1.導入
みなさま、おはようございます。今日もマルコ福音書から、イエスのご生涯について学んで参りたいと思います。さて、これまで何度かお話ししてきたように、マルコ福音書4章35節から8章26節にかけて、イエスの10の大きな奇跡が記されています。これらの奇跡は、それまでイエスがなさってきた数々の病の癒しなどと比較しても、その規模も内容もはるかに巨大なもので、このような力ある業を行うこのイエスという人は、一体どなたなのだろう、という驚愕や疑問を人々に抱かせるものでした。そして、こうした10の奇跡の中でも今日の五番目の奇跡と六番目の奇跡はとりわけ特筆すべき、驚嘆すべきものです。といいますのも、前回見てきたような、長年どうやっても治らなかった病気が癒されるという現象は確かに驚くべきことですが、そのような癒しについては合理的な説明の余地が残されています。人間の中に本来備わっている自然治癒力が、神への強い信仰によって異常なくらい高められて病が治ったのだ、というような説明が可能です。イエスが死人をよみがえらせたという出来事でさえ、合理的な説明が可能かもしれません。なぜなら、医学的に死亡が確認された人が数時間後、場合によっては数日後に蘇生するという現象、いわゆる臨死体験はこれまで世界中で観測されてきたからです。イエスが数時間前に死んだ少女をよみがえらせたことも、そのような事象の一つなのだ、と言うことが出来るかもしれません。
しかし、今日お読みした五千人の給食と、イエスの水上歩行は、あらゆる合理的な説明を寄せ付けないものです。5つのパンと二匹の魚が成年男子五千人の胃袋を満たすなどということは、自然の法則に完全に反しています。人が水の上を歩くなどということも、重力の法則に真っ向から反するものです。この二つの事象は、まさに「奇跡」としか言いようのないものです。それでも、なんとかそれらを合理的に説明しようという試みが、特に科学が発達してきた近代以降になされてきました。五千人の給食は、弟子たちが備蓄していた食糧を放出したのだとか、水上歩行も湖面の反射で陸地を歩いているイエスが水の上を歩いているように見えたのだとか、もっともらしい説明がなされていました。しかし、マルコの単刀直入な記述は、そうした説明を拒むものです。福音書記者マルコは、どんなに私たちには信じがたいことでも、そのまま信じるようにとの意図でこれらの出来事を描いています。ですから私たちも、自然法則に反するのではという疑問は一旦留保して、そのままこうした記述を受け止めて、むしろその意味について深く考えてみたいと思います。つまり、マルコはこうした記述を記すことで、私たちに何を伝えようとしたのか、そのことを考えてみたいということです。
2.本文
では、まず五千人の給食という有名な奇跡について見ていきましょう。この話は、十二使徒たちが伝道旅行から戻って来た場面から始まります。彼らは自分たちの初めての伝道旅行における成功談や失敗談を、夢中でイエスに話したことでしょう。その話を聞きながらもイエスは彼らには休息が必要であることを見てとって、人気のない所に退いて食事をし、ゆっくり休むようにとの指示を与えました。そこでイエスと弟子たちは舟に乗って寂しい所にまで向かいました。しかし、群衆たちは必死にイエスを追いかけて、徒歩でイエスたちの舟の行方を追ってきたのです。
せっかく一休みしようとしていたイエスたちを追いかけて来た群衆のことを、イエスはどのように思ったでしょうか。せっかく休もうとしているのだから、空気を読んでしばらくほおっておいてほしかった、面倒をかけさせないでくれ、と普通の人間なら考えてしまうところかもしれません。しかし、イエスはそのようには思いませんでした。むしろ、必死で自分たちを追いかけて来る群衆について、「彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれまれた」とあります。イエスを追いかけて来た群衆は必死でした。彼らは食糧を持たず、お腹が減っているのに、それでも舟で進むイエスたちを健気にも徒歩で追いかけてきたのです。イエスはその彼らのことを思いやりました。
ここでの「羊飼いのいない羊をあわれむ」という表現は、旧約聖書のエゼキエル書を思い起こさせるものです。バビロン捕囚時代の預言者エゼキエルは、神が羊飼いのいない羊、つまりイスラエルの民を憐れんでおられると語りました。実際にはイスラエルの民には羊飼い、つまり指導者たちがいたのですが、彼らは民を養おうとはせず、むしろ民衆を搾取していました。そして、エゼキエルの生きた時代のイスラエルのリーダーたちは宗教指導者でした。バビロン捕囚が始まってからというもの、イスラエルには王が存在せず、大祭司が実質的なトップだったからです。エゼキエルは、当時のイスラエルの宗教的な指導者たちが民衆を助けるどころか搾取し、苦しめているのを神が怒っておられることを次のように語りました。エゼキエル書34章1節から6節までをお読みします。
次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ、自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊は養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力づくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もいない。
イエスが自分を追って来た群衆を「羊飼いのいない羊のようだ」と言われた時、このエゼキエルの言葉を思い浮かべておられたことでしょう。イエスの時代のユダヤの宗教的な指導者たちも、エゼキエルの時代と同じく、民を養おうとはせず、むしろ彼らを絞り取っていました。イエスが自分を追いかける貧しい人々を憐れんだということの裏側には、こうした貧しい民を虐げる宗教上の指導者たちに対する批判があったのです。実際、エルサレムの大祭司たちは大地主でもあり、彼らはユダヤ全土の貧しい農民たちから税や借地代を取り立てて肥え太っていました。今日の教会でも、牧師が信徒よりもずっと豊かな生活をしていたら、何かがおかしいと思うでしょうが、そのような歪んだ状態にエゼキエルの時代もイエスの時代も置かれていたのです。
イエスは善き羊飼いとして、自分を追いかけて来る貧しい民をあわれみ、彼らを養わなければならないということを自覚しておられました。しかし、現実は厳しいものでした。もう遅い時間になり、イエスを追って来た大勢の群衆には食べるものがなかったので、彼らに食事を与えたいとイエスは願われましたが、イエスたちの手元にはわずかな食糧しかありませんでした。わずかにパンが5つと、魚が二匹あるだけでした。そもそも弟子たちは、伝道旅行の疲れを癒し食事をするために寂しい所に退いたのですが、その十二弟子は自分自身ですら満腹にさせるほどの食糧はなかったのです。それなのに、どうやって五千人もの成年男子とその家族に食事を与えることができるでしょうか。現実的に考えて、弟子たちはイエスに、群衆を解散させて、彼らに自分で自分の食事を探すように指示してください、と提案しました。しかし反対に、イエスは弟子たちに、人々を解散させるのではなく、彼らに食事を与えるようにと指示しました。とはいえ、どうやってこんなに多くの人々に食事を与えることができるでしょうか。弟子たちは、これだけの人々のためのパンを買うためには200デナリ、200デナリとは当時の200日分の賃金に相当しますから、今日の日当を1万5千円とするなら、現在の価値に換算すれば300万円ぐらいになるでしょうか、それくらいのお金が必要だとイエスに伝えました。弟子たちは財布も持たずにそれこそ無一文で伝道旅行に行ってきたばかりですから、もちろんそんな大金はありません。つまり弟子たちはイエスに、そんなことは無理だと暗に訴えたのです。この答えにイエスはがっかりしたことでしょう。イエスはここで、弟子たちの信仰を試していたのです。なぜなら、彼らの信じる聖書には、神がこのような一見不可能に思える状況においてですら、人々を養うことができることが示されているからです。一つの例を挙げましょう。第二列王記4章42節から44節までに記された、預言者エリシャの起こした奇跡の話を読んでみましょう。
ある人がバアル・シャリシャから来て、神の人に初穂のパンである大麦のパン二十個と、一袋の新穀とを持って来た。神の人は、「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられましょう」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう仰せられる。『彼らは食べて残すだろう。』」そこで召使いが彼らに配ると、彼らは食べた。主のことばのとおり、それはあり余った。
パン二十個で大人百人を満腹にさせることは不可能に思えますが、預言者エリシャは事も無げにそのことを行いました。また、エリシャの前任者であるエリヤは、さらに驚くべき奇跡を行っています。わずかに一握りの粉しか持ち合わせていなかったのに、エリヤとやもめとは飢饉が続く三年もの間食べ続けることができました。イエスの弟子たちも、このような聖書の言葉を知っていました。ですから、もしあなたたちは聖書の話を本当に信じているのなら、何を心配する必要があるのか、あなたがたの信仰はどこに行ったのか、とイエスは弟子たちを叱りつけたい気持ちだったでしょう。しかし、イエスは弟子たちの弱さや頑なさをよくご存じでしたので、彼らを叱ることはせずに、黙って今手元にある食糧を持ってこさせました。そして天を見上げて神の祝福を求めました。すると、まさにエリヤやエリシャの時代に起こった奇跡の再現が目の前でなされたのです。わずか5つのパンと二匹の魚から、五千人の成年男子とその家族が食べるだけの食糧が生み出されたのですから。そしてイエスはこの出来事を通じて、ご自身が少なくともエリヤやエリシャに匹敵する大預言者であることを示されたのです。
そしてイエスのなさった奇跡には、それ以上の意味がありました。先ほどのエゼキエル書の預言には続きがありました。神は牧者のいない迷えるイスラエルの民のために、自らが牧者になると約束されました。エゼキエル書34章10節と11節です。
神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊たちを救い出し、彼らのえじきにさせない。まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
このように、神はイスラエルの偽りの宗教リーダーたちに立ち向かい、彼らからイスラエルの民を取り戻し、ご自身で世話をすると宣言されました。この預言は、今やイエスの公生涯において成就していたのです。神は自らが牧者になると約束されましたが、今やイエスがその牧者となられたのです。つまりイエスは、神のなさるべきことを行っているのです。これは暗に、イエスご自身が神なのだということを示しています。イエスは単なるエリヤやエリシャの再来ではなく、それ以上のお方だということです。それだけではありません。神は、民を虐げる牧者たちに立ち向かい、彼らから民を取り返すとも約束されました。その約束も、イエスの公生涯において成就しているのです。イエスは、大祭司たちやパリサイ派などの当時の宗教リーダーに立ち向かい、イスラエルの民を自ら率いようとしています。これもまさに、イエスが神ご自身のなすべき役割を果たしているということです。ですから、弟子たちの心の目が開かれていたならば、この五千人の給食を通じて、イエスとはいったいどなたなのかという問いへの明確な答えを見出だせたはずなのです。しかし、彼らの心の目は固く閉ざされたままでした。この出来事を目撃した後ですら、イエスが何者であるのかということがよく分かっていなかったのです。
さて、イエスは多くの群衆に十分な食事を与え、養った後に彼らを解散させました。群衆だけでなく、十二弟子たちさえも、カペナウムから4キロほど先のベツサイダという町に行かせました。イエスは一人になりたかったのです。では、独りになられたイエスはどうされたかといえば、祈るためにたった一人で山に登られました。ここに、祈りの人であるイエスの姿を見ます。福音書の登場人物の中で、イエスほど熱心に祈った人はいないでしょう。神の子として無限と思えるほどの力を持ちながら、それでも常にイエスは神に祈り、神に感謝すると同時に新たな力を得ておられたのです。このようなイエスの姿を見ると、私も本当に恥ずかしくなる思いです。私のような凡人こそ祈るべきなのですが、忙しさにかまけて満足に祈る時間がもてないこともしばしばです。しかしイエスはどんなに忙しく、また疲れていた時でも祈りの時間を何よりも大切にしておられていました。私たちも本当に祈りを大切にしたいと願うものです。
さて、祈りを終えられたイエスはベツサイダに向かって舟を漕いでいる弟子たちの様子をご覧になりました。彼らは夜中に、ガリラヤ湖上で風に翻弄されて難儀していました。その悪戦苦闘する彼らを見て、イエスは信じられないようなことをされました。なんと、湖の上を歩いて彼らの元に近づいていったのです。多くの偉大な奇跡を記している旧約聖書にも、人間が水の上を歩くなどという奇跡はありません。弟子たちも、水の上を歩いて舟の方に向かって来る人影を見て、それが生身の人間であるなどとはとても信じられず、自分たちは幽霊を見ているのだと思いました。しかしイエスは彼らに、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と語られました。恐れるな、というのは旧約聖書で神がイスラエルの民に繰り返し語られたことです。恐れとは、ある意味では不信仰の表われです。聖書は神を恐れなさいと繰り返し語りますが、それを反対から言えば、神以外のものを恐れるな、ということでもあります。弟子たちは、ガリラヤ湖の風や嵐を恐れることはなかったのです。預言者イザヤも、次のような主の言葉を語っています。イザヤ書43章の1節から3節までにはこうあります。
あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。」
弟子たちは、イエスこそイザヤが語った主であることを知る必要がありました。五千人の給食のことで、そのことに気が付くべきでした。しかし、彼らはそのことに気が付かず、湖上を歩いて舟に乗り込んできたイエスを見て、ただただ驚くばかりでした。そんな彼らのことを、マルコは「というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである」と短く記しています。
その後イエスたちの一行は、ベツサイダからは反対側の、ガリラヤ湖の西部のゲネサレという地に向かいました。そこでも人々はイエスがやって来たことに気が付くと、急いで病人たちを連れて来て、癒していただこうとしました。イエスも休む間もなく、多くの人々を癒されました。
3.結論
まとめになります。今日はイエスの10の奇跡の内、五番目と六番目の奇跡を見て参りました。特に五番目の奇跡は重要です。イエスはご自身が、イスラエルが待ち望んでいだ大牧者であることをお示しになったからです。イエスは人々の苦しみを理解し、神がなすべき役割、つまり民を真の羊飼いとして養うという役割を自らが担うことを鮮明にされたからです。同時にイエスは、弟子たちに神を信頼することの大切さを教えられました。確かに常識的に考えれば、パン5つと魚二匹で五千人もの人々を養えるわけがありません。しかし神には不可能はありません。イエスはこの奇跡を通じて弟子たちに神への全幅の信頼を持つことの必要性を、改めて訴えたのです。
現代に生きる私たちも、持てるものはわずかであるかもしれません。東京という巨大な都市に生きる私たちは、こんな小さな私たちにいったい何ができるのか、夢を追うのではなく現実を見るべきだ、と考えてしまうかもしれません。しかし、神の家である教会はこれまでも不可能を可能にしてきました。このイエス様の起こした五千人の給食の奇跡ほど鮮烈でも印象的でもないかもしれませんが、これまでも多くの小さな教会が、神の力に導かれて大きなことを成し遂げてきました。大きなことといっても、巨大な教会堂を建てるとか、そういうことが大きなことなのではありません。むしろ、私一人一人の生き方を、人生を、全く新しいものにする、勇気のない人を大胆な人にする、希望を失っていた人を希望に満ち溢れた人に造り変える、そういう奇跡をたくさん起こしてきたのです。教会の偉大さは、人を新しくする、造り変えることにこそあります。たとえ私たちは小さくても、神は大きいのです。その神が私たちを養い、育ててくださるのです。ですから私たちも、これからも勇気を持って福音を語り、歩んでいきたいと願っていますし、また実際にそのように歩んで参りましょう。お祈りします。
大牧者であるイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日はイエスが貧しい群衆を憐れまれて、わずかな持ち物から大きな御業をなされたことを学びました。今日本には貧困に苦しむ人が増えています。経済的な貧しさももちろんですが、心の貧しさに苦しむ人々も同じくらい多くおられます。そうした方々に、福音が届けられますように、私たちの教会をお用いください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン