霊的な成熟
ヤコブの手紙4章4~10節

1.序論

みなさま、おはようございます。毎月の月末はサムエル記から離れて、新約聖書のヤコブ書からメッセージをしています。本日は9月の最終週ではありませんが、翌週は嶋田役員がメッセージをしてくださいますので、一週繰り上げて、今朝のメッセージはヤコブ書からとさせていただきます。

今日の説教タイトルは「霊的な成熟」です。「霊的」という言葉はクリスチャンの間でしばしば使われる言葉です。「あの人は霊的な顔になった」とか、「あの人は霊性が高い」というようなことが言われたりします。しかし、「霊的な人」とはいったいどんな人なのでしょうか?なにかボヤっとした、感覚的な言葉ですよね。だいたい、霊というと普通の日本語では霊魂、お化けというような意味すらあります。しかし、聖書の言う「霊的な」というのはもちろんそんな意味ではありません。

では、「霊的な人」の反対は何でしょうか。「肉的な人」とか「この世的な人」ということになるでしょう。世的な人というのは、この世の価値観を非常に重視する人のことです。世的な人は、世間の評価に敏感です。どこに住んでいるか、どんな車に乗っているか、どんな学歴で、どんな会社に勤めているのか、そういうことを非常に重視します。そして世的な人とは、この世の価値基準を気にして、自分を少しでも良く見せよう、自分の評価を上げようと努める人だということです。そんなの、みんなそうではないか、と思われるかもしれません。確かに私たちは常に世間の評判を気にし、別に大学に行ってやりたいことがあるわけではなくても、少しでも偏差値の高い大学、評判の良い学校に行こうとします。ですから、世的な人とは特別に俗っぽいとか欲深い人というのではなく、世間一般の価値観に沿って行動する普通の人だということになるでしょう。

それに対し、「霊的な人」というのは神の価値観に沿って行動する人だということになります。ただ、神の価値観といってもなんだか抽象的で捉えどころがないですよね。ヤコブは、この神の価値観に沿って歩む人の大きな特徴は、謙虚さ、へりくだった姿勢にあると指摘します。この世の価値観に沿って歩む人は、自分を良く見せよう、自分を実際以上に優れた人間として周囲の人にアピールしようとしますが、神の価値観に歩む人はむしろ自分の小ささを認め、自分を必要以上に大きく見せようとはしません。そのような人こそ真の知恵ある人だとヤコブは指摘しましたが、そんな人は「霊的な」人でもあるのです。預言者イザヤもこう言っています。

わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。(イザヤ66:2)

主が喜ばれるのはへりくだった人、謙虚な人だということです。つまり、霊的に成熟している人は、何にもまして謙虚な人なのです。「実るほど頭が下がる稲穂かな」という日本の有名なことわざがありますが、これは聖書の語る真理を指し示す言葉でもあります。この「謙虚さ」というテーマを踏まえながら、今日のヤコブの言葉を見て参りましょう。

2.本論

では、4節から見て参りましょう。ここではいきなり「貞操のない人たち」という厳しい言葉から始まります。これまでヤコブは読者に対し、「私の兄弟たち」や「愛する兄弟たち」という親愛の情の込められた言葉で語り掛けてきたので、これには驚かされます。しかもこの言葉は女性形ですので、直訳すれば「姦淫の女たちよ」という意味になります。しかし、誤解していただきたくないのですが、ヤコブはここで女性たちだけに語り掛けたのではありません。つまり、文字通りの意味で不倫をしている女性たちを叱責しているのではないのです。むしろ、ヤコブは預言者たちの伝統に立ってここで語っています。それはどういうことかといえば、預言者たちは神を夫、イスラエルを神の妻になぞらえたうえで、偶像礼拝をして他の神々に走るイスラエルの人々を「姦淫の女よ」と言って非難しました。真の神を裏切って他の偽りの神々に走ったからです。ですから男性に対しても、このような場合には神の妻であるという観点から、女たちよと呼びかけているのです。たとえば預言者エレミヤは次のように言っています。

背信の女イスラエルは、姦通したというその理由で、わたしが離縁状を渡してこれを追い出したのに、裏切る女、妹のユダは恐れもせず、自分も行って、淫行を行ったのをわたしは見た。(エレミヤ3:8)

かつてのイスラエル王国は北と南に分裂していましたが、北イスラエル王国も南ユダ王国もそろって異国の神々に仕えたことを、エレミヤは姦淫行為として非難したのです。そして、南ユダ王国や北イスラエル王国が偶像礼拝をしたことは、それは単に宗教的な罪を犯したのにとどまらず、「世を愛した」ということだったことに注意が必要です。イスラエルの人々は、なぜ偶像礼拝に走ったのか?そこには宗教的な理由に留まらない理由がありました。北イスラエルも南ユダ王国も、周囲は敵対的な国々に取り囲まれていて、国の安全保障のためには大国に頼る必要がありました。このことは、今の日本の状況を考えれば分かるでしょう。中国・北朝鮮・ロシアという脅威に取り囲まれて、今の日本の頼みの綱はアメリカとの同盟、日米安保です。そんな中で、「アメリカに頼るな。それは世を愛することだ。神のみに信頼せよ」という人がいても、私たちはそんな声に耳を傾けるでしょうか?しかし、エレミヤの声はまさにそんな声だったのです。大国に頼るというのはこの世の基準では常識的な行動かもしれませんが、それは神よりもこの世の力に信頼しているということの表れなのです。これが「世を愛する」と言うことの本質です。エレミヤは国の安全保障のために大国アッシリアやエジプトの傘に頼ろうとするイスラエル人を批判してこう言っています。そこをお読みします。エレミヤ書2章36節です。

なんと、簡単に自分の道を変えることか。あなたはアッシリアによってはずかしめられたと同様に、エジプトによってもはずかしめられる。

エレミヤは、風見鶏のようにころころと態度を変えるユダ王国の外交政策を批判しています。これまでは大国アッシリアに朝貢して仕えながら、アッシリアが落ち目になったと見るや、すかさすエジプトに乗り換えようとする、そんな態度は、言い方は悪いですが尻軽女と変わらないではないか、と批判するのです。しかも、ユダ王国はアッシリアに仕えた時にはアッシリアの神々を受け入れたので、エルサレムにはアッシリアの偶像が溢れかえりしましたが、今度はエジプトに気兼ねしてエジプトの神々を受け入れました。こうしてユダ王国が大国に依存すればするほど、彼らの偶像がイスラエルに流入してくるのです。大国依存と偶像礼拝とは分かちがたく結びついていました。このように、イスラエルの神ではなく、この世の現実的な力、大国の軍事力や経済力に頼ること、これが「世を愛する」ということの本質です。これは今の日本にもそのまま当てはまることではないでしょうか。日本の場合はアメリカの宗教であるキリスト教はあまり受け入れているとは言えませんが、アメリカの物質主義、お金で成功の度合いを測ることの結果としての超格差社会などはどんどん日本の中に根を下ろしています。現代の偶像礼拝は物質主義、物欲にあると言えますから、今の日本人もユダ王国の人々を笑うことはできないのです。

ヤコブも、彼らの読者が神ではなく世を愛していることを鋭く見抜いて彼らに「姦淫の女たちよ」という厳しい言葉で呼びかけているのです。もちろん、ヤコブの読者たちはかつてのイスラエル人のように大国に依存して彼らの宗教を受け入れたわけではありません。しかし、彼らがこの世的な価値観に深く染まっていたことは、これまでのヤコブの手紙の内容を読めば分かります。彼らは経済的繁栄を何よりも重視し、貧しい人たちを見下すようなことをしました。そのような態度は当時の地中海世界では普通の事であったかもしれませんが、神の民の間ではそのようであってはならないのです。また、彼らが嫉妬や利己的な野心に突き動かされていることをヤコブが批判していることも、前回の説教で見た通りです。こういう利己心や野心も非常にこの世的なものです。彼らがこうした思いに囚われていることこそ、彼らが「世を愛している」ことの証拠です。しかし、「世を愛する」ということは神の敵になることだ、とヤコブは警告します。なぜなら神はその民に、絶対的な忠誠を求めるからです。この世にも神にもどちらにも良い顔をする、八方美人は許されないのです。これは私たちの人間関係に当てはめても分かりますよね。お付き合いしている男性がいて、その男性が自分だけではなく他の女性にも言い寄ったりべたべたしたりしたら嫌ですよね。「わたしかその人か、どちらを選びなさい」と言いたくなります。神様も同じです。神に仕えるのか、この世に仕えるのか、私たちは選択を迫られています。主イエスもこう言われました。

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(マタイ6:24)

ヤコブは、私たちの目が他のものに向かうのを許さないほど神が私たちを深く愛しておられることの証拠として、聖書のことばを引用します。「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」というものです。しかし、旧約聖書にはこれに相当するみことばはありません。ヤコブはどの箇所から引用したのかという問題が聖書の研究者を悩ませてきましたが、ヤコブの手紙が書かれた時代には旧約聖書の正典の範囲はまだ確定していませんでした。もしかすると私たちの知らない、現存していないテクストからヤコブは引用したのかもしれません。しかし、6節の聖書の引用ははっきりしています。それは箴言の3章34節です。そこをお読みします。

あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。

この箇所は、使徒ペテロも引用している大変有名な箇所です。ペテロの手紙第一の5章5節には、まさにこの箴言の言葉が使われています。神が目を留めるのは高ぶる者、おごる者ではなく、へりくだる者です。日本の平家物語にも「奢れるもの久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」という有名な言葉がありますが、聖書の言葉と非常に近いですね。預言者イザヤも「すべての人は草、その栄光は野の花のようだ」(イザヤ40:6)と語りましたが、人の力など神の前には無に等しいのです。その事実を知ることが、知恵の始めなのです。

そして7節では、ヤコブは神の前にへりくだることの意味を説明します。神の前にへりくだるとは、単に自分は無力です、自分は何もできませんと認めることではありません。それでは単なる卑屈です。むしろ主の前にへりくだる者とは、神に従う者、神に服従する者です。人は神の前には確かに無に等しい存在ですが、しかしその同じ神は私たちに大きな力を与えてくださいます。ですから、私たちは悪魔にすら立ち向かう力を持つことができます。神に従う者とは、神のみに従う者であり、この世のどんな力も恐れない者です。そして私たちが神に従うときに、悪魔も私たちを倒すことはできません。むしろ悪魔は逃げ去るだろうとヤコブは言います。

8節では、ヤコブは聞き手に「神に近づきなさい」と促します。しかし、神に近づくためには私たちにはすべきことがあります。神は清いお方ですから、神に近づくためには私たちは清くならなければなりません。そこでヤコブは「手を洗いなさい」と命じます。これはどういう意味なのでしょうか?イエスの時代、イスラエルの神殿に礼拝に行く人々は、必ず身を清めてから神殿に入りました。汚れた状態のままで神に近づくことは神の怒りを招く大変危険な行為だったのです。日本の神社でも参拝する時には手を洗いますが、イスラエルの神殿でも同じでした。ヤコブは、神殿に近づくときのことをイメージして「手を洗いなさい」と言っているのです。もちろん、あなたがたは神殿に行く前には手を洗いなさいということを言いたいのではなく、神殿に近づくときに身を清めるのと同じように、神の前に出て祈る時は身も心も清い状態でそのようにしなさいと教えているのです。

ヤコブは兄弟姉妹に向かって「罪人たち」と呼びかけます。私たちクリスチャンは、自分が罪びとであるという自覚が強いので、この呼びかけは当たり前のように思えるかもしれませんが、実は新約聖書の書簡、特にパウロ書簡ではパウロが読者に対して「罪人たち」と呼びかけている箇所は一つもありません。意外に思われるかもしれませんが、実際にそうなのです。パウロは常に諸教会の兄弟姉妹のことを「聖徒たち」、「聖なる人たち」と呼びかけています。ですからヤコブがここで読者に「罪人たち」と呼びかけているのは大変強い表現だということに注意してください。なぜヤコブは彼らを「罪人たち」という非常に強い言葉で呼んだのかと言えば、彼らが「二心の人たち」だったからです。彼らは神様にも、世間にも両方に対して良い顔をしようとしました。神を愛していますが、同時に世も愛しているのです。ヤコブはそのような二股状態の彼らのことを4節で「姦淫の女たち」と叱責しましたが、ここでも同じことを言っているのです。神に近づくためには、世を愛すること、世の友であること、世の中の価値観に従って生きることをやめなければならない、と命じているのです。これは非常に厳しいことばに思えます。しかし、神の民として生きるということは、やはりこの世の生き方とは一線を画すということでもあるのです。

ヤコブは9節で、「苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい」と訴えかけます。これもびっくりするようなことばに聞こえるかもしれませんが、しかしこれも預言者の伝統に立つ言葉でもあります。預言者ヨエルはこう書き記しています。

主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。「しかし、今、-主の御告げ-心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。(ヨエル2:11-13)

悔い改めるというのは、これまでの生き方を悔いて、神の方に向き直って生き方を変えることです。単に、キリスト教の教理のいくつかを頭の中で信じることではありません。それは非常に真剣な行為です。「心を尽くして」行うことなのです。ヤコブも、世を愛するクリスチャンに真剣な悔い改めを求めています。世を愛する人たちへの神の厳粛な裁きを思う時に、もはや笑ってはいられなくなります。「あなたは余命何年しかない」と医者から宣告されれば、誰だって笑えなくなりますよね。泣きたくなります。しかしその同じ医者は名医さんで、「あなたが今、今ですよ、ライフスタイルを変えるならあなたの命は助かります。私の言うことを聞いて、私の言う通りの生き方に改めなさい」と言ってくれます。イエス様も同じです。私たちを滅びへの人生から命への人生へと救い出してくださいます。しかしそのためにはイエスを信じて、彼の言うことに従わなければなりません。聞くだけで、行わないのでは何の意味もないのです。

このように、主の声に謙虚に耳を傾けて従う人こそ、主の前にへりくだった人です。そのような人は、いずれ主から引き上げていただけるようになるのです。

3.結論

まとめになります。今日は「霊的な成熟」と題して、私たちが霊性において成長するために必要なことをヤコブ書から学びました。霊的になるためには、世的であることを止める必要があります。この世の価値観、世間の目に振り回されて、世の人々から少しでも高い評価を得ることに必死になる、そういう生き方を止めることです。そんな生き方を続ける限り、霊的な成長はないからです。むしろ自分を良く見せようとするのではなく、神の前に自らが無に等しい存在であることを認めること、へるくだること、これが霊的な成長の第一歩です。しかし、そこでとどまってはいけません。まず自分の小ささを認識した上で、成長するために神に従う必要があります。神に近づき、従うために私たちは自らを清める必要があります。この世は私たちのありとあらゆる欲望を刺激し、私たちを欲望の海の中に放り込もうとしますが、そうしたものから距離を置いて、神のみことばに耳を傾ける、そういう方向転換が必要になります。これは簡単なことではありません。しかし今までのライフスタイルを続けていれば、待っているのは死です。その恐ろしい現実を思う時、私たちは真剣にならざるを得なくなります。人生は一度きりです。後で後悔しても遅いのです。このようにへりくだって真剣に生きる者を、神は決してお見捨てにはなりません。むしろそのような人には大きな報いが待っています。私たちも栄冠を目指して頑張るアスリートたちのように、主の教えに従って真剣に歩んで参りましょう。お祈りします。

私たちを霊的な成熟へと召してくださいますイエス・キリストの父なる神、そのお名前を讃美します。今日のヤコブ書のみことばの一つ一つを胸に刻んで、歩むことができますように。私たちに恵みを施してください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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