1.序論
みなさま、おはようございます。先月までは、毎週マルコ福音書を学び、月に一度だけ旧約聖書から説教をさせていただきましたが、今は毎週の説教が旧約聖書のサムエル記からなので、今度は逆に毎月一度は新約聖書から説教をさせていただきます。これから数カ月間は、パウロのテサロニケ教会への手紙からメッセージさせていただきます。
今日は最初の説教なので、まずパウロが手紙を書き送ったテサロニケの教会とはどんなところなのか、その話からさせて頂きたいと思います。テサロニケというのは、現代においても大きな都市で、ギリシア第二の都市です。第一の都市である首都アテネを東京とすると、テサロニケは大阪のようなイメージになるでしょうか。しかし、東京と大阪では東京のほうが北に位置しますが、テサロニケはアテネよりも北側にあります。
テサロニケは、現代だけでなく古代においても重要な都市でした。パウロの時代にはテサロニケはマケドニア地方の州都で、地中海世界の覇者であるローマ帝国との関係が非常に強い都市でした。マケドニアとは、あの征服王のアレクサンダー大王を生んだ地です。マケドニア地方には、二つの有名な教会があり、それがピリピ教会とテサロニケ教会なのですが、いずれも使徒パウロが開拓伝道によって立ち上げた教会でした。順番はピリピ教会が最初で、テサロニケはマケドニアで二番目に立ち上げた教会です。
さて、パウロはどのようにしてテサロニケ教会を開拓伝道したのでしょうか。使徒の働きによれば、パウロが初めてヨーロッパの地に伝道に赴いたのは「第二回伝道旅行」においてでした。その時パウロは、アンテオケというシリアの大きな教会から派遣された宣教師として活躍していました。パウロはシラスとも呼ばれるシルワノと、そしてテモテと三人でチームを組んで宣教活動を行っていました。当初パウロたちがターゲットとしていた宣教地は、小アジア、つまり現代のトルコがあるあたりですが、そこの最大の都市であるエペソであったと思われます。しかし、何らかの理由でパウロはエペソで伝道をすることができませんでした。使徒の働きでは「聖霊に禁じられて」という謎めいた書き方になっていますが、詳しい理由は分かりません。その後、ガラテヤ地方で宣教を行った後、再び小アジアのトロアスという都市に向かいました。その都市で、使徒の働きによればパウロは不思議な幻を見ます。それはマケドニアの人が、パウロのマケドニアに来て私たちを助けてください、と懇願する幻でした。パウロはその時、現在のトルコがある小アジアにいました。トルコという国は、現代でもヨーロッパとアジアの架け橋と呼ばれていますが、パウロがトロアスからマケドニアに行くということは、現代でいえばアジアのトルコからヨーロッパのギリシアに行くという感覚に少し近いものがあったと思います。つまり、異なる文化圏に行くということです。パウロを送り出したアンテオケ教会がパウロに与えたミッションは、あくまで小アジアで福音を広めることだったので、ヨーロッパ伝道はパウロたちの当初のプランには含まれていませんでした。しかし、パウロはこの幻を、神からの召しだと感じました。また、パウロはまだ福音が届けられていないところにいち早く福音を届けたい、という希望を常に抱いていました。パウロはローマ書の中でこのように述べています。
このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。(ローマ15:20)
ですから、パウロとしては他の人たちに先駆けてギリシアに福音を届けるという機会を絶対に逃したくなかったのでしょう。そこでトロアスから船出して、マケドニアのピリピに上陸しました。
ピリピでは、パウロは幸運に恵まれました。彼の宣教を全面的に支えてくれる裕福なご婦人と出会ったからです。彼女はルデヤという商人でしたが、彼女のおかげでパウロは衣食住の心配なしに、福音宣教に打ち込むことができました。パウロはここで熱心な信徒たちを獲得していきましたが、パウロの成功を快く思わない人たちもいました。パウロは様々な誹謗中傷を受けて、ピリピを離れざるを得なくなりました。そこで次に目指したのは、マケドニア地方の州都で、最大の都市であるテサロニケでした。パウロはテサロニケに紀元49年の夏ごろやって来て、一年弱を当地で過ごしました。
テサロニケでのパウロの宣教活動はどうだったのでしょうか。テサロニケでは、パウロはピリピにおけるルデヤのような裕福な後援者を見つけることができませんでした。ですからここではパウロは、生活のために働く必要がありました。パウロは2章9節で「昼も夜も働きながら」と書いていますが、当時の肉体労働者は日没と共に仕事を終えるのが普通でしたから、テント職人として働いていたパウロは夜も残業を続けていたことになります。しかし、パウロの本業は福音宣教者であり、いつもテント職人の仕事をすることができたわけではありません。また、パウロは毎月決まった日に給料を貰えるサラリーマンではないので、仕事がないときには収入もありません。かなり不安定な状況にあったわけですが、そんなパウロを支えていたのはピリピの教会の信徒たちでした。ピリピの教会が如何にパウロを支えていたのかは、ピリピ人への手紙の次の一節からも明らかです。
ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニアを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。(ピリピ4:15-16)
このように、同じマケドニア地方でテサロニケで開拓伝道に励むパウロのために、ピリピの教会は支援物資を送ってくれていたのです。
さて、このように日夜テント職人としての仕事に励みながら伝道活動を行っていたパウロですが、ではパウロはどうやって福音を人々に伝えたのでしょうか。福音伝道のためだけに時間を使うことができなかったパウロは、テント職人として働いている時に、同業の仲間や、あるいはテントを買ってくれる顧客に、チャンスがあればいつでも福音を伝えていたものと思われます。パウロの伝道活動の対象は、仕事をする必要がなく、いつも哲学の議論などを広場で行っていたお金持ちや知識人ではなく、パウロと同じように汗水たらして働く労働者階級の人が多かっただろうということです。パウロは外国人ですから、同労者たちは「あんたはどこから来たのか?なぜテサロニケに?」と尋ねたでしょうが、その時にパウロは自分は神の道を人々に伝えるために来たのだ、というような自己紹介をしたことでしょう。そうすると、興味のある人はパウロからさらに話を聞いて、段々とパウロの語る福音に関心を示していったのではないか、そのように考えています。
パウロは彼らのことを、かつては偶像礼拝者だった人たちと言っていることから、彼らはユダヤ人ではありませんでした。したがって、旧約聖書についての知識もまったくなかったでしょう。したがって、ユダヤ人に伝道する時のように、旧約聖書から解き明かして、イエスこそ聖書で預言されている約束のメシアなのだ、というように説得することもできませんでした。ではパウロの言葉を聞いた人々は、なぜ見知らぬ外国人であるパウロの語る新しい宗教に魅力を感じたのでしょうか?
テサロニケの人々がパウロの語る福音に魅力を感じたのには、三つの原因があっただろうと思われます。まずパウロの語る「福音」の内容そのものの強烈なインパクトです。第二は、パウロの語る福音が言葉だけでなく、力や不思議を伴っていたことです。第三は、パウロの誠実な生き方です。それらを一つずつ説明しましょう。パウロが語る福音は、私たち今日の教会でよく聞く福音とはかなり趣が異なっていました。現在の教会でよく語られる福音とは、イエスを信じれば天国に行けるという、個人の魂の救いに関するものではないでしょうか。それに対しパウロが語っていた福音は、個人より世界そのものの命運、つまりもうすぐキリストが天から戻られて、すべてを新しくしてくださる、私たちの生きる世界はもうすぐ劇的に変わるのだ、というものでした。パウロは自分が生きている間にキリストが天から現れると信じていました。だからこそ、彼は残された時間は少ないと感じて、大急ぎで地中海世界全体に福音を伝えようとしたのでした。それを聞いたテサロニケの人たちも、強烈なショックというか、強い印象を受けたことでしょう。世界が終わるというメッセージは非常に強いインパクトを持つのです。今日でも、急速に信者を増やして成長する新興宗教は、「世界の終わりは近い。もうすぐすべてのことが新しくなる」というような強い緊張感と切迫感を与えるメッセージを持つものが多いです。ただ、このように世の終わりが近いことを強調する新興宗教のほとんどは怪しげなものです。パウロもそうだった、と言いたいわけではないのですが、しかし彼は本気で世の終わりが近いと信じていました。その迫力に、彼のメッセージを聞いた人たちは打たれたのです。しかし、パウロが生きている間にキリストが天から戻られることはなかったし、それから二千年もの時が流れています。ここから得られる教訓は一つです。すなわち、パウロほどの人でも世の終わりがいつかということは、まったく分からなかったのです。ですからキリスト教の一派であろうと、他の宗教であろうと、世の終わりがいつかを教えることができると喧伝するような宗教はすべて嘘であるということです。未来を知っている、終末がどうなるかが分かっているという宗教家は確かに多くの人を惹きつけます。しかし、それらの宗教家は真実を語ってはいないのです。実際、聖書が語る終末は曖昧で、いろんな解釈が成り立ちうるし、実際に様々な解釈が乱立しています。聖書の記述から世界の終わりの年代を割り出すなどということは不可能ですし、過去にそのようなあらゆる試みはすべて失敗してきました。ですから、世界がいつどのように終わるのか、というようなことに不健全な関心を持つべきでないのです。
さて、話をパウロに戻します、パウロの福音がテサロニケの人々を惹きつけた第二の理由は、パウロの語る福音は言葉だけでなく、力を伴っていたということです。パウロの福音が地中海世界の多くの人々を惹きつけた一番の要因は、これかもしれません。パウロはガラテヤの信徒たちの手紙で、「あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は」(ガラテヤ3:5)と書いています。また、パウロが書いた手紙ではありませんが、パウロたち第一世代の宣教者たちのことをよく知っている人物が書いたヘブル人への手紙には、次のような言葉があります。
そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。(ヘブル2:4)
このように、パウロたちキリスト教第一世代の宣教師たちは、言葉だけでなく奇蹟を行うことで、初めて福音を聞いた人々に強烈な印象を与えました。パウロはこのテサロニケ人への手紙でも書いているように、テサロニケでも言葉だけでなく神の力を伴って福音を伝えました。奇蹟といってもそれはどんな奇蹟だったのか、福音書に書かれているイエスが行ったような奇蹟をパウロも行ったのか、詳しくは分かりませんが、おそらくは病の癒しの奇蹟ではなかったかと思います。病から助けられた人は、文字通りに神の救いを体験したのですから。これらの力あるわざを行ったことがパウロの宣教が受け入れられた一つの重要な要因でした。
そして第三の理由は、パウロの伝道者としての生き方そのものです。先ほども言いましたように、テサロニケではピリピと違い、裕福な支援者を見つけることができませんでした。それどころか、テサロニケでパウロの福音に応答した人のほとんどは貧しく、その日暮らしの生活をしていました。パウロはそんな彼らに負担を掛けないようにと、自立した伝道者として自ら昼夜働いていました。しかし、当時のギリシア・ローマ世界で人々に知恵や知識を教える哲学者、あるいは宗教家でそんな生き方をしている人たちはいませんでした。彼らは教え子や信者さんからの月謝や献金で生活をしていました。そんな中で無給で福音を伝え、昼夜必死に働くパウロの姿は人々につよい印象を与えたことでしょう。
これら三つの理由が相まって、パウロのテサロニケ開拓伝道は段々と成果を上げてきました。しかし、テサロニケでもピリピと同じく周囲からの反対が大きくなっていきました。特に問題だったのは、テサロニケでは皇帝礼拝が盛んだったという事情でした。テサロニケはかつてマケドニア王国の首都として、ローマ帝国と敵対関係にありましたが、マケドニア王国が滅ぼされた後はローマに恭順を誓い、ローマの保護の下に発展してきた都市でした。日本もかつて鬼畜米英と叫びながら、戦後は一貫してアメリカに従属して、アメリカの保護の下に発展してきたのと少し似ていますね。そのような都市でしたので、ローマ皇帝を讃える皇帝礼拝に積極的でした。テサロニケの市民は皆この皇帝礼拝に加わるようにとの、強い社会的プレッシャーがありました。戦前の日本でも、天皇の写真、それは御真影と呼ばれましたが、それに対して敬礼することや、宮城遥拝といって皇居に向かって拝礼することは国民の義務であり、「私はクリスチャンだからできません」ということは許されなかったという事情がありますが、テサロニケでの皇帝礼拝もそれに似ていて、個人の宗教的信念によって皇帝礼拝を拒否することは、皇帝への反逆と見なされる空気がありました。そんな中で、イエスという新しい王、新しい世界の支配者を宣べ伝え、それ以外の一切の神々を拝むことを禁じるパウロの教えは、テサロニケの有力者たちから危険な教えと見なされました。そうした中で、暴動になりかねない状況になり、パウロは逃げるようにしてテサロニケを後にしました。しかし、残されたテサロニケの信徒たちはパウロというリーダーを失って、敵対的な人々に囲まれて信仰を守っていかなければならないのです。そのようなテサロニケの人々を案じる心が、パウロにこの書簡を書かせた一つの大きな理由でした。さて、背景説明がとても長くなりましたが、今日のみことばを読んで参りましょう。
2.本論
まず書き出しですが、そこにはこの書簡の差出人の名前が明記されています。パウロ、シルワノ、テモテの三人の名前が差出人として書かれています。この三人はパウロの第二次伝道旅行のメンバーなので、この書簡はパウロの第二次伝道旅行中に書かれたことになります。ではどこで書いたかというと、パウロはテサロニケを去った後にしばらくアテネで伝道し、その後さらに南下してコリントに腰を据えて1年半伝道を行いました。そのコリント伝道の最後の時期に書かれたのではないかと私は考えています。差出人に続いて宛名が書かれていますが、それはいうまでもなくテサロニケ人の教会です。パウロの手紙の冒頭は、差出人、受取人、そしてあいさつの言葉が続きますが、この第一テサロニケもまさにそうなっていて、宛名の次にはあいさつの言葉が続きます。それが、「恵みと平安があなたがたの上にありますように」です。恵みというのはカリスというギリシア語ですが、パウロの手紙では非常に重要な言葉です。このカリスから派生した言葉がカリスマですが、それは異能、神から与えられた特殊な能力という意味合いがあります。そうした能力を与えるのは聖霊です。ですからパウロが恵み、カリスという時に、聖霊の賜る様々な力のことが含意されていると考えてよいでしょう。つまりパウロが「恵みがあるように」という時、「聖霊が共にいてくださいますように」という意味合いが込められているということです。
パウロの手紙では、差出人、受取人、あいさつに続いて、神への感謝の祈りが来る、というのが通例になっていますが、この手紙もまさにそのようになっています。この聖書訳では、2節から5節までは句読点で句切られた三つの文から構成されているように見えますが、原文のギリシア語では2節から5節までは一続きの文です。ギリシア語には分詞という用法がありますが、この非常に長い文章は分詞によってつながれている格好になっています。何が言いたいかといえば、2節から5節まではひとまとまりの感謝の祈りだということです。パウロはここで、いかに自分が常にテサロニケの人々のことを考え、祈っているかということを強調します。
パウロは特に信仰者としての彼らの歩みのことを、三つの言葉で表しています。それは、「信仰」と「愛」と「希望」です。3節では「信仰の働き」となっていますが、直訳すれば「信仰の行い」です。「信仰」と「行い」を対立するものとして考える場合、つまり信仰とは「行いなしにただ信じること」、という風に考えている場合には「信仰の行い」という言葉はナンセンスに響くかもしれません。しかし、行いに結びつかないような信仰は信仰ではない、というヤコブの手紙の主張が示すように、行いという実を結ばない信仰は存在しません。パウロもそう考えていたことを示すのがこの「信仰の行い」という言葉なのです。次の言葉、「愛の労苦」というのも同じことです。愛とは単なる感情ではなく、行動を伴うものだということです。「あなたを愛しています」といいながら、その相手が困っているようなときに何もしないのならば、私たちはその愛を疑うでしょう。「あなたを信じます」、「あなたを愛します」と言っても、その言葉が行動に結びつかないのなら、その愛や信仰は本物ではないのです。繰り返しますが、愛や信仰は単なる感情や頭の中の知識ではなく、実践、行動を伴うものだということです。そして三つめは、「主イエス・キリストへの希望に基づく忍耐」です。私たちが苦難を耐え忍ぶことができるのは、この苦しみもいつかは終わる、その先にはもっと良い未来が待っている、そういう希望があるからこそ、今の苦しみを耐えることができます。未来に何の希望もない、という状態では心は折れてしまいます。テサロニケの信徒たちは困難な中を歩んでいましたが、パウロは彼らにより良い未来のヴィジョンを与えていました。それが彼らに今の苦しみを乗り越える勇気と力を与えていたのです。ただ、繰り返しになりますが、キリストはすぐにも天から戻られるというパウロのメッセージは、実際にはその通りにはなりませんでした。そこで生じた問題に対処するために、パウロがこの書簡を書いたという事情があります。
それからパウロはコリントの人たちに、彼らが神に愛され、そして神に選ばれているということを改めて告げます。彼らが神によって選ばれていることの証拠は、パウロの福音宣教には言葉だけでなく、力が伴っていたこと、また彼らが良く知るパウロの生き方そのものが、その福音にふさわしかったということにあります。ある人の語っているメッセージの真実味の裏付けは、その語る人の生き方に表れるということです。
さて、このように2節から5節までのパウロの感謝の祈りには豊かな内容が凝縮されています。では、6節から10節までを見ていきましょう。ここでパウロは、テサロニケの信徒たちの信仰の歩みを賞賛しています。テサロニケの信徒たちは、実際に本当によくやっていました。彼らはキリスト教信仰を持つことで、それまでのライフスタイルを改めました。悪い遊びはやめたということです。しかしそれは、これまでの彼らの仲間から見れば、付き合いが悪くなったという印象しか与えなかったことでしょう。また、ローマによって十字架に処せられて死んだ罪人を主だと崇めるような新興宗教は、テサロニケの人々からには気味が悪いものにしか思えませんでした。そのような宗教に対する周囲の人々のあたりは厳しく、さらにリーダーであるパウロを失ってしまった教会は、容赦なく様々な困難が降りかかって来ました。普通そんな組織は容易に空中分解してしまいそうなものですが、テサロニケの人々は困難にもめげずにしっかりと信仰に踏みとどまっていました。パウロはそんな彼らを讃え、彼らはパウロたちに倣っている、それだけでなく主イエス・キリストの歩みにも倣っているのだ、と語ります。彼らのそのような信仰は、マケドニアだけでなく、パウロが今活動しているコリントの位置するアカイア州でもよく知られるようになりました。彼らは先ほども言いましたが、ユダヤ教の背景を持たない異邦人、外国人でしたので、真の生ける神についてはパウロの福音を聞くまでは何も知りませんでした。そうした彼らがどのようにしてきっぱりと偶像との縁を切り、天からこの世界を裁くために来られるキリストを待ち望むようになったのか、その信仰の証しは今やギリシア全土にまで伝わるようになったのです。
3.結論
まとめになります。今日はパウロのテサロニケ教会への手紙の説教の第一回目ということで、背景説明に時間を割いた説教になりました。テサロニケの信徒たちは、ごく普通の労働者たちでした。彼らはそれまで、周りの人々が行っているギリシア・ローマの神々やローマ皇帝の礼拝を当たり前のように受け入れて、そうした礼拝に加わっていました。しかし、パウロという名の見知らぬユダヤ人が語る福音に強い衝撃を受けて、イエス・キリストへの信仰に入りました。彼らは旧約聖書のことはほとんど何も知らず、パウロから旧約聖書について詳しく教えてもらう時間もそれほどなかったでしょうが、パウロの伝道者としての真摯な生き方と、彼の語る福音が言葉だけでなく奇蹟的な力を伴っていたことに感銘を受け、熱心にキリストを信じるようになりました。そして、彼らに福音を伝えたパウロが一年足らずでテサロニケを去ってしまった後も、困難な状況の中で信仰を守り続けました。彼らの信仰の歩みは当時のギリシアの隅々にまで伝わりましたが、それだけでなく二千年の時を超えたこの遠い異国の地である日本にまで伝えられています。私たちも彼らの信仰から励ましを受けると同時に、彼らがどんな問題で悩み苦しんでいたのか、それらを学ぶことを通じて信仰の糧を得たいと願うものです。今週も私たちもテサロニケの人々のように忠実に歩むことができるように、祈りましょう。
パウロたちを召して、ギリシア・ローマ世界に福音を伝えられた父なる神様、そのお名前を賛美します。今日はテサロニケ書簡の最初の説教ということで、当時の社会状況などを学びました。私たちの生きる今日も多くの問題を抱えていますが、テサロニケの人たちも困難な状況を生きていたことを知りました。そうした中で、彼らは忍耐強く歩みましたが、私たちも彼らに倣って忠実に歩むことができるように、力をお与えください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン