1.序論
みなさま、おはようございます。サムエル記からの説教も、今回で五回目となります。さて、今日の箇所ですが、お読みになられてどのようにお感じになったでしょうか?なんだか本当の話とは思えない、おとぎ話かファンタジー小説のように思われたかもしれません。もちろんこれは聖書のテクストですから、そんな失礼なことは考えたこともない、思いもよらないことだ、とお考えになる方もおられるでしょう。しかし、クリスチャンでない方が今日の箇所を読んでどう思うかと考えると、「これは聖書の話というよりも、おとぎ話の類いではないのですか?」という反応が返ってくるのを容易に想像できます。
実際、ここに出てくる「神の箱」、あるいは「契約の箱」とも呼ばれますが、この箱が一躍日本で有名になったのは、ファンタジー映画のおかげです。みなさまお馴染みのアメリカの大俳優ハリソン・フォードの代表作の『インディ・ジョーンズ』の第一作『レイダース/失われたアーク』という作品があります。1981年ですから結構古い映画ですが、この話はアメリカの考古学者であるジョーンズ博士とナチス・ドイツが、まさにこの「契約の箱」の争奪戦を繰り広げるという話です。この箱には超常的な力が宿り、ドラマのクライマックスの場面は、この箱の中身を見た者が皆死んでしまうという恐ろしいものでした。このファンタジー映画を企画したジョージ・ルーカスやスピルバーグ監督が、まさに今日お読みしたサムエル記から着想を得たのは間違いありません。今日の箇所も、アーク、つまり契約の箱の恐るべき威力にペリシテ人が恐れおののくという話だからです。
さて、このように聞くと、ますます今日の聖書箇所を真面目に読む気がしなくなる、と思われるかもしれません。伝説の「契約の箱」が、それを奪おうとするペリシテ人に災いをもたらすという筋書きは、まさに『インディ・ジョーンズ』そのものではないか、これを歴史上の事実として信じろと言うのは土台無理な話ではないか、そう思われるでしょう。しかし、今日の聖書箇所は、「契約の箱」という魔法の箱のようなものが如何に恐るべき力を持っているか、そのことを示すための話ではありません。むしろ聖書記者は、私たちがこの契約の箱に不健全な関心を持ったり、幻想を抱くことを警戒しているようにも思えます。次週の聖書箇所を読むときにその思いを強くします。
また、この話は劇的な印象を読者に与えるように書かれています。旧約聖書の多くの記述を「これは歴史的に事実なのだろうか、本当に起こった出来事なのだろうか」と疑いながら読むのは、聖書記者が意図した読み方ではないですし、この箇所にもそれは当てはまります。聖書記者が伝えようとしたのは、客観的な歴史的データではなく、イスラエルの神について、世界について、私たちがどう考えるべきかという「神学」だからです。ここで、南野浩則先生という旧約学者の方の著作を引用したいと思います。南野先生は、旧約聖書のイスラエルの話を「大きな物語」と呼んでいます。「大きな物語」というのは、世界中のあらゆる民族が持っている、自分たちの民族の歴史のイメージのことです。アメリカには建国物語があります。ピルグリムファーザーズと呼ばれる清教徒たちがイギリスを追われて自由の新天地であるアメリカにやって来たという、そういう物語です。それは美しいイメージで語られますが、それがすべて歴史的に正確な物語であるとは限りません。アメリカ人に侵略された側の先住民族であるインディアンの立場からはまったく異なる歴史物語が語られるでしょう。しかし、たとえ歴史的には正確でなくても、ピルグリムファーザーズたちの物語は、アメリカ人に「自分たちは何者か」を伝えるための重要な「大きな物語」なのです。旧約聖書のイスラエルの物語も、そのような「大きな物語」としての性格を持っています。南野先生は、そのことを次のように解説しています。
ただし、「大きな物語」は歴史として描かれることが一般的ですが、それが近代の歴史学が定義する「史実」でないことも事実です。「大きな物語」の目的は、その歴史を正確に伝えることではありません。その歴史を通じて、その歴史を持つ共同体の生存理由、存在意義、正統性を語ることにあります。これは古代イスラエルの「大きな物語」においても例外ではないのです。したがって、旧約聖書テクストの解釈者に求められているのは、史実の正確な再現ではなく、「大きな物語」を作りだしたイデオロギー(神学)の理解です。(『十戒』より)
引用を終わります。ちょっと難しい言い方かもしれませんが、とても大事なことが語られています。この見方によれば、サムエル記の記者が契約の箱にまつわる物語を書き残したのは、イスラエルとペリシテ人の正確な戦争の歴史を伝えるためではなく、イスラエルの人々に対して、神について正しい認識を持ってもらうためなのです。前回の箇所では、イスラエルはペリシテ人に大敗し、契約の箱まで奪われ、それを知った祭司エリはショックで死んでしまうという、まさに破滅的な結果となりました。当時のイスラエル人たちの中は、「私たちの神はペリシテ人の神に負けてしまった。イスラエルの神は、ペリシテ人の神の前に無力だったのだ」と考えてしまった人もいました。今日の箇所の目的は、そのようなイスラエルの神への間違った評価を正すためにあるのです。
ただこれは、今日の箇所のエピソードが全くの作り話だという意味ではもちろんありません。ペリシテ人が戦利品として「契約の箱」を奪ったのは間違いないのですが、彼らがそれを扱いかねてイスラエルに返還したというのも事実です。これは極めて稀なことです。戦利品を返すということが如何に稀有なことか、その一例をお話ししたいと思います。エジプトの重要な遺跡にロゼッタストーンというものがあり、極めて価値の高い文化遺産です。しかしこれは、19世紀にエジプトを支配していたフランスをイギリスが破った際にイギリスが強奪し、大英博物館に展示しています。エジプト政府はイギリスの返還を求めていますが、イギリスは応じようとはしません。それだけ価値の高いものなのです。ペリシテ人にとっての「契約の箱」も同じです。これはペリシテ人がイスラエル人に勝利したということの象徴です。イスラエルがいくら返還を願っても、聞く耳を持たなかったでしょう。しかしそれが、現実にイスラエルに返還されているのです。何か大変な問題が生じたからだ、と考えるのが妥当でしょう。ですから、今日のサムエル記の箇所に書かれたそのままのことが起こったとまで考えられずとも、ペリシテ人を恐れおののかすような出来事があったと考えるのは至極妥当な結論なのです。こうしたことに注意しながら、今日の箇所を読んで参りましょう。
2.本論
さて、前回の箇所でペリシテ人はイスラエルに大勝し、イスラエル人が最も神聖視している契約の箱まで奪うことができたという大戦果をあげました。彼らはその契約の箱を、アシュドデというところに運びました。アシュドデには、ペリシテ人の礼拝するダゴンという神の神殿がありました。タゴンというのはどのような神かと言えば、カナン地方で最高神として礼拝されていた「エル」という神の息子で、また同じく有名な戦の神であるバアルの父だとされている神です。エルの息子、バアルの父ということですので、とても有力な神だということが分かるでしょう。ペリシテ人は、契約の箱をこのダゴンを神殿に運んでいきました。その目的は、ペリシテ人の神であるダゴンが、イスラエルの神であるヤハウェに勝ったということを誇示するためでした。前回もお話ししたように、古代のパレスチナ地方の人々は、それぞれ自分たちが礼拝している神は、戦争の時には自分たちのために戦ってくれると信じていました。ですから、ペリシテ人とイスラエル人の戦争は、ペリシテの神とイスラエルの神との戦争でもあったのです。その戦いにペリシテ人は勝ったわけですから、彼らは「われらの神タゴンが、イスラエルの神に勝ったのだ」と考えました。そこで、イスラエルの神を象徴する契約の箱を、ダゴンの神殿に奉納したのです。
彼らは契約の箱を、「ダゴンのかたわら」に置いた、とあります。これには、イスラエルの神がダゴン神に従属していることを目に見える形で示そうという狙いがあります。契約の箱がダゴン神殿にある限り、イスラエル人はペリシテ人に従属しなければならないというメッセージが込められています。しかし、それから不思議な出来事が起きました。なんと、タゴンの像がその翌日の朝には倒れてしまっていたのです。「神様が倒れてしまった!」ということで、ペリシテ人は大慌てでダゴンの像を立たせてあげました。しかし、その翌朝もまた同じことが起きました。ダゴン像は再び倒れてしまい、倒れた衝撃で頭部と両腕が外れてしまっていたのです。それを見たペリシテ人たちは、「なんと不吉な!」とゾッとしました。勝利のシンボルであるダゴン像がバラバラになってしまったのですから。でも、考えてみると倒れたらいちいち立たせてもらわなければならない像に、人間を救うことなどできるのでしょうか?自分で自分の事も出来ない像に、拝まれる価値などあるのでしょうか?預言者イザヤはそのことを痛烈に批判しています。イザヤ書44章9節からをお読みします。
偶像を造るものはみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。
まさに今回のペリシテ人のためにあるようなイザヤの言葉です。さて、二日続けてダゴン像が倒れてしまったことで不安を感じていたペリシテ人に追い打ちのような困難が降り注ぎます。伝染性の腫物、つまり腫物やおできが大流行して、人々を苦しめたのです。腫物というのは嫌なものです。一か所だけでも、いつも気になって嫌な思いがするのに、それが全身にまで広がると、もうまともな生活ができません。人前に出るのも嫌になってしまいます。そういう悲惨な状態になったときに、人々は口々に語りだしました。「これはイスラエルの契約の箱のたたりだ。あの箱のせいで、こんなひどいことばかり起こるのだ」と、すべてを契約の箱のせいにしました。ただ、聖書はこの腫物が契約の箱によるものだ、とは書いていません。「主の手が重くのしかかった」とありますので、イスラエルの神が関与しているのは間違いないのですが、しかし契約の箱に特別な力があって、それが人々を打ったわけではないことに注意が必要です。契約の箱のせいだ、というのはペリシテ人たちが勝手に思ったことなのです。聖書は、神ではなくモノに関心を寄せがちな人間の傾向というものに警戒するように教えます。キリスト教でも、聖杯とか、聖遺物と呼ばれるものを大事にする警告がありました。しかし、モノには何の力もありません。生ける神との正しい関係こそが問題なのです。ペリシテ人も、契約の箱ではなく、イスラエルの神を恐れるべきでした。彼らは契約の箱をどうしようか、ということばかりにこだわっていましたが、本来彼らが考えるべきことは、イスラエルの真の神を礼拝することだったのです。しかし、ペリシテ人はそうは思いませんでした。これらの不幸の原因が、彼らの不信仰な生き方にあるのではなく、イスラエルの契約の箱というモノにあると結論付けたのです。
それで、厄介払いでもするかのように、アシュドデの人たちは契約の箱を別の場所に移そうという話になりました。それで今度はガテというペリシテ人の町に契約の箱を移しました。するとそこでもパニックが起きました。人々の間に、流行り病のようにあっという間に腫物が蔓延しました。ここでも主の手が働いていたのですが、ただこれも契約の箱の特殊な力が引き起こしたものではないことに注意しましょう。モノではなく、生ける神ご自身がこのような災いをもたらしたのです。神ご自身が、ペリシテ人の生き方、外国を侵略して領土を広げようとする国の在り様に問題ありとして、裁きを下しているということです。ペリシテ人は、そのことを悔い改めるべきでした。しかし、彼らは自分たちの罪の問題は考えず、すべてを契約の箱の呪いだと考えてしまいました。これは現代の私たちの間でも起こり得ることです。何か不幸な出来事があると、その原因を自分の生き方そのものではなく、何か他のものにあると考えようとするのです。それでお祓いをしてもらったり、占ってもらったりします。「あなたの家にある、あのモノが諸悪の根源だ。あれを捨てなさい」などと言われたりします。しかし、そのモノを捨てようが、あなたが生き方を変えない限り、問題の解決にはならないのです。
さて、不幸に見舞われたガテの人たちが取った行動も、アシュドデの人たちと同じでした。厄介払いをしよう、不幸の原因を他の人になすりつけよう、そういう自分本位な考えで、今度は箱をエクロンに送りました。これもひどいですね。みすみす仲間が不幸になることが分かっているのに、自分たちが助かりたいから不幸の源をたらいまわしにするわけです。彼らのそのような自分本位の態度そのものが、神の怒りを引き起こしていることを理解できなかったのです。この契約の箱にまつわる出来事のせいで、結束の固かったペリシテ人の間にも亀裂が生じたことでしょう。他国を侵略するどころではなくなったのです。
さて、事態がここに至り、ペリシテ人の間で契約の箱をたらいまわしにしても何の問題の解決にもならないことを知ったペリシテ人の指導者たちは、この箱をイスラエルに戻すことを満場一致で決めました。どのようにしたのかは、次週に見ていくことになります。
3.結論
まとめになります。冒頭にもお話ししましたように、今日の話は表面的にさっと読むと、なんだか現実の話とは思えないおとぎ話みたいだ、とそのように感じるかもしれません。しかしよく考えれば、そんなに現実離れした話ではないのです。今回起こった出来事は二つです。一つはアシュドデのダゴン像が二度倒れたこと、またアシュドデやガテというペリシテ人の町で腫物が大流行したということです。たまたまそれらの町にイスラエルの契約の箱があっただけで、災いと契約の箱との間には何の因果関係もないのかもしれないのです。たしかにペリシテ人に災いをもたらしたのは主ですが、それらが契約の箱の恐るべき力のせいだと考えるのはあまりにも短絡的だということです。主は契約の箱とは無関係に、ペリシテ人の他国を踏みにじるような国の在り方に対して裁きを下したのかもしれないのです。
それでも、この話を読むと私たちの関心は、主ではなく契約の箱に向かいがちになります。この物語の中心には「契約の箱」があるからです。この箱は何なのだろう、どんな不思議な力が込められているのだろう、と。しかし、それでは「契約の箱さえあれば戦に勝てる」という思い違いをしたイスラエル人と同じ轍を踏むことになります。モノはモノであって、そこには何ら不思議な力などないのです。神様がそのモノを用いる場合のみ、そこに不思議な力が働きますが、モノそのものに特別な力が備わっているのではありません。これはとても大切なことです。もしそこを取り違えると、私たちは「契約の箱」そのものを偶像のように拝んでしまうことになりかねません。
しかし、私たちが信頼するのはモノではなく生ける神です。そして生ける神は人間の思い通りになるようなお方ではありません。モノならば、人間が自由に動かしたり、操作することもできるでしょう。しかし生ける神は、人間のあらゆる思いを越えて、ご自分の御心を貫徹されます。神はペリシテ人にもイスラエル人にもえこひいきすることなく、悪は悪として罰するお方です。今回、ペリシテ人が災いを受けたのは、単純に彼らがイスラエルを打ちのめしたことや、契約の箱を奪ったことへの報復ではなかったことが次回に明らかになります。むしろ神は、これらの一連の出来事を通じてペリシテ人に悔い改めの機会を与えたのだと言えるでしょう。
今日の説教タイトルは「おとぎ話としてではなく」でした。この話のポイントは、契約の箱の超常的な力、不思議な力ではありません。おとぎ話には、不思議な魔力を持ったアイテムが登場し、多くの人がその不思議な力を求めてそのアイテムの争奪戦を繰り広げます。しかし、この今日の箇所のポイントはそんな話ではないのです。神は、ペリシテ人が契約の箱をぞんざいに扱ったから怒っているのではありません。むしろペリシテ人の強引な拡張政策、他国を踏みにじる侵略的な国のあり方そのものが問題なのです。しかし、人は問題の本質を見ようとはせずに、問題を矮小化しようとします。
問題のすり替え、ということは現代でもよくあることです。契約の箱とはだいぶ話がずれてしまいますが、最後に一つだけ時事問題を話させてください。今、福島原発の処理水放出に対する中国の制裁の問題がクローズアップされています。確かに中国の抗議は科学的なものというより、一連の米中対立に端を発する日本の中国への態度に対する報復という面があるでしょう。しかし、その問題にばかり関心を寄せてしまうと、一番肝心なことを見損ないます。それは、日本政府や東電がこの処理水を生じさせる原因である原発の底にたまったデブリの取り出しができないという現実です。それができないと、処理水は延々と増え続けます。放出には30年かかると言われていますが、30年どころではすまないのです。こういう本質的な問題を棚に上げて、外国の態度ばかりを問題にするというのは、国内問題を海外の問題に転嫁させて国民の不満の矛先を外に向けるという非常に危険なやり方です。アジアの国々はそのようなことをする傾向がありますが、日本もその例外ではないのです。しかしそれは東アジアの平和を損ない、結局皆が不幸になるという結末を招きます。人を批判する前に、まず自分の罪の問題に真摯に向き合う、それは難しいことですが、それなくして平和はあり得ません。そのことを思いながら、歩んで参りましょう。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美いたします。今日は、契約の箱をめぐる一連の騒動を学びました。ペリシテは契約の箱というモノにばかり関心を寄せ、その背後にある神の御心を探ろうとはしませんでした。私たちも同じようなことをする傾向があります。どうかモノではなく、生ける神に目を向ける、そのような信仰をお与えくださいますように。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン