みなさま、イースターおめでとうございます。今日は主イエスが死者の中からよみがえられたことを祝う、キリスト教における最も大切な主日です。今朝は、ルカ福音書の復活後における大変有名な物語、「エマオの途上」についてお話しします。この話は大変有名なので、イースター説教で取り上げられることが多いのですが、私も二年前のイースターに取り上げています。私がこの教会にきて五年目で、同じ箇所から説教するというのは今回が初めてになりますが、二年前の説教とは違う視点からこの箇所を読み解いて参りたいと思います。
主イエスは復活された後、多くの弟子たちの前に現れますが、その際に非常に興味深い現象が起こっています。それはどんなことかといえば、復活したイエスに会った人々は、最初はその人物がイエスだとは気が付かなかった、ということです。その典型がまさにこのエマオの出来事なのですが、それはなぜなのか、ということは主イエスの復活の意味を考える上でたいへん意味深いことだと思われます。
相手の顔を見ても、相手のことが認識できないという状態は相貌失認(そうぼうしつにん)と呼ばれているそうで、認知機能障害の一つだとされています。このような方は結構な割合でおられて、100人に1人はそういう問題を抱えておられると言われています。かなり多いですよね。1億人で考えれば100万人ということになります。有名なアメリカ映画のスターであるブラッド・ピットさんも自分はそういう症状を持っていると自ら明らかにしています。けれども、復活したイエスに会って、最初にそれとは気が付かなった人たち、ヨハネ福音書によればマグダラのマリアや十二使徒のペテロたちのことですが、彼らはそのような認知機能の問題を抱えていたわけではありません。彼らは他の人を見てもそれが誰だか分からない、ということはなかったわけですから。彼らは復活のイエスのことだけが分からなかったのです。
今回のエマオの途上でイエスに会った二人の人物、クレオパと呼ばれる人ともう一人の弟子はエマオに向かう途上でイエスに出会います。その際、別にイエスは覆いで顔を隠しているわけはないのですが、二人は道すがらイエスとずっと話し込んでいてもそれがイエスだとは分からなかったのです。17節では「ふたりの目はさえぎられていた」となっていますが、原語のギリシア語を直訳しますと、「彼らの目はイエスを認識しないように留められていた」となります。彼らはイエスと熱心に話し込んでいましたから、イエスの声や話しぶりを聞いて、「あれ、なんだかイエス様と話しているみたいだ」と、たとえ容貌からイエスだとは分からなくても、直観的にイエスだと気がついてもよさそうなものですが、しかし道中では全然気が付かなかったのです。彼らは夕方になり、目的地の家に入りますが、その見知らぬ人の話に興味を引かれて、彼を引き留めて一緒に泊まってほしいと願い出ます。そして一緒に坐って食事までします。立ち歩きではなく、座った状態で相手の顔をまじまじと見れば、今度こそイエスだと気が付きそうなものですが、それでもその相手がイエス本人だとはまだ気が付かないのです。イエスがパンを裂いた時にようやくイエスだと気が付くのですが、その時にイエスは消えてしまったという何とも不思議な結末でこの話は終わります。
では、いったいどうして彼らはこれほど長い間一緒にいたのにイエスだと気が付かなかったのでしょうか。可能性は二つあります。一つは、イエスの姿が復活前とはまるで別人のようになっていて、顔つきだけでなく、声や雰囲気も変わってしまっていたので、彼らが気が付かなかったというものです。もう一つは、イエスと出会った二人の側に何らかの認知機能を妨げる要素が働いていたのではないか、という可能性です。その二つについて考えてみましょう。
先ほども申しましたが、復活のイエスに出会っても、それとは気が付かなかったのはエマオの途上にいた二人の弟子たちだけではありませんでした。ここではルカ福音書だけでなく、他の福音書も見てみましょう。まず最古の福音書であるマルコ福音書ですが、この福音書はイエスの墓に行った女性たちが天使と思われる青年に出会って、恐ろしくなって逃げだすという唐突な終わり方をします。つまりマルコ福音書では復活のイエスの描写がないのです。次いでマタイ福音書ですが、そこではお墓に行った女性たちに復活したイエスが挨拶をしますが、女性たちはすぐにイエスだと気が付いています。それから、イスカリオテのユダを除く十一弟子たちはガリラヤに行ってイエスと出会いますが、彼らもすぐにイエスを認識したようです。ただし、「ある者たちは疑った」という意味深な記述があります。そしてルカ福音書です。ルカ福音書では、イエスの墓に向かった女たちが天使と思われる人物ふたりに会ったという記述はあるものの、彼女たちはその後にはイエスには会っていません。ですから、復活のイエスに最初に会ったのは、このエマオの途上にいる二人の弟子だということになります。この二人の弟子たちがイエスのことに気が付いて、そのことを十一弟子に話すと、彼らもシモン・ペテロが主に会ったということを話していました。その彼らの前にイエスが現れます。彼らはそれがイエスだと直ぐわかりましたが、しかしすぐには信じられずにイエスの霊を見ているのではないかと驚き怪しみます。しかし、イエスが食べ物を食べている様子を見て、本当にイエスが生きているのだ、からだを持って生きているのだということを信じるようになりました。
このように、マタイ・マルコ・ルカのいわゆる共観福音書では、イエスを見てもそうだとは気が付かなかったのはエマオに向かっていた二人の弟子だけでした。しかし、ヨハネ福音書では復活したイエスに会っても気が付かない人物が複数います。まずはマグダラのマリアです。彼女はイエスの墓が空になっていることにショックを受け、泣いていました。その彼女にイエスが声をかけますが、その記述はこうなっています。
彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることが分からなかった。
この場合、涙で目が曇っていてイエスだと気が付かなかった、という可能性がありますが、しかし声を聞けば気が付きそうなものです。しかし、その声を聞いても彼女はその人物がイエスだとは気が付かず、むしろ墓の管理人だと思っていました。その後にイエスが「マリア」と名前を呼ぶと、そこで初めてマリアはイエスだと気が付きます。マリアはそのことを他の十二弟子たちに伝え、その弟子たちの前にイエスが現れますが、彼らはそれがイエスだとすぐに分かります。ところが、ヨハネ福音書21章のエピソードによれば、その十二弟子の多くがガリラヤ湖の湖畔で再び復活のイエスに会うのですが、彼らの誰一人としてそれがイエスだとは気が付きませんでした。彼らはすでに復活の主と出会っているのですから分かりそうなものですが、にもかかわらずイエスだとは気が付かないのです。同時に、彼らはその人物が幽霊のような得体の知れない存在ではなく、普通の人だと見なしています。それから不思議な出来事が起きます。それは、かつてペテロが主イエスから召されたことを思い起こさせるような出来事で、夜通し漁をしても何も取れなかったのに、イエスの指示通りにすると夥しいほどの魚が釣れたという出来事です。その出来事がここで再現されました。ここに至ってやっと、弟子たちの内の一人、「主に愛されていた弟子」がこの人が主だと気付き、ペテロや他の弟子もここでようやく気が付きます。このように、復活のイエスと出会ったこれらの人々は、遅かれ早かれその人物がイエスだと気が付くのですから、復活したイエスの容貌が復活前のそれとは全然違っていた、まるで別人のような顔かたちになっていたということではなさそうです。もし姿かたちが全くの別人になってしまっていたのだとしたら、その人物が「私がイエスだ」と説明しないことには気が付くことはなかったでしょうが、そのような説明なしに彼らは復活の主のことが分かったのですから。
ですから、いくつかのケースで弟子たちがイエスの事を気が付かなかったのは、イエスの容貌が劇的に変わって、まるで別人のようになってしまったのではなく、むしろ弟子たちの側にイエスの認識を妨げる要因があったと考えた方がよさそうです。では、それはどういう要因なのでしょうか?そのことを考えてみましょう。
私たちが物事を認識しようとするとき、私たちの抱いている世界観がその認識を阻害する、邪魔するということがあります。私たちはある物事を目撃したとしても、それが自分の世界観と合わないと、それを受け入れられないのです。みなさんは超常現象というものを信じるでしょうか?そんなもの、信じられるわけがない、詐欺に決まっている、というのが大方の反応でしょうし、それは正しいと思います。世に超能力として喧伝されているもののほとんどは、金儲けのための詐欺話です。では、福音書に記された数多くの奇跡物語はどうでしょうか?それならば信じるけれど、それだけだ、聖書に書いていること以外の奇跡は信じない、というクリスチャンの方も多いと思います。なぜ聖書の話は信じるかといえば、それは「聖書は真実だ」という世界観を私たちが持っているからでしょう。逆に言えば、聖書の奇跡以外は決して信じない、という方が多いのではないでしょうか。
現代人の多くの方は、超常現象といいますか、奇跡的な出来事など決して起きない、信じないという方が多いと思います。それについて興味深い話があります。みなさんはフロイトという名前を聞いたことがあると思います。彼は心理学、特に深層心理学の創設者ともいえる人物で大変有名な人です。その弟子で、同じく大変有名な人物にユングという人物がいます。このフロイトとユングですが、二人は子弟だったのですが、後に決裂します。フロイトとユングの愛憎半ばする関係は有名で、それについてはいくつもの著作が書かれていますが、その決裂の原因について興味深い話があります。その話は、あまり学術書には取り上げられておらず、その理由もよく分かるのですが、それは超常現象に対するアプローチの違いでした。ユングはどうも特殊な能力の持ち主だったようで、若いころ誰もいない食卓の固いテーブルが轟音と共に大きく裂けたり、そのしばらく後に籠の中のナイフが粉々に砕けるという出来事がありました。そんなことがあるはずがない、誰かがそれを壊したのに違いない、と普通は考えるでしょうが、少なくともユングや家の人たちは、それらは自然に起きたと考えていました。しかし、堅いテーブルやナイフが自然に砕け散るなんてことがあり得るのでしょうか?ユング自身は、それは自らの精神的な力が引き起こしたと考えざるを得なかったのです。ユングという人は、滅茶苦茶頭の良い人ですが、しかし自分のそういう力を持て余していたようです。フロイトとユングはこのような現象についての考え方で決定的に意見が異なっており、いわゆる超常現象を信じざるを得なかったユングと、そんなことは決して受け入れないし、受け入れてはならないと考えるフロイトは対立していました。二人が決裂した最後の対談の時も、ユングの精神が高まってくると、バンというものすごい物音がしたのですが、ユングはそれは自分の精神が物理的なものに影響を及ぼしたのだと言いますが、フロイトは決してそんな話は信じずに、ユングが何かのトリックで自分を騙そうとしていると激高したといいます。こんな話は確かに学術的な本にはそぐわないので、このエピソードを紹介している本はあまりありませんが、どうもそのようないきさつがあったようなのです。
なぜ、聖書とは何の関係もないこのような話をしたのかといえば、私たちは目の前で起きる出来事を自らの世界観を通じて見るのだということを強調したかったからです。目の前で起きた不可思議な出来事を、フロイトは子供だましのトリックだと見なし、ユングは本物の出来事だと見なしました。フロイトにとって、そういう不思議な現象が起きるのだということを受け入れるということは、彼の世界に対する見方、世界観そのものを変えなければならないということを意味したのでしょう。世界には、そんな常識を超えたことが起り得るのだと。しかし、科学の法則に反するようなことは決して起こりえないという世界観を持つ人は、そんなことは絶対に受け入れないし、受け入れてはならないことなのです。
そして、イエスの復活を受け入れるということは、まさに私たちの世界観そのものをまったく新しいものに変えなければならないということを意味します。私は、ある弟子たちが復活のイエスを認識するのに相当な時間がかかったという話は、そのような世界観の変更を示しているのだと考えています。よみがえったイエスを認識するということは、ただ死んだ人がたまたま生き返ったということを信じるのに留まりません。むしろ、そんなことが決して起こりえない世界が、起こりうる世界に変わった、そしてそのような根本的な変化をもたらした方がいる、ということを受け入れることなのです。繰り返しますが、イエスが復活したということは、単に死んだ人が不思議なことに生き返ったといことではありません。そうではなく、この出来事は神が死を打ち破ったという事実を証明することなのです。この世界を支配する死は、もはや力を持たない、私たちの世界を支配する死はいずれ完全に打ち破られる、そのことを示しているのがイエスの復活なのです。ですからパウロはこう宣言します。
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのみこまれた」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(第一コリント15:54-55)
イエスの復活を信じるということは、神が死の力を打ち破った、それゆえ私たちももはや死を恐れる必要はないことを信じることなのです。これが信仰です。キリスト教信仰を持つということは、自分が罪びとで、その罪がイエスの死によって赦されたということを信じるだけではありません。イエスの死の意味を深く理解するということはもちろん重要ですが、それだけでは十分ではないのです。イエスがよみがえったということは、脳死状態に陥った人が数日後に蘇生したというような話ではありません。そんな現象なら長い歴史の中で何度も起きています。イエスの復活のからだは、また時がたてば死んでしまう、そういう肉のからだではありませんでした。たしかに触れたり触ったりすることのできるものではあるものの、しかし私たちの朽ちる肉体とは根本的に異なる性質を持ったからだです。それがどんなものなのかを説明するのが難しいので、使徒パウロは第一コリント書15章で長大な説明を提供しています。それは物質的なのに決して朽ちることのない、まったく新しい性質のからだなのです。そうしたからだをもってイエスがよみがえったということは、いわば新しいビックバン、第二のビッグバンです。最初のビッグバンがどうして生じたのか、それは誰にも説明できませんが、ともかくもそれが起り私たちの世界が生じました。その世界は今でも膨張し、拡大しています。しかし、イエスの復活はそのビッグバンを上回る新しい創造の始まり、新しい世界の始まりなのです。正しい人の死がただの無駄死にでは終わらない、「あの人は立派な人だったけれど、残念な死に方をしたね」ということでは終わらない世界の始まりです。エマオの途上の弟子たちは、「イエスはすごい人だったけれど、結局世界を変えられなかった。彼は道半ばで死んでしまったので、これで夢は終わってしまったのだ」と考えていました。しかし、彼らが路上で出会った不思議な人物は、聖書を用いて彼らの世界観を揺さぶります。神はそんなに小さな方だろうか。あなたがたは世界を変えてしまう神の偉大な力を過小評価しているのではないか、と。彼の話に引き込まれた二人の弟子は、ついにその語っている人物がイエスご自身だということに気が付きます。そしてその時には彼らの世界観も一新されていたのです。
私たちも、このエマオの途上の二人の弟子のように、世界観という根本的なレベルで物事の見方を変えること、変えさせられることが求められています。イエスの復活によって、この世界は根本的に変わってしまったということを信じること、これがキリスト教信仰です。それなしには、いくらイエスが立派な人だと信じていても、あるいはいくら自分の罪深さを自覚したとしても、私たちの信仰は虚しいものです。神はこの壊れた世界そのものを贖おうとしておられる、その神の遠大なプロジェクトの初めの一歩がイエスの復活なのです。そのような信仰を胸に、これからも福音を宣べ伝えて参りましょう。お祈りします。
イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神、そのお名前を賛美します。その大いなる力で私たちの死すべきからだをも生かしてください。復活の光の中を歩ませてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン