1.導入
みなさま、おはようございます。エレミヤ書からの説教は8回目になりますが、前回からエレミヤの預言者としての後半生を学んでいます。今日は、このエレミヤの後期の活動を支えてくれた人物、彼の「相棒」とも呼ぶべき人物についてお話ししたいと思います。みなさんは、「相棒」というと、どんな人物を思いだすでしょうか?私はイギリスの推理小説、シャーロック・ホームズに登場するドクター・ワトソンを思い浮かべます。ホームズは架空の人物とはいえ、イギリス人のユニークさを体現したような非常に興味深い人物です。しかしこのホームズの大活躍も、彼の相棒にして伝記作家であるワトソン博士の働きなくしては私たちに伝わることはなかったでしょう。そしてホームズにとってのワトソンこそ、エレミヤにとってのバルクでした。エレミヤはホームズと違って歴史上の人物ですが、エレミヤは自伝を書き残したり、自分の預言を集めて預言集にしたりすることはありませんでした。エレミヤの預言者としての驚くべき働きが今日の私たちに伝えられているのも、この書記バルクの働きのお陰なのです。
先に、エレミヤの預言者としての前半生で最も重要な同志は、神に忠実に生きた王であるヨシヤだったことを学びました。そのヨシヤ王亡き後、彼の跡を継いだ彼の息子たちは悪い政治を行ったので、エレミヤは彼らに対し厳しい預言の言葉を語り続けます。王に盾突くという危険な任務を遂行しなければならなかったのですが、しかしエレミヤはたった一人でその責任を担っていたのではありませんでした。神はエレミヤに信頼できる協力者を用意されていたのです。それが書記バルクです。当時は今のような便利な紙やペンはなく、だれでも文書を気軽に読める時代ではありませんでしたから、文字が読める、それも外国語の文字が読めるというのは本当にごく一部の人たちでした。ですから書記というのは大変なエリート、今でいえば高級官僚のような存在でした。バルクもそのような階級の一人で、王宮に出入りができる役人でした。現在の日本の政治では、高級官僚が有力な政治家に対して忖度するということが大きな問題になっていますが、バルクも本来はそのような権力者側の意向や利益のために働く人物のはずでした。しかし彼は、その権力者たちから目の敵にされているエレミヤのために働き、彼の手足となり、またスポークスマンとなって働いたのです。そんなことをすれば上から睨まれて仕事を失うかもしれないという、大変危険な役回りを買って出たのです。エレミヤには、このような勇気ある、信頼できる同志が与えられたのです。そのことを念頭に置きながら今日の箇所を読んで参りましょう。
2.本文
今日お読みいただいた箇所は、前回の「神殿での説教」と同じく、悪王エホヤキムの時代の話です。エホヤキムは戦死したヨシヤ王の跡を継いだのですが、そのヨシヤ王はエジプト軍によって殺されています。そして南ユダ王国を支配するようになったエジプトは、自分の操り人形、傀儡政権を作るためにヨシヤの子エホヤキムを王にしたのです。つまりエホヤキムは、自分の父のヨシヤを殺したエジプトのお陰で王様になることができたのです。エホヤキムや父ヨシヤ王とは正反対の政治を始めました。それに対し、エレミヤが厳しい言葉で警句したことは、前回の「神殿での説教」で学んだとおりです。しかし、エホヤキムが王となってから4年後、大きな事件が起こりました。それは、エホヤキムの後ろ盾だったエジプトがバビロンに完膚なきまでに敗北し、パレスチナでの影響力を失ってしまったのです。ホヤキムにとっては、最も頼りにしていたエジプトが力を失ってしまうという、衝撃的な出来事でした。この36章でエレミヤに神からの言葉が与えられた時、つまり紀元前605年は、まさにバビロンがエジプトを打ち破った年だったのです。南ユダ王国の宗主国であったエジプトは、もはや南ユダ王国を支えることも助けることも出来なくなってしまったのです。エホヤキム王は決断を迫られていました。あくまでエジプトに忠誠を誓うか、あるいは新興勢力であるバビロンに膝を屈するのか、そのような決断です。今の東アジアの国々に譬えて言うならば、力を失いつつあるアメリカにあくまでも従うのか、あるいは急速に国力を増す中国に従うのか、どちらかを選ばなければならない、そんな状況です。
そのような緊迫した政治状況の下で、エレミヤに神からの言葉がありました。当時のエレミヤは、半ば幽閉状態にありました。5節では、エレミヤは「私は閉じ込められていて、主の宮に行けない」と語っています。なぜエレミヤが神殿に入ることができなかったのか、その理由は書かれていませんが、先週学んだ26章の神殿での説教のことを思い出せば、おおよそその理由がわかります。26章の最後の24節にはこうありました。
しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されないようにした。
主がエルサレムの神殿を破壊される、というエレミヤの説教を聞いた民衆は、一度はエレミヤを殺そうとしました。エレミヤが神の宮を冒とくしたと思ったからです。しかし、長老たちの言葉を聞いて、人々はエレミヤを殺すことを思い止まりました。エレミヤの言葉を、神からの言葉として受け止めるようになったのです。それでも、エルサレム神殿の破滅を予告したエレミヤに怒りが収まらない人たちもいました。エレミヤは命すら危うい立場にいたのです。そこでエルサレムの有力な一門であるシャファンの一族はエレミヤの身の安全のために彼を匿いました。こうしてエレミヤは公衆の前には出れない状況にありました。
そこで神はエレミヤに、これまでエレミヤに語られた預言の言葉をすべて巻物に書き記すようにと命じました。これまで神がエレミヤにどんな言葉を与えたのかは、私たちがこれまで学んできたとおりです。エレミヤはこれまで、イスラエルの民の偶像礼拝を告発し、北からの脅威、北から外国が攻めてくると警告し、また先の神殿での説教で学んだように、王をはじめとする恵まれた社会的地位にある人たちは、イスラエルの社会的弱者を守りなさい、さもなければ神はエルサレム神殿を破壊する、という警告の言葉を語ってきました。そしてエレミヤの北からの脅威についての預言は、より具体的なものとなっていました。その北からの脅威とはバビロンである!とはっきり名指しするようになったのです。エホヤキム王の飼い主エジプトを打倒したバビロンが、今にも堕落したエルサレムに攻めてくる、そういう具体的な預言を、神はエレミヤに与えていました。そうした内容を巻物にまとめ、ユダ王国の人々にその巻物の言葉を語るように命じたのです。しかし、神がこのように命じたのは、このような未来を必ずもたらすと決めておられたからではありません。むしろ、イスラエルの人々に救いを与えようとして、こうした言葉をエレミヤに託したのでした。前にも言いましたが、聖書の預言とは未来予告ではありません。それは常に条件付きの預言なのです。人々が神に背を向け続けるなら、まがまがしい預言は現実のものとなります。しかし、もし人々が神に立ち返るなら、そうした未来は回避されるのです。神はこのように言われました。
ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。
ここで神は、「かもしれない」と言われました。神は災いを下すと決められたわけではないのです。思い直す余地がまだ残されているのです。民の悔い改めを促すために、あえて厳しいメッセージを発しているのです。しかし、神のスポークスマンであるエレミヤは公の場に出ることができません。そこで巻物を用いて、ほかの人に預言の言葉を語らせようというのです。そこでエレミヤは、書記であるネリヤの子バルクを読んで、預言の言葉を巻物に書かせました。どれくらいの期間、エレミヤはバルクに口述筆記させたのかはわかりません。おそらく数か月間に及んだでしょう。そして、その巻物が完成した時、人々の前に立てない自分に代わって、バルクにその内容を民に語って聞かせるように頼んだのでした。エレミヤはこう言いました。6節をお読みします。
だから、あなたが行って、主の宮で、断食の日に、あなたが私の口述によって巻き物に書きしるした主のことばを、民の耳に読み聞かせ、また町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。
さあ、バルクはとんでもないことをエレミヤから頼まれました。単に巻き物にエレミヤの語った内容を記すだけなら、バルクはその道のプロですから、何の問題もありません。しかし、それを人々に語って聞かせるというのは全く別の話です。バルクは、数年前にエレミヤが神殿で民に向かって説教した時に何が起こったのかを良く知っていました。その時民は怒り狂い、エレミヤを殺そうとしたのです。しかもバルクは、今度はそのフロントマンの役目をするようにと言われたのです。民の怒りの矢面に立つようにと言われたのです。これは書記の仕事をはるかに超えた、預言者としての役割です。
バルクは「断食の日」に巻き物の内容を語るように言われました。それは第九の月となっていますが、ヘブライ語でティシュリーの月ということです。この月に行われる断食とは、間違いなく大贖罪の日です。罪をあがなう日と書いて、大贖罪の日と読みます。大贖罪の日はヘブライ語でヨム・キップールといい、悔い改めと罪の赦しのための日です。この日は過去も現在も、イスラエルの民にとって最も大切な日です。今日のイスラエル共和国においても、この日はすべての仕事が休みになり、空港すら閉鎖されるという、イスラエルの暦において最も厳粛かつ重要な日なのです。その日には、すべての民は断食をし、これまで犯してきた罪を悔い改め、神に赦しを願うという、そういう特別な日です。そのような日に、バルクは神殿でエレミヤから託された巻き物を読み上げるのです。人々に悔い改めを促すには、最もふさわしい日でした。バルクは書記シャファンの子ゲマルヤの部屋、それは神殿の新しい門の上にありましたが、そこから人々に巻き物を聞かせました。シャファンとはエレミヤをかくまっているエルサレムの有力者です。シャファンの一族は、このように陰に陽にエレミヤの活動を助けていたのです。
さて、このように一際人目を集める場所でのバルクの読み聞かせは、当然大きな反響をもたらしました。その内容の一部始終を聞いたエルサレムの有力者たちは、そのすべてを語るようにとバルクを彼らのところに呼びます。そしてバルクは、今度は南ユダ王国の並み居る権力者たちの前でエレミヤの巻き物を語って聞かせたのです。今日でいえば、国会議員を集めて彼らの前で演説するようなものです。これは大変勇気のいることでした。イスラエルの有力者は、エレミヤに好意的だったシャファンのような人たちだけではありませんでした。むしろ反対に、エレミヤとその語る言葉に反感を覚えていた有力者たちも多かったのです。特に、エレミヤの語る預言には非常に具体的な政治的メッセージが含まれていたのでなおさらでした。先にも言いましたが、この出来事が起こった時の政治情勢は大変微妙なものでした。エホヤキム王はエジプトのお陰で王になったような人物でしたから、当然親エジプトでした。しかし、そのエジプトは前の年にバビロンに完膚なきまでに敗れて、パレスチナ地区から撤退を余儀なくされ、そこにバビロンが侵攻してくるという、緊迫した情勢にありました。南ユダ王国の有力者の中には親エジプト派の人も少なくなかったので、バビロンこそが中東の覇者になるということを暗示するエレミヤの預言を快く思わない人たちがいたのです。しかも、先週お話ししたように、エレミヤは神の裁きによる神殿の破壊まで預言しています。そうした預言を改めてバルクは有力者たちの前で語らなければならなかったのです。バルクも、イスラエルの政治状況はかなり詳しく把握していたので、自分が語る言葉がどんな反応を引き起こすか、予測できたはずです。バルクは、大きな反発を承知の上でエレミヤの巻き物を再度読み上げたのです。
その言葉を聞いた有力者たちの反応は割れました。一部の首長たちはバルクとエレミヤのことを心配してくれました。この巻き物の言葉が王の耳に入ったら、よくないことが起きるのではないか、と思ったのです。先週の説教で学んだように、エホヤキム王はエレミヤと同じような預言の言葉を語った預言者ウリヤを捕まえて、剣で殺しています。王がエレミヤとバルクに同じことをする可能性は十分にあります。こうした懸念を抱いた人たちは、バルクにこう言いました。
行って、あなたも、エレミヤも身を隠しなさい。だれにも、あなたがたがどこにいるのか知られないように。
このように、バルクたちの身を案じてくれる有力者たちがいたのです。他方で、エレミヤの巻き物の内容に怒り、王にご注進申し上げる人たちもいました。16節に、「私たちは、これらのことをみな、必ず王に告げなければならない。」とありますが、この声にはエレミヤの言葉に同意して、南ユダ王国のことを思って重要なメッセージを王に告げようと考えた人々も含まれていたでしょう。しかし、エレミヤの言葉に激怒し、告発のような意味で王に告げるべきだと語った人たちもいたのです。果たしてこの巻き物の存在は王の耳にも入り、王はエフディという人物を遣わしてその巻き物を取りに行かせます。そして、王の前でエレミヤの巻き物が読み上げられることになりました。
ここで思い起こしてもらいたいのは、この出来事の約20年間に、別の巻き物が王の前で読み上げられたという出来事です。しかし、王と言ってもエホヤキムではなく、彼の父ヨシヤ王の前でです。その時、書記シャファンは神殿で発見された律法の巻き物、トーラーの巻を王の前で読み上げました。その巻き物も、エレミヤの巻き物と同じく王とその民とに悔い改めを求めるものでした。その巻き物を聞いて、ヨシヤ王はどうしたでしょうか。第二列王記22章11節にはこうあります。
王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。
ヨシヤ王は神のことばの前に首を垂れ、自らの衣を裂いて悔い改めたのでした。ヨシヤはまず自分自身が真剣に悔い改め、それから民にも悔い改めを求めました。しかし、彼の息子のエホヤキムの反応は、父とは正反対でした。24節にはこうあります。
王も、彼のすべての家来たちも、これらのすべてのことばを聞きながら、恐れようともせず、衣を裂こうともしなかった。
エホヤキムは巻き物の内容を受けとめようとせず、かえって巻き物そのものを滅ぼそうとしました。23節にはこうあります。
エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした。
このように、恐ろしいことを王は行いました。神のことばの前に悔い改めるどころか、自分の気に食わない神のことばを滅ぼそうとしたのです。エレミヤの言葉は、ぜいたくをして民を顧みない王の姿勢を批判するものでした。また王が頼りにするエジプトではなく、バビロンこそが中東の覇者であり、エルサレムの真の脅威であることを告げていました。こうした内容は、いちいち王の気に食わないことでありました。そこで、これらのことばそのものを抹殺しようとしたのです。
この時、王をいさめようとした勇気ある人たちもいました。エルナタンとデラヤとゲマルヤは、巻き物を焼かないでくださいと王に願い出ました。この王の子供じみた癇癪を考えれば、これは大変勇気ある行動です。しかし、王はそうした諫言を無視しました。そして、エレミヤとバルクを捕まえろと命じました。おそらく彼らを殺そうとしたのでしょう。しかし、彼らは先の首長たちの助言通りに姿をくらましていました。
この恐るべき出来事の後に、主の言葉がエレミヤに下りました。南ユダ王国の人たちが神に立ち返ることを願っておられた神ですが、エホヤキム王は超えてはならない一線を越えてしまいました。裁きはもう避けられないものとなってしまいました。まず神は、巻き物にあった先のことばを残らず再び書き記すようにと命じました。神のことばが滅ぼされることなどありえないからです。そして、非常に厳しい裁きの宣告が下りました。
それゆえ、主はユダの王エホヤキムについてこう仰せられる。彼には、ダビデの王座に着く者がなくなり、彼のしかばねは捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる。わたしは、彼とその子孫、その家来たちを、彼らの咎のゆえに罰し、彼らとエルサレムの住民とユダの人々に、彼らが聞かなかったが、わたしが彼らに告げたあのすべてのわざわいをもたらす。
このように、この暗愚で頑なな王のために、王とその取り巻きだけではなく、全イスラエルの民に神の裁きが下ることになったのです。ここに、指導者の責任の重さが非常に明確に表れています。王個人の罪は、民全体にもその累が及んでしまうのです。そして、この神の預言は遠からず実現していくことになります。この出来事から数年後、エホヤキムは急速に勢力を拡大するバビロンの前に屈服し、そのしもべとなります。しかし、もともと親エジプトでバビロンのことを嫌っていたエホヤキムはその三年後にバビロンに対して反乱を起こします。エジプトからの援軍を期待してのことでした。しかし、もはやバビロンには勝てないと悟っていたエジプトは出撃しませんでした。孤立したエホヤキムはバビロンと戦いの中であえなく命を落とし、エルサレムはバビロンに降伏します。エホヤキムの子エホヤキンが跡を継ぎますが、バビロンは彼を信用せず、彼とその母と家来たちはバビロンに連行されることになりました。これが「第一次バビロン捕囚」ですが、これに関しては今月末の説教でお話をします。
3.結論
さて、今日はエレミヤの後半生における同志にして友の、バルクの活躍を見てまいりました。彼はエレミヤと違って預言者ではありません。神から直接ことばを預けられたのではなかったのです。しかし、公衆の面前に出ることのできないエレミヤに代わって、その神のことば、人々を怒らせ、反感を招くであろう神のことばを語るように召されました。これは本当に大変勇気のいることだったでしょう。その言葉を語ればどんなことになるのか、エレミヤや他の預言者のことを知っているバルクにはよくわかっていました。ただではすまない、命の危険すらある任務です。それまで国家の要職に就き、エリートとして歩んできたバルクは突然とんでもない立場に置かれることになるのです。バルクが何を思ったのか、今日のみことばには書かれていませんが、しかし今日の招詞の中にはバルクの心情が吐露されています。45章3節です。
ああ、哀れなこの私。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、いこいもない。
この言葉は、まるでエレミヤの語ったような言葉です。彼もエレミヤのように、王や民衆からの非難の矢面に立ち、大変辛い思いをしたのです。本体なら栄達の道が待っていたバルクですが、エレミヤに味方したばかりに、未来が閉ざされ、お尋ね者のように身を隠さなければならない羽目になったのです。その彼に対し、神はこう言われました。「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。」バルクが望んだ「大きなこと」とは、彼が本来与えられるべき南ユダ王国での名誉ある地位だったかもしれません。しかし神は彼にそんなものは「求めるな」と命じます。なぜなら、彼が自らの生活の基盤としていた南ユダ王国そのものが、いまや崩壊するからです。そんな頼りにならないものの中に栄光を求めても無駄なことです。しかし神は、そんな中で困難な任務を遂行したバルクに対し、いのちを与える、と約束しました。彼がどこに行こうとも、主が共におられて、彼のいのちを守ってくださるのです。それがバルクに与えられる報酬でした。
私たちも、この罪の世において神の召しに忠実に歩もうとすれば困難に直面するかもしれません。本来なら得られたはずの出世や栄達も失うかもしれません。今の世は、真っ正直に生きようとする人にとっては生きやすい世ではありません。むしろ、組織のためと、悪事に目をつぶるぐらいの人の方が世にはばかる世界かもしれません。しかし、たとえこの世で何かを失おうとも、いのちを失ってしまったら何の役に立つでしょうか。神に忠実に歩む者に約束されているのは永遠の命です。私たちも、この大いなる報いを目指して歩んでまいりましょう。お祈りします。
エレミヤを召し、またバルクを召し、そして私たち一人一人を召してくださった神よ。その御名を賛美します。バルクはエレミヤの代役として、突然困難な任務を与えられ、苦しみながらもその責任を全うしていきました。私たちもそのような立場に召されたときには、主に忠実に歩むことができますように。またそのように歩む人を見たら、支えとなることができますように。この困難な曲がった世にあって、神の召しにふさわしく歩む力を与えてください。われらの主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン