千年王国
ヨハネ黙示録20章1~6節

1.序論

みなさま、おはようございます。本日は召天者記念礼拝となります。そこで今日は、サムエル記の講解説教から離れて、特別な聖書箇所からメッセージをさせていただきます。すなわち、ヨハネ黙示録からのメッセージです。

ヨハネ黙示録というのは、聖書全体の最後に置かれた書ですが、難解なことで大変有名な書です。牧師さんの中では、黙示録はいろいろ分からないことが多すぎて誤解を生みやすいので、そこからメッセージはしないと決めている人すらいるようです。私自身も、まだヨハネ黙示録から連続講解説教をするほどの自信はないのですが、しかし重要な書だということは認識していますし、自分自身かなり研究してきた書でもあります。ではなぜ昇天者記念礼拝でそんな難しい黙示録を取り上げるのかといえば、それは今日の聖書箇所が先に天に召された先輩の信仰者たちの魂が今どうしているのかを語ってくれる、数少ない箇所の一つだからです。

意外に思われるかもしれませんが、聖書には人が死んだ後どうなるのか、ということについての記述はあまり多くありません。また、時代と共に、死者の魂の運命についての聖書の記述が変わっていっているのが分かります。聖書の最初の書、創世記では、人は死ぬと「よみ」というところに行くと言われています。創世記37章35節には、わが子ヨセフが死んでしまったと思った族長ヤコブが嘆き悲しむ場面が描かれています。

彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められるのを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。

ここで「よみ」と訳されている言葉のヘブライ語はシェオールです。人は死ぬとシェオールと呼ばれる世界に行く、というのが創世記の世界観でした。では、シェオールとはいったいどんな世界なのでしょうか。そのことについて詩篇115編17節には、次のような記述があります。

死人は主をほめたたえることがない。沈黙に下る者もそうだ。

この記述が示すように、死者の世界であるシェオールとは沈黙、静寂の世界だという認識がありました。なんだかあまり希望のない話ですね。

しかし、神はその沈黙の世界にいる死者の霊すらもよみがえらせることができるという信仰が、預言者たちによって語られるようになりました。イザヤ書には次のような記述があります。26章の14節と19節を続けてお読みします。

死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません。それゆえ、あなたは彼らを罰して滅ぼし、彼らについてのすべての記憶を消し去られました。[…] あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。

14節では、死者の霊はよみがえらないという常識的なことが語られますが、その後の19節では驚くべきことが語られます。神は死者の霊にすらも新しい命を与えることができるのだという信仰が語られているのです。このような信仰がさらに明確に表明されるのが、旧約聖書の中でも最後に完成された書、新約聖書のヨハネ黙示録に相当する書であるダニエル書です。12章2節にはこう書かれています。

地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。

神は善良な者たちには永遠のいのちを、悪い者たちには永遠の恥辱を与えるということが旧約聖書の最後の書であるダニエル書には明確に語られています。創世記の記述からは、大きな変化があるのが分かるでしょう。

このように旧約聖書を読んでいくと、時代が下って行く中で段々と明確な死後の魂の行方が浮かび上がってきます。すなわち、人の魂は死んだ後に沈黙と静寂の世界であるシェオールにいくと考えられてきたのが、神に従って歩んだ善良な死者の魂は神によって永遠のいのちを与えられるのだ、と信じられるようになったということです。そして、新約聖書の時代になると、そのような信仰はますます明確になっていきます。本日のヨハネ黙示録は、まさにそのような箇所なのです。では、そのテクストを詳しく見て参りましょう。

2.本論

さて、今日の説教は「千年王国」です。千年王国という言葉は聞いたことがない、という方もおられるかもしれません。そして聖書66巻の中でも、千年王国について書かれている箇所はこのヨハネの黙示録20章だけです。この箇所によれば、神は人間を惑わして悪に誘う霊的な存在であるサタンを千年の間縛ることになっています。また、イエスのために死んだ人たちは生き返って、イエスと共に千年間王になる、と言われています。つまり千年王国とは、サタンが縛られ、そしてキリストのために死んだ聖徒たちが千年間王として治める、そのような王国だということです。こう聞くと、非常に漠然としていますよね。本当にそんなことがあるのだろうか、と思われるかもしれません。

そして、この千年王国をめぐっては、いろいろな解釈があり、クリスチャンの間でも正反対ともいえるほどに多様な意見があります。この問題に取り組むためには、黙示録全体をしっかり理解しておく必要があるのですが、今日の短い説教ではとうてい黙示録全体のことをお話しすることはできません。ですから結論から申し上げることになります。千年王国については、大きく分けると二つの見方があります。

一つは、千年王国は未来に到来するという見方です。私たちの今生きている時代はサタンが暗躍する悪い時代であり、そのサタンの働きを滅ぼすためにイエス・キリストはいつの日か天から下ってきて、ハルマゲドンの戦いにおいてサタンと彼に従う悪の軍隊を滅ぼして、そののちエルサレムで地上に千年間の平和な王国を作ります。その時にこれまでのキリスト教の長い歴史の中で死んでいった殉教者たちは次々に復活してキリストと共に王として地上を治める、というものです。にわかに信じがたい話かもしれませんが、アメリカの福音派の中では大変人気のある見方で、テロとの戦いを主導したジョージ・ブッシュ・ジュニア大統領を応援していたアメリカの福音派の牧師たちは、こうした見方に基づいてアメリカのイスラエル政策を支持していたのです。このように、千年王国についての見方は超大国であるアメリカの政治を動かすほどの重要性を秘めているのです。また、古代教父の中でも殉教者ユスティノスやエイレナイオスはこのような千年王国の見方をしていました。

しかし、これは私の意見だということを断ったうえで断言しますが、このような見方は間違っています。もう一度言いますが、このような見方は間違っています。なぜなら、「千年王国」とはイエスが宣べ伝えた「神の国」と全く同じものだからです。イエスの宣べ伝えた神の国は未来にしか到来しないものでしょうか?いいえ、そんなことはあり得ません。イエスははっきりと、「時は満ち、神の国は近づいた」と言われました。イエスは神の国の到来はもうすぐだ、と言われたのに、それが二千年たってもこないということになると、イエスは嘘を言ったということになってしまいます。しかし、私にはそのようなことは信じられません。神の国は、イエスの宣教と共に始まっています。だからイエスは、「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです」と言われたのです。イエスと共に神の国が始まっている一方、「千年王国」は未来にしか来ないというのなら、イエスの語った「神の国」と「千年王国」は別々の王国だということになります。しかし、そんなことはあり得ません。なぜならイエスが始めた神の国は永遠の王国であり、他の王国に取って代わられるものではないからです。イエスのもたらす神の国を預言した預言者ダニエルは、こう言っています。

この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。(ダニエル2:44)

このダニエルが預言した永遠の国こそ、主イエスが始められた「神の国」です。その神の国とは異なる千年王国が未来に現れるなどということはあり得ません。したがって、イエスの宣べ伝えた神の国、イエスと共に始まった神の国こそ永遠の王国であり、「千年王国」なのです。

このような見方は、私が勝手に言っている説ではありません。むしろ古代の最大の教父であるアウグスティヌス以来、キリスト教の正統な教理であり続けているのです。そこでこれからアウグスティヌスの説を紹介しながら、さらに「千年王国」についてお話ししていきます。アウグスティヌスは、私たちは既にキリストの支配する「千年王国」の時代を生きているのだ、と力強く論じています。そもそも「千年」という数字も文字通りのものではなく、完全数である10の三乗という、究極の完全数という象徴的なものなのです。アウグスティヌスは彼の主著『神の国』の中でこのことを明確に述べています。その『神の国』からアウグスティヌス自身の見解を引用します。

ヨハネは、この世の年数の全体の代わりに「千年」を用いたのである。それは、完全な数によって時の充満があらわされるためである。じっさい、千という数は十の立方体をくくるのだからである。[中略] まして、千という数は、十の平方が立方体であるとき、これが全体を表わすものとして用いられるであろう。(服部英次郎・藤本雄三訳『神の国』:以下同じ)

このように、アウグスティヌスは「千年」とはすべての時代、具体的にはキリストが最初に来られてから再び来られるまでの全時代を示すのだと断言しています。

ところで、一千年間、悪魔が拘禁されているのであるが、そのしばらくのあいだ、聖徒たちはキリストと共にこの一千年間支配する。それは、同じ意味において、そして、同じ時―すなわちキリストの最初の到来によって現実にはじまった時―を示すものとして解されるべきである。

アウグスティヌスは明確に、千年王国はキリストが二度目ではなく、最初に来られた時から始まっていると行っています。

では、黙示録に書かれている第一の復活とはいったい何のことなのでしょうか?キリストが最初に来られた時から千年王国が始まっているのであれば、キリストが最初に来られた時に第一の復活も起きているはずです。しかし、イエスの時代に復活したのはイエスただ一人であり、他の十二使徒たちやイエスの弟子たちが復活したなどという話は聞いたことがありません。第一の復活がまだ起こっていないなら、千年王国も始まっているはずがないではないか、という疑問が生まれるでしょう。

この問題について、アウグスティヌスは、第一の復活とは肉体の復活のことではないと説明します。神を信じない人たちは、神の目には霊的に死んでいるのです。そのような人たちが福音を聞いて、神を信じるようになる時に、霊的に死んでいた人は霊的によみがえるようになる、それが第一の復活です。アウグスティヌス自身はヨハネ福音書を引用しながら、こう解説しています

さらにイエスはつづけていわれる。「よくよくあなたがたにいっておく。死んだ人たちが神の子の声をきくときがくる。いますでに来ている。そして、きく人は生きるであろう。父がご自身のうちに生命をお持ちになっているのと同様に、子もまた、自分のうちに生命を持つことをゆるされたからである。」[ヨハネ福音書5:25-26] かれは、第二の復活、すなわち世の終わりにくるであろうところの身体の復活を語っておられるのではなく、いまおこる第一の復活について語っておられるのである。じつに、「ときがくる。いますでに来ている」といっておられるのは、それらを区別するためである。しかし、この復活は身体の復活ではなく、魂のそれである。というのは、魂も不信仰や罪においてそれ自身の死をもつからである。

ここで言われているように、第一の復活とは私たちが生きているときに、イエスの福音を信じたまさにその時に起きるのです。そして、福音を聞くことでよみがえった魂は、肉体が死んでも滅びることはありません。主イエスは、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(ヨハネ福音書11:25-26)と言われましたが、これは第一の復活の命のことなのです。したがって、確かにイエスがはじめに来られた時から第一の復活は起こっているのです。

しかし、なおも疑問を持たれる方もおられるでしょう。サタンが縛られたというのに、なぜこの世界には悪の力が強力に働いているのか?恐ろしい犯罪も、残忍な戦争も、イエスが来られた後も相変わらず起こっているではないか。どうしてこんな世界が「至福千年」、「ミレニアム」などと呼ぶことがきるのか、という疑問、反論が生まれます。やはり、天から戻られるイエスがサタンを滅ぼすまでは、千年王国など来ないはずだ、と考える人も多いのです。しかし、ではイエスが最初に来られた時に、イエスは本当にサタンに打ち勝ってはいないのでしょうか?いいえ、聖書ははっきりと、イエスが二度目に来られるときではなく、最初に来られた時にサタンの業を滅ぼしたのだと語っています。ヨハネの第一の手紙3章8節にはこうあります。「その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子は現れました。」神の御子イエス・キリストは悪魔のわざを打ち破るために地上に来られ、実際に打ち破ったのです。主イエスご自身が、そのことをはっきり証言しておられます。

主イエスは、その宣教活動の中で多くの悪霊を追い払いましたが、イエスを批判する人たちは、イエスは悪霊の頭、すなわちサタンの力を使って悪霊を追い払っているのだという、とんでもない中傷をする者が現れました。それに対して主イエスはこう言われました。

サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。家が内輪もめをしたら、家は立ちゆきません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まず強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。(マルコ3:24-26)

ここでイエスの言う「強い人」とはサタンのことであり、「強い人の家」とは、サタンの家、サタンに支配された世界のことです。そして、家財とはサタンに支配されている人、具体的には悪霊に取りつかれてしまった可哀そうな人のことです。主イエスはサタンに支配された人を奪い返すべく、悪霊払いをしています。しかし悪霊を追い出すためにはまず悪霊の親玉であるサタンを縛らなければなりません。ですから「強い人を縛り上げる」というのはイエスがサタンを縛り上げることです。まずサタンを縛ってから、彼の部下である悪霊たちを追い出すのです。イエスがもう悪霊を追い出していますから、その前にサタンのことを縛り上げているのです。したがって、イエスは二千年も前にサタンを縛り上げているのです。今日の黙示録の「千年の間サタンを縛る」ということは、もうお分かりのようにイエスが二千年前に来られてから再び来られるまでサタンを縛り上げているということなのです。

しかし、とても今の世界を見るとサタンが縛られているようには見えない、むしろいろんなところで暗躍しているのではないか、と感じられるかもしれません。ここで注意したいのは、サタンを縛るとは、サタンが何もできなくなってしまうということではありません。サタンを縛るというのは、サタンの人間に対する影響力をイエスが押しとどめてくれるということです。その結果、私たちは福音を受け入れることができるようになるのです。サタンの働きは、何も悪霊に取りつかれた人だけに及んでいるのではありません。むしろ、普通の人、何の異常もないように見える人もサタンの影響を受けて、その結果福音に目を閉ざしてしまうのです。パウロはコリント教会への手紙で、

その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(第二コリント4:4)

と書いていますが、サタンの影響力にある人は福音が見えなくなってしまいます。しかし、イエスがサタンを縛った結果、多くの人が福音を受け入れられるようになりました。イエスの時代以降、キリスト教は爆発的に全世界に広まりましたが、それはイエスがサタンを縛っている、その影響力を制限しているからなのです。

このように千年王国とはイエスが二千年前に来られてから現在にまで続く私たちの世界そのものなのです。今の世界の支配者、王は、人々がそれを受け入れようと入れまいと、主イエス・キリストなのだ、というのが私たちの信仰です。そして、主にあって死んでいった私たちの兄弟姉妹、先輩の信徒たちは今天国でキリストと共にこの支配の一翼を担っておられるのです。先輩たちは天国で眠ったり、ご馳走ばかり食べているわけではなく、イエス様のお手伝いをしてこの世界にキリストの支配を広めようと日夜働いておられるのです。

3.結論

まとめになります。今日は「千年王国」について学びました。千年王国とは主イエスが宣べ伝えた神の国、神の王国そのものです。主イエスは二千年前の地上の宣教において神の王国、神の支配を始められました。その支配は今日まで続いており、私たちはその神の支配を全世界に広めるという使命が与えられています。しかし、地上にいる私たちだけでなく、先に天国に行かれた先輩の信者のみなさまも、今もイエスの王としての働きに参与して、一緒に働いておられるのです。ですから私たちは生きていても、死んだ後も基本的にやるべきことは一緒なのです。私たちは生きても死んでもキリストのために生き、働くのです。私たちはこれからも、先に天に行かれた先輩たちとともに、神の支配、キリストの平和な王国を広げるために働いて参りましょう。お祈りします。

使徒パウロは「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」と語りました。主にあって生きる私たちも、主にあって死んでいった先輩方も、同じようにキリストのために働いています。どうか主よ、私たちがこの使命を最後まで果たして、先輩たちのひそみにならうことができるように力をお与えください。われらの主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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