1.導入
みなさま、こんにちは。9月に入りました。エレミヤ書からのメッセージも、今日を含めて三回になります。さて、ここ一週間は安倍総理大臣の突然の辞意表明を受けて、次のリーダーは誰か、どう決めるのかについて世間の注目が集まっています。リーダーの資質は国の行方を左右するので、このことは大変重要なことです。特に国が危急存亡のときには、リーダーの決断一つで国の運命が決まってしまいます。私たち日本も、問題が山積している状態にあるので、本当にふさわしい人がリーダーになることを願わずにはおれません。
さて、今日はエレミヤの仕えた最後の王、そして実にユダ王国の最後の王となったゼデキヤの決断、いや決断というより彼の優柔不断について見てまいります。南ユダ王国はまさに危急存亡の際にいました。今や世界の覇者となったバビロンに攻め込まれ、18か月もの間首都エルサレムはバビロン軍に包囲されていました。エジプトから援軍が来たためにバビロンの包囲は一時的に解かれましたが、バビロンの王ネブカデレザルはエルサレム攻略をもちろん諦めてはいません。いつまたバビロンが攻めてくるか分からない、そういう状況にユダ王国は置かれていたのです。このバビロンの包囲が解かれた、つかの間の時間、この時が一国のリーダーたるゼデキヤ王に残された最後の時、決断をするための最後の機会でした。この時どう決断するかで、彼自身とその王国の命運が決まるのです。この時ゼデキヤ王は預言者エレミヤに助言を求めました。その顛末を今日は学んでいきます。
2.本文
さて、先週はエルサレムにいるエレミヤの下に、彼のいとこであるハナムエルがエレミヤの郷里であるアナトテからやってきた話を学びました。先週はお話ししませんでしたが、実はエレミヤはこの時は牢に入れられて監視されている状態にありました。軟禁状態にあるエレミヤを、ハナムエルは訪ねたのです。では、エレミヤはどうして捕まってしまったのでしょうか。38章では、エルサレムがバビロンに滅ぼされるという不吉なことをエレミヤが語っていたからだ、と説明されています。それはその通りなのですが、逮捕されるのにはひとつのきっかけがありました。そのいきさつは、すぐ前の37章の11節以降に書かれています。そこをお読みします。
カルデヤの軍勢がパロの軍勢が来るのを聞いてエルサレムから撤退したとき、エレミヤは、ベニヤミンの地に行き、民の間で割り当ての地を決めるためにエルサレムから出て行った。彼がベニヤミンの門に来たとき、そこにハナヌヤの子シェレムヤの子イルイヤという名の当直の者がいて、「あなたはカルデヤ人のところへ落ちのびるのか」と言って、預言者エレミヤを捕らえた。エレミヤは、「違う。私はカルデヤ人のところに落ちのびるのではない」と言ったが、イルイヤは聞かず、エレミヤを捕らえて、首長たちのところへ連れて行った。首長たちはエレミヤに向かって激しく怒り、彼を打ちたたき、書記ヨナタンの家にある牢屋に入れた。そこを獄屋にしていたからである。
エレミヤは、エルサレムがバビロンに包囲されている18か月の間、エルサレムはバビロンによって滅ぼされると叫び続けていました。助かりたければ、バビロンに降参して投降するしかない、そうすれば命だけは助かる、とエレミヤは語り続けました。エルサレムの防衛にあたっていた将軍たちは、部下たちの士気をくじくようなことばかり言うエレミヤに激怒していて、いつかあいつを黙らせてやる、殺してやると殺気立っていました。そしてとうとう彼らに好機が到来しました。包囲の解けたエルサレムを出て、故郷のアナトテに向かおうとするエレミヤを見て、あいつはバビロンに逃げ延びようとしている、あいつはバビロンの内通者、スパイだったのだと、エレミヤを訴える口実を見つけたのです。こうしてエレミヤは国外逃亡および敵との内通の嫌疑で捕えられました。彼らはゼデキヤ王に対し、「どうぞ、あの男を殺してください」と迫ります。彼らは王に、このエレミヤという男は民にわざわいを求めていると訴えます。エレミヤの行動が彼らを怒らせたのは理解できます。日本の歴史で考えれば、太平洋戦争の最中、冷静に考えればアメリカに勝てるはずがないのに、そのことを口にしただけで袋叩きにされました。アメリカに降伏しよう、アメリカと戦っても勝てないのだから、などと言おうものならすぐさま非国民、アメリカのスパイだと言われて非難され、下手をするとリンチに遭ったかもしれません。エレミヤも同じような状況に置かれていました。しかし、エレミヤは著名な預言者だったので、エルサレムの指導者たちもさすがにいきなり殺すわけにはいかず、王の許可を求めたのです。ゼデキヤは内心、エレミヤを神の預言者として信頼していましたので、この事態を心配していたはずです。しかし、彼はこう答えます。
今、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。
ゼデキヤは、エレミヤを殺していいとも、殺すなとも言いません。ただ、エレミヤがあなたがたの手の中にあるという事実を指摘しただけです。また、自分は無力な王だということを自嘲気味に語っています。あなたがたは私の裁断を求めているけれど、私はあなたがたの意に逆らっては何もできない無力な王なのだ、だからエレミヤの件も、あなたがたの好きなようにするがよい、と言っているのです。これはなんとも無責任な言葉ですが、ゼデキヤという人物をよく表している言葉でもあります。彼はヨシヤ王の息子たちの中でも三番目に王になった男です。兄たちは敵国に連行されたり、あるいは戦死したりして、やっとお鉢が回ってきたのです。しかも、彼は人々から推挙されて王になったのではなく、敵であるバビロンによって王にしてもらったような人物でした。自分はただのお飾りの王だ、お前たち重臣たちには逆らえないよ、と皮肉交じりに言ったのです。
しかし、そうはいっても彼はユダ王国の王です。しかも彼は本心ではエレミヤを救い出して、自分の相談相手になってほしかったのです。ですから、彼が強くエレミヤを助けよ、と言えば、家臣たちもそう簡単にはエレミヤには手を下せないはずです。結局彼はエレミヤのために何もしませんでした。このような煮え切らない王を最後の王として戴いてしまったことに、ユダ王国の悲劇がありました。
さて、王からエレミヤを自由にしてよいといわれたエルサレムの首長たちですが、さすがに彼らにも良心が残っていたようです。神の預言者と言われるエレミヤに直接手をかけることを躊躇し、エレミヤが餓死するような方法をとることにしました。そこで、エレミヤを雨水を貯めるための水溜めに放り込むことにしました。ここで「穴」と言われているのは水をためるための貯水池のことでした。しかし、そこには水はなく、地面は湿っていて泥でぬかるんでいました。そんなところに投げ入れられれば、エレミヤの体は段々と沈んでいきます。彼らはそこにエレミヤを閉じ込めて、食事さえ与えるつもりはありませんでした。エルサレムは1年半にもおよぶ籠城攻めを受けて、食糧は底をついていました。囚人に与える食べ物などない、ということです。エレミヤは寒さと飢えでじわじわ弱って死んでいくだろうと、彼らはそう考えたのです。ある意味で、直ちに殺すのよりも残忍な仕打ちだと言えます。
このエレミヤの絶体絶命のピンチを見て、すかさず行動したのがクシュ人の宦官でした。クシュ人とはエチオピアの宦官のことです。新約聖書の使徒の働きでも、エチオピアの宦官がイザヤ書を熱心に読んでいる場面がありますが、エチオピアは昔から信仰の深い人が多かったようです。彼は、このままでは神の人エレミヤが死んでしまいます、彼を助けるべきです、と王に直訴したのです。この宦官の勇気ある行動に促されて、ゼデキヤ王もやっと勇気を出してエレミヤを救う気持ちになりました。三十人の部下をエレミヤ救出に向かわせたのです。王も本当はエレミヤと話して、助言を受けたいと願っていたのです。クシュ人エベデ・メレク、これは王の僕という意味ですが、彼は首尾よくエレミヤを水ための中から救い出しました。
それからゼデキヤは、助けたエレミヤをこっそりと自分の下に呼びます。彼は、エレミヤが本物の預言者だと確かに信じていました。ですから、彼から神の言葉をどうしても聞きたかったのです。ゼデキヤはそれほど追い詰められていました。彼の姿は、ペリシテ軍の軍勢との戦いにおびえ、我をもすがる思いで霊媒師にサムエルの霊を呼び出してもらったイスラエルの初代の王、サウル王に重なるものがあります。彼はどうしても未来が、自分がこれからどうなるかを知りたかったのです。この王と預言者の秘密の会談はどんな風だったのか、興味を沸かせます。ゼデキヤはエレミヤを殺そうとしていた首長たちを恐れていたので、自分がエレミヤと会っていることがバレないように、細心の注意を払ったことでしょう。サウル王は霊媒師に会いに行くときに身元が割れないように変装していきましたが、ゼデキヤも、もしかすると変装してエレミヤとの密談に臨んだのかもしれません。王はエレミヤに会うと、単刀直入に切り出します。
私はあなたに一言尋ねる。私に何事も隠してはならない。
ここでは、ゼデキヤは何を尋ねたいのか言っていません。けれどもエレミヤには王が何を聞こうとしているのかがすぐわかりました。王は、「私はどうなるのか、どうすれば私は助かるのか」を聞きたかったのです。しかし、エレミヤは答えるのを躊躇しました。エレミヤは王の弱い性格を見抜いていました。この王は現実を見ようとしない、自分の聞きたいことを私が語ればよいが、私が彼の望まないことを語れば、それを決して受け入れようとしない、と思ったのです。エレミヤはこれまでも、人を介して王に忠告してきましたが、王は聞こうとしなかったのです。とはいえ、エレミヤは自分の命を助けるために、王におもねって、偽預言者のように調子のよいことを言う気などまったくありません。エレミヤはこれまでも、人々がどんなに嫌な顔をしても、神から告げられた本当の事だけを語ってきました。ですからここでもエレミヤは真実だけを言うつもりでした。そうはいっても、エレミヤも馬鹿ではありませんので、みすみす自分の命が危うくなることを言う気もありません。そこで王にこう言いました。
もし私があなたに告げれば、あなたは必ず、私を殺すではありませんか。私があなたに忠告しても、あなたは私の言うことを聞きません。
エレミヤにピシャリと言われてしまったゼデキヤですが、彼も必死です。エレミヤがまた何か不吉なことを言うのでは、という不安はあるものの、それでも未来がどうなるか分からないという不安の方がもっと大きかったのです。是が非でもエレミヤから神からの預言を聞き出そうと、彼は誓うことすらします。
私たちのいのちを造られた主は生きておられる。私はあなたを決して殺さない。また、あなたのいのちをねらうあの人々に、あなたを渡すことも絶対にしない。
ゼデキヤは神にかけて誓うことすらしました。私はあなたを殺さない、と。それだけでなく、あなたの命を狙うユダ王国の重臣たちからも、あなたを守ろう、とまで誓ったのです。これはエレミヤにとっても有難いことだったでしょう。この真剣なゼデキヤの願いにこたえて、エレミヤは彼に真実を告げます。とはいえ、これまでエレミヤが語ってきたことと変わるものではありませんが、今回は王に面と向かって伝えるという意味で、格段に重みのある言葉でした。エレミヤはこう言います。
イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのいのちは助かり、この町も火で焼かれず、あなたも、あなたの家族も生きのびる。あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この町はカルデヤ人の手に渡され、彼らはこれを火で焼き、あなたも彼らの手からのがれることができない。』
エレミヤはここで非常に大切なことを言いました。バビロンに降伏すれば、王の命だけでなく、エルサレムも破滅を免れるのだと。王というのは自分の命のことだけを考えればよいわけではありません。むしろ、自分はどうなろうとも、王国の民の命は助けたい、それが良い王というものではないでしょうか。しかし、ゼデキヤはエルサレムが救われることよりも、自分の命の心配をしているようでした。これは正直であるかもしれませんが、残念なことでもあります。ゼデキヤは、自分がバビロンに投降した場合、先にバビロンに投降していた人々が自分を殺すのではないかと、そのことを恐れていたのです。ユダ王国には二つの派閥に分裂していたようです。一つはゼデキヤのように、エジプトと連合を結んでバビロンに対抗しようとする勢力、もう一つはバビロンに従い、バビロンの属国として生きていこうという人々です。今の日本の政治家の中にも、親中派と親米派がいると言われていますが、ユダ王国もそういう拮抗する政治勢力がいたのです。親バビロン派の人々は、ゼデキヤがバビロンと戦争を始めたときに、こんな勝算のない戦いをしても無駄だとばかり、さっさとバビロンに降伏していました。彼らはバビロンと無益な戦いを始めたゼデキヤ王に怒っていました。ですからゼデキヤは、自分がバビロンに降伏したら、それらの親バビロン派のユダヤ人に殺されてしまうと恐れたのです。しかし、この時にエレミヤは力強い保証の言葉を与えました。王は投降しても、バビロンは彼を親バビロン派のユダヤ人たちに引き渡すことはしない。だから、今決断して主の言葉に従ってください。さもないと、あなたは友達の愚かな助言に従って国を滅ぼした愚か者として笑いものなる、と警告しました。ここでいう親友たちとは、ゼデキヤにエジプトと同盟を結んでバビロンに対抗しようと勧めたユダ王国の重臣たちのことでしょう。そしてエレミヤは、ダメ押しをします。王よ、あくまでバビロンに抵抗するのなら、あなただけでなくあなたの妻や子供たちもバビロンの手から逃れられない、そしてエルサレムは焼かれてしまう、と。
このエレミヤの言葉を聞いて、ゼデキヤも覚悟を決めたように思われます。エレミヤの言葉、彼を通じて語られた神の言葉に従うほかはないのだと。しかし、彼には別の懸念がありました。ユダ王国には親バビロンの勢力が確かにいました。しかし彼らはみなバビロンに投降してしまったのです。今ユダ王国に残っているのは、最後までバビロンと戦い抜くのだと意気込む反バビロン派の勢力ばかりなのです。彼らがこの王とエレミヤとの密談の内容を知ったらどうなるか、それを恐れました。太平洋戦争においても、日本がアメリカに勝てないことをよく知っていて、早く降伏したほうが良いと考えていた政治家や軍人はいたけれど、そんなことを言おうものなら一億総玉砕と徹底抗戦を叫ぶ軍人たちによって暗殺されることを恐れた、という話がありますが、ゼデキヤも同じようなことを考えていたのでしょう。バビロンに投降するにしても、いきなりその話をしようものなら、自分もエレミヤも殺されてしまうだろう。だから今はこの計画は秘密にして、入念に根回しをしてことを実行しよう、今はしばらく時間を稼ごうと思ったようです。そこでエレミヤに、非常に実際的な助言をします。もしこの会談のことが、エルサレムの首長や将軍たちに漏れて、彼らがエレミヤに王に何を話したのか言いなさい、殺すことはないから正直に話しなさいと言ってきても、彼らに正直に話してはならない、と言います。むしろ、こう言いなさいと助言します。
「私をヨナタンの家に返してそこで私が死ぬことがないようにしてくださいと、王の前に嘆願していた」と言いなさい。
エレミヤに、私は政治について王に進言したのではない、ただただ命乞いをしていたのだと言いなさいと助言したのです。このときエレミヤは王の助言に従いました。自分のところに来た首長たちに、王に語ったように、バビロンに降伏しろということもできたでしょうが、しかし彼らの心を変えることはできないと知っていたエレミヤは、無駄なことはせずに自分の命を救うことを選んだのです。
では王はどうしたでしょうか?ゼデキヤ王は確かにエレミヤの語った神の言葉を信じたはずです。しかし彼は信じただけで、行おうとしませんでした。彼はユダ王国の徹底抗戦を叫ぶ首長たちに恐れをなして、とうとう自分の望むこと、つまり降伏を言い出すことはできませんでした。彼は何をすべきか知りながら、人々の反対を恐れてそれができなかったのです。ゼデキヤのしたことは、いわば、行動の伴わない信仰です。神を信じたけれど、神の言うことに従おうとはしなかったのです。彼の優柔不断は大変高くつきました。彼の運命については次週学びますが、彼のために他の多くの人たちの命が失われることになったということだけは、言っておきます。
3.結論
今日は、せっかく預言者から神の言葉を聞きながら、それに従おうとはしなかったために国を滅ぼし、自分自身にも破滅を招いた悲劇の王ゼデキヤのことを学びました。彼に信仰がなかったわけではありません。彼は神に誓うこともできましたし、神の人エレミヤに聞こうという謙虚さも持っていました。しかし、彼は神に従うことはできませんでした。行おうとしなかったのです。行いの伴わない信仰は人を救わない、というのがヤコブの手紙の重要なメッセージですが、そのことを端的に示したのがゼデキヤだと言えるでしょう。なぜゼデキヤは正しいことが出来なかったのか。それは恐れのゆえです。正しいことをしたい、でも怖い。これは私たちがいつも感じることではないでしょうか。学校でいじめられている人がいる。これはよくないことだと知っていて、助けたいと思う。けれども彼を、あるいは彼女を助けると自分まで一緒にいじめられてしまう、それが怖い。だから黙っている。こういう経験をした人は少なくないと思います。そんなとき、私たちもゼデキヤと同じだと言えるでしょう。私たちもゼデキヤと何ら変わらないのです。もしそうならば、ゼデキヤを責めることは私たちにはできません。けれども、何も行動しなかったためにゼデキヤに起きた事、またエルサレムに起きたことを考えるなら、また何もしなかったために、いじめられていた人に何が起こったのかを考えるのなら、いかに恐れが大きいとしても、何もしないということでよかったのか、と心を探られます。
しばしば私たちの問題は、何をすべきかわからないことではなく、何をするべきかわかっているけれど、それに伴うコスト、面倒なこと、他の人たちの反対に恐れをなして、それをしないということです。しかし、だからこそ神への信仰が必要なのです。いや、神への信頼と言ったほうがいいかもしれません。私がやろうとしていることが、どんなに面倒な事態を引き起こすとしても、神が共におられる、神が共におられるのだと、そう心から信頼することからしか、行動を起こす勇気は沸いてこないでしょう。エレミヤはまさにそのような神への信頼と、勇気とを持った人でした。そのために彼は投獄され、殺されかけました。しかし主は、彼を最後まで助けたのです。願わくは、ゼデキヤのようにではなく、エレミヤのように生きる力を持てるように、主に祈りましょう。
歴史を支配し、私たちの心を探られる神よ。御名を賛美します。今日は、あなたから道を示され、何をなすべきかを知りながらも、恐れからそれが出来なかった悲劇の王ゼデキヤのことを学びました。私たちもゼデキヤと何ら変わるところがありません。私たちもあなたから、何をすべきか示されながら、恐れに足がすくんで何もできないものです。しかし、どうかそのような私たちを変えてください。行動する勇気をください。どうか日々の歩みの中で、そのような小さな勇気を私たち一人一人に与えてくださいますように。私たちの主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン