1.序論
みなさま、おはようございます。猛暑が続きますが、これはまだまだ続きそうです。しかし、現代の日本では冷房がありますし、なんとか暑さをしのぐ手段があります。それに対し、ユダヤ・ガリラヤの地の荒野は草木の茂らない砂漠ですので、暑さをしのぐためのものが何もありません。預言者ヨナが太陽の照り付ける荒野でとうまごにすがり、とうまごながなくなったあとは「死んだほうがましだ」というほど苦しみました。そのような荒野に、自ら四十日四十夜留まられた主イエスの話を今日は見て参ります。
今回の箇所は極めて重要な箇所です。イエスの公生涯はいつ始まったのかといえば、それは前回のバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時からだ、と言ってよいでしょう。イエスはヨハネから洗礼を受けた時に、「あなたは神の子だ」という天の声を聞きました。これはイエスにとって「天命を知る」という瞬間でした。イエスは、自分には神から与えられた特別な使命がある。それはこの世界に神の支配をもたらすことだ、ということを神の声を聞いて聖霊を受けた時に悟ったのでした。
しかし、この世界に神の支配をもたらすというのはいったいどういうことなのでしょうか?そして、それはどのようにして実現できるのでしょうか?これは非常に漠然とした話に聞こえますが、当時のユダヤ人にとって明らかなことが一つありました。彼らは神の支配を待ち望んでいましたが、それはつまり、今は神の支配が実現していないということです。なぜなら当時、神の支配ではなくローマの支配の下にユダヤ人たちは置かれていたからです。ですから、このローマの支配が終わらなければ神の支配は来ないということになります。しかし、当時のローマ帝国は現在のアメリカ合衆国のような世界の超大国です。小さな民族に過ぎないユダヤ人がどうやってローマに勝って彼らをユダヤの地から追い出すことができるのか、という現実的な問題があります。そもそも支配者であるローマとは戦争をするしかないのでしょうか?他の道はないのでしょうか?実際、ユダヤのエリートたちはローマと協力することで自らの権力基盤を固めていました。ユダヤ人の中にも、ローマとうまくやることを好んだ人もいたのです。このように、ユダヤ人の中にもローマについて様々な意見がありました。
イエスは神の支配をもたらすという自らの天命を知り、そしてそれを実行に移す前に、自分は何をどうするべきなのかをよくよく吟味する必要がありました。神の声を聞いたイエスですが、さらに明確な神の声を聞くためにイエスは荒野に行くことにしました。それはかつて、イスラエルを率いるという大きな使命を与えられたあのモーセがしたことでもありました。モーセは十戒の書かれた石板を受けるためにシナイ山に行きましたが、その時の様子が申命記9章9節に書かれています。お読みします。
私が石の板、主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために、山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず、水も飲まなかった。
モーセは神の声を聞くために、四十日四十夜の断食を断行しました。イエスもまた神の声を聞くために、荒野で四十日四十夜の断食を行うことにしたのです。イスラエルの神は荒野、砂漠の神だからです。しかし、砂漠にいるのは神だけではありません。神の敵対者もいるのです。これらのことを頭に起きながら、今日の聖書箇所を読んで参りましょう。
2.本論
では、4章1節です。先にイエスは神の声を聞くために荒野に赴いたと申しましたが、ここではむしろ神の敵対者、つまり悪魔の試みを受けるために荒野に赴いたと書かれています。これは矛盾していません。なぜなら悪魔の試みと対峙することで、イエスは神の真の御心を知ることになるからです。では、イエスを試みる悪魔とはいったい何者なのかをまず考えていきましょう。
悪魔はサタンとも言われますが、驚くべきことに、サタンはそもそも神に仕える天使でした。サタンも神のために働いていたのです。では、サタンの仕事とは何だったのでしょうか?それがヨハネ黙示録12章10節に書かれています。「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」この「告発者」という言葉が実はサタンというヘブル語の意味なのです。告発者とは何かといえば、それは検察官のようなものです。検察官とは、罪を犯した人を裁判所に訴えて罰を下させるという役割を担った政府の役人です。サタンも同じように、神に仕える役人として、犯罪者、つまり人間の罪を暴き出して神の法廷に訴え出て、神に人間に対する裁きを下すように促すという役割を果たしていたのです。しかし、サタンは段々と自分に与えられた役割から逸脱していくようになります。サタンはついには反逆の天使として神と対立することになりますが、それは彼が自らの職分を超えて神の御心に反することを行うようになったからです。本来は、人間の罪を発見してそれを神に告発するという役割だったのに、徐々に人間を誘惑して罪に引きずり落とす、堕落させることを本業とするようになっていったのです。たとえて言えば、罪を見つけて逮捕するのではなく、罪を犯すように誘導しておいて、実際に罪を犯したところで捕まえる警察官のような、そのような悪質な存在になっていったのです。こうしてサタンは神の被造物である人間を破滅させる恐ろしい存在になっていったのです。しかもサタンは人間を長年観察しているので、人間がどのような生き物で、どのように誘惑すれば良いのかを知り尽くしています。ですからサタンは人間の弱いところをつついて、自滅させるのです。こうしてサタン、あるいは悪魔は人間の最悪の敵となっていきました。サタンは同時に、人間を意のままに動かすようにもなっていきます。人間の弱い部分を知り、人間が求める人参、それは権力だったりお金だったりしますが、それをぶら下げて人間を思い通りに操縦するようになっていったのです。今回の荒野での誘惑のルカ福音書の並行箇所では、サタンはイエスに「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されていているので、私はこれと思う人に差し上げられるのです」と言っていますが、サタンにそのような力があるのは人間を知り尽くして自由自在に操縦できるからなのです。
その恐るべきサタンが、荒野で断食をするイエスのところにやってきました。サタンの究極の目的は、人間を堕落させ、神に逆らわせることにあります。しかし、サタンはイエスのことを知っています。イエスは神の子であり、サタンの誘惑に乗るような人ではありません。あのヨブも、サタンからいくら痛めつけられても神を呪うことはしませんでした。イエスはヨブよりも偉大な方です。ですからサタンは、甘い誘惑も恐ろしい脅迫も、暴力さえもイエスを屈服させたり堕落させたりすることはできないことが分かっていました。そこでサタンが狙いを定めたのはイエスそのものではなくイエスの大義、使命でした。すなわち「神の王国をもたらす」、「神の支配をこの地上世界にもたらす」というイエスの天命でした。つまりサタンはイエス本人ではなく、イエスの神の国、神の王国そのものを堕落させようとしたのです。
イエスは世界を変えようとしています。その目標は、いってみれば政治家のようなものです。イエスは人の心の中だけでなく、社会そのものを変えようとしているからです。かつてのオバマ大統領が選挙キャンペーンで「チェンジ!」、すなわち世界を変えるということをスローガンにしていましたが、イエスもまた人々の心の変化を通じてこの世界そのものを変えようとしているのです。しかし、世界を変えるためには人々がイエスの元に結集しなければなりません。人々がイエスのヴィジョンに賛同し、彼のために働かなければならないのです。そのような人が多ければ多いほど、世界を変えられる可能性は高まります。
しかし、イエスは全くの無名の青年です。地盤も看板もカバンもありません。そんなイエスがどのように人々の支持を集めて世界を変えることができるのか?そこでサタンがやって来たのです。私があなたの参謀、アドバイザーになってあげましょう。私の言うことを聞けば、あなたの目指す神の王国が実現できますよ、と。サタンの狙いは、イエスのもたらそうとする神の王国を、これまでのこの世の王国とさほど変わらないものとしてしまうことでした。イエスの王国が、この世の王国とさほど変わらない原理・原則で運営されるのなら、サタンもまたその王国に介入しやすくなるからです。この世の王国の原理・原則とは「カネと力」、つまり経済力と軍事力です。かつての時代の王国ばかりではなく、今日の民主主義諸国が目指すのもつまるところは経済力と軍事力です。その頂点にいるのがアメリカと中国ですが、他の国々も経済と軍事の増強を目指しています。サタンはイエスにも、同じような提案をします。その内容は、ひと言でいえば「パンとサーカス」です。これは、当時の超大国であるローマ帝国がその領民を支配・コントロールするための手段でした。人民が無批判に帝国を支持するようにするためにはどうすればよいか、それは彼らにパンすなわち食事と、サーカスつまり娯楽・エンターテインメントを与えればよいのだ、ということです。人民は腹が一杯になり、娯楽を楽しんでいる限りは帝国に逆らわずに従順な民となるだろうということです。
悪魔は、イエスにも同じことをするように勧めます。あなたがユダヤの人民の圧倒的な支持を集めるにはどうすればよいか?それには二つのものを人々に与えればよいのですよ、と。一つは言うまでもなくパンです。あなたは神の子としての力を使って、人々が求めるだけパンを与えてやりなさい。そしてもう一つは偉大なスペクタクル、人目を驚かす奇跡を行って人民の度肝を抜きなさい、というのです。神殿のてっぺんから飛び降りるというサーカスまがいのことを行って、それで奇跡的に助かれば、人々はあなたを神の子だと信じるようになるでしょう、と。この二つを行えば、ユダヤの人民たちはあなたにひれ伏して、あなたの命じることは何でもするようになる。彼らを使ってあなたは神の支配を打ち立てればよい、というのがサタンからの提案でした。つまりサタンはイエスにローマと同じことを、ローマをはるかに上回るスケールで行うようにと促すのです。そうすれば、ローマさえ凌ぐ神の王国、いや帝国を作り出せるでしょうと。実際、民衆の人気を得るためのこれが一番確実な方法のように見えます。私たち現代人も、つまるところ求めているのはグルメとエンタメなのではないでしょうか?
しかし、イエスはその提案を拒絶します。神の王国は、ローマ帝国をさらに強大にしたようなものではないのです。むしろ、神の王国はローマ帝国とは全く異なる原理・原則、価値観によって打ち立てられるべきものでした。パンは人生の目的ではなく、手段です。人はパンによって生きますが、パンのために生きるのではないのです。そんなのはパンを十分に持っている、すなわちお金を十分に持っている人のきれいごとではないか、パンが満足に食べられない状態では人生の意味も目的もないんだ、まずは食べ物なんだ、という反論があります。しかし、これはよく言われることではありますが、この地球上には食糧は十分にあります。かつては人口が爆発的に伸びると世界中で食糧危機が起きるとまで言われていましたが、世界の人口が80億人にもなった今日でさえ、私たちの生きる世界、地球はその人口を養うだけの十分な食料を供給しているのです。では、なぜ世界にはまだこんなに貧困や飢えの問題があるのか?それは分配がおかしいからです。一部の人があり余る食事を独占しながら、多くの人たちには食事が回ってきません。貧富の差が極度に拡大し、世界の人口の上位わずか1%の人々の持つ富は、95%の人々の富の合計よりも多いと言われてしまいます。このような富の偏在を生む貪りや貪欲こそが、飢餓問題を生み出しています。そしてこのような貪りや貪欲を戒めて抑制するものこそ、神のことばなのです。ですからイエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と語ったのです。
奇跡についても同じです。確かに神は、正しい人が不慮の事故で死にそうになったときに、その人を奇跡的に助けるということをなさるかもしれません。しかし、奇跡を行うことで人々をコントロールしよう、支配しようなどという不純な動機を持つ人を神が助けることなどあり得ないことです。そのような人は神の力を自分の思い通りに用いようという不遜な心を持つ者です。そんな人を神が助けることはないのです。ですからイエスは「あなたの神である主を試みてはならない」というみことばによってサタンの提案を退けます。
パンとサーカスという手段を拒否されたサタンは、最後の誘惑を試みます。それは彼がこれまで営々と築き上げてきたもの、すなわち人間を巧妙に操ることで手に入れた世界のあらゆる富と栄光をイエスに見せて、これを全部やるから私を拝めと言ってきたのです。サタンはよく分かっていました。このイエスという人物をコントロールできなければ、自分はすべてを失うだろうということを。ですから、それこそサタンは全財産を差し出すことでイエスを自分の支配下に置こうとしたのです。しかし、そもそもこの全世界は本当にサタンのものなのでしょうか?いいえ、聖書にあるように、「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」(詩篇24:1)。イエスもそれが十分わかっていました。サタンは人間を欺き騙すことでこの世界をコントロールしているに過ぎず、本当に世界を所有しておられる方は神のみであることを。そこでイエスはこう言われました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」と。
こうしてイエスはサタンのすべての誘惑を退けたのですが、しかしサタンはこれで諦めたわけではありません。これからもイエスに付きまとい続けて、なんとか彼の神の王国の成就を妨害しようとし続けるのです。
3.結論
まとめになります。今日は荒野で試みを受けたイエスのことを学びました。イエスは人類の最大の敵であるサタンとの対決を通じて、自分が何をなすべきであるのかということをますますはっきりと知るようになりました。サタンの目論見は、イエスが打ち立てようとする神の王国をこの世の王国と変わらないものにしてしまうことでした。この世の王国は経済力と軍事力を増強してその力を高め、民衆には食事と娯楽を与えることで彼らをコントロールしようとします。サタンはイエスに対し、この世のあらゆる帝国にも勝る圧倒的な神の力を用いて民衆をコントロールしなさい、と提案します。それが神の支配を地上に打ち立てる一番の近道だと。しかしイエスはこのような提案を拒否します。神の支配はこの世の支配とはまったく異なる原理・原則で打ち立てられるべきものです。たとえそれが遠回りであっても、人々の心を神のことばで耕し、そこから芽を出し実を結ぶ収穫、それこそが世界を変える力であるということを明確にしました。ですからイエスは人々の病をいやすという奇跡以上に、人々を教育することに力を注ぎました。「教育」こそ神の王国運動の一番重要な要素でした。ですからマタイはその福音書に、非常に多くのイエスの教えを収録したのです。私たちはこれから段々とイエスの教えを学んでいきますが、それは私たちの価値観を根本的に変えてしまうような革命的なものです。そして、今回のイエスとサタンとの対話・対決の中にも神の王国についての大切な教えを読み取ることができます。私たちも今日の政治経済の中にイエスの教えを浸透させることが出来るように、力を尽くしてまいりましょう。お祈りします。
天地万物を創造し、治めておられる神様、そのお名前を賛美します。今日はサタンの誘惑を通じて神の支配、神の王国の本質を学びました。その支配をこの地上で実現させていくためにも、あなたの教会を祝福してくださいますよう、お願いいたします。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン