真の知恵と平和
ヤコブの手紙3章13~4章3節

1.序論

みなさま、おはようございます。毎月の月末は、新約聖書からメッセージをさせていただいておりますが、今日もヤコブの手紙からお話しさせていただきます。今日の説教タイトルは「真の知恵と平和」です。本日の聖書箇所をお読みいただければわかるように、今日の箇所では「知恵」ということが重要なテーマになっています。「私たちはどうすれば知恵ある人になれるのか」ということですね。

知恵がある、というと少し硬い響きがあるかもしれませんが、要は「頭がいい」ということです。頭がいい人、というのは今日の私たちの価値観ではうらやましがられる部類の人ですよね。子どもたちの間で人気がある人というのは、スポーツができる人、頭が良くて勉強ができる人、そしてかっこいい、もしくはかわいい人の3種類になると思いますが、大人になってもそれは変わりません。特に、頭のいい人、優秀な人は社会の中で活躍し、尊敬を集める人が多いです。とはいえ、「頭がいい人」というのはいったいどんな人なのでしょうか?学歴が高い人でしょうか?学歴が高い人の中には確率的には頭のいい人が多いのかもしれませんが、学歴が高いけど残念な人、というのもけっこうおられます。もっとはっきり言えば、学歴は高いけど「あの人頭悪いよね」と思われてしまう人がかなりいます。ですから、単に勉強ができることと、私たちの考える「頭のいい人」というのは違うということになります。今日の聖書箇所のテーマも、本当に頭のいい人、知恵のある人は誰か、というのがテーマになっています。

このヤコブの手紙が書かれた時代、二千年前のギリシアにおいても、知恵があるということは非常に重要視されることでした。使徒パウロは、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を求める」という有名な言葉を残しましたが、ギリシアで尊敬されるのは何よりも「知恵のある」人でした。ただ、自分は知恵がある、頭がいい、と考えているような人は、もっと頭のいい人の前では恥をかきますよね。「身の程を知らない」ということになります。本当に頭のいい人は、「身の程を知っている人」であると言えます。ギリシア人の中で最も知恵ある人と呼ばれた、有名な哲学者のソクラテスは、「知恵のある人とは、自分が知らないことを知っている人だ」という、無知の知と言われる有名な言葉を残しました。今日の箇所でヤコブも、本当に知恵のある人は、何よりも謙虚な人だ、ということを記しています。謙虚さを持たない人は、自分より優れた人、自分よりも賢い人がいるという現実を受け入れられません。そういう人に出会ってしまうと、相手を評価するのではなく、むしろ羨む、嫉妬するようになります。ひどい場合は、そういう人を憎むことすらあります。昔「アマデウス」という、天才音楽家モーツァルトの映画がありましたが、その映画の中ではサリエリという音楽家がモーツァルトにひどく嫉妬し、ついには毒殺してしまうことになります。このサリエリによる毒殺というのはフィクションであり、実際の歴史では本当に殺したわけではありませんが、サリエリが実在の人物だったのは確かです。サリエリというのは宮廷楽長、当時のヨーロッパの音楽界の最高の地位にいた人で、自分こそ最高の作曲家だと自負していたのに、モーツァルトの圧倒的な天才ぶりに嫉妬し、ついには殺意を抱いてしまうというお話でした。サリエリは、自分が最高だと思い込んでしまい、自分より優れた存在を認められないという人物の典型として描かれています。ヤコブから見れば、このような人物は「知者だと自惚れていて、実際には知恵がない人」なのです。知恵がない人は嫉妬心から争いを引き起こし、周りのみんなを不幸にしていきます。しかし、本当に知恵のある人は嫉妬心を抱かずに、むしろ周囲に平和をもたらす人なのだ、というのがヤコブの教えです。このことを心に留めつつ、今日のみことばを読んで参りましょう。

2.本論

では13節から見て参りましょう。ヤコブは「知恵ある者は誰か」と問います。そして自分には知恵があると誇っているような人は、ぜひ行いによってその知恵を示してください、と諭します。「行い」を重視するのはヤコブの一貫した姿勢です。ヤコブは先に、「信仰」について論じた時も同じようなことを言っています。私には良い行いはないけれど、信仰があります、信じる心は誰にも負けませんという人に対し、ヤコブは行いのない信仰などというものがあるのだろうかと問います。むしろヤコブは、私は行いによって自分の信仰を示そう、と語りました。人が何を信じているのかは、その人の行いが示す、ということです。口先で、「私はあなたを信じてます、ついて行きます」といくら語っても、実際にはその人の言うことに全然従わないような人は、本当はその人のことを信じていないのだ、ということになるでしょう。信仰は行動によって示されるのです。知恵も同じです。本当に知恵のある人は、その人の行動そのものがおのずからその人の知恵を示すのです。そして本当の知恵は、謙虚さから生まれます。「知恵にふさわしい柔和な行い」というのは直訳すれば「知恵の謙虚さにおける行い」となります。真の知恵は、謙虚さから生まれ、そのような知恵はそれにふさわしい行動を生み出すということです。ヤコブは心と行動の一致を何よりも重視します。その人の内面が行動ににじみ出る、というのが人間のあるべき姿だからです。

次の14節では、対照的に知恵のない人のことが描かれています。知恵ある人の行いは謙虚さから生まれますが、知恵のない人の行いはねたみや嫉妬から生まれます。自分が知恵ある者だと自負しながら、その行動がねたみから生じるような人は自己矛盾、自家撞着に陥っている愚かな人だということです。妬み、嫉妬の心は、他の人が自分より優れている、幸運な状態にいるということが受け入れられないから生まれるのです。つまり、本当は私のほうがあいつなんかより優れているはずなのに、という思いが根底にあるのです。これは謙虚さとは正反対の思い上がり、傲慢さから生まれる心だと言えます。また、本当の自分を知らないからこそ、膨れ上がった自意識が生まれてしまうという意味では、無知から生じているとも言えます。ここで「敵愾心」という言葉が出て来ますが、それは「自己中心的な野心」とも訳せます。自分が一番になりたいと思う人は、周りの人がみんなライバル、敵に見えてしまいます。しかし、そういう人は知恵ある人とは言えません。本当に知恵ある人とは、周囲の優れた人たちと協力し合える人だからです。

したがって、妬みや野心を心に抱く人は、間違っても自分が知恵ある者だと誇ってはいけません。それは自分を偽ることになり、真理に逆らって罪に罪を重ねることになってしまいます。とはいえ、妬みや野心に囚われている人にも知恵がないわけではありません。むしろ、非常に狡猾な悪巧みを思いつくこともできます。しかし、そのような知恵は天からのものではあり得ません。それは非常にこの世的な知恵です。「肉に属し」と訳されている言葉は実際にはプシケー、心とか魂とか訳される言葉です。魂という言葉には悪い意味がありませんが、それが霊(プニューマ)と対比されると「世的な心」という意味になります。世的な心とは、この世の富や地位を誇るような心持ちです。ベンツに乗っているとか、タワーマンションに住んでるとか、まあそれ自体は悪いことではないのですが、他の人を見下す気持ちでそういうことを誇るのが世的な心です。しかしヤコブは、それが単に世的なのではなく、悪魔的だと言います。デーモンという言葉の語源となったギリシア語がここで使われています。嫉妬や利己的な野心とは、悪魔に由来するものなのです。

そのような妬みや野心が蔓延るところには、秩序の乱れがあります。秩序の乱れは「平和」とは対極にあります。パウロは神について、神は混乱、つまり秩序の乱れの神ではなく、平和の神だと言っています(第一コリント14:33)。秩序の乱れは、権威を認めない心から生じます。あいつより俺の方が優れているのに、なんで俺があいつの下に置かれなければならないんだ、という不満から争いが生じます。もちろん、本当に実力があるのなら、正式な手続きを踏んで上に上がれるようにすればよいのですが、そうせずに何らかの(悪い)たくらみで秩序を壊そうとすると争いが生じてしまうのです。無秩序には邪悪な行いが伴います。そして平和が失われてしまうのです。 

しかし、真の知恵のあるところでは、そうではありません。上からの知恵とはどんなものなのかを、ヤコブは17節で説明します。その第一の特徴は純真、あるいは純粋さです。ピュアという英語がありますが、まさにそのようなものです。しかし、純粋であるというのはどういうことなのか、ピンとこないかもしれません。私たちは大人になるにしたがって、どんな行動にもそれなりの計算と言うか、打算が働きます。純粋な善意というのは美しいものですが、なかなかとらえどころがないと思われるかもしれません。しかし、二番目の「平和」、もっと正確に訳せば「平和を愛する心」となりますが、これは私たちがそうあろうとして目指せるものではないでしょうか。戦いではなく平和を目指す心は非常に大事です。たとえ自分のプライドや利益が多少傷つけられることがあっても、そこを飲み込んで平和を保とうという努力は、私たちの日常においても実現できることです。そして、平和を目指すというのは真の知恵ある人の証拠です。日本のことわざに「金持ち喧嘩せず」というのがあります。場合によってはあまりいい意味で使われないことわざかもしれませんが、非常に重要な真理を含んでいると思えます。喧嘩を戦争に言い換えてみましょう。戦争をしてもいいことなど一つもありません。勝ったとしても、そのために膨大なもの、かけがえのないものを失うことになるでしょう。また、戦争というのは一度始まってしまうと止めるのが大変難しいものです。日本も太平洋戦争を始めたものの、二度の原爆を落とされるまで戦争を止めることができませんでした。人間は負けを認めることが嫌なのです。負けるくらいなら、すべてを滅ぼしてしまっても、あるいはすべてが滅んでしまっても構わない、という狂気にすら至るのが人間の恐ろしさです。そのような恐ろしくも愚かな戦争を、賢い人は多少の犠牲を払ってでも避けようとします。多少の犠牲といっても、本当の戦争になってしまった時の犠牲と比較すれば微々たるものです。そして平和を目指すためには、鷹揚さが必要です。細かいことにこだわり過ぎずに、引くべきところは引くという、そのような鷹揚な態度が案外大きな争いを避けるためには大切なのです。

また、真の知恵のある人は人を偏り見ることをしません。能力のある人、お金のある人、容姿の良い人、地位の高い人、そういう人ばかりを尊重してしまうと、人間関係はぎくしゃくします。真の知恵ある人は、そういう表面的なことばかりではなく、その人の真の人間性、つまり人の立場になって考えられるか、人のために行動できる人なのか、そういうところに着目します。そういう態度で人に接するならば、そこには平和が生まれるのです。私たちが生み出すべき「義の実」とは、そのような平和を求める行動から生まれるものなのです。

ヤコブは4章1節から、平和とは反対のもの、つまり「争い」が生じる原因について論じます。ヤコブは、争いは外からではなく、実は私たちの内側で始まるのだと教えています。私たちの心の中にある欲望こそ、争いの原因なのです。私たちの心に育つ欲望は、押さえないと留まるところを知りません。争いとは何も外部だけのことではありません。私たちの心の中にも争いがあります。「あれが欲しい、これが欲しい」という欲望は、飼いならさなければならない猛獣です。自由に暴れさせてはいけないのです。ここで心の中の戦いが起こります。しかし、その猛獣の制御に失敗すると、恐ろしいことになります。そのことを書いているのが2節です。私たちは自分が欲しいと思っているものを他人が持っているのを見ると、心が穏やかではなくなります。なぜあの人は、私が欲しいものを持っているのかと。その思いが高じると、しまいにはそのものをその人から奪ってしまいたくなります。しかし、そのものが相手の人にとって大切なものであれば、相手は当然抵抗します。そのために争いとなり、しまいには相手の人を殺してしまいます。このような恐ろしい事態にならないために、私たちはまず自分自身の心の中での戦い、「欲望」という猛獣との戦いに勝つ必要があるのです。

さきほど賢い人は、「身の程を知っている」人だということを申しましたが、さらに言えば賢い人とは「足ることを知る」人です。人間は生きていくために、実はそんなに多くのものを必要とはしません。今日の資本主義社会は次々と新しい製品を作り出し、あれがないと生きていけない、これがないと生きていけないと私たちに思い込ませようとしています。しかし、ほんの20年前まではスマホなど誰ももっていなかったし、それで誰も困らなかったのです。世の中に振り回されて、欲望に振り回されてしまう人生、そういう人生が争いを生み出してしまいます。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか?どうすればこの欲望の泥沼から抜け出すことができるのでしょうか。欲望との戦いに、どうすれば勝てるのでしょうか。ヤコブは、私たちが欲望に振り回されてしまうのは、願わないからだ、と言います。では、何を願うべきなのでしょうか?それが、私たちの欲しがっている欲望の対象ではないことは確かです。ヤコブが私たちに願うべきだといっているものとは、「上からの知恵」です。これはヤコブが1章5節で語ったことです。そこをお読みします。

あなたがたの中に知恵に欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすれば、きっと与えられます。

キリスト教で言う、「求めよ、さらば与えられん」という言葉は、神様にお願いすればなんでも欲しいものをもらえるという意味ではもちろんなくて、私たちがその時々に本当に必要としている神からの助けが与えられるという意味です。欲望のままに願っても、神が聞き入れてくださらないのは明らかです。私たちも、自分の子どもが欲しがるからといって、その子供に有害なものを何でも与えるでしょうか?そんなことをするはずがありません。神様も同じです。私たちが本当に必要とするものは喜んで与えてくださいますが、私たちの自堕落な願いは聞き入れてはくださいません。そして、それは私たちにとって良いことなのです。

3.結論

まとめになります。今日はヤコブの手紙から、真の知恵と平和について学んで参りました。真の知恵とは、知識の多さのことではありません。知識を多く得ると人は慢心しますが、そのような慢心こそ、私たちを真の知恵から遠ざけます。伝道者の書に、「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す」(1:18)という格言がありますが、言い得て妙です。使徒パウロも、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」(第一コリント8:2)と語っています。このように、知恵があるというのと、知識が多いというのは別物です。この世的には知識が多いことが尊ばれますが、神が尊ぶ真の知恵は謙虚さから生まれます。自分の小ささを知り、それを認め、神の前にへりくだる、これこそが真の知恵です。そのような謙虚さから生まれる知恵は、善い行いを生み出し、そして平和を生み出します。しかし、その平和にとっての一番の脅威は、私たちの限度のない欲望です。欲しがる心が争いを生み出します。そのような自分の欲望と戦うために、私たちは神の助け、神の知恵を必要としています。そしてそのような知恵を、神は喜んで私たちに与えてくださいます。そのような真の知恵に基づいて今週も歩むことができるように、共に祈りましょう。

私たちに真の知恵と、平和を与えてくださいます父なる神様、そのお名前を賛美いたします。この争いの多い世にあって、私たちは真の平和、主にある平安を求めております。どうかそのような平和と、平和を造り出すための知恵をお与えください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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