1.序論
みなさま、おはようございます。私たちは今、サウル王に命を狙われたダビデが、彼の追求から逃げ回っているという場面を読み進めています。しかしここで一つの疑問が生まれてきます。「攻撃は最大の防御」という言葉が示すように、ただ追っ手から逃げ回るだけでは仕方がないのではないか、反撃をすべきではないかということです。しかも、ダビデは全くの無実なのにサウル王から命を狙われるという理不尽な状況にあります。サウルに反撃を仕掛けても道義的には何の問題もないようにも思われます。そしてそのような千載一遇のチャンスが巡ってきた、というのが今日の場面です。その時ダビデはどのように行動したのか、またそれはなぜなのか、ということを考えて参りたいと思います。
ところで、サムエル記を通読したことのある方ならお気づきのように、今日の24章と少し先の26章は内容がとてもよく似ています。どちらの章でも、ダビデは偶然にも簡単にサウルの命を奪える機会を得るのですが、それでもサウルの命を奪うことはせずにそのままにしました。後でそのことを知ったサウルは恥じ入り、サウルはダビデの徳の高さを褒めたたえます。そして、どちらの場合にもサウルはダビデを祝福して送り出すという場面で話が終わります。しかし、考えて見ればサウルは何と言っても王様です。いつも部下たちに守られているわけです。そんな王の命を狙えるチャンスがそう都合よく何度もやって来るのだろうか、という気がします。また、今回の場面ではサウルは自分の非を認めて、ダビデこそ王にふさわしいと認めています。もうダビデの命を狙うことは止めると言っているようなものです。その同じサウルが、舌の根も乾かないうちに26章では再びダビデの命を狙って追い回しています。サウルはそこまで節操なしの男だったのだろうか、という疑問も浮かんできます。
この点については、これが絶対確実な話だというわけではないことをお断りした上で申し上げますが、多くの学者は24章と26章の出来事はおそらく同じ事件のことを言っているのだろうと考えています。つまり、ダビデがサウルの命を奪うことなく救ったという出来事は確かにあったのですが、その出来事について人々が語り継ぐ時に、二つのヴァージョンの話が出来上がったということです。新約聖書にもイエス・キリストの生涯を記した福音書が四つありますが、それらの福音書の中で同じ出来事について書かれているのに、たとえばマルコとヨハネでは微妙に話が食い違っているというようなことがしばしばあります。有名な話では、最後の晩餐の記述はマルコ福音書とヨハネ福音書では大きく違います。マルコでは主イエスは聖餐式を制定しますがヨハネにはその記述はなく、しかしヨハネにはイエスが弟子たちの足を洗うという印象的な出来事が描かれています。四つの福音書はすべてイエスの死後百年以内に書かれていますが、これだけ短い期間に書かれた福音書同士でも話が食い違うことがあるのです。ましてやサムエル記は、ダビデの死後500年ほど経ってから完成した文書だとされていますので、その長い期間の間に、ダビデの生涯に起こった出来事の言い伝えに二つのヴァージョンが出来上がるというのはむしろ当然だとさえ言えます。ですからおそらく24章と26章とは、同じ出来事についての二つの異なる伝承であり、サムエル記を編纂した記者もそれを知ってか知らずか、その二つの言い伝えの両方ともをサムエル記の中に組み込んだと考えられます。特に次の25章に書かれているナバルとアビガイルのエピソードと26章の話の間には強いテーマ的なつながりがあるので、サムエル記の記者はよく考えたうえで、このような順序で二つの似たような記事を組み入れたのだとも考えられます。24章と26章との間の違いについては26章の時に再度お話ししますので、今回は24章のみに集中してお話ししていきます。
2.本論
では本日の聖書テクストを読んで参りましょう。前回は、サウルがダビデたちをあと一歩というところまで追い詰めながら、ペリシテ軍がイスラエル領内に侵入したという知らせを受け取ったサウルがダビデ捕獲を諦めて引き返していったという場面で終わりました。そのサウルが、ペリシテ軍との戦いを終えるとすぐに引き返して、精鋭三千人を連れて再びダビデたちを狙ってやってきました。ここから、サウルがいかにダビデを脅威と見なしていたかが分かります。
その時に、思わぬ瞬間が訪れました。ダビデたちはサウルたちの目を逃れて洞穴に潜んでいたのですが、そんなことはつゆ知らないサウル王が、なんと用をたしに一人で洞穴の中に入ってきたのです。それがサウルだということが分かったダビデたちは驚き、興奮します。ダビデの部下たちは、これは神が自分たちに与えてくださった好機に違いないと色めき立ちます。部下たちはダビデに、神が『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』という託宣が今こそ実現したのです、と言ってダビデにサウルを討つようにと促します。このような託宣がダビデにいつ与えられたのか、サムエル記には記されていませんが、おそらく預言者を通じてそのような主の言葉がダビデに与えられていたのでしょう。しかし、注意したいのは、神は敵をダビデの手に渡すと言われただけで、その敵を殺せとは命じてはおられないことです。むしろ『あなたがよいと思うようにせよ』と、まるでダビデがその時どのように判断するのかを試すような言い方になっていることです。しかし、ダビデの部下たちはそこまで深くは考えずに、ともかくまたとないチャンスなのでこの機を逃してはいけませんとダビデに強く行動を促します。ダビデもこの時に、自分がどうするべきかまだ判断が付きかねていたようです。部下たちに背中を押されてサウルの方に忍び寄って行きますが、そこでサウルを殺すことはせずに、サウルの上着のすそを、こっそりと切り取るだけでした。もしかするとダビデはこの時本当はサウルを刺し殺そうとしていたのかもしれません。しかし、サウルを目の前にしてすんでのところで思いとどまったように思われます。ダビデ自身も、突然巡って来た好機に、最初どうしてよいのかわからず、部下たちに言われるがままにサウルを殺してしまいそうになったということです。しかし、サウルを目の前にして、そうすることができず、彼が降り降ろした刃は空を切りました。しかしその時偶然に上着のすそを少しだけ切り落としてしまったものと思われます。ダビデの中に、ここでサウルを殺してはいけないという強い思いが生じたのでしょう。ですからダビデがサウルの上着のすそを切り取ったのも、少なくともこの時点では、あなたの命を奪うことは簡単にできたのですよ、ということを誇示するための証拠として切り取ったのではなく、むしろダビデの側に一度はサウルを殺そうという意思が芽生えていたことの表れだったのだと思います。だからこそ、ダビデはサウルの上着のすそを切ってしまったことに深く心を痛めたのです。
そしてこの時ダビデは我に返ります。ここで、まるで暗殺するかのようにサウルの命を奪うのは神の御心には沿わないという確信が彼の心に生じました。確かに今サウルのやっていることは滅茶苦茶です。無実のダビデに勝手に謀反の意志ありと決めつけ、追い回して命を狙っているのですから。その誤りは正されなければなりません。しかし、もしダビデがここでサウルを殺してしまえば、やっぱりサウルの言うように、ダビデにはサウル王にあだなすつもりがあったのだということを証明してしまうことになります。ダビデは自らの身の潔白を証明するためには、ここでいわば泥縄式にサウルを殺すようなことはすべきではないのです。サウルに誤りがあったとしても、彼は神に選ばれ、王として油注がれた人物です。彼の誤りを指摘する手段はもっと正々堂々と、公然と行うべきものです。そうであってこそ、ダビデが次の王にふさわしいと誰もが納得するようになるでしょう。こうしてダビデはサウルを討つことはせず、部下たちにもサウルに手を出すことは禁じました。
それからダビデは、偶然にも切り取ってしまったサウルの上着のすそを、自らの身の潔白を証明する証しとして用いることにしました。ダビデは大胆にもサウルの前に自らの身をさらし、一世一代の演説をぶちます。サウルだけでなく、サウルの部下たちにも、またダビデの部下たちにも聞こえるように、大声で語り始めます。
まずダビデは、サウルに恭順の意を表します。地にひれ伏して話し始めたのです。そして、自分に謀反の意志ありといううわさは事実ではないと強く訴えます。そしてその証拠として、先ほど切り取った王の上着のすそを示します。私にはあなたの命を奪うことができたのだと。もし私がサウルを殺して王位を奪おうとしていたのなら、当然この機会を逃すはずがなかったはずです。しかし私はそうしなかった、なぜなら王に背くつもりがはじめからなかったからです、と。さらにダビデは、この件の裁きを神に委ねます。ダビデが提示した証拠、ダビデが語っている内容が真実かどうかは、この世の裁判ではなく、神ご自身が裁いてください、とダビデはサウルに対し、また周囲の人々に対して語り掛けます。
ここでダビデは謙遜して、自分は死んだ犬、一匹の蚤のような存在に過ぎない、あなたが恐れるような人物ではないのだ、とサウルに訴えます。
このダビデの話を聞いて、これまで狂ったようにダビデを追いまわしていたサウルの心の中に、大きな変化が生じました。憑き物が落ちる、という言い方がありますが、まさにそんな状態だったのでしょう。今までダビデは自分を殺そうとしている、王位を奪おうとしている、だからやられるまえにやらなければ、と思い込んでいたサウルでしたが、ダビデにそんなつもりがないことがこの瞬間に分かりました。自分の後見人として頼りにしていた預言者サムエルから、理不尽とも思える仕方で王失格の烙印を押され、神が新しい王を選ぶだろうと宣言されてから、サウルには心の平安がありませんでした。このやり場のない怒りを、いわばダビデに八つ当たりのようにぶつけていたのですが、サウル自身もずっと苦しかったのでしょう。ダビデの言葉を聞いて、そんな状態から解放されたのです。
その時、なんとサウルは泣きだしました。泣く、ということには心理学的に非常に大きな効果があることが分かっています。泣くことにはストレスを軽減させ、心を解放させる効果があるとされます。サウルも、これまでは自分でもどこかおかしいという気持ちがありながらも、ともかくダビデを殺さなければならないという一種の強迫観念に囚われていました。しかし今や、そんな心の檻から解放されました。ダビデは実に立派な人物であったし、自分を害するつもりなどなかったのだ、ということがはっきりと分かったのです。思いっきり泣いて、サウルの心に平安が訪れました。そしてサウルは、先にダビデが神に裁いて欲しいと訴えたこと、つまりサウルと自分とどちらが正しいのかという問いに自ら答えました。「あなたは私より義だ」と。「義である」というのは、信仰義認という教理からもわかるように、聖書では非常に重要な概念です。聖書における「義」という言葉、ヘブライ語のツァディクという言葉は、難しい言い方をすれば関係概念であると言われています。どういうことかといえば、神の前に義である人というのは神が定めたルール、つまり律法をしっかり守る人という意味もありますが、それよりももっと大事なポイントは神との関係を大切にする人、という意味です。人間関係を何よりも大切にする人、という言い方をしますが、義なる人は神との関係、人との関係を何よりも大切にする人だということです。人間関係を大事にする人は、大切な友人との約束は決して破らないし、その友達が困っている時には他の事よりも優先してその人を助けようとします。もちろん、たまには間違いを犯すこともありますが、その時にも誠実にその非を認めて良好な関係を維持しようと努める人、そういう人を義人と言います。つまり聖書のいう「義なる人」とは「誠実な人」と言い換えることができます。ですからサウルはここでダビデのことを、自分よりも誠実な人だと認めたのです。なぜならサウルはダビデに誠実ではなかったのに、ダビデはどこまでも自分に誠実であったからです。自分を殺そうとしている人が目の前にいて、簡単に殺すことが出来るのに黙って見逃してあげるような人がいるだろうか。あなたは私よりも義人だ。神があなたの誠意に報いてくださるように、と祝福の言葉を口にします。 さらにはサウルはこの時初めて、ダビデこそ王にふさわしいと認めます。彼の息子ヨナタンがダビデに語ったように、サウルも内心では薄々そう感じていたのでしょうが、今こそ神がダビデを選び、イスラエルに王国を確立する御心であることを確信しました。そしてサウルはダビデに対し、あなたが王になった後に、サウルの一族を根絶やしにするようなことはしないで欲しいと願います。このサウルの願いは驚くべきものですが、真剣なものでもありました。実際、後のイスラエルの王国ではクーデターが起り王権が違う人に移るたびに、先の王の一族は根絶やしにされるということが起きていたからです。ダビデも、このサウルの願いを受け入れ、神に誓いました。こうしてサウルとダビデは分かれて別々の道を行きました。
3.結論
まとめになります。さて、みなさんは今日の話を聞いてどう思われたでしょうか。サウルを殺さないと言うダビデの決断は、今回の場合は最高の結果を生みました。それはサウルに悔い改めを促し、サウルはダビデを殺さなくてはならないという強迫観念から解放されました。そしてサウルはダビデを新しい王として認めることすらしました。しかし、世の中そうそう話はうまく転ばないことのほうが多いのです。今回の場合は、ダビデはサウルの心に残っている良心に訴えかけて、サウルもそれに応えたわけですが、しかし今回のサウルのようにではなく、むしろ恩を仇で返す、つまりダビデに命を救われたことを感謝もせず、むしろこれ幸いと状況が変わればダビデを殺そうとするような人も少なくないのではないでしょうか。相手がそのように救いようのない人物であるならば、情けは無用でいっそ殺してしまったほうがよいのではないか、とそのように思われるかもしれません。そう考えれば、ダビデの取った行動は、かなりリスクのあるものだったと言えるかもしれません。だからこそ、実際の歴史においては政敵を容赦なく殺すと言うことの方が多いのでしょう。
しかし、神を信じる者としては、たとえ相手が悔い改めるチャンスが少ないとしても、非合法的な手段で相手を亡き者にするということはすべきではありません。なぜなら、正義を回復する責任を負っているのは究極的には神だからです。自分が手を下さなくても、神が正しいことをなさる、それを待とうということです。ダビデも、サウルを殺しはしませんでしたが、しかしサウルに問題なしとしたわけでもありません。むしろダビデは、神が自分とサウルとの間を正しくさばいてくださるだろうと、この問題を神に預けているのです。自分の身の潔白は神が証明してくださる、だから自分の潔白について人々に疑問を抱かせるような行動はとらない、そのような軽はずみな行動はしない、というのがダビデの姿勢です。こうしたダビデの信仰の姿勢こそ、私たちも学び、倣いたいものです。この世界には不正がたくさんありますし、私たちはそうした不正を黙認せずに正す必要がありますが、しかし正すといってもやり方を選ばなければなりません。まるで法を超越した神にでもなったかのように、法を無視した非合法的なやり方で問題を解決しようとしたり、あるいは暴力を用いて問題を解決しようとしてはならないということです。特に今の時代においては、悪い国は罰しなければならない、暴力には暴力で、力には力で、というような風潮が非常に強いですが、しかし本当にそれが神の前に正しい行動なのかということをよくよく考えてみる必要があります。神を信じるということは、ある場合には私たちに強い自制を要求します。早まって力づくで物事を解決しようとはせずに、神が問題を解決してくださることを辛抱強く待つ必要があるのです。ここに信仰が必要とされます。そのような信仰に生きることができるように、祈って参りましょう。
サウルとダビデを王として選ばれた神様、そのお名前を讃美します。ダビデは先の王であるサウルとの間に生じた問題を解決するために非合法的な手段を取ることはせずに、むしろ問題の決着を神に委ねました。私たちもそのような信仰に生きるものとならしめてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン