弟子の道
マタイ福音書5章11~16節

1.序論

みなさま、おはようございます。前回から、主イエスの教えの中でも最も有名な「山上の垂訓」に入りました。先週は八福の教えを学びましたが、これは神がイエスを通じてもたらそうとしておられる神の国、神の支配とはどんなものなのか、また神の国に生きる者はどのような人格を持つべきなのか、という内容でした。

そして今回の箇所は、イエスに従って生きていこうと願う者たち、イエスの弟子として生きていく人たちについての教えになります。イエスは、ご自身に従おうとする人たちは迫害に遭うだろうと予告します。しかし、そのような迫害に遭ったとしても、むしろ喜びなさいとイエスは言います。けれども迫害、つまり人々から酷い扱いを受けて喜ぶなんてことができるのでしょうか。いわれのない誹謗中傷を受ければ、普通はがっかりしてしまうでしょう。イエスは、あなたがたより前にいた預言者たちも迫害されたのだから、あなたがたも喜びなさいと語ります。つまり、イエスの弟子になるということは、旧約時代の預言者たちのような存在になるのだ、ということになります。でも、預言者なんて自分とは全く縁遠い存在だと皆さんは思われるのではないでしょうか?では預言者とは一体どんな人なのでしょうか?そして、彼らはなぜ迫害されたのでしょうか?

2.本論

旧約聖書には多くの預言者が登場しますが、最も有名なのは三大預言者といわれるイザヤ、エレミヤ、エゼキエルでしょう。エゼキエルについては、イスラエル人がバビロンに捕虜として連行された、いわゆる「バビロン捕囚」の民の一人としてエルサレムから遠く離れた異国で預言活動をしたのですが、イザヤやエレミヤは基本的にイスラエルの首都であるエルサレムで活躍した預言者です。日本で言えば、地方や外国ではなく、東京で活躍した預言者だということです。では、彼らは預言者として首都で何をしていたのでしょうか。彼らはユダ王国の王に助言をする立場にありました。今の日本で言えば、総理大臣に対する政策アドバイザーだということです。もちろん預言者は自分の考えを王に助言するわけではなく、神の命令を王に伝えるという役割でしたから、彼らは神の代弁者として王に語りかけたのです。しかし、ややこしことに預言者は何人もいて、王に対して「これが神の御心なのだ」と伝える内容が預言者によってはまるで正反対であるということもありました。今の日本で言えば、総理大臣に何人もアドバイザーがいて、しかも彼らの提案する政策はそれぞれ全く違う、というような混乱した状態です。イザヤらの預言者たちが活躍したユダ王国は、アッシリア、エジプト、バビロンなどの超大国にぐるりと取り囲まれていましたから、小国であるユダ王国はどの国と同盟を結ぶか、あるいは従うかで国の運命が決してしまうので、王はどの預言者の声に従うべきか、悩むことも多かったと思います。実際、ユダ王国が滅びたのは仕えるべき国を誤ってしまったからでした。彼らは同盟国としてバビロンではなくエジプトを選んでしまったので、バビロンに滅ぼされてしまったのです。日本も戦前はナチス・ドイツと同盟を結び、英米と戦うという道を選択してしまったために、亡国の憂き目に遭いました。今の日本はアメリカと中国という超大国に挟まれる格好になっていて、日本としてはアメリカとも中国とも仲良くしたいわけですが、アメリカと中国が決定的に対立してしまった場合にはどちらの国にもいい顔をするというわけにもいかず、どちら陣営に付くか決断をしなければなりません。でも、皆さんが総理大臣になったとして、そんな決断できますか?自分の判断一つで日本の一億の人々の運命が決まるとするなら、なかなかそんな決断はできませんよね。今までは絶対アメリカだと思っていた人でも、トランプさんになってからはアメリカでは不安だと感じている人も少なくありません。トランプさんはアメリカ・ファーストだから、いざとなったら日本を守ってくれないのではないかと思う人が増えてきたからです。ですから、もし自分で決断をしないといけないということになったら、それこそ神様にお伺いを立てたいと思ってしまうのではないでしょうか。

また、外交だけでなく内政においてもリーダーは多くの決断をしなければなりません。国を強くするためにはお金が必要で、民から税としてお金を集める必要がありますが、あまり多くの税金を徴収すると民から恨まれますし、また民が貧しくなって国力が衰えてしまうという危険もあります。どの程度までの税金が適切なのかという経済の問題も、王たちを悩ませたことだと思います。預言者たちは、こういう内政問題についても王に助言をしていました。

今の日本は、王が国を支配する王制ではなく主権は国民にあるので、日本の外交や内政を決めるのは王様ではなく私たち国民一人一人です。もちろん私たちは政治の専門家ではありませんので、専門家である政治家を選んで彼らに任せるわけですが、しかし政治のプロである政治家を選ぶのは国民一人一人なのです。ですから、この日本という国の外交や内政の責任は、究極的には私たち一人一人にあるということになります。主権を持つというのは、責任を持つということだからです。でも、そんなことを言われても困ってしまいますよね。しかも、私たちが選挙で選ぶべき政治家の方々の意見が大きく異なる場合、どちらの方に票を入れるべきか、悩んでしまうのではないでしょうか。今の日本では、多くの国民がこれまでの自民党のやり方でいいのか、不安を抱くようになりました。自民党はとにかく税金を上げようとします。消費税は3%から始まり、今や10%ですが、もっと上げたいというのが本音でしょう。国の借金がすでに一千兆円もあり、少子高齢化で今後ますます国家財政が苦しくなるので、国民には応分の負担、つまりしっかり税金を払ってもらわないと困るというのです。

しかし、これまでの日本経済を振り返ると、消費税を上げるたびに大きく景気が後退し、デフレの蟻地獄にはまって人々は貧しくなっていきました。本当に増税一本やりでいいのか?と多くの人が疑問をいだくようになったのです。先に天に召された森永卓郎さんの『ザイム真理教』という本がベストセラーになりましたが、この本の内容を簡単に言えば、よくいわれる「このまま財政赤字を膨らませれば日本は破綻する」というのは神話に過ぎず、国民を脅すための方便なのだ、というものです。私も一応経済学で修士号を取った人間なので、この分野では素人ではありませんが、森永さんのおっしゃりたいことはわかります。日本には通貨発行権、つまりお金を創り出す力があり、さらには日本は膨大な対外資産を抱えているので国家破綻するなどということはあり得ないとは思います。しかし、財政破綻をあおる官僚や大学教授がたくさんいる一方で、彼らとは正反対のことをいう経済学者や官僚もいます。どちらも大変頭の良い人たちです。そして、今の政治家もこの件では意見が大きく割れています。増税・緊縮財政路線が自民党と立憲民主党で、減税と積極財政を支持するのが国民民主党と参政党でしょうか。前回の参議院選挙では、積極財政派が大きく議席を伸ばしました。しかし、こういう積極財政派の人たちは、森永さんのいうザイム真理教の人たちから激しく叩かれます。彼らから見れば、積極財政派は「財政均衡主義」という真理に背く異端者だからです。その叩かれ方は、ほとんど「迫害」と呼びたくなるほどです。異端者に対する迫害は、本当に容赦のないものなのです。

さて、なぜこんな話をしたのかといえば、旧約聖書の預言者たちが激しく叩かれたのも、彼らの提示する神から与えられた「政策」が一部の人たちからは大変不評で、彼らからは「神がそんなことを言うはずがない。お前は偽預言者だ!」とののしられたのです。例えば預言者エレミヤは、大国バビロンと戦っている同胞に対し、「バビロンに降伏するのが神の御心なのだ!武器を捨ててバビロンに投降せよ。そうすれば命だけは助かる」と叫んで回りました。それを聞いたユダの人々は、エレミヤがバビロンのスパイか、あるいは神のみ旨だと言って嘘をふれ回っている異端者か何かだと思い、エレミヤを徹底的に迫害しました。エレミヤは実際、何度も殺されかけたのです。そしてエレミヤを迫害していた人たちは自分たちが悪いことをしている、虐めているなどとは考えもしませんでした。悪いのは異端であり、エレミヤは異端だから叩くのが正しいのです。日本の場合でも同じですよね。太平洋戦争で必死にアメリカと戦っている日本人に対し、「アメリカに負けるのは神の御心だ。降伏せよ」と叫んだら、それこそ非国民としてリンチに遭いかねませんよね。こういうことを言う者は異端者として激しい迫害に遭うのです。

イエスが弟子たちに対して、「あなたがたは迫害に遭うだろう」と予告したのは、多くのユダヤの人々はイエスや彼の弟子たちが言っている教えを異端だと判断したからです。異端者を迫害するのは、正統な信仰に立つ人にとってはよいことだからです。使徒パウロも回心前は激しくイエスの弟子たちを迫害しましたが、それはパウロがイエスの弟子たちのことをユダヤ教の異端者だと思ったからでした。このように、イエスが弟子たちに迫害に遭うことを予告したのは、ご自分の教えがユダヤの権力者たちによって異端だと宣告されることを分かっていたからです。ですから、イエスの迫害を恐れるなという教えは、異端者と呼ばれることを恐れるな、という意味でもあるのです。旧約の預言者たちも時の権力者たちから異端者として迫害されたからです。

この視点から、イエスの「地の塩になれ、世の光になれ」という有名な教えの意味も改めて考えてみたいと思います。地の塩、世の光という教えは大変有名で、クリスチャンの間でもしばしば語られるスローガンになっていますが、実際それを実行するのは難しいな、と感じている方は少なくないと思います。特に世の光になれなどと言われると、とても私には無理だ、と思ってしまうのではないでしょうか。しかし、しばしば世の光というのは、どこから見ても完ぺきな優等生みたいなイメージで捉えられていないでしょうか。光のような人というと、みんなが思わずまぶしいと思ってしまう、輝いている人、というイメージが強いからです。しかし、イエスの「地の塩、世の光」というのはどこから見ても傷一つない優等生、という意味ではなくて、「異質な人」と言い換えてもよいと思います。塩というのはまさに一味違うもの、ピリッとするものであり、他とは馴れ合わずに独自の性質を保っているものです。ですから地の塩のような人とは、人とはちょっと異なる個性を持った人、「ああ、こういう生き方もあり得るのか」と人から思われるような人だということです。完璧クンは無理でも、こういう人にはなれるかもしれないですよね。

世の光のような人というのも、光り輝くまぶしい人ということではなく、むしろそれも異質な存在と呼ぶことができるでしょう。聖書の世界観では、この世は基本的に闇、暗闇のようなものです。光とは闇とは性質の異なるものです。闇の中で輝くというのは、まさに異彩を放つということで、変わった存在と呼ぶことができます。主イエスは、まさに人々からは浮いた存在、変わった存在、権力者から見れば「異端者」と呼ぶしかないような独自の考えや教え、生き方を示した人でした。イエスの弟子になるということは、そのような異質さを模倣する、引き受けるということです。しかもその異質さはただ変わっているというのではなく、人間的な視点から見た神の異質さ、神の特別なご性質を反映しているものなのです。そのような異質な存在としてこの世で生きることを恐れるな、というのが今日の聖書箇所のイエスのメッセージなのです。

今日の社会でも「異端」に対する攻撃は激しく、ときに暴力を伴います。「異端」といっても、ある一方の立場から見て「異端」だということで、別の見方もありうるわけですが、自分が絶対正しいと信じる人たちは違う意見の人々を「異端」と決めつけて弾劾し、時には暴力さえ振るいます。今世界中で大きな問題となっているのが移民問題ですが、それを政治問題として取り上げると、すぐに「人種差別主義者」だとかレイシストだとか言われてしまいます。しかし、移民を短期間に大量に入れて社会が壊れかけていくということが実際にヨーロッパで起きていて、北欧のスウェーデンなどは大変な事態になってしまいました。先週、あるアメリカの熱心なクリスチャンが射殺されました。実は彼は、先週の日曜日には来日していて東京で講演会を行ったのですが、アメリカに戻ってすぐに殺されてしまったのです。彼はリベラル一色になってしまったアメリカの大学で、彼の持つ保守的なキリスト教信仰に基づく保守的な考え方を広めた人物です。彼は無制限に移民を入れるという政策に反対したので「人種差別主義者」、レイシストといういわれのない誹謗中傷を浴びましたが、それでも徐々に支持者を増やし、アメリカの大学で非常に大きな影響力を持つまでに至りました。しかし、リベラルな信条を持つ人にとって彼はまさに「異端者」であり、今回の暗殺事件の背景はまだはっきりとはわかっていないものの、暴力的に殺されてしまいました。しかし、たとえどんなに意見が異なるとしても、自由な言論ではなく暴力によってその声を押しつぶそうとしてはいけないのです。主イエスも暴力によって殺されましたが、暴力はイエスの教えを打ち消すことはできませんでした。

3.結論

まとめになります。今日はイエスが弟子たちに対して、迫害を受けることを予告し、そしてそれをむしろ喜びなさい、誇りにしなさいと教えられたところを学びました。迫害されてうれしい人なんかいるものか、と思われるかもしれませんが、ではなぜ迫害されるのか、と考えるとその意味が分かってきます。なぜイエスの弟子たちは迫害されるか?それはユダヤの権力者たちが彼らに異端の烙印を押すからです。異端者というのはどの世界でも苛烈な迫害を受けます。イエスの教えと生き方は新しすぎた、新鮮過ぎたので、当時の人たちには理解できませんでした。彼らは理解できない新しいものに脅威を感じ、「異端」の烙印を押します。しかし、この世を良いものにしてきたのは、しばしば「異端者」と呼ばれた人たちなのです。イエスは当時のユダヤという古い皮袋に新しいぶどう酒を注ぎ込んだのです。この新しいぶどう酒の価値が分からない人は、それを拒否してしまったのです。

私たちも自分たちが生きる世界で「異端者」となること、神の異端者となることを恐れる必要はありません。むしろそれを喜ぶべきです。人から非難されたり迫害されたりするのは、常にそうであるわけではないものの、時として自分が正しいことをしている証拠になるのです。イエスの教えは、この世の人たちからすればあまりにも新しく、「異端」とさえ思えるものですが、しかしそれは神から来たものです。ですから私たちも自信をもって異端になりましょう。

私たちは世俗社会の中だけでなく、キリスト教会の中においても「異端者」となってしまうことがあるかもしれません。これまでの教会や教団の伝統に疑問を投げかけると、そのような人は「異端者」の烙印を押されてしまうかもしれません。しかし、ルターやカルヴァンも初めは「異端者」と呼ばれていたことを忘れてはいけません。彼らは改革を行いましたが、彼らもまた自分たちとは意見の異なる「再洗礼派」の人たちを異端として攻撃し、殺すことさえしました。これは本当に大きな悲劇でした。私たちは「異端」という言葉を使う時には本当に細心の注意を払うべきです。それが正しかったのかどうかは、いずれ神から裁きを受けるでしょう。教会が神の御心から逸れてしまったと感じる時、しっかりと根拠を示して声を上げるのは少しも悪いことではないし、そうした批判を「異端」として押しつぶすことはさらに大きな問題です。むしろ批判を恐れて口をつぐむことのほうが問題だと、主イエスはおっしゃっているのです。そのような勇気を持って歩みたいと願うものです。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今朝は主イエスの弟子になるということは、世の中から異質な人と見なされること、「異端者」とみられることであることを学びました。しかし、それが主の御心でしたら、私たちは勇気を持ってそれを語ることができるように強めてください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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