みなさま、ペンテコステおめでとうございます。毎年ペンテコステ礼拝のさいには、私はいつも「ペンテコステ」とは何か、という短い説明をしてきました。といいますのも、キリスト教の三大主日のうち、クリスマスやイースターについてはキリスト教にあまり関心のない方々にも広く知られているのに対し、ペンテコステについてはクリスチャンでない方々にはほとんど知られていないからです。その理由は、クリスマスやイースターが何の日であるのかの説明がしやすいのに対し、ペンテコステについてはその意義を説明するのが簡単ではない、ということがあるように思います。
クリスマスはイエスの誕生を祝う日で、イースターはイエスの復活を祝う日です。では、ペンテコステとは何か?というと、しばしば「教会が誕生した日だ」ということが言われます。しかし、正確に言えばペンテコステは教会の誕生した日ではありません。教会とは、イエスが救い主であることを信じる人々の群れですが、ペンテコステと呼ばれる日の前から、イエスを信じる人々の群れは存在していたからです。では、ペンテコステの前と後では何が違ったのかといえば、それは人々に「イエスは主である」と公に告白する勇気があったか、なかったか、その違いにあります。ペンテコステの前には、イエスを信じる人たちは一緒に集まってはいたのですが、しかしそれは人目を忍んで、隠れて集まっていました。それは彼らが迫害を恐れていたからです。なぜ彼らはビクビクしていたのか?それは彼らの絶対的な指導者であるイエスが犯罪者として処刑されてしまったからでした。イエスが十字架刑で殺されたことの意味は重大です。なぜなら十字架刑とは宗教的な罪に対してではなく政治的な罪、特に国家転覆罪などの暴動や反乱に加担した人物をみせしめとして殺すための方法だったのです。端的に言えば、イエスは当時の超大国であり、ユダヤを支配していたローマ帝国に反乱を企てた者として殺されたのです。もちろん、イエスは暴力的な反乱などはまったく考えてはいませんでしたが、イエスを処刑した側はそのような嫌疑でイエスを殺したのです。となると、イエスの仲間だとみなされてしまうと、彼らもまたローマに対する反乱を企てる危険分子だとみなされて、逮捕され最悪の場合は殺されてしまうかもしれません。弟子たちはそれが怖かったので、イエスが復活したのを目撃してこの人こそ本物の救い主だと確信したものの、その確信を公の場で告白することを恐れたのです。そんなことをすれば逮捕されて殺されてしまうかもしれないからです。
このように、非常に現実的な恐れからイエスの弟子たちは自らの信仰を告白することを恐れました。彼らは復活した主イエスを目撃したことで、「この人こそ本物の救い主だったのだ」という強い確信を得ました。しかし、心の中で強く信じることと、それを人々の前ではっきりと告白することとは別物なのです。つまりは、イエスの復活を目撃するという、彼らの世界観をひっくり返すような衝撃的な経験さえも、命をも恐れずにその信仰を告白するという勇気までは彼らに与えてはくれなかったのです。しかし、歴史を振り返れば分かるように、こうして怯えて隠れていた弟子たちは、これから命がけで世界中にこの犯罪者として惨めに十字架で死んだイエスこそ本物の世界の王なのだという、初めて聞く人にはきちがいじみた福音を世界に届け、その多くは殉教の死を遂げています。では、なぜ彼らはこんなに変わったのでしょうか。なにが彼らに、命がけで福音を届ける勇気を与えたのでしょうか?その答えが、ペンテコステの日に彼らに激しく降った「聖霊」でした。聖霊は彼らを劇的に変えました。彼らに勇気を与えました。聖霊に押し出されて、使徒たちは世界中に出て行ったのです。
このように、「聖霊」というお方は私たちを劇的に変える、作り変える力を持ったお方です。今日の説教は、使徒パウロの書簡から、この私たちを「変える」聖霊の力について学んで参ります。今日の説教で特に強調したいのは、パウロの神学における「聖霊」の重要です。パウロの神学というと、「信仰義認」ですとか「十字架の神学」ということが言われますが、実際はパウロの神学、特に救済論においてもっとも重要なのは「聖霊」です。けれども、パウロ神学というと、実際のところ多くの人が真っ先に思い浮かべるのはやはり「信仰義認」ではないでしょうか。つまり「行いではなく信仰で救われる」という教理です。このように聞くと、「救われるためには行いは必要ないんだ。信じるだけでいいんだ」という風に考える方がとても多いように思います。キリスト教の福音とは、何の行いがなくても、頭で、心で信じれば救われるということなのだ、なんて簡単なことでしょう!というように説明されることも少なくないのではないでしょうか。しかし、聖書はなんと言っているでしょうか。主イエスはこう言われました。
わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。(マタイ7:21)
と、このように救われるのは「行う」人だとはっきりとおっしゃっています。また、その主の兄弟ヤコブもこう言っています。
あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。ああ、愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。(ヤコブ2:19-20)
つまり、頭で信じるだけで救われるのなら悪霊も救われるということになります。悪霊たちはイエスが全世界の主であることを強く確信していますから、彼らもみんな救われることになってしまいます。しかし、それがおかしいことはだれでも分かるでしょう。そして「信仰義認」を説いたパウロもこう書いています。
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪をする者はみな、神の国を相続することができません。(第一コリント6:9-10)
このようにパウロは正しい行いをしない者は救われないとはっきり述べています。しかも、一度ならず何度も述べています。こうしてみると、「行いはいらない、信じるだけでよい」というのは明らかに非聖書的な主張なのです。確かに、私たちは価なしにキリストの贖いによって義とされます。義とされるとは、神から遠く離れた状態から、神との正しい関係に入る、戻されるということです。しかし、神との正しい関係にあるからこそ、私たちはその後は正しい歩みを続ける必要があります。正しい歩みとは、つまりは正しい行いです。ですから「行いはいらない、信じるだけでよい」というような言い方は、聖書を真面目に読むならば、おかしいのは誰でも分かります。でも、パウロは「律法の行いではなく、キリストのピスティスによって義とされる」と述べているではないですか?という方もおられるでしょう。この問題については、キリストの信仰と訳される「キリストのピスティス」とは一体どういう意味なのかをしっかりと考える必要がありますが、今日の説教ではこのテーマには入りません。しかし、このパウロの難解な言葉を別にすれば、イエス御自身のことばを含む聖書の圧倒的な証言は、「救いに行いは不要だ」などということは決して言ってはいないのです。それでも、そういう考え方が流行ってしまうのは、そのほうが私たちにとって都合が良い、楽だからなのかもしれません。しかし、そんな考えでいると終わりの日に後悔することになりかねません。
でも、そういわれると私たちは困ってしまいますよね。「そんなことを言われても、私は正しく生きるなんてことはできません。それができないから、こうして救いを求めているのではないですか」という方もおられるでしょう。そして、キリスト教の教理でしばしば言われるのは、「大丈夫です。あなたが正しい行いができなくても問題ありません。なぜならあなたが行うべき正しい行いは、キリストが代わりにやってくださったからです。あなたは、キリストがあなたに代わってやってくださった行いを、信じるだけで自分のものとすることができるのです」というような教えがあります。言い方が悪いですが、これは替え玉受験のようなもので、あなたが受けるべき人生というテストをキリストが代わりにやってくださったということです。しかし、聖書には本当にそんなことが書いてあるのでしょうか?こう考えている方は、自分自身でしっかり聖書を確かめてみることをお勧めします。
パウロはそのような教えではなく、まったく別のことを語っています。それは自分でやらなくてもイエスが代わりにやってくれるというような話ではなく、あくまで自分でやるのですが、しかし一人でやるのではない、聖霊がついてくださるということです。「聖霊」があなたを変える、聖霊の力によって、ダメだったあなたは正しい歩みができるようになる、ということを語っているのです。それが今日の箇所のエッセンスです。パウロは、なぜ私たちが正しい行いができないのかといえば、私たちが「肉」の力に囚われているからだと言います。今日の7節で、パウロはこう説明しています。
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
私たちは、自分では良くないと思っていても、つい欲望に負けて罪を犯してしまうということがあります。女性の方々を前にして不愉快な話をするのをお許しいただきたいのですが、最近はNHKのニュースなどでも毎週のように痴漢の報道があります。それも学校の先生とか警察官とか、社会の中で一番信頼されるべき人たちがそういうことをしてしまったという報道が後を絶ちません。彼らがしばしば言うのは、「欲望に負けてしまった」という言い方です。悪いと分かっているのに、欲望に突き動かされてしまったというのです。もちろん性被害に遭われた方々の恐怖や無念を思えば、こんな言い訳は許されないのですが、しかし人間は弱い存在でもあります。あの神の人のダビデでさえ、衝動的な性欲に負けて彼の後半生を台無しにしてしまったのですから。しかも今日のテレビやインターネットの広告は、私たちの欲望を刺激するものばかりです。そういう意味で、現代人は大変な時代に生きていると言えるかもしれません。
パウロは、このように肉の欲望に振り回されている人に対して「福音」を伝えました。ローマの人たちにとっても、欲望を抑えるというのは大変重大な関心事だったのです。では、具体的にどのようにして欲望に打ち勝つことができるのでしょうか?パウロの示したポイントは二つです。ひとつは、過激に聞こえるかもしれませんが、キリストと共に十字架に架かって、それで肉の働きを殺すというものです。パウロはガラテヤ書の5章24節でこう述べています。
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
これと同じことを、パウロはローマ書簡でも語っています。それがローマ書6章6節です。お読みします。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなったためであることを、私たちは知っています。
このように、パウロは繰り返し私たちの罪のからだ、肉のからだは十字架につけられたのだと語ります。しかし、私たちが文字通りに十字架に架かるわけではありませんので、これは一種の比喩的な表現だということになります。ではパウロは何を言いたかったのでしょうか?その点を考えて見る前に、パウロが欲望に打ち勝つ二つ目のポイントに挙げたものを見てみましょう。一つ目はキリストと共に十字架に架かることですが、二つ目は「聖霊に従う」ということなのです。パウロは今日の箇所の13節でこう述べています。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
このように、パウロは聖霊が肉のからだの働きを殺すと述べています。しかし、十字架に肉の欲望を付けなさいとか、御霊によってからだの行いを殺しなさいとかいわれても、なんだかとても曖昧で良く分からないですよね。じゃあ、具体的にはどうすればよいのか、と思われるのではないでしょうか。
私たちはどうすれば聖霊に従うことができるのでしょうか?いえ、もっと分かりやすく言えば、どうすれば聖霊が私たちの上に働いてくださるのでしょうか。単刀直入に言えば、聖霊は私たちが福音を聞くことで私たちの上に働きます。この場合、福音を「イエスの生涯」と言い直してもよいでしょう。私たちがイエスのご生涯の話を聞き、そしてその生き方に倣いたい、そのように生きたいと願う時に聖霊は私たちの上に強く働くようになるのです。これがポイントです。
ここで忘れてはならないのは聖霊、神の霊とはキリストの霊、キリストの御霊とも呼ばれることです。聖霊とは主イエスご自身の霊なのです。ですから私たちに聖霊が降るということは、私たちが主イエスそのものを受けるということなのです。主イエスがある意味で私たちに乗り移って、私たちを強め、助け、ご自身のように生きる力を私たちに与えてくださるのです。よくスポーツ選手が、試合の時に先輩の選手の力が自分に乗り移って、思わぬ力を発揮できた、というようなことを言うことを聞きますよね。ある意味で聖霊を受けるというのはそういう意味であり、パウロはこのことを非常に劇的な言い方で表現しています。これはガラテヤ書の一節ですが、より原文に近い訳ということで新改訳ではなく聖書協会共同訳からお読みします。ガラテヤ書の2章19節と20節です。
私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。
福音の私たちを救う力とは、自分もイエスのように生きたいと思わせる力であり、そして実際にそのように生きる力を私たちに与えるのは主イエスご自身の霊なのです。自分の体をキリストと共に十字架に付けなさい、ということの意味は、私たちも自分の人生においてキリストが苦しまれたような苦難を受けることを恐れるな、ということです。なぜなら、そのような時にこそキリストの霊が私たちの内に強く働くからです。私たちがイエスのように苦しむとき、そのような時には私たちは肉の欲望に支配されずに、むしろ主イエスの力に満たされるのです。主イエスが私たちと共にいてくださる、という確信を抱くときはすなわち聖霊、主イエスの霊が私たちと共にいてくださるときなのです。したがって、聖霊を受けたいと願うならば、イエスの生涯を深く学び、常に心に留めておくべきなのです。
まとめになります。キリスト教神学において、聖霊論は一番難しいとしばしば言われます。しかし、「聖霊」という概念が難しく感じられてしまうのは、私たちが三位一体という大事な教理を忘れたり、見失ったりしてしまうからです。キリスト教には「キリスト」という神と「聖霊」という神の別々の二人の神がいるのではありません。キリストと聖霊とは、区別はできますが、それでも同じ唯一の神なのです。イエスという方は人間として地上を歩まれた歴史上の人物で、聖霊は霊であり肉体を持ったお方ではありません。しかし、私たちの体と心が密接不可分で一つであるように、キリストと聖霊も一つであり分離できないのです。ですからキリストと聖霊が思うこと、願うことは一つです。聖霊の願われることはすなわちキリストの願われることです。ですから「聖霊を受けなさい」というのは「キリストを受けなさい」ということであり、「御霊に従いなさい」とは「キリストに従いなさい」ということなのです。そして私たちがキリストに従おう、キリストのように生きようと強く願う時に聖霊はもっとも強く私たちの内に働き、私たちを作り変えてキリストに似たものとしてくださるのです。ですから、聖霊を受けたいと願う人がすべきことは、主イエスご自身のことをより深く知る事です。イエスをより深く理解すればするほど、イエスの霊は私たちにより強く働きかけるからです。当教会では、これまで二年にわたってサムエル記を読んできましたが、いよいよ今度の後半は「マタイ福音書」の学びに入ります。この福音書を通じて主イエスの事を知れば知るほど、聖霊は私たちの人生に強く働きかけるでしょう。聖霊を受けるために、今後もイエスに学び、イエスに倣って歩みましょう。お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神様、ペンテコステ礼拝を持てたことを深く感謝します。私たちもますます主イエスの事を知り、聖霊の力に与ることができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン