1.序論
みなさま、おはようございます。今日の説教は、キリスト教においてもっとも有名な聖書箇所を取り上げます。キリスト教に関心を持って、聖書を読んでみようと考える人が最初に読むのがこの「山上の説教」の冒頭にある八福の教えであることが多いのではないでしょうか。この八福の教えはまさにキリスト教のエッセンス、精髄とも言えるものですが、初めて聞く人には驚きを与えるものだと思います。今日はその教えに耳を傾けて参りましょう。
この八福の教えはしばしば「逆説的」だと言われます。それは、世間で常識だとされていることと正反対のことをイエスが語っているからです。常識的に考えれば、「悲しむ人」、「貧しい人」、「飢え渇く人」は不幸な人たちですよね。私たちが目指すのは「楽しむこと」、「豊かであること」、「満ち足りて満腹していること」のはずです。それとは真逆の状態にある人たちが幸いだ、というイエスの言葉はどういう意味なのでしょうか?ここで注意したいのは、イエスはわざと常識に反すること、逆説的なことを言って人々の注目を集めようとしたのではない、ということです。世の中には、人々が驚くような突飛な行動をあえてして、人々の注目を集めようとする人がいますが、イエスにはそんな動機はまったくないということです。
またそれとは別に、この八福の教えは決して手の届かない理想を語るもの、いわば絵に描いた餅のような理想論でもないということも強調しておきます。普通に考えれば、現実に押しつぶされて悲しんでいる人が慰められるなどということはあまりないことなので、せめてそうあってほしい、現実がどんなに厳しくてもそんな優しい世界を夢見ましょう、というような淡い理想論を語っているのではないということです。世の中の多くの理想論とは区別して考えなければいけません。では、実現できそうもない理想論とはどんなものかといえば、これはキリスト者としては問題発言であることをあえて言いますが、ある意味では日本国憲法もそう言えるでしょう。日本国憲法は日本が戦争を放棄し、武器や戦力を持たないと宣言しています。素晴らしいですね。では、現在のウクライナのように万が一外国が攻めてきたらどうするのか、やられっぱなしで一切無抵抗でいくのかといえば、そんなことを本気で考えている日本人は誰もいないでしょう。皆さんも、家族が暴漢に襲われても一切抵抗せずに、相手にやりたいだけやらせるなどという人はいないでしょうが、日本国憲法がそのような無抵抗を国家的なスケールで宣言しているはずがないのです。ですから、日本国憲法は「無抵抗主義」を宣言している憲法ではありません。ではなぜ武力を持たない、戦わないなどと宣言できるかといえば、それは憲法前文にあるように、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」ということなのです。つまり、かつては侵略国家であった日本以外の周りの国々はみんな平和を愛するいい国だから、彼らを信頼して武力を持つ必要などない、ということです。しかし、中国・ロシア・北朝鮮などの核保有国に囲まれている日本が彼らの公正と信義に本当に信頼してよいものなのでしょうか?
日本国憲法は日本が敗戦して主権を失っていた1946年に公布されていたものですから、「国民主権」といいながらも今の憲法は日本人の総意というより、実質的には当時の日本を支配していたアメリカが作ったものだと言って差し支えないのですが、アメリカも当然こうした日本の安全保障の問題に気が付いていました。では、どうやって日本の安全を守ろうとしたのかといえば、それは「国連軍」が守るというのが当初のGHQの構想でした。しかし、朝鮮戦争が始まって、国連そのものが米ソ冷戦構造の中で分裂してしまいました。そこで、国連軍に代わってアメリカ軍が日本を守るということになり、また戦力を持てないはずの日本もアメリカの指令で「自衛隊」を作り、自衛隊が米軍を援助することになったのです。平和憲法と日米安保はセットだと言われますが、それはこのような歴史的背景があるからです。しかし自衛隊の戦力は今や世界八位であり、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という日本国憲法の規定とは完全に矛盾しているのですが、そのようなおかしな状態のまま存続しているのが日本という国です。そして今や在日米軍と自衛隊はますます一体化し、アメリカが東アジアで戦争を始めれば日本もほぼまちがいなく巻き込まれるような状態になっています。そうした状態に、憲法は無力です。なぜなら、今の日本では憲法よりもアメリカの意向の方が優先されてしまうからです。アメリカは日本が平和な状態であることを何よりも優先するわけではなく、むしろアメリカの国益を最優先にして、日本がアメリカの国益に沿った行動をするように望んでいます。日本が戦うことがアメリカの国益に合致するなら、アメリカは日本を戦わせようとするでしょう。日本国憲法が現実と遊離した理想論だと申し上げたのは、そういうわけです。
しかし、八福の教えはそんな実現不可能な理想を謳い上げるものではありません。手の届かない理想を語っているのではなく、むしろ今まさに始まろうとしている現実を語っているものなのです。というのは、この八福の教えは厳密に言えば「教え」ではないからです。イエスは、「心の貧しい人になりなさい、そうすれば幸せになれるよ」という人生訓・教えを語っているのではく、むしろ神が心の貧しい人たちに恵みを施すだろうという、神の行動について語っているのです。私たちがどんなに一生懸命平和を作り出そうとしても、うまくいかないかもしれません。現実は必ずしも私たちの願い通りにはならないものです。しかし、そのように行動する人たちを神は喜んでくださり、神の子にしてくださるのです。この神の約束は間違いありません。このように、八福の教えとは神がイエスの宣教を通じて何をなさろうとしているのか、神について、神の行動についての教え、宣言なのです。神にはできないことはありませんから、これは単なる理想論ではありません。神は現実社会を変える力を持っておられるからです。では、この八福の教えを詳しく見て参りましょう。
2.本論
八福の教えはあまりにも有名な、「心の貧しい者は幸いです」という言葉から始まります。「心の貧しい者」は直訳すれば「霊において貧しい者」となります。聖書において「心」と
「霊」とは似て非なるものなので、本当は「霊において貧しい者」という訳の方がよいと思うのですが、「心の貧しい者」というのがあまりにも定番の訳として定着しているので、今更変更できないのだろうと思います。では、「霊において貧しい」とはどういうことなのでしょうか?これは経済的な貧しさを指しているというわけではないと私は考えています。もっとも、ルカ福音書の並行箇所においては、「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから」となっていて、ここでは明らかに経済的に富んだ者、貧しい者について語っています。この違いをどう考えるべきかといえば、おそらくイエスはマタイとルカの二つの記事において、別々の内容について語られているのだと思います。ルカの場合は、非常に現実的な問題、つまり経済的な貧富の問題を語っているのに対し、マタイにおいては霊的な状態のことを語っているということです。神が恵みを賜る幸いな人はどんな人か?それは霊において貧しい人たちだ、というのがマタイ福音書におけるイエスのメッセージなのです。それはイエスのメッセージであると同時に、旧約聖書のメッセージに根差したものでもあります。そういう箇所をいくつか読んでみましょう。まず詩篇69編32節と33節です。
心の貧しい人たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。主は、貧しい者に耳を傾け、その捕らわれ人をさげすみなさらないのだから。
ここで「心の貧しい人」と訳されている言葉は、ヘブライ語では「謙虚な者」、「柔和な者」という意味ですから意訳と言えば意訳なのですが、しかしこのように訳すのは間違いではないと思います。心の貧しい者とは心のへりくだった者、神の前に謙虚な者、という意味だからです。神はそのような人に恵みを施すだろうということを預言者イザヤも言っています。イザヤ書66章2節にはこうあります。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者。」このように、「霊において貧しい者」がなぜ幸いなのかといえば、そのような人に主は目を注がれるからです。そしてまさに今、神は主イエスを通じてへりくだった人に恵みを施されるのです。
では、二つ目の教えですが、ここで注意したいのは、イエスは悲しんでいる人が幸いだといっているわけではないということです。つまり、悲しんでいるという状態そのものがよいのではなく、むしろそのような人には神の慰めが与えられるから幸いだ、と言っているのです。神が嘆き悲しむ者の味方であるということは、旧約聖書全体を通じて語られる真理です。神はイエスを通じて、悲しんでいる人々を慰めようとしている、だからそのような慰めを受ける人たちは幸いだ、というのがここでのメッセージなのです。
次の「柔和な者は地を受け継ぐ」というのも旧約聖書に根差した教えです。それが詩篇37篇の8節から11節です。
怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。悪を行う者は絶ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。
ここで言われている柔和な人とは、人の悪事にいつもイライラして怒りをため込むような人ではなく、むしろ神を完全に信頼して主の時を待ち望む人、どっしりと構えることが出来る人です。そのようは人は、時が来れば神から相応しい報いを与えられます。今は貧しくとも、神は必ず豊かな繁栄をそのような人に与えてくださるでしょう。
次の「義に飢え渇く者は、満ち足りるだろう」という教えも、旧約の預言者の言葉に根差したものです。イザヤ書の51章の5節と6節をお読みします。
わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は国々の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に拠り頼む。目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散りうせ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。
ここでは「神の義」と「神の救い」が同じ意味で使われています。そのような観点から考えるならば、「義に飢え渇く者」とは「神の救いに飢え渇く者」とも言えるわけです。イエスはまさに、イザヤが預言した神の救いをもたらそうとしているのですから、それを待ち望む人は満ち足りるようになるでしょう。
そして次の「憐み深い人は幸いだ」という教えですが、「憐み」というのはマタイ福音書全体を通じて非常に強調されている点です。「憐れむ」というと何か上から目線のように思われるかもしれませんが、イエスが語る「憐み」とは「共感」と言い換えてもよいでしょう。苦しんでいる人、悲しんでいる人を見て、「この人は自分には関係ないや」ではなく、まさに自分ごととして考える、感じるということです。当時のユダヤ社会は、貧しい人、困っている人があまりにも多くて、それらの人々にいちいち同情していられない、それよりも自分が転落してしまわないように必死に頑張る、そのような社会になっていました。イエスはそうした愛の醒めた社会に再び助け合いの心を取り戻そうとしたのです。ですから、この教えについては憐み深い人を神が憐れんでくださるというのと同時に、人々が互いに憐みの心を取り戻して欲しいという、イエスの願いも含まれていたように思います。
さて、次いで「心のきよい人たちは神を見るだろう」という教えがありますが、これも旧約聖書に深く根差した教えです。詩篇24編3節から5節をお読みします。
だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった者。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。
こころの清い人とは、単に内面の問題ではなくその行動において神に従っている人だということがこの詩篇からも明らかだと言えるでしょう。
次の教えは、まさにイエスの教え全体を特徴づけるものです。それは平和、「シャローム」の教えです。イエスの福音とは「平和の福音」です。しかもそれは与えられるものではなく、作り出す平和です。トマス・ホッブスはこの世の有様について「万人の万人に対する闘争だ」と喝破しましたが、残念ながら、それがすべてではないにせよ、これも確かにこの世の現実です。しかしイエスのもたらす神の国は、そうした現実を乗り越えようというものです。では、どうすれば平和がもたらされるのか、というのがこの山上の垂訓の一つの重要なテーマなのですが、それはこれからじっくり学んでいきたいと思います。
最後の「義のために迫害されている者は幸いです」というのは、まさに今私たちが読んでいる第一ペテロの重要なテーマです。普通に考えれば、正しいことをする、良いことをしたからといって、褒められこそすれ迫害されることなどあり得ないではないか、と思うでしょう。しかし、そのようなことが起ってしまうのがこの世の現実です。この世がどこかおかしくなっていることの証拠が、こうした現実です。しかし、いかにこの世がおかしくとも、神がおられます。神はそのような理不尽な目に遭っている人に目を留め、彼らにこそ神の国を受け継がせます。神がおられるからこそ、この理不尽な世で、空気を読まずに正しいこと、真実なことを行うことができるのです。
3.結論
まとめになります。今日はイエスが山上の垂訓の始めに語った「八福の教え」について読んで参りました。冒頭に申しましたように、これらの教えは逆説でも理想論でもありません。また、「こうすればあなたは幸せになれる」という啓発セミナーのような内容でもありません。むしろ、イエスがもたらそうとしている天の御国、神の国が地上に実現するときに人々に何が起きるのか、神が何をなさろうとしているのか、それを教えるというのがその内実でした。そして、この八福の教えはイエスのオリジナルな教えというよりも、旧約聖書の教えや預言を要約したものだ、ということを見てきました。イエスの教えはとても印象的で覚えやすく、また人々を驚かせるような内容のものでしたが、実はそれらは旧約聖書の教えに深く根差したものなのです。イエスのメッセージは、こうした旧約聖書の預言や約束が今まさに彼自身の宣教を通じて実現しようとしている、ということでした。
同時に、イエスの教えは単に旧約聖書の要約であるということでもありません。そこには新しい要素、人々を驚かせたり、チャレンジを与える内容も含まれています。特に「平和」の教えがそれにあたります。そうした内容については今後じっくり考えて参ります。
このイエスの八福の教えは当時のユダヤ人たちを驚かせましたが、21世紀に生きる私たちをも驚かせるものでもあります。多くの人たちは現実に失望したり、慣れてしまったりして、神がこの世界を大きく変えてくださるというメッセージにリアリティーを持てなくなっています。本当に神は悲しんでいる人や貧しい人を慰めてくださるのだろうか、という希望が持てなくなっています。あるいは、そういう人々を慰めるのは政治家の仕事だ、と考えるかもしれません。しかし、神は生きておられ、神を求める人を探し求めておられます。私たちが本当に望めば、与えられるでしょう。もしその望みが自分勝手な快楽を求めるようなものなら神は聞いてくださいませんが、しかし本当に人間の幸せのため、社会の幸福のためのものならば、神は必ず聞いてくださいます。ですから私たちは現実を諦めずに、祈り続けて参りましょう。お祈りします。
八福の教えを通じて神の国のすがたを現された父なる神様、そのお名前を賛美します。あなたのこれらの教えは今日でも真実であることを信じ、期待します。どうか悲しんでいる人々に慰めをお与え下さい。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン