ダビデ、エルサレムを王都とする
第二サムエル5章1~25節

1.序論

みなさま、おはようございます。サムエル記を読み進めて参りましたが、今日は一つの区切りとなる箇所です。これまでダビデは苦労に苦労を重ねながらイスラエルの王となることを目指してきたのですが、その目標がとうとう実現するというのが今日の場面です。さらには、ダビデが王となったということももちろん大事ですが、では王になったダビデが最初にしたことは何か、ということに注目したいと思います。

ダビデが王になった後に行ったことは、エルサレムを奪取したことでした。私たちは、イスラエルの首都はずっとエルサレムだと、当然のように考えていますが、決してそうではありません。むしろ、ヨシュアが約束の地を征服した後の士師の時代を通じて、数百年もの間エルサレムは外国人が住んでいた場所でした。その異邦人の都市をダビデが攻め落としてイスラエルの首都にしたのです。これは、よくよく考えるとなかなか意味深な行動です。なぜダビデは、長い間イスラエル人が住んできた馴染み深い都市ではなく、見ず知らずの外国人が住んできた都市を自分のための都にしようとしたのでしょうか?

日本の過去の歴史で考えてみると、日本の王になろうとする人は、それまで日本の中心だった場所、つまり京都を目指しますよね。そこには天皇がいるので、天皇を守護するという役割を引き受けることで日本の王、あるいは将軍になるのです。だから戦乱の世の武士たちは上洛することを目指したのです。しかし、上洛した後に京都に留まり続けると、そこには天皇と将軍という、二つの最高権力が併存することになります。将軍といえども、形式的には天皇の臣下ですから自由な行動が制限されます。そこで、より自由な国づくりを目指す場合は京都以外の場所を拠点にしようとします。そこで源頼朝は鎌倉に幕府を開き、徳川家康は江戸に幕府を開きました。戦国時代、江戸は開発の進んでいない遅れた土地でしたが、家康は自由な国づくりをするために、あえて未開の地を選んで開発していったのです。

ダビデの場合も、ユダ一部族の王から、イスラエル全体の王になったときに、それまで王都であったヘブロン、あるいは他の既存の大きなイスラエルの町を首都に定めてもよかったのに、まったく新しい土地、イスラエル人ではなく外国人が住んでいる都市を征服してそこを首都に定めようとしました。ダビデとしては、これまでの様々なしがらみを断ち切り、まったく新しい国づくりをしようとしたのでしょう。異国の地を王都にするのですから、すべてを一から作り上げる必要があります。それは大変な面もあったでしょうが、メリットも大きかったはずです。なにしろ、過去の伝統に囚われずにすべてを自分の思い通りに進められるのですから。エルサレムが「イスラエルの町」や「アブラハムの町」ではなく、「ダビデの町」と呼ばれたのは、その都にダビデの意向が強く反映していたからでした。

では、なぜダビデは様々な選択肢の中からエルサレムを王都に選んだのでしょうか?その理由はとても分かりやすいと思います。それは、エルサレムが天然の要害だったということです。高台に位置した、守りに強い都市でした。有能な武人だったダビデらしい選択だったといえるでしょう。実際、エルサレムは難攻不落の都市でした。イスラエルの長い歴史の中で、エルサレムは二度攻め落とされています。バビロンとローマによって攻略されたのですが、この二つの国は当時世界最強の軍隊を誇る帝国でした。しかし、その彼らにとってもエルサレム攻略は大変な難事業で、数年間にも及ぶ包囲戦の末に、やっとのことで攻略することができたのです。ダビデの慧眼通り、エルサレムは防衛には最適な都だったのです。実際、ダビデ王朝はその後400年もの間エルサレムに王都を置き続けることになります。400年というのは徳川幕府よりずっと長い期間です。古代の中近東のように、栄枯盛衰が激しい土地の中で400年もの間王朝が続くというのはなかなかないことです。北イスラエル王国など、約200年の間に10の王朝が乱立したほどです。ダビデ王朝がそれほど長く続いたのも、エルサレムという非常に堅牢な要塞都市が都だったからなのです。今日は、そのエルサレム奪取の顛末を中心に、ダビデの王としての活躍を見て参りましょう。

2.本論

では、1節から読んで参りましょう。これまでダビデはユダ一部族だけの王でしたが、残りの11部族もダビデに王になってほしいと願うようになりました。それは、これまでイスラエルを治めていたサウル王家が実質的に途絶えてしまったからでした。サウル王、その王子であるヨナタン、サウル家最強の武将であるアブネル、また二代目の王であるイシュ・ボシェテはみな死んでしまいました。もうイスラエルの人々は祖国防衛のためにサウル家に頼ることはできないのです。しかし、隣国のペリシテ人は隙あらばいつでもイスラエルを襲おうとしています。

そこでイスラエルの全部族はダビデに次の王になって欲しいと願いました。これは、まさにダビデが待ち望んでいたことでした。ダビデの目標は初めから全イスラエルの王となることでしたが、彼は内戦だけはなんとしても避けようとしてきました。イスラエルは強大なペリシテ人の脅威にさらされていますので、内輪で争っている余裕はないのです。ですからダビデはサウル家と正面切って争うことはせずに、時期をじっと待っていました。そしてついにその時が来たのです。こちらから王になろうとするのではなく、向こうから王になってくれと頼んできたのですから。

イスラエルの人々は、サウルが王にいた時でさえ、イスラエルを動かしていたのはあなただ、とダビデに言います。これはお世辞ではないでしょう。最初の頃はサウルにとって、ダビデはなくてはならない人材、自分のために戦ってくれる心強い存在でした。ただ、その存在があまりにも大きくなりすぎたために自分の地位が脅かされると感じてダビデの命を狙おうとしたわけですが、それだけダビデの存在感が巨大だったからでした。さらにはイスラエルの長老たちは、主がダビデを王に選んだのだと言いました。神がダビデを選んだことは、当初こそ主の命令でダビデに油を注いだ預言者サムエルと、ダビデだけの秘密でしたが、人の口に戸は立てられぬということでしょうか、今やそのことはイスラエル中が知る所となっていたのです。

それから、ダビデはイスラエルの全長老と「契約」を結んだ、とあります。ユダ族がダビデを王としたときには、「契約」を結んだ、という記述はありませんでしたので、これは注目すべきことです。しかも、ここでの「契約」の目的は、ダビデの王権に制限をかけるためのものだったと思われます。立憲君主制の国であるイギリスは、マグナカルタなどの法律で王様の権限を制限してきましたが、ここでイスラエルの長老たちとダビデが結んだ契約も、ダビデに無制限の権限を与えないためのブレーキとしての意味合いがあったものと思われます。今日でも、ユダヤ人の大富豪は結婚する当日に、離婚した場合の財産分与などの権利関係についての詳細を定めた「契約」を結ぶと言われていますが、イスラエルの長老たちも、ダビデが暴走した場合はユダ族以外のイスラエルの諸部族はあなたを王とは認めない、という趣旨の契約を交わしたものと思われます。実際、ダビデの孫であるレハブアムが暴走した時、イスラエルの十部族はこの契約を発動して、彼の統治を否定して北イスラエル王国を築きました。無制限にダビデ家に忠誠を誓うユダ族と、他の部族との違いがここに表れています。ダビデはこの時37歳でした。ユダ族の王として7年務めた後、全イスラエルの王となったのです。まずは小さな範囲で王としての実績を積んで、それから多くの部族を束ねる王となるという、ある意味で理想的なキャリアと言えます。

全イスラエルの王となったダビデは自分のために都を定めたいと願いましたが、しかしダビデが最初に行ったのはエルサレム攻略ではないと思われます。なぜなら、エルサレムを攻めている時に背後からペリシテ人に攻められると挟み撃ちなり、全滅しかねないからです。ですから、まず後顧の憂いを絶つためにペリシテ人を討つ必要がありました。5章では、エルサレムを攻めた後にペリシテ人と戦ったことになっていますが、実際は17節以降のペリシテ人との戦いが最初で、その後にエルサレムを攻めたものと思われます。5章では出来事の順番がひっくり返っているということです。

そして、首尾よくペリシテ人に打ち勝ち、彼らの侵攻の心配がなくなった後にダビデはエルサレムを攻めて自分のための都にしようとします。エルサレムは難攻不落の都市で、過去の長い間、イスラエル人にとっては誰も攻略できなかった都市です。その不可能とも思える事業にダビデは果敢に挑みます。ダビデは、放浪時代から自分に従ってきた精鋭たちを引き連れてエルサレムに向かいました。ダビデには秘策がありました。おそらくダビデは事前にスパイを送り込んで、エルサレムの弱点を探っていたのでしょう。エルサレム唯一の弱点、アキレス腱を見つけ出していました。エルサレムは乾燥した地にあり、しかも高台なので、水の確保がなによりも死活問題でした。そのためエルサレムには、現地の人しか知らない水汲み用の地下トンネルがありました。ダビデはそこの防備が手薄であることを知り、そこに勝機を見いだしたのです。その地下トンネルに精鋭部隊を潜り込ませ、油断しているエブス人のいるエルサレム市外に突入したのです。

8節にはダビデが目の見えない者、足のなえた者を憎んだ、とありますが、これはダビデが障害を持った人を差別したとか、もちろんそんな意味ではありません。むしろ6節でのエブス人たちの心ないヤジ、つまりダビデたちの軍隊など目の見えない者、足のなえた者でも追い返せるというヤジへの返答として読めるということです。お前たちエブス人は目の見えない者、足のなえた者であり、お前たちエブス人をダビデは憎むという意味でしょう。ともかくも、ダビデは地下水路を通っての奇襲作戦を成功させ、見事にエルサレム攻略を成功させました。ダビデはエルサレムを攻め取った後、内側に城壁を建てました。また、自分たちが奇襲に用いた水路の防衛もしっかりと行ったことでしょう。こうして、ただでさえ堅固なエルサレムの防備はより一層強力なものとなりました。

そのダビデのもとに、ツロの王ヒラムがやってきました。ツロとは、今日のレバノンに位置するティルスのことで、レバノン杉で有名な、大変豊かな交易都市でした。ツロの住民はフェニキア人と呼ばれる、貿易が得意な民族です。その王であるヒラムがダビデの元に同盟を申し込みにやってきました。彼らは商人国家なので、ダビデが新しく王都を定めたことで、様々なビジネスチャンスがあると思ってやってきたのでしょう。実際、ダビデは王宮などたくさんの建物を建てる必要があったので、富と繁栄のシンボルであるレバノン杉を供給してくれるツロの王や商人たちは願ってもない来訪者でした。彼らは資材を提供するだけでなく、大工や石工を送り込んで、ダビデのために王宮を建てて上げました。彼らは後に、ソロモン王の時代にあの有名なソロモン神殿も建てることになります。ダビデはこうして、異国風の非常に立派な王宮に住むことになります。

さらにダビデは、ますます多くの妻やそばめを抱えます。これまでも、5人の妻を持ち、さらにはサウル家からミカルを取り戻していたので6人の妻を持っていたダビデですが、さらに多くの妻たちを迎えました。ダビデという人物は美人には目がない人だったようで、次々と美しい女性を見つけては妻にしていきます。たくさんの妻を持ったことで、王宮に加えて大きな後宮も必要になったことでしょう。おそらくツロの人々がここでも大活躍したものと思われます。しかし、多くの妻とその子供たちがいたために、ダビデの家には大きな争いの種が蒔かれていきます...

このように、ダビデは王都を構え、そこに王宮を作り、また妻たちのための大きな後宮を作っていきました。ただ、心配なのは段々ダビデが神への信仰から離れていってしまうように見えることです。17節以降のペリシテ人との戦いに際しては、ダビデは戦いに行く前には常に主にお伺いを立てました。そして主の言葉を聞いてからそれに従って戦いに赴き、そして勝利を収めています。しかし、ペリシテ人の脅威が去って、いよいよダビデが自分の思う通りの国づくりをしようとする段になると、ダビデはもはや行動の度に神にお伺いを立てることがなくなってしまいました。外国の都市であったエルサレムの攻略、異国人のフェニキア人のヒラム王との取引と異国風の立派な王宮の建設、さらにはますます多くの妻を迎えること、こういうことについてダビデは神にお伺いを立てることなく、自分の思いのままに行動しているように見えます。やることなすことうまくいくので、段々と神に頼らずに自分の考えや野心に突き動かされて行動をするようになったということです。しかし、それはダビデにとって非常に危険なことでした。問題はすぐには出てくることはなく、しばらくの間は万事うまくいっているように見えるのですが、段々とそうではなくなっていくということです。

3.結論

まとめになります。今日は、全イスラエルの王になったダビデが、自らのための王都としてエルサレムを選んでそこを攻め取り、そこに立派な王宮や後宮を建てたことなどを見て参りました。ダビデとしては、まさにこの世の春が訪れたという気持ちだったことでしょう。しかし、そういう調子のよい時こそより謙虚になる必要があることも確かです。私たちの成功は、もちろん私たち自身が努力しなければ成し得ないものではありますが、その背後には神様の様々な配慮、私たちの気が付かないところで神が色々な形で助けてくださっているからこそ成し遂げられたものなのです。そういう感謝の気持ちを忘れてしまうと、そこに大きな落とし穴が生まれます。実るほど頭が下がる稲穂かな、ということわざがありますが、私たちはうまくいっている時こそ、主の前にへりくだって感謝をして歩むようにしたいものです。

また、エルサレムがはじめからイスラエル人のための都ではなかったということも注意したいと思います。エルサレムはアブラハム、イサク、ヤコブの都ではなく、武人であるダビデが攻め取った要塞都市です。そしてエルサレムは平和の都という名前とはうらはらに、戦乱の続く都であり続けました。それは今日まで続いています。どうすればパレスチナの地に、そしてエルサレムに平和が訪れるのか、というのは今や全世界にとっての重要な課題です。エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三大宗教の信者だけでなく、すべての人のための都だからです。その平和のために、私たちは自分たちの思いや願いではなく、主の御心を求めるということが何よりも大切です。そして私たちの主イエスは、エルサレムの平和のために涙を流された方です。その思いを私たちの思いとし、平和のために祈り、行動して参りたいと思います。お祈りします。

平和の主であるイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日は、エルサレムがどのようにしてイスラエルの首都となったのかを学びました。ダビデ以来、戦禍の絶えることがないエルサレムですが、その上に平和が訪れますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

ダウンロード