト教とでは宗教実践の在り方が違うのかといえば、そうではありません。ユダヤ人ももちろん神殿での礼拝や、聖書の学びを重視していました。またキリスト教においてもカトリック教徒は貧しい人への施しを非常に強調します。主イエスは、貧しい人たち、小さな人たちにしたことは私にしたことなのだ、ということを教えられました。その教えを重視して、カトリックでは「貧しい人たちの日」という日が設けられていて、前教皇のフランシスは「貧しい人たちの存在は問題ではありません。福音の本質を受け入れ、それを生きるための財産なのです」と教えておられました。私も以前イタリアに旅行に行ったときに、カトリックの信者さんたちが教会の前にいる貧しい物乞いの人たちに穏やかに施しを行っていたのを思い出します。また、カトリックではイエスが荒野で四十日間断食したという故事に倣い、定期的に断食を行う習慣があります。このように、ユダヤ教とキリスト教の宗教実践は多くの部分で重なります。キリスト教はユダヤ教から枝分かれした宗教なので、これは当然のことだといえるのですが、そのユダヤ教の宗教実践の柱に関するイエスの教えが今日の箇所なのです。
今回、イエスが問題にしているのは、特に「律法学者」とよばれる教師たちの宗教実践でした。彼らは指導者でしたから、一般のユダヤ人の模範となるべき人々でしたが、彼らの宗教実践をイエスは問題視したのです。今日の教会で言えば、信徒ではなく牧師たちの態度や宗教実践を問題視した、ということです。なんとイエスは、これらのユダヤ人の教師たちが神様のことではなく、人の目ばかり気にしていると指摘したのです。今日の例でいえば、信徒たちに向かって「あなたがたが先生と呼ぶ牧師たちの本当の姿はこうなのだ。彼らは神ではなく、あなたがた信徒から褒められようとしていろんなことをしているのだ」と言うようなものです。当然、ものすごく衝撃的なことで、このようなことを言えばイエスが律法学者たちから深く恨まれたことは想像に難くありません。イエスは律法学者、あるいはパリサイ派たちの宗教実践の背後にあるもの、彼らがどのような意図でこうした宗教実践を行っていたのかを容赦なく暴き出しています。イエスによれば、彼らの関心事は神ではなく他人の目でした。人から褒められたいという動機で宗教実践を行っていたというのです。しかしイエスはそれが的外れなことだと厳しく指摘します。これは教師たちだけでなく、信徒たちにとっても耳が痛いことではないでしょうか。私たちも、教会生活を送る中でつい人の目を気にしてしまいます。人々から「あの人は熱心に奉仕してくれている。たくさん献金してくれている。祈りが素晴らしい」などと人から褒められたいという気持ちがないとはいえないのではないでしょうか。しかし、宗教実践は第一に人ではなく神に向けられたものでなければならない、というのがイエスの教えのポイントです。このことを念頭に置いて、イエスの教えを詳しく見てまいりましょう。
2.本論
まずイエスは1節で、一連の教えの大前提を話します。人から褒められるために善行を行うな、ということです。今日「承認欲求」という言葉がよく語られます。みなさんも聞いたことがあるのではないでしょうか。人から褒められたい、評価してほしいという願望です。失礼ながら、ノーベル平和賞を求めるアメリカのトランプ大統領は承認欲求の強い方なのではないかと思えます。人から認められたいというのは、人間のだれもが持つ自然な欲求なのですが、しかしそれにこだわりすぎるのも危険なことなのです。
皆さんはアドラーという心理学者の名前を聞いたことがあるでしょうか。フロイトやユングと並ぶ、今日非常に注目されている心理学者ですが、アドラーはこの承認欲求の問題点を指摘し、特に子供をあまり褒めないほうがよいということを教えました。子供は褒められて育つともいわれるので、これは一見不思議な教えに思えるかもしれません。しかしアドラーは重要なことを指摘しました。確かに褒められると人はうれしい気持ちになります。そして子供は褒められると、もっと褒められたいと願い、人から褒めてもらうような行動をするようになります。しかし、これは裏を返せば他人の評価に依存しているということです。自分が本当にしたいことではなく、人が褒めてくれることをするようになるというのは、その人にとって本当によいことなのでしょうか。
こういう人の目を気にする子供が成長して大人になると、さらに世間体を気にするようになります。行動の動機が「他人からどう見られるか」、「人からどう評価されるか」ということになってしまい、自分というものがなくなっていくのです。今回イエスが問題視する律法学者もまさにそのような承認欲求の塊で、常に人の目を気にして人から褒められそうなことばかりに熱心なのです。確かに律法学者は人々から尊敬される必要があります。そうでないと、人々が彼の教えや言うことを聞いてくれないからです。しかし、だからといって人から褒められるために善行をするというのは本末転倒なわけです。律法学者は人から褒められようがけなされようが、神の教えに従うべきだからです。でも、神に仕えるはずの律法学者が神ではなく人の目ばかり気にするようになってしまうのはどうしたわけでしょうか。それは、彼らが善行を行っても、それを神様が確かにご覧になっていて褒めてくださっているという実感が持てなかったからでしょう。それよりも、彼らはすぐに得られるもの、もっと具体的で確かなものを求めたのです。それが周囲の人々からの賞賛です。人々が自分に期待すること、良いと思われることをすればみんなが褒めてくれる、だからそういうことをする、ということです。律法学者たちの問題は、承認欲求が強いことなのではなく、むしろ不信仰でした。さらに言えば、律法学者たちの行動の背後にあったのは、貧しい人たちへの憐みや共感でもなかったことになります。「あの人、おなかがすいて大変だな、かわいそうだな。少し私の分を分けてあげよう」という自然な同情の念から出た行動でもなかったのです。むしろ、自分の行動が自分の評価を上げるという、非常に利己的な動機から行動しているのです。これも大変残念なことですよね。律法学者たちは、神のためでもなく、人のためでもなく、自分のために行動していたからです。
イエスは次に祈りについて教えます。祈りとはまさに神と人との間のパーソナルな関係を築くためのものなので、人の目など気にする必要などまったくないように思われることなのですが、律法学者はここでも人の目を気にします。人から「ああ、あの人はなんて敬虔な人なのだ」と思われたいから熱心に祈るというのです。ここにも律法学者の不信仰が見え隠れします。彼らが人からの承認を得ることに熱心なのは、裏を返せば神から承認されているということについて自信、確信がないからです。「自分が時間を割いてこれほど熱心に祈っても、神は本当に聞いておられるのだろうか。ただの独り言になっているのではないか」という不安にとらわれると、それを補うために人からの承認を求めるようになるのです。しかし、このような不信仰を神は当然ながら喜ばれません。しかも、祈りとは自分の内面の何もかもを神の前にさらけ出すことです。私たちは自分の悪い思いや醜い部分を大声で人前で話したいなどと思わないでしょう。ですから、神に対するそのような非常にパーソナルな祈りを人目に付くところでするというのはそもそもおかしなことなのです。だから隠れたところで祈るというのはごく自然なふるまいなのです。
イエスはさらに異邦人の祈りについても語ります。異邦人は同じ言葉を呪文のように繰り返します。それは、祈りが多ければ神を動かすことができると彼らが信じていたためです。しかし、これは非常に問題のある行動です。異邦人が神を礼拝する目的は、神を自分の願い通りに動かすことにありました。人々は自分の願い、商売繁盛とか家族安寧とかのために神に動いてもらう、そのために神に献げものをする、祈りをささげるということをするのです。しかし、そのような考え方はイスラエルの神が厭うものでもあります。神は人間の都合で動かされるようなお方ではなく、むしろ人間が神の御心に従って行動すべきだからです。イエスがここで「主の祈り」を教えられたのは、主の祈りが私たちに主の御心を第一に願い、主の御心を行うようにと教える内容だからです。「主の祈り」について詳しく話し出すと、それだけで1時間ぐらいかかってしまうので、今日の説教では主の祈りを詳しく解説することはしません。それは別の機会にと思います。ただ、14節と15節についてだけはお話ししたいと思います。主イエスは主の祈りの中でも、「われらに罪を赦す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」の部分を特に取り上げて説明されています。この祈りの意味とは、私たちが神に赦されたいと願うのなら、私たちもまた自分の周りの人たちを赦さなければならないということです。確かに私たちの小さな心は、人を赦すことを拒むことがあります。いろいろ理由をつけて、人を赦そうとはしないのです。しかし、もし私たちがもしそのようであるなら、神も私たちを赦してくださらないのです。それはなぜか?主イエスは非常にわかりやすいたとえでそのことを説明しています。マタイ福音書18章の有名なたとえがそれです。一万タラントン、現代の金額で言えば40億円という途方もない金額を王様に借金していた人がその金額を免除してもらったのに、自分の仲間に貸していた百デナリ、これは約一か月分の日当ですので数十万円でしょうが、それを返済できないからといってその仲間を牢に投げ込んでしまうという話があります。この王様は神様を表していて、神様は私たちの途方もない罪を赦してくださいますが、もし私たちが仲間によってなされた小さな罪を赦さないなら、神様も私たちを赦そうとは思わないでしょう。私たちが寛大な心を持つためには、自分自身が神様からどれほど寛大に扱われたのかをよく考えないといけないということです。ここでも信仰、赦しの神への信仰が必要になります。
さて、貧しい人への施しと祈りと並んでユダヤ人たちが熱心に行っていたのが断食です。ユダヤ人たちが断食の習慣を始めるようになったのは、バビロン捕囚の頃からだと言われています。実は、モーセの律法には断食をしなさいという教えはないのです。では、なぜ彼らが断食を始めるようになったのかといえば、バビロンによってエルサレムと神殿を破壊されたときに、このような悲劇が彼らを襲ったのは自分たちが神に対して犯した罪の故なのだと気づいたからでした。彼らの罪の故に、神は聖都エルサレムを異邦人であるバビロンの手に引き渡し、それを破壊されたのだと。ですからユダヤ人はその罪を悔い改めるために断食を始めました。過去の失敗に学んで自らを戒めるために、また神の前にへりくだるためにユダヤ人たちは断食を始めたのです。しかし、だんだんと時が経つにつれ、断食は祈りと同じように自分がいかに敬虔で宗教熱心であるのかをアピールするための手段となっていきました。つまり神の前にへりくだるためでなく、ほかの人から褒められるために断食をするようになったのです。ここでも、問題は人々が神ではなく人々の目を気にしてしまっていること、つまり不信仰です。ユダヤ人、とりわけユダヤ人の教師たちは人々から認められたいという承認欲求のために、神との対話の手段であるはずの祈りや断食を、人々にひけらかすための宗教実践に変えてしまったのです。ですからイエスは、自分が断食をしていることを人に知られないようにしなさい、と教えます。そうすることで、断食をしている人の関心が人の目ではなく神の目に向かうからです。イエスのこれらの教えのすべてに共通しているのは、人ではなく神に目を向けなさいという、当たり前ではあるもののなかなかに難しいことなのです。イエスの時代に、一番宗教心が篤いはずの律法学者たちの問題が、実は不信仰だったというのは衝撃的なことです。しかし、私たちは今日においてもこの主イエスの指摘を重く受け止める必要があります。教師と言われる人ほど、このイエスの教えに深く耳を傾ける必要があるのです。
3.結論
まとめになります。今日はイエスが当時のユダヤ人たちの宗教実践、具体的には貧しい人への施しと祈りと断食ですが、これらの行動を批判したことを学びました。これらの実践は、それ自体ではもちろん素晴らしいことなのですが、しかし当時の少なくとも一部のユダヤ人は、こうした行為が神の御心だから、あるいは自分が心からこうした行為をしたいから、という理由ではなく、人から褒められたいから、人から良く思われたいから、という理由で行っていました。そのような動機をイエスは批判しました。もちろん、人間であればだれでも人の目を気にしますし、人から良く見られたいと願うのは当然のことです。しかし、人の目、世間の目が自分の行動の最大の動機になってしまうと、だんだん自分が本当にしたいことが分からなくなり、人の意見や評価にふるまわされる、非常に窮屈な生き方になっていきます。また、自分が本当にしたいことや正しいと思うことではなく、世間が正しいとみなすことをするというのは危険な面もあります。世間というのはしばしば間違えるものだからです。人の意見に振り回されずに、しっかりと自分を保つために必要なこと、それは神様の御心を求め、それを実行しようという思いを持つことです。主イエスは私たちがそのように行動することを願っておられます。そのことを胸に、今週も歩んでまいりましょう。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日は宗教実践とその動機について学びました。私たちはしばしば神の御心よりも人の目を気にして行動してしまうものでありますが、どうか今日の主イエスの教えを胸に止めて行動できますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

