1.序論
みなさま、おはようございます。今日はサムエル記の中でも、いやおそらくは聖書全体の中でも、最も衝撃的な箇所の一つを読んでいます。それは、我らが英雄であったはずのダビデが決定的な、また致命的な過ちを犯す場面です。それも悲劇的、宿命的な過ち、つまり避けようのない過ちではなく、ただひたすら浅ましく、不愉快な過ちです。しかも、たった一度の過ちではなく、罪の上に罪を積み重ねていくという、泥沼にはまりこむような過ちなのです。そして、この出来事を契機としてダビデ家はボロボロになっていきます。
このバテ・シェバ事件として知られる出来事をどう理解すべきか、というのが今日の説教の大きなテーマです。ここで申し上げたいのは、ダビデはたった一度の過ちで、ほんの出来心のせいで人生の後半を棒に振ってしまったということではないということです。むしろ、このような深刻な罪をおかしてしまうような前兆、あるいは伏線があったということです。私のこれまでの説教について、ダビデの悪い面を殊更に取り上げているのではないか、という印象を持たれたかもしれません。ダビデに良い印象を持たれている方には、私の説教はダビデの悪い面ばかりを強調する、偏ったものに思えたかもしれません。しかしそれは、この一連のバテ・シェバ事件を起こしてしまうような問題がダビデの中に既にあったということを示したいためでした。「ハインリッヒの法則」と呼ばれるものがあります。これはアメリカの安全技師のハインリッヒさんが考案した法則なのですが、1件の重大事故の背後には29件の軽い自己、さらにその背後には300件の一歩間違えれば事故につながりかねなかったヒヤリとする出来事がある、という法則です。私たちが一番よく知っている事例は原発事故でしょう。福島原発の事故は、たった一度の例外的な大事故ではありません。それまでも、日本の原発はあわやと思われる事故やアクシデントを繰り返し起こしてきました。運が良かった、ということで済ませてきた出来事が多くあり、それらの出来事について国民のほとんどは知りません。しかし、ついに運が悪かったでは済まされない重大事故が起きてしまったのです。
ダビデの今回の出来事にも、同じようなことが言えます。これまでのダビデの行動にはあからさまな罪と呼べるものはほとんどなかったという印象を持たれるかもしれません。しかし、ダビデの一つ一つの行動を見ていくと、その動機には何か不純なものがあるのではないか、と思わせるものがいくつもありました。その一つが、サウル家の有力な武将であるアブネル殺害に至る様々な出来事でした。ダビデは、主君であるサウル家の王のイシュ・ボシェテを裏切ろうとしたアブネル、この奸臣ともいうべきアブネルと手を結ぼうとしました。しかし、結果としてアブネルもイシュ・ボシェテも暗殺されてしまいました。ダビデはこの二人の死に直接は手を下してはいませんが、しかし彼らの死はダビデの王権確立には非常に都合の良い出来事でした。この二人の死によって、サウル王家が実質的に崩壊したからです。けれども、ダビデは本当に彼らの死に責任がなかったのでしょうか?彼らを殺した人たちは、ダビデのためにそうしたのだと言えます。ダビデにとっての邪魔者を殺せばダビデに喜んでもらえる、取り入ることができると考えて行動したのです。それに対してダビデは有難迷惑だとばかりに、そうした行動を非難します。非難はしますが、アブネルを殺したヨアブの罪は不問に付します。不問にするどころか、ダビデはますますヨアブを頼るようになります。そして、自分の手を汚したくないときには決まってヨアブに汚れ役をやらせます。ヨアブもそれを引き受けますが、そのためにヨアブのダビデに対する影響力はますます大きくなっていきます。今回のバテ・シェバ事件はまさにその典型です。
このように、人が大きな罪を犯してしまうのは、たった一度の出来心というよりも、そこに至るまでの多くの小さな罪、あるいは見えない罪の積み重ねがあってのことなのです。私たちが小さな罪についても十分気を付けるべきなのは、そのためです。主イエスが「腹を立てるな、そういう人はさばきを受けることになる」と言われたのは、神様はあなたのどんな小さな罪も見逃しませんよ、心の中で怒っただけでも地獄に落とされますよ、と脅したかったためではありません。神様はそんなに残酷なお方ではありません。むしろ、小さな怒りの感情にも気を付けなさいということです。そういう小さな感情も、ボヤが森全体を燃やしてしまうように、放置していくと暴力や最悪の場合には殺人にすらつながりかねない、ということなのです。ですから自分の中の負の感情に気が付いた時にはすぐにそれと向き合い、対処しなさいということなのです。罪も同じです。これくらいはいいや、と放置せずに、真剣にそれと向き合っていくことが、私たちを大きな罪から守ってくれるのです。怒ったら、そのままにしないですぐにその人と仲直りをする努力をしなさい、これが主イエスの教えなのです。ダビデはそうしたことをしてきませんでした。そうした霊的怠慢が、このような重大な罪として結実してしまいました。では、今日のテクストを読んで参りましょう。
