満ちあふれる神の恵み
マタイ福音書20章1節~16節

平井里永子

この度は、奨励の機会をいただき、心より感謝申し上げます。「奨励」という言葉の意味を調べたのですが、「ある行動や考え方を積極的にすすめること。つまり、「これをやるといいですよ」「ぜひやってみてください」と、他人に対して何かを勧めたり、励ましたりすること。 とありました。これを調べて正直ですね、あ~、お話をすると言わなければ良かったかな?なんて思ったんです。そんな事出来る立場ではないですからね。

ただ、いつも山口先生を通して聖書について多くの学びを得ておりますが、学んだことを受け止めて、発信していくことも、理解を深めるうえで非常に重要だと感じてはいました。全く素人の私が皆様の前でお話しするのは大変恐縮ではありますが、失礼を承知の上で、今日は少しお時間をいただければと思います。もし何か間違っていた話があれば、後日山口先生の行うこの箇所の説教で正して頂けたらと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

さて、私たちが聖書を読んでいると、イエス様が語られた多くのたとえ話に出会います。その中には、何となく意図が理解できるものもあれば、予想とはまったく逆の内容だったり、想像もしなかったような話があり、皆さんも驚かされることも多いのではないでしょうか。

今回の箇所は、私にとって特に驚いたものでした。驚いたというより、実際のところ、納得がいくまで少々お時間を要した箇所です。今日はこの聖書箇所について、奨励というよりは、私自身が感じたことを皆様と分かち合えればと思っております。それで皆様も、今日の話を聞いてどう思ったか考えてみてはどうかと思っています。

マタイによる福音書20章では、特に「ぶどう園の労働者のたとえ話(20:1–16)」が中心となっています。このたとえ話では、朝早くから働いた人も、夕方に来た人も、同じ報酬(1デナリ)を受け取るという内容が語られており、神の国における公平さと恵みの概念が示されているとされています。

皆さんはもう十分にご存知だと思いますが、一応、当時の時代背景について少し触れたいと思います。時代は紀元1世紀、ユダヤ地方はローマ帝国の属州として支配されていました。経済の中心は農業で、ぶどう園は一般的な農地の一つでした。労働者は日雇いで働くことが多く、1デナリは当時の標準的な日当でした。宗教的にはご存知のように、ユダヤ教の律法主義が強く、「律法の行いによって報酬=神の祝福を得る」という考え方が一般的でした。「日雇い労働者」と聞いて、どのような姿を思い浮かべるでしょうか。イエス様の時代、日雇い労働者は社会的に非常に弱い立場にありました。彼らは毎朝、市場や広場に出て、その日の仕事を探すのが日常でした。6節「主人が午後5時ごろ出て行き、別の人が立っているのを見つけた。」とあります。主人はそれで彼らに言います。もう5時ですから1日終わる頃ですね。「なんで1日何もしないでここに立っているのですか」と心配そうに聞いたんじゃないかと思います。7節「だれも雇ってくれないからです。」この、「最後に来た者」は、実際には仕事が見つからずに困っていた人々を象徴しているとも言われています。多くの人々は土地を持たず、地主のもとで日雇い労働者として働いていました。1デナリは家族が1日生活するのにギリギリの額であり、交渉の余地もなく、雇い主の言い値で働くしかなかったようです。仕事内容は主に農作業や建設、漁業、荷運びなどの肉体労働で、日の出から日没まで働き、休憩も少なく、過酷な環境でした。大体、朝6時から夕方5時ぐらいまで働いたようです。11時間です。住居は簡素な家屋や共同住宅で、衛生環境も悪く、水や食料の確保も困難でした。

社会的には、日雇い労働者は最下層に位置づけられ、尊敬されることはほとんどなく、宗教的にも「清くない者」と見なされ、神殿や宗教儀式への参加が制限されることもありました。女性や子どもも同様に弱い立場にあり、法的権利も制限されていました。このような日雇い労働者生活は、人間として扱われているとは言えないほど過酷なものでした。イエス様は、こうした社会的に弱い立場の人々に対して、特に深い共感を示されました。

このたとえ話の中で、イエス様は神をぶどう園の主人として描いています。そして、この話が語られた相手は、自分が社会の上層に位置し、財産や地位、名誉を持っていることから「神に祝福されている」と考え、他者より優れていると思っていた人々でした。また、イエス様と長く時間を共にしてきたことで、自分は特別な存在だと感じていた人々でもありました。

さて、現代の日本では、日雇い労働といえば、日給が決まっていて、労働時間も何時から何時までと明確に定められているのが一般的です。日雇いと言えば、決まった時間労働して初めて日給が支給されます。例えば午前8時から午後5時までの労働と決まっていたとします。その場合、もし午後4時に来た人が、朝8時から働いた人と同じ日給を受け取るとしたら、多くの人が朝から来ず、午後4時に来て1時間だけ働こうとするのではないでしょうか。つまり、経済活動は成り立たないですね。これを世の常識として考えている私にとっては、この例え話を読んだ時、最初は理解が出来なかったのです。

たとえ話に出てくる、朝から働いている人に焦点を当てて見ましょう。この労働者からすると、このたとえ話は不満が残るのはお分かりですよね。ちゃんと朝から来たのに、夕方から来てチョロっとだけ働いた人も1デナリを受け取るのですから。日当でなく、時給計算だと、ちゃんと朝から来た人が損をしていますからね。でもどうでしょう。雇い主はちゃんと約束した1デナリを払っています。約束した事を実行したまでです。でももやもやしますね。私もこの朝から働いている人に同情していました。ずっとこの箇所についてはもやもやしていました。でもですね、ここで13節を見てみましょう。

20:13‐しかし、主人はその一人に答えた。「友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、1デナリで同意したではありませんか。」

ここで主人は労働者に対し、「友よ」と呼び方を変えています。私はこの「友よ」という呼びかけに、神様の愛の深さと公平さを感じたんです。では、1日なにもしないで立っていた人、午後5時ごろ主人が出ていき、見つけられて雇われた人について見てみましょう。最初にお伝えしたように、1デナリは当時の標準的な日当でした。また1デナリは家族が生活出来るギリギリの額でした。もし家族が多い家庭は、きっと足りない額だったでしょう。雇い主の計らいで、夕方から来た労働者もギリギリの額、1デナリを貰えたのです。雇い主はそうでないと、この日雇い労働者の今日の1日が成り立たない事を知っていたからです。神は約束した事を守り、人々の必要を知っており、それぞれにおいて必要なものを与えられるのだと気付いたのです。皆さんどうでしょうか。私はこの箇所を読んでいると、「私の恵みはあなたには十分である」は、「コリント人への第二の手紙」12章9節を思い出しました。またこんな箇所もあります。「主は正義と公正を愛される。主の恵みで地は満ちている」詩篇33:5。

この世の中で、多くの人を苦しめているものは何でしょうか。
それは、自分を他者と比べることによって生まれる優越感や劣等感、つまり、比較から生じる様々な苦しみです。こういう感情って、どうでしょうか?どうしても抱いたしまうものですよね。抱かない人がいるとすれば、それは人ではない神様だけですよね。でも、神様はこう言っているんです。「あれ?僕は君に、1日働いたら日当の1デナリをあげるって約束したよね。ちゃんと約束通り君にあげてるよ。君には今日は1デナリあげれば君にとってはそれは十分だよね。」と。

神を信じているのに、神を信じていないように見える人の方が、人生がうまくいっているように見える事もあります。でも良く考えてみると、私はその人の何を知っているのでしょうか。ただ表面に見えることしか分からないのではないでしょうか。その人がどんな人生を歩んでいて、何を望み、何を欲しているのか、よっぽど近い人だとしても、その人の心の中まで見ることなんで出来ませんよね。私には分からない事ですし、そんな事考えるより、自分の事を考えないといけないと思うのです。

人が人の価値を判断することほど、おこがましく、無意味なことはないと思うのです。なぜなら、最後に来た日雇い労働者を心よく迎え、同じように報酬を与える神ならば、皆を平等に愛する神ならば、人の間に優越を作る事は間違っているのだと仰るのではないでしょうか。逆に言えば、私もあなたも、あの人もその人も、神は平等に愛し、その人の必要を満たし、恵みを与えたいと思っているんじゃないでしょうか。

私たちは、自分が神から与えられているもの、癒された経験、祝福された瞬間、イエス様との関係について、他者と比較してはならないのだと、強く感じます。私たちは多くの事を神様から与えられているのに、それが見えなくなり、これもない、あれもないって、あらゆる事柄に執着してないでしょうか。神様は十分あなたの事も、私の事も、時には友達のように近く愛してくれ、いろいろな事柄や人を通して私たちに十分は恵みを与えてくれていないでしょうか。むしろ、私たちは神の恵みに目を向け、イエス様が苦しむ人々に寄り添い、愛されたように、私たちもごくごく身近な周囲の人々に同じように接す事を神は望まれているのではないでしょうか。私のその人への愛がが、またその人からその人のその人へ伝わり、そうやって小さい小さい愛の輪が、ここにも、あちらにも、そこにも出来て、それが少しずつ平和を作り出すのではないでしょうか。気の長い話かもしれません。でも諦めずに励まないといけない事なのではないでしょうか。


地位や肩書きや、努力に費やした時間ではなく、お金があるとかないとかではなく、周囲のその人の心を見て、変わらぬ愛をもって行動し、その人が悩む時に、苦しむ時に、力を失う時に、助けを求める声に耳を傾け、忍耐強く励まし、支える存在となること、それこそが、私たちに求められている姿ではないでしょうか。

でも、このように生きる事は本当に難しい事が多いです。大きな試練を経験することもあるでしょう。試される事も多いでしょう。裏切られる事もあるでしょう。良くない人に出会う事もあります。上手くいかなくて、諦めて不貞腐れて寝る事もあります。でもどうでしょうか。あなたと話し、あなたと居る時、あなたと共に仕事をする時、あなたと楽しむ時、私の心は励まされ、癒やされ、力を得るのだと、自分の生きる人生で、たった1人でもそのように感じてくれる人がいるのなら、私たちは小さいな愛の輪を作る事にならないでしょうか。私は、誰かのそのような存在になりたいと思うのです。その方がこの世を去る時、私がこの世を去る時、私のその人への深い愛を通して、神の深い愛を感じる人がどれだけ居るのだろうか、その事に集中したいと、そう願い祈るばかりです。

14節‐自分の賃金をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にも、あなたと同様に払ってやりたいのだ

私はこの箇所を読むたびに、神様が私たち一人ひとりを、深く覚えてくださり、愛してくださっているのだと感じずにはいられません。イエスは、「報酬は努力に比例するべき」という当時の常識に対して、「神の国では、恵みは平等に与えられる」と語られました。
これは、律法主義や社会的格差に対する強いメッセージであり、当時の人々にとっては衝撃的な内容だったことでしょう。

この話は、すべての人に公平に無償で与えられている「神の恵み」や「神の好意」についてのたとえであり、神の愛は、努力や地位に関係なく、すべての人に惜しみなく与えられているということを力強く語っています。

詩篇77:12には、「私はあなたのなさったすべての事を思い巡らし、あなたのみわざを静かに考えます」

神から頂いている多くの恵みを感謝し、この主人のような行動が出来るよう、神様に祈っていきたいと思います。

(祈り)

神様、どうぞ私たちがいつもこの世に溢れるあなたからの恵みに感謝し、あなたが最後の人にも平等に愛を示された事を覚え、そのように行動していける者とさせてください。今週も皆様の上に、神様の愛と祝福がありますよう、イエス様の御名によってお祈りいたします。

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