イエスとヤコブ
ヤコブの手紙4章11~17節

1.序論

みなさま、おはようございます。毎月の月末はヤコブの手紙からメッセージさせていただいております。今日の説教タイトルは「イエスとヤコブ」ですが、このタイトルからお察しのとおりに、今日のヤコブ書のみことばは主イエス・キリストの教えと非常に強いつながりがあります。

ヤコブの手紙の著者はイエスの実の弟のヤコブだと、伝統的には言われてきました。十二使徒の一人、ゼべタイの子ヤコブではなく、主イエスの兄弟、義人ヤコブです。もっとも、ヤコブ本人がギリシア語で書簡を書くことはできなかったと思われます。イエスの時代の人々の識字率は、大都市でも10%にもならなかったと言われています。ガリラヤの小さな村出身のイエスの兄弟たちは、自分たちの話ことばであるアラム語ならまだしも、外国語のギリシア語の読み書きは出来なかったでしょう。私たち義務教育で英語を習っている日本人でも、流ちょうな英語で手紙を書くのは相当に難しいのですから、イエスの時代の義務教育も何も受けていないユダヤ人が外国語で書簡を書くというのはとてつもなく困難なことでした。しかも、古代ギリシア語は、現代の英語よりも文法的にはるかに複雑で難しい言語です。パウロの場合は、もともと外国生まれでしかも非常に高度な教育を受けていたのでギリシア語で手紙が書けたのですが、彼のような人は例外中の例外です。ですからヤコブの手紙は、ヤコブに近い人物でギリシア語に堪能な人が、ヤコブの教えをギリシア語に翻訳した上で記したものではないかと推定されます。ともかくも、ヤコブの手紙はイエスに非常に近い人物の思想が色濃く反映した書簡だということです。

今日の箇所も、イエスの教えと非常に近い内容です。とはいえ、ヤコブは初めから兄イエスをイスラエルのメシアとして信じていたわけではありませんでした。むしろヤコブ自身は、兄であるイエスがメシアだとは初めはなかなか信じられなかったようです。マルコ福音書3章21節にはこうあります。

イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。

ヤコブとしては、父ヨセフが亡くなった後の一家の大黒柱だった兄のイエスが、いくら神様の御用のためとはいえ、いわば家を見捨てる形で旅立ってしまったことがなかなか受け入れられなかったのでしょう。しかし、そのヤコブも復活した兄イエスを目撃することで、兄イエスへの認識を改めました。使徒パウロはこう記しています。

また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。(第一コリント15:4-7)

復活したキリストは十二使徒すべての前に現れ、それから五百人以上の兄弟たちの前に現れました。その後にパウロは「ヤコブに現れ」と、わざわざヤコブについて特別に言及しています。それはヤコブが初代教会にとって非常に重要な人物だったからです。主の兄弟ヤコブは、復活前には兄イエスがメシアだとは信じていませんでしたが、復活したイエスに出会ってからは一変し、イエスを信じる群れに加わりそのリーダーになりました。

復活のイエスを目撃してから百八十度生き方が変わったという意味では、主の兄弟ヤコブは異邦人の使徒であるパウロとよく似ています。パウロは教会の迫害者でしたが、復活の主を目撃した後は、最も熱心な伝道者の一人になりました。主の兄弟ヤコブも、以前は兄イエスが気が狂ったとまで考えていたのに、今やその兄こそ約束のメシアだと信じるようになったのです。それどころか、ヤコブはあの十二使徒ペテロをさえ上回る権威を持つ初代教会全体のリーダーになりました。あの誇り高いパウロさえ一目置く存在となったのです。これほどの劇的な方向転換をヤコブにもたらしたのは、復活したイエスを目撃するという体験でした。イエスの復活などない、死んだ人がよみがえるなどということはあり得ないと考える人は、パウロとヤコブの劇的な変化をもたらしたものは何だったのかを真剣に考える必要があるでしょう。いくら現代人には信じがたくとも、彼らの劇的な変化はイエスの復活を目撃したからではないのかということを、真剣に考えてみるのは大いに意味のあることでしょう。

ともかくも、ヤコブは今や初代教会のリーダーとなりました。そして、血は争えないというべきか、彼の教えは兄イエスと非常に近いものでした。ヤコブの手紙には、他の書簡、たとえばパウロの手紙にはない特徴、つまり分かりやすく簡潔な内容ながら、人の心を打つ権威がありますが、それはまさにイエスの教えと通じるものです。今日はヤコブの教えをイエスの教えと並べながら考えていきたいと思います。

2.本論

それでは11節から読んで参りましょう。

兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪行を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪行を言い、律法をさばいているのです。

このヤコブの言葉は、イエスの教えを思い起こさせます。山上の垂訓には似たような教えがあります。そこをお読みします。

しかし、あなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の上に置いたままにし、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:22-24)

このイエスの有名な教えは、しばしば誤解されてしまうことがあります。それは、イエス様は私たちがちょっとでも兄弟姉妹に腹を立てたり、あるいは悪口を言えば、それだけで地獄に落ちるよ、と警告しているのだというような誤解です。しかし、兄弟に腹を立てたことがない人なんていないですよね。そうなると、人類全部が地獄に落ちるという話になってしまいますが、イエス様はそんなむごいことを言いたいわけではないのです。

むしろ、この教えのポイントは後半部分にあります。それは手遅れにならないうちに、一刻も早く和解しなさいということです。それがイエスの教えの要点なのです。人が怒ったままでいる、怒りを貯めたままでいると、恐ろしい事態になりかねません。人類最初の殺人事件は兄弟殺し、兄カインによる弟アベルの殺害でした。カインは弟アベルの方が神に愛されていると嫉妬し、逆恨みしてアベルを殺してしまいました。カインは神様から怒りを鎮めなさいと忠告されましたが、それをせずにむしろ怒りを膨らませてしまい、凶行に及びました。この場合、もちろんカインの方が悪いのですが、アベルの側にも不注意な行動があったのかもしれません。聖書には書かれていませんが、もしかするとアベルはカインの気に障るようなこと、イラっとさせることを気づかないうちにやってしまっていたのかもしれません。喧嘩というのは、両方の側に多かれ少なかれ原因があります。自分だけが正しい、相手だけが悪いと考えてしまうと、仲直りをするのが難しくなり、ひたすら相手を裁き合うという事態になりかねません。ですから、喧嘩になりそうなときは、相手だけではなく自分の問題も冷静に見つめる必要があるのです。

似たようなことは族長ヤコブの息子ヨセフにも言えます。ヨセフは、父親から偏愛されていたために兄たちから恨まれ半殺しの目に遭いました。もちろんヨセフが悪いわけではないものの、彼の態度にも兄たちをイラっとさせるような無神経なところがあったのも否定できないでしょう。父からもらった上着を兄たちの前で無邪気に喜んで着たりしましたが、そのような贈り物を父からもらっていない兄たちがそれをどう思うか、少し考えれば分かるようなものです。そういう小さなわだかまりが積もり積もると爆発してしまうのです。そのような恐ろしいことになる前に、たとえ小さなことであっても兄弟姉妹の間のわだかまりはすぐに取り除いたほうがよい、それがイエス様の教えのポイントです。気が付いた時に、すぐに仲直りのための行動を取りなさい、それが手遅れにならないうちに、ということです。

イエスは大胆にも、神様のための礼拝があったとしても、それよりも和解の方を優先しなさいとおっしゃっています。神様への供え物を途中で祭壇の上に置いたままにしてでも、和解のために行けというのです。そんなのは神様に失礼ではないか、と考える方もおられるでしょうが、その神様ご自身が私たちに何よりも仲直りを優先するようにと勧めてくださっているのです。これは本当にありがたいことです。神様は私たちがお互いに仲良く過ごすことを、ご自身への礼拝よりも大切に思ってくださっているのです。

ヤコブも同じことを言っています。兄弟姉妹と仲良くしなさい、兄弟姉妹とのむつまじい関係を壊すような悪口を言い合うことは避けなさい、と言っているのです。ヤコブは、悪口をいう人は律法を裁いているのだ、といいます。律法をさばくとは、つまり律法を否定している、律法を拒絶しているということです。実際、律法は悪口をいいふらすことを厳しく戒めています。レビ記19章16節以降にはこうあります。

人びとの間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしは主である。心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という教えはイエスが最も大切な黄金律として教えられたものですが、そのすぐ前に隣人の悪口を言ってはならないと書かれていることは示唆に富んでいます。ですから、ゆえなく友や隣人の悪口を言うような人は、律法全体を裁く、拒否していることになるのです。

 ヤコブは「隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか」と私たちが神のように人を裁くことを戒めています。ただ、誤解しないようにすべきですが、私たちは友や隣人が明らかな罪を犯しているのに、それを見て見ぬふりをすべきだとか、そういうことではないのです。人の罪を戒めることと、悪口を言うことは全然別のことです。むしろ私たちは隣人の罪を指摘し、戒めなければなりません。先ほどのレビ記にも、「あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない」とあるように、隣人を悪の道から救い出すことは私たちの義務なのです。

 では、次のテーマについての13節以降を読みましょう。ヤコブは、今後はこれこれのことをして金儲けをしようとする人たちに対し、あなたがたは明日の命さえ分からないのだから、主を差し置いて自分であれこれ計画を立てるのを止めなさい、と戒めています。むしろ、「主のみこころなら、私たちは生きて、このことを、または、あのことをしよう」と言いなさいと勧めています。これも、主イエスの教えと非常に近いですね。ルカ福音書12章16節から21節をお読みします。

それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

このように、私たちは自分の明日の命のことさえ分からないのですから、今日という日に生かされていることに感謝し、一日一日を主のみこころに適うように誠実に歩むべきなのです。箴言にも次のような言葉があります。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27:1)ただ、ここでも誤解しないようにしたいのですが、イエス様もヤコブも将来のための計画を立てるな、と言っているわけではないことです。箴言にも、「あなたのしようとすることを主に委ねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」(箴言16:3)とあるように、ポイントは主にあって計画を立てるということです。自分の欲望のままに、あるいは自分の利益ばかりを考えてあれこれ計画を立てるな、というのがここでの要点です。そこでヤコブは、自分のことばかり考えずに、他人の必要のことも覚えなさいという意味で、次の有名な言葉を書き記しました。

こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。

ヨハネの手紙第一にも同じような言葉があります。

世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。(第一ヨハネ3:17)

箴言にも次のような言葉があります。

捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった」と言っても、人の心を評価する方はそれを見抜いておられないだろうか。この方はおのおの、人の行いに応じて報いないだろうか。(箴言24:11-12)

私たちは生活のいろんな場面で見て見ぬふりをします。見てしまうと、何もしない自分のことを心が咎めるので、見ようとしないのです。例を一つ上げましょう。福島原発が大事故を起こしたことがありました。それまで私たちは、原発の危険性を警告する人たちの声を聞きながら無視していました。あの人たちは極端なことを言っているだけだ、大げさなことを言っているだけだと。しかし、事故は実際に起こってしまいました。原発の恐ろしさは誰もが知るところとなりました。しかし、原発再稼働に対する反対運動は盛り上がりませんでした。目先の経済的な利益を最優先したのです。私は、こんなことでいいのだろうかと、知人の方々に問いかけたことがありました。しかし、「私は明日の仕事のことで精いっぱいだ。会社のために数字を上げなければならない。原発のことなんて考える暇ないよ」という返事が返ってきました。原発も、処理水の問題も、地球温暖化も、アフリカの飢餓や貧困問題も、皆同じです。分かってはいるけれど、そんなことに割く時間はない、私たちは忙しいのだ、というのです。そうして問題は先送りされ、私たちの次の世代はさらに苦しむことになるでしょう。しかし、このようにすべきことを知りながら何もしないのは罪だとヤコブはずばりと指摘します。このことを、心して聞くべきでしょう。

3.結論

まとめになります。今日は、イエスの教えと非常に近いヤコブの教えを見て参りました。一つは悪口の問題です。ヤコブは舌を制しなさい、神を賛美するその同じ舌で、神のかたちに造られた人を呪ってはならない、と教えました。舌を制することはとても大切です。大きな争いは、心ない一言から始まるからです。小さな火が、森林全体を燃やし尽くすように、私たちの言葉は大きな戦争さえもたらしてしまうのです。そのような悪い言葉は、心の中にあるわだかまりや憤り、嫉妬から生まれます。主イエスは、そのような争いの根となるものを早く取り除きなさい、一刻も早く和解のために行動しなさい、と教えられました。イエスの教えに日々従いたいと願うものです。

もう一つは、私たちは計画を立てる際に自分のことばかり考えずに、主のみこころを求めるべきだということでした。そして主のみこころとは、私たちが困った人たちに手を差し伸べることです。イエスは「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と語られました。

また、私たちは私たちの社会全体を蝕む様々な問題を薄々知りながらも、自分を偽ってみようとしないことがあります。そんなことよりも、今の自分の目先の問題の方が大事なのだ、そういう大きな問題は誰か暇な人がやればよいのだ、自分は関係ないと思ってしまいます。しかし、そういう人が社会の大多数を形成するので問題が一向に解決しないのです。私たちは大きな問題から目をそらすべきではありません。そのことも、ヤコブに教えられます。こうした様々なヤコブの教え、イエスの教えを胸に刻んで、今週も歩んで参りましょう。お祈りします。

私たちのすべてを御覧になっておられる神様、そのお名前を讃美します。私たちは自分を欺いて、物事を自分に都合の良いように解釈しようとする者ですが、しかし常に主のみこころを求めてそうしたわがままな思いを制御することが出来るように私たちをお助け下さい。われらの救い主、平和の主であるイエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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