2.本論
さて、11章からの話は、前の10章の話の続きとなっています。ダビデは残虐非道な王であるアモン人の王ナハシュと同盟関係にありましたが、ナハシュが死んでハヌンが跡を継ぐと、今度はそのハヌンと同盟関係を維持しようとしました。しかしハヌンはダビデが近隣諸国を次々と征服していることを警戒し、次は自分たちを攻めるのではないかと考えてダビデとの対決姿勢をあらわにします。挑発を受けた格好になったダビデは、アモン人との戦いを決意します。しかし、問題はダビデはもはや王としてイスラエルを率いて戦おうとはしなくなっていたことでした。これまでの戦いもヨアブに丸投げで、今回の11章でも再びヨアブを戦場に行かせて、自分はエルサレムに留まっています。あのナポレオン・ボナパルトも、若い時は部下が止めるのも振り切って戦場では先頭に立って全軍を鼓舞していたと言われますが、皇帝になった後はいつも軍隊の一番後ろの安全な場所に留まって姿を表そうとしなかったと言われています。また、私の友人でフランスで研究をしていた人から聞いた話ですが、フランスの大学の教員は教授職を得るまでは研究などを必死に頑張って業績を上げようとしますが、ひとたび教授になってしまうと後はのんびりしているのさ、ということでした。人間は、ある地位までたどり着くと、もうあえて危険を冒そうとせず、その地位から得られる果実を楽しもうとしてしまうのかもしれません。まさにダビデがそうでした。若い時はあれほど勇敢に戦ったダビデですが、今や部下たちが戦っている最中にも安眠をむさぼっていたのです。
しかも、その怠慢たるや甚だしいものでした。部下たちが戦場で必死に戦っている時にもダビデは昼寝をしていて、やっと夕方になって起きてきました。しかも、それから仕事をするのではなく、見晴らしの良い屋上に行って散歩を楽しんでいたのです。するとダビデは裸の女性が水浴びをしているのを発見しました。しかし、いくら古代世界といってもこんな状況はあり得るのでしょうか?
日本の有名なクリスチャンの女性作家は、バテ・シェバはダビデがいつも屋上で散歩するのを知っていて、彼に見えるように自分の裸をさらしたのだ、つまりは誘惑したのだ、ということを書いています。これが本当かどうかは分かりません。サムエル記はバテ・シェバという女性の内面について何も記していないからです。しかし、後にわが子ソロモンが王位継承権を争っている時のバテ・シェバの行動を見るならば、結構食えない女性だったのではないかという気がします。単なる哀れな被害者とは思えないということです。バテ・シェバはそれなりに裕福な家庭の人ですから、そういう人が外から見えるような場所で裸になって体を洗うというような行動をしたのはにわかに信じがたい気もします。しかし、もしダテ・シェバの行動にいくらか疑問が残るとしても、ダビデの罪が減じるわけではありません。痴漢に遭った人がセクシーな服を着ていたから、痴漢をした人の罪が減るなんてことは絶対にないように、ダビデの罪もダビデの問題なのです。ダビデ自身が行動して罪に突き進んでいったからです。
ダビデはバテ・シェバのことをすぐに調べさせます。だれが調べたのか、隠密のようなお側用人がいたのかもしれません。こんなふざけた調査依頼は公務としては頼めませんから、ダビデには何でも彼の言うことを聞く召使がいたのでしょう。その人物は密かに調査をしてダビデにその女性の素性を知らせます。その女性はエリアムの娘でした。エルアムというのはアヒトフェルの子で、このアヒトフェルの言うことには誤りがない、神のごとき知恵のある人物と言われていました。三国志の諸葛孔明のような人です。そのような人の孫娘ですから、バト・シェバも深窓の令嬢ともいうべきお嬢様でした。それだけでなく、彼女は人妻でした。これだけの情報を聞けば、普通はそんな女性に手出しをしようなどとは考えないでしょう。相手は国家参謀の孫、そして勇敢な戦士の妻です。しかしダビデは血迷っていて、王である自分にできないことはないと思いあがっていたようです。また、自分の欲望を全くコントロールできないようになっていました。彼はすぐさまバテ・シェバを呼び寄せます。しかも、王の謁見の間のような公共の場ではなく、彼個人の部屋、おそらく寝室に呼び寄せたものだと思われます。バテ・シェバは王からの呼び出しということで逆らえなかったのでしょう、あるいはひょっとすると彼女自身もどこかで何かを期待していたのかもしれませんが、言われるままにダビデの寝室に向かいます。そして、いきなりことに及んでしまいました。バテ・シェバが必死に抵抗したのか、怖くて何も言えなかったのか、あるいはあっさりと受け入れてしまったのか、分かりません。彼女は生理直後だったようで、一般的には妊娠がしやすい時だと言われています。そして、たった一度の情事でバテ・シェバはダビデの子を宿しました。妊娠に気が付くのはどんなに早くても二週間後と言われているので、おそらくそのころでしょう、妊娠に気が付いたバテ・シェバはそれをダビデに知らせます。バテ・シェバの夫ウリヤは戦場にいますので、もちろん相談はできませんが、彼女の場合は有力な父や祖父がいます。しかし彼らには相談しなかったようです。私は女性の心理が分かりませんので不用意なことは言えませんが、バテ・シェバが意に反してダビデに犯されたのなら、こんな風にすぐに自分にひどいことをしたダビデに相談できるものだろうか、という気もします。ひどいショックを受けて、恐怖や嫌悪感を覚えないのだろうか、ということです。
さて、バテ・シェバから妊娠を知らされたダビデは、ここで初めて事の重大さに気が付きます。彼は、命がけで戦場で戦っている部下の妻を寝取ってしまったのです。これは大スキャンダルです。バテ・シェバの子がウリヤの子であると言い張るのは不可能です。なぜなら彼はずっと戦場にいるのですから。バテ・シェバが普通の町の女性ならばなんとか言い逃れも出来たでしょうが、彼は名家の子女であり、夫以外の男性の子を宿すはずもないのです。ダビデは慌てました。さすがにこれは拙いと。そこで一計を案じます。彼女の夫ウリヤを呼び寄せて、バテ・シェバと一夜を共にさせればそれで一件落着ではないかと。彼女のお腹の子もウリヤの子だと、言い逃れできると。もちろん、この計画には当然バテ・シェバも協力しなければなりません。彼女が両親の咎めを感じて夫にダビデとの過ちを告白でもしようものなら、すべてが水泡に帰します。しかし、ダビデはバテ・シェバが当然協力するものと思っていたようです。ここからも、どうも二人の間には共謀関係があったような気がしてなりません。歴史にイフはありませんが、もしこのままダビデの策がうまくいって、子どもがウリヤの子だとなった場合には、バテ・シェバは夫を騙してダビデの子を彼の子だと偽って育てたのでしょうか。
ともかくも、ダビデはウリヤを戦場から呼び戻します。ダビデはウリヤに戦場での様子を報告させ、労をねぎらって家に戻ってゆっくりと休むようにと話します。しかしウリヤは謹厳実直な人物でした。神の箱、つまり契約の箱も主人のヨアブも同僚たちもみんな戦場で頑張っているのに、自分だけ安穏としていられようか、というのです。まさしくダビデとはえらい違いで、ダビデの浅ましさや罪深さが引き立つ行動です。困ったダビデはさらに一計を案じ、今度は自分との宴に招き、そこで酔わせてそのまま彼の家に送り返し、そこでバテ・シェバと一夜を過ごさせようとします。しかし、酔った後もウリヤは家には戻らず野宿のようなことをします。どうしようもないと悟ったダビデはさらに恐ろしい計画を立てます。なんとウリヤを戦場で見殺しにするように命令を出します。そして今回も汚れ役をヨアブに引き受けさせます。ダビデはヨアブに、ウリヤを危険な戦場に送り出し、しかも味方の兵士たちを立ち退かせて孤立させ、そこで戦死させるようにとの密命を送ります。しかもその密命を、命を狙われているウリヤその人に持たせたのです。もうこうなると最悪ですね。自分の忠実な部下を、何の罪もない部下を、自分の不倫をもみ消すために殺そうというのです。しかも自分は一切手を汚さず、訳の分からない命令を出すことでそうしようというのです。これほどの罪が赦されてよいのでしょうか。
しかし、何も知らないウリヤはその手紙を上官のヨアブに渡し、今回もヨアブはダビデの命令に黙って従います。まさにダビデのための汚れ役です。哀れなウリヤは真面目に戦闘に赴き、そこで命を落とします。ヨアブの命令はウリヤ以外の兵士たちにも伝えられたでしょうが、彼らはこの訳の分からない命令にひどく混乱したはずです。そんな理不尽な命令は聞けません、といった兵士もいたようです。しかし上官の命令は絶対です。逆らうわけにはいきません。しかし、せめてもの反抗として、ウリヤ一人を残して撤退せよとの命令には他の兵士たちも従わなかったようです。彼らは激戦地にウリヤと共に残り、ウリヤと共に戦死したのでした。こうしてダビデは、自分の優秀で忠実な兵士たちを相当数失ったものと思われます。今回は負け戦になりました。ヨアブもこのことを報告しなければなりませんでしたが、伝令の者に、もしダビデ王が無様な敗戦に怒ったならば、「あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました」と付け加えるようにと命じました。ウリヤのことを「私の家来」ではなく、「あなたの家来」と呼ばせたことにヨアブの精一杯の皮肉を見る思いがします。それに対してダビデも、「このことで心配するな」と伝えます。敗戦の責任は感じなくてもよい、ということです。当然ですよね。ダビデの滅茶苦茶な命令のせいでヨアブは優秀な部下をたくさん失ったわけですから、ダビデがヨアブを非難できるはずがありません。そしてダビデはこう言います。「勝ったり負けたりするのは戦の常だから気にするな。それよりさらに頑張って敵を全滅させよ。」ほんとうにひどい命令ですね。ヨアブもこのあたりでは主君ダビデのことを完全になめ切ったのではないでしょうか。この馬鹿殿様には俺がついてやらなければならないと、という具合に。
さて、夫ウリヤの死はバテ・シェバに知らされました。もちろん彼女は悲しみますが、しかし喪も明けないうちにダビデに嫁いでいます。しかし、愛する夫を失い、しかもその夫を殺したであろうと思われる人物とすぐに結婚などできるのでしょうか?ハムレットではありませんが、「弱き者、汝の名は女!」と言いたくなってしまいます。このあたりも、バテ・シェバという人になんとなく不信感を覚えてしまうところです。そして問題のダビデは、なんとあまり良心の痛みを感じていないようです。いろいろあったけど、何とか丸く収まった、とでも思っているかのようです。しかし、そうはいかなかったのです。ここで物語の隠れた主役が登場します。そう、もちろん神様です。そのことは次回見ていくことにします。
3.結論
まとめになります。今回はダビデが次々と恐ろしい罪を積み重ねていくところを学びました。モーセの律法によれば、夫のある妻を無理やり犯した場合は石打の刑で死刑になります。ですからダビデは死罪に当たる罪を犯し、それを隠ぺいするために無実の人を殺すという罪を重ねていきます。神が公平な方ならば、神はダビデを裁くべきではないか、サウル王がダビデより軽い罪で王位を追われたのなら、ダビデも少なくとも王位を追われるべきではないか、と私たちは考えます。しかしダビデの罪は赦され、王位にも留まりました。神は公平な方ではないのか、と私たちはこれから疑問を抱くかもしれません。しかし、神はダビデと契約を結んでいました。ダビデやその子孫はいくら罪を犯そうと、王位を取り去られることはない、という契約です。神は契約を守る方ですので、ダビデを王位から退けることはなさいませんでした。しかし、では神はダビデの罪を本当に見逃したのかといえば、そうではありません。
今回のダビデの行動で驚くべきことは、ダビデの頭の中から神の存在がすっぽりと抜け落ちていることです。ダビデは危機に際して神に祈るどころか、思い出すことすらしていません。ひたすら自分で考えて、自分の思うように行動しています。「神が見ている」という意識が欠落しているのです。これは私たち現代人にはよくわかることかもしれませんが、ダビデのように信仰心が篤いと思われていた人物には本当に驚くべきことです。神はいわばこのドラマの中では忘れられた存在であるかのようです。しかし、神は黙っておられても、いつも見ておられるのです。神はダビデの行動をもちろん見ておられました。そして、罪が熟しきったときに、裁きを始めます。神はダビデを赦したのではないか、と思われるかもしれません。確かに神は律法の教えを曲げてでも、ダビデに恩赦を与えます。ある意味で、神ご自身もご自分が結ばれた契約に縛られているからです。しかし、神はダビデに死刑よりも苦しい報いを与えたのも確かです。これからこの物語の手には神の見えざる手が働き、ダビデを追い込んでいきます。ダビデはどんどん窮地に追い込まれ、そこから助け出される時でさえ、必ず大切なものを失っていきます。神は侮られるような方ではないのです。蒔いた種は刈り取らなければなりません。私たちもこれからのダビデの物語を読み進めながら、神を畏れることを学びたいものです。お祈りします。
歴史のすべてを支配しておられる神よ、その名を畏れ、賛美します。今回はダビデの恐るべき罪を学びました。私たちもこのような大きな罪に陥らないように、小さな罪に向き合っていくことが出来るように助けてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン