1.序論
みなさま、おはようございます。今日は2024年度の最後の礼拝です。私事になりますが、私が当教会に赴任したのが2020年の4月ですので、まるごと五年が経ったことになります。あっという間の五年間でしたが、同時に当教会には本当にいろんなことがありました。また、世界を見渡しても、2020年以降にはコロナのためのロックダウンや、ウクライナ、中東ガザでの紛争における悲惨なニュースが毎日のように飛び込んできて、心穏やかでは済まされない日々が続きました。そんな中でも、当教会がたゆまず歩んでこれたことについて、みなさまに、そして何よりも主に感謝いたします。
さて、今日も第一ペテロからメッセージをさせていただきますが、前回の箇所でペテロは私たちクリスチャンが今や神の神殿であり、そしてクリスチャンの日々の歩み、生活そのものが神への礼拝なのだということを教えました。今回の箇所は、その教えを土台としながらさらに深い内容に入っていきます。特に重要なのは以下のポイントです。すなわち、ペテロは教会が今や一つの民族、さらに大胆な言い方をすれば一つの国家なのだと主張しているのです。「聖なる国民」であるというのは、ある特定の国家に属しているということだからです。しかも、この聖なる国民というのはこれまではある一民族、つまりユダヤ人に限定されていたのですが、この新しい国家はあらゆる民族から構成される超国家とも呼ぶべきものだと言っているのです。
しかし、となると一つの問いといいますか、問題が生じます。この新しい国、聖なる国民からなる国にはあらゆる民族のクリスチャンが属しています。日本の場合でいえば、クリスチャンは日本人であると同時に、キリストの国にも属している、いわば二重国籍の人だということになります。そして日本と神の国、神の国はキリストの王国とも言えますが、この二つの国、二つの国家が同じ方向を向いていれば、クリスチャンにとって何の問題も生じません。しかし、この二つの国家が異なる方向を目指してしまった場合、そのどちらの国民でもあるクリスチャンはどうすればよいのか?という問題が生じるのです。国の命令することが神の法と衝突してしまった場合、どちらに従うべきなのかという問題です。
ここで、日本という国に置かれた教会の立場を考えてみましょう。私たちキリスト教会は、日本という国に守られ、守られているだけでなく様々な特権を受けています。その最たるものは基本的な宗教活動に関しては課税されないということです。具体的には、献金には課税されません。ただ、これは宗教に限った話ではなく、他の公益法人、学校法人のような機関も、学費のみならず金融商品からの利息などの収益にも課税されません。このように学校や宗教団体が優遇されているのは「公益性」があると広く社会から認められているからなのです。しかし、その宗教法人が公益どころか社会の害悪になる場合もあるのです。その最も生々しい事例が30年前の地下鉄サリン事件という化学兵器を用いた無差別殺戮なのですが、そういった事件を前にすると宗教というものの持つ危険性を強く感じるわけです。宗教の持つ力は実に巨大なもので、人々を犯罪行為に走らせたり、また最近解散命令が下された宗教法人の場合は年間400億円という巨大企業並みの金額を、なんと献金のみで集めるという信じがたいことが起きています。その献金が自発的なものであればまだしも、信者さんを精神的に追い込んで献金させた不法なものだったという裁判所の判決が出ています。ただ、日本の有名な宗教法人の財産は正確には分かりませんがこれどころではない強大なものだと考えられます。日本の与党の一角を支える宗教法人の献金額はさらに巨大だと言われています。私どものようなささやかな教会からすると、まるで別世界のような話ではありますが、こうした宗教団体の金満ぶりと、そのお金の使途の不透明さが、多くの日本人が宗教に向ける不信感の一因になっているものと思われます。日本という国に守られながら、日本のためになってないのではないか、という疑念を抱かれてしまうのです。ですから、宗教と国家の関係を考える大前提として、私たち宗教組織は自分たちの住む国家に良い意味で貢献できないのであれば、偉そうなことはいえないということを肝に銘じた方がよいということです。
宗教の危険性ということを申し上げましたが、宗教の持つ危険性の一番深い部分は、実は宗教の持つ魅力、つまり人々を引き付ける力と表裏一体の関係にあります。それは何かというと、「選ばれた人」と「選ばれなかった人」という二元論です。多くの宗教では、「あなたがたは神様から特別に選ばれた存在なのだ」ということを教えます。そう言われると、なんだかうれしい気持ちになりますよね。でもその反面、選ばれなかった人たちがいるということになってしまいます。そうなると、選ばれた人たちは選ばれなかった人たちに対して自ずと優越感を抱いてしまいがちになります。このような優越感が歪んだ形で肥大してしまった結果生じた最悪の事件が、地下鉄サリン事件だということになるでしょう。神に選ばれなかった人たちの命の価値を極端に低く見積もってしまうことによって、こんな残忍な事件が生じてしまうからです。日本人の場合で考えれば、「選ばれた日本人」と「選ばれなかった日本人」がいることになります。こんな風に露骨に考えるクリスチャンの方はいないでしょうが、キリスト教の教理にそのような面があるのは否めませんし、人々がキリスト教に不信感を抱く理由の一つになっているように思います。
このように、多くの宗教が持つ「選民思想」は宗教の魅力であるのと同時に、人々に宗教への警戒感を抱かせる要因にもなっています。宗教の側からも、そうした問題を乗り越えようとする試みがなされています。その一つが親鸞聖人の浄土真宗です。私は浄土真宗の専門家ではないので不正確であるかもしれませんが、その教えは一種のユニバーサリズム、つまり「すべての人が救済される」というものであると思われます。すべての人が救われるのであれば、「選ばれた人」と「選ばれなかった人」という違いはなくなります。
そしてもう一つは「選ばれた人」は「選ばれなかった人」に仕えるために選ばれた、という見方です。フランスの格言にnoblesse oblige、つまり高貴なる者は義務を負うというものがありますが、クリスチャンという聖なる人々は、その他すべての人たちの幸せを願い、その義務を負うという思想です。「選ばれた人」というのは、たとえば学級委員に比べることができるでしょう。学級委員は選ばれた人だから偉いんだ、ということではなくて、むしろ他のすべての生徒の学生生活をよりよいものにするために選ばれたのです。クリスチャンも同じ理由で選ばれたということです。このような視点がキリスト教の主流の考え方であるとまでは言えないものの、こうした見方がキリスト教思想の中にあるのは確かです。私個人も、選民思想はこのような観点から捉えるべきだと考えています。先ほどの、キリスト教の持つ二重国籍の問題、つまり日本で言えば日本人であると同時に神の国の国民であるという問題も、このような観点から考えるべきでしょう。私たちクリスチャンは、キリスト教国ではない日本という国をよりよくするために、積極的に仕え、関わっていくべきだということです。たとえこの国の目指す方向が聖書の示す道とは大きく異なっていると感じることがあったとしても、「この国はサタンのしもべだ」というように頭から否定するのではなく、むしろキリストの教えに従うことが長期的には国益にかなうということを粘り強く訴えていくべきでしょう。確かに、新約聖書ではローマ帝国をサタンに仕える獣、キリスト者が戦うべき存在として描いている「ヨハネ黙示録」のような書があります。しかし、同時に今読んでいる第一ペテロのように、国家を肯定的に捉えている書簡もあるのです。このことを踏まえたうえで、本文を読んで参りましょう。
2.本論
では9節を見てみましょう。ここでペテロは出エジプトの1節を引用しています。出エジプト記19章3節以降を読んでみましょう。
モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」
この出エジプト記の言葉は、もちろんクリスチャンに向かってではなく、キリスト教が成立する千年以上も前に、民族としてのイスラエル人に対して語られた言葉です。したがって、ユダヤ人以外の人に対して語られた言葉ではないのです。しかし、この第一ペテロ書簡の受け手はユダヤ人以外の異邦人です。ですから、ペテロは元々ユダヤ人のための神の約束、「あなたがたが私の声に聞き従い、契約を守るならば」祭司の王国になるだろうという約束が、今やユダヤ人ではない異邦人において実現したと述べているのです。これは非常に大胆な言葉であり、当時のユダヤ人はこのことを聞いたらびっくりしたことでしょう。選民はユダヤ人のみであるというユダヤ人の信仰を、自分自身がユダヤ人であるペテロが打ち砕くようなことを述べたのです。ペテロの手紙の受け手がユダヤ人ではなかったことは10節からも明らかです。「あなたがたは、以前は神の民ではなかった」ということは、つまりあなたがたは契約の民であるイスラエルの一員ではなかったということです。
しかし、契約の民ではなかった異邦人たちは、今や新しい契約の民となりました。その結果、かつての彼らの同胞だった人たちは、今度は彼らにとっての外国人、異邦人になってしまったのです。これは、クリスチャンになった日本人が同じ日本人仲間のことを「外国人」と呼ぶようなものです。12節でペテロが「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい」と述べていますが、それは「かつての仲間たちの中にあって、りっぱにふるまいなさい」というのと同じことなのです。これまで当たり前だった生き方、先祖伝来の生き方は実は「肉の欲」に従った生き方であり、そのような生き方をしている人たちはあなたがたにとっては外国人なのだとペテロは語っています。けれども、だからそのような人たちを避けなさい、軽蔑して近づかないようにしなさい、とはペテロは教えません。むしろ彼らの救いのために行動しなさいと教えているのです。具体的には、彼らにあなたがたの立派な行い、生き方を示して、「真の神に従うということは、こんなにも素晴らしいことなのか」と彼らが考えるようになるようにせよ、と教えているのです。もしあなたがたがだらしない生き方をすれば、彼らはあなたがたの神を軽蔑する、軽んじることになってしまう。そうなると、彼らは救われるチャンスを失ってしまう、だからあなたがたは、彼らの救いのために立派にふるまいなさいと教えているのです。先ほど、「選ばれた人」は「選ばれなかった人」のために行動すべきだということを申し上げましたが、具体的にはこういうことです。
そのような文脈と精神において、ペテロは「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」と教えています。「従いなさい」という言葉からは、人の立てた制度である国家に盲目的に従いなさい、服従しなさい、というように響くかもしれません。ただ、ここで「従いなさい」と訳されている動詞は、「責任を負いなさい」や「重荷を負いなさい」、または「協調しなさい」と訳した方が良いように思います。つまり、政府の命令は何であれ黙って従いなさいというよりも、政治的な事柄や問題に積極的に関わりなさい、自分には関係ないというような態度ではなく、社会がより良い方向に向かうように進んで重荷を負いなさい、という意味だということです。そのような前向きで善意に満ちた行動、立派な生き方というのは、愚かなおしゃべりを封じます。「論より証拠」という諺通り、キリスト教が何であるのかを示すためには、誰もわからないような複雑怪奇な神学論争で人々を煙に巻くのではなく、行動で示せということです。そうすれば、「愚かな人々の無知の口を封じる」ことになるのです。そしてここで大切なのは、私たちがこの世の制度や政府に従うのは、強いられるからではなく、自由であるからこそなのです。私たちの究極の忠誠心が向けられるのは神のみです。私たちはこの世のあらゆる制度から、不法なことや悪事を強いられたとしても、それに従う必要はありません。そういう意味で、クリスチャンは究極的な自由人です。しかし、その自由は自分勝手な目的のために用いられるべきものではありません。むしろ、すべての人々の幸福のために用いられるべきものです。奴隷が主人に仕えるように、私たち神の奴隷も、神が造られたこの世界に仕える、この世界をよりよくするために働かなければならないということです。私たちが神から与えられた自由は、そのような目的のために用いなければならないということです。使徒パウロも同じことを語っています。その箇所、ガラテヤ書の5章13節と14節をお読みします。
兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
パウロもペテロと全く同じことを言っていますね。ここで隣人というのは、自分のごく親しい人には限定されないということです。むしろ主イエスの「良きサマリア人」のたとえにあるように、私たちは見ず知らずの人でさえ、良き隣人としていくことができるのです。ですから私たちが仕えるべきなのは、ごく近くの人たちのみならず、もちろん可能な範囲の中ではありますが、社会全体でもあるのです。
3.結論
まとめになります。今日の箇所ではペテロは、今やキリストの王国というユニバーサルな国家の一員となった私たちが、それまで自分たちが属してきた国家、当時のペテロの手紙の宛先の人々にとっては小アジアの国々、私たちにとっては日本ということになりますが、これら二つの国家の間でどう生きるべきかを教えていました。
ペテロの時代、ローマやギリシアといった国々はキリスト教に対して必ずしも好意的ではなく、むしろ非常に敵対的であることもしばしばでした。しかしペテロは、そのように敵意を向けてくる国家に対してでさえ、クリスチャンは背を向けたり反抗的になったりしてはいけないと教えています。むしろ積極的に関わり、自分たちに敵意を向ける人たちからでさえ好意を向けられるように立派に振舞いなさいと教えています。翻って私たち日本の教会は、国家から敵視されるどころか、多くの面で保護されています。私たちはまずこの点に深く感謝すべきでしょう。そして、行動によってその感謝の気持ちを表していきたいと願っています。その意味で、当教会の会員の方々が「ちょうふの風」や「子ども食堂」を通じて地域の方々のために貢献できていることは大変うれしいことですし、そうした働きが続けられることを心から願っています。私たちの教会は、ご近所の方々が多く、この地域に根を張った教会です。これからもこの調布や三鷹の地で、「地の塩」として歩んでいきたいと願うものです。お祈りします。
全地を創られ、その上に様々な人間の制度を創られた神様、そのお名前を賛美します。今日はペテロから、この世の制度とどのように関わるべきかを教えられました。当教会もこの地域にあって、主の喜ばれる歩みが出来るように助けてください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン