復活の経験
ヨハネ福音書11章17~27節

1.導入

みなさま、復活祭おめでとうございます。復活祭はキリスト教の祝祭の中でも最大かつ最も大切な日です。初代教会からの伝統を最もよく保っていると言われるギリシャ正教にはクリスマスを含む12の大祭がありますが、復活祭はこの12の中には含まれない、別格の大祭とされます。なぜなら、主イエス・キリストの公生涯において、この復活という出来事ほど重要なものはないからです。パウロは、もしキリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は全く意味のないものとなる、と語っています。その箇所、第一コリントの15章14節を開いてみましょう。

そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

そこで今朝は、主イエスが復活したことと、私たちの救いの関係について考えてみたいと思います。私たちプロテスタント教会では救いを語るときに復活よりも十字架に強調点が置かれるからです。私たちは「イエスの十字架によって救われた」とは言っても、「イエスの復活によって救われた」と言うことはほとんどないのではないでしょうか?私たちの罪のために、私たちの身代わりとしてイエス様が十字架で死んでくださった、だから私たちは救われるのだと。しかしパウロは、イエスが十字架で死んだだけでは私たちは救われないのだ、ということを強く訴えています。先ほどのコリント書の続きでパウロはこう書いています。

そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

と、こう語っています。十字架だけでは十分ではないのです。

それはそうですよね。たとえばあなたが大きな罪、たとえば麻薬のような薬物に手を出したとします。その犯罪の罰をだれかが身代わりになって受けてくれたとします。そうすると、確かに罰からは逃れられて刑務所には入らずに済むかもしれませんが、しかしあなたが麻薬中毒であるという状態は変わらないので、あなたはまだ麻薬、あるいは罪の中にいるのです。まだ救われてはいないのです。ですからこの罪の力を打ち破ること、罪の力から解放されることこそが救いなのです。そしてイエスの復活こそが、私たちにそのような救いと命を与えるものなのです。さらに言えば、イエスの復活こそがイエスの十字架上での死に意味を与えるのであり、その逆ではないのです。もし復活がなければ、イエスの死はその人生の終わりでした。イエス以外にも、多くの偉人と呼ばれる人がいて、彼らは死んだ後も人々の記憶の中に生き続けます。もしイエスが復活しなかったのなら、イエスもこうした他の多くの偉人の一人にすぎなかったということになります。

しかし、イエスは死者の中からのよみがえりによって、死の意味を変えてしまいました。死は終わりではなくなったのです。むしろそれは一つの通過点、あるいは新しい始まりとなったのです。イエスは死を超えて、その先の新しい生の中を今も歩まれています。イエスは死の支配する人生、いずれは死ななければならない人生から、死を乗り越えた人生、死の力の及ばない新しい人生へと移られたのです。そして私たちイエスを信じる者もまた、イエスが歩んでおられる新しい人生を生きるようにと招かれています。

そして今日のヨハネ福音書のみことばを通じて考えたいのは、私たちはいつからそのような新しい命、イエスの朽ちることのない復活の命を経験することができるのか、ということです。今日のみことばについて深く考えるべき点はこのことです。すなわち、私たちはいつ、復活のいのちを経験できるのか、という問いです。多くの人は死んだ後だと考えているかもしれません。私たちの地上の生涯においては、からだは日々衰えるばかりで、いずれ死んで土の塵に戻るけれど、いつか主イエスが再びこられて万物を一新するときに、私たちは新しい復活のからだをいただけるのだと、そう考える人は多いでしょう。使徒パウロもそういっていますし、それは間違いではありません。しかし、今日のみことばにあるイエスの言葉によれば、私たちは今ここで、生きたまま復活のいのちを経験できるのです。私たちは死を待つことなく、あるいはキリストの再臨を待つことなく、今ここで復活の力を経験できる、今日のラザロの復活に関する記事のところで主イエスはそのように言われたのです。そのことを考えてまいります。

2.本論

ヨハネ福音書は独特の福音書で、特に数字にこだわることでよく知られています。ヨハネはイエスがなさった奇跡のことを「しるし」と呼びますが、イエスがなさったおびただしい奇跡の中でも7つの奇跡だけを「しるし」として取り上げます。7という数は、神が天地万物の創造を完成させた日であることからも分かるように完全数です。そして、今日のみことばにある「ラザロの復活」と呼ばれる奇跡こそ最後のしるし、7番目のしるしとして提示されます。ですから、ヨハネ福音書の全体を通じても、この「ラザロの復活」というのはとりわけ重要な意味を持っています。イエスはこの奇跡をおこなった後は、最大にして別格の奇跡、8番目の奇跡、すなわち自分自身の復活を成し遂げるまでは、もうどんな奇跡もなさらなかったのです。ですから、このしるしについては、注意深く見ていく必要があります。

ラザロは、イエスにとってとりわけ親しかった姉妹であるマルタとマリヤの弟でした。マルタとマリヤがどれほど強くイエスに献身をしていたのかはよく知られています。特にマリヤは三百デナリ相当の香油、それはローマの兵士の1年分の年収に相当するほど高価なものでしたが、そのような高価な香油をイエスの頭に注ぎました。このラザロの復活は、マリヤがイエスの頭に油を注ぐのよりも前の出来事でしたので、マリヤがイエスにそれほど高価な油を注いだ理由の一つは、愛する弟ラザロをよみがえらせてくれたことへの感謝の気持ちを表したかったからでしょう。

さて、ではそのラザロの復活に至るまでの話を簡単に振り返りましょう。旅の途上にあったイエスのところに、マルタやマリヤが住んでいるエルサレム近郊の小さな町ベタニヤから使いが来ました。それは、弟ラザロが危篤なので急いで来てほしい、ラザロを癒していただきたいという願いをイエスに伝えるためでした。親しい友人の頼みですから、イエスは急いでベタニヤに向かうのかと思いきや、なんとその伝言を聞いた場所に二日間もとどまったのです。一刻一秒を争う重篤のラザロを助けるためにはいささかも時間を無駄にできないはずですが、イエスはわざと出発を遅らせたようにすら見えます。それからイエスはベタニヤへ向かうために重い腰を上げるのですが、実はイエスはその時にはもうラザロが死んでいたのを知っていたようなのです。事実、イエスがベタニヤに到着した時には、ラザロが死んでから4日も経過していました。今日お読みした箇所は、イエスの遅すぎる到着を聞いた時のマルタとマリヤの反応を示しています。イエスが来られたことを知っても、妹のマリヤは動こうとはしませんでした。愛する弟が死んでしまい、気持ちが落ち込んでいてイエスを迎えに行く気にはなれなかったのでした。しかし世話好きの姉のマルタの方は、悲しみを押し殺してイエスを迎えに出かけます。それでもマルタも、思わずイエスに恨み言を語ってしまいました。もっと早く来てくださったのなら、ラザロは死ななかったのに。あなたは神の人だから、弟を助けることができたでしょうが、もう遅すぎるのです、と。悲しむマルタに対し、イエスはこう言われました。「あなたの兄弟はよみがえります」と。その言葉を聞いたマルタの答えは、とても常識的なものでした。

私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえるのを知っております。

このマルタの答えは、私たちにもよく理解できるものだと思います。私たちも、クリスチャンの家族や友人が天に召されたとき、彼らが世の終わりによみがえることを信じて彼らを天に見送ります。キリストが再び来られ、今の世が終わるときに、主にあって眠った人、死んだ人々はみな復活のからだを与えられてよみがえる、これがキリスト教の信仰です。マルタも、イエスから「あなたの兄弟はよみがえります」と言われたとき、イエスが話しているのは世の終わりに起きる死者たちの復活のことだと思ったのです。しかしイエスは、私が言いたいのはそういうことではない、とさらにマルタに次のように語ります。このイエスの言葉が極めて重要なのです。

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

この最後の言葉、「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」という言葉が実に大切なのです。ここでイエスは、死んでしまったラザロのことではなく、今ここで生きているマルタに対して、「あなたが私を信じるならば、あなたは死ぬことはないのだ」と、語りかけているのです。実際イエスはこの後に死んだラザロをよみがえらせますが、イエスが死人をよみがえらせたのは、この時が初めてではありません。例えばルカ福音書7章には、イエスがナインという町でやもめのひとり息子をよみがえらせた記事があります。ですから、たとえマルタがそう信じていなくても、イエスには死んでしまったラザロをよみがえらせる力はあるのです。しかしイエスがここでマルタに伝えようとしたのは、死んだラザロだけでなく、今生きているマルタがもしわたしを信じるならば、死ぬことはないのだ、ということなのです。実はイエスは、これと同じことを前にも言われています。例えば8章51節です。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るなら、その人は決して死を見ることがありません。

ここでもイエスは、私の戒めを守るものは決して死ぬことがない、と語っています。マルタに対しては、「わたしを信じる者は」と語り、ここでは「わたしのことばを守るなら」と言っておられますが、この二つは同じことです。イエスは最後の晩餐で、「あなたがたがわたしを愛するなら、わたしの戒めを守るはずです」と言われましたが、信じるとは従うことです。そして、わたしの戒めを守るものは、決して死ぬことがないとイエスは言われました。さらには5章24節と25節でも、同じようなことを語っています。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

ここでイエスは「死人が神の子の声を聞く時が来ます」と言っていますが、これはお墓の中にいる、すでに死んだ人たちが今イエスの声を聞いてよみがえるのだ、ということを言いたいのではありません。イエスここで言っている「死人」とは肉体が滅びて死んだ人、葬られて墓場に入った人のことではありません。それは生きて普通に生活をしているけれど、神の目からは死んだ人、霊的に死んでいる人たちのことです。これはしっかりと押さえたいポイントです。神から離れている人は、いくらその人が自分では健康で元気いっぱいだと思っていても、霊的には死んでいるのです。なぜなら人間の霊は、神とつながらないことには生きていけないからです。私たちの肉体が水や空気や食料を必要とするように、私たちの内なる霊は、神とつながって神から霊的な水や食物を受け取らないと枯れて死んでしまうのです。お花を根から切り取っても、花瓶の中で水につけていればしばらくは生きていけます。しかし、根がないのでいずれ枯れてしまいます。人間の霊も同じです。神から切り離された人も、しばらくは生きていますが、しかし神からの養分がなければ霊的に枯れていくのです。けれども、霊的に死んでいる人、あるいは死にかけている人は、自分の真の霊の状態が分りません。その人にはなんとなく虚しい、むしゃくしゃして人を傷つけたくなる、人の幸せを喜べないなど、いろんな症状があって、それはその人の霊が病んでいるから起こる症状なのですが、霊のことに鈍感な私たちには、その真の原因がわからないのです。だから頓珍漢なことをして心の虚しさを埋めようとします。そうしてしばらくは虚しさを忘れますが、しばらくするとまたその状態に戻ってしまいます。そうして心の虚しさはどんどん大きくなります。

現代人の多くは、地獄というものをもはや信じなくなっています。今の世の中が地獄のようなのに、死んだ後にさらに地獄なんてあるんだろうか、と思うのです。しかし、その直感はある意味では正しいのです。地獄とは、死んだ後に悪人が行く、どこか遠い世界のことではありません。それは私たちのただなかにあるのです。主イエスは、神の国は私たちのただなかにある、とおっしゃいましたが、地獄も同じように私たちのただなかにあります。私たちの心にこそ、地獄が生まれるのです。人を憎む気持ち、人の幸福を喜べず、そこから引きずり下ろしたいという暗い気持ち、みんな燃えてなくなってしまえばいいという破壊的な衝動、そういうものが人間の心の中で育つとき、それが地獄なのです。つまり、地獄とは今ここにあるものなのです。私たちの心の闇は、今の世界においても地獄のような状況を造り出すことができます。そういう悲惨なニュースを私たちは毎日聞いています。しかし死後の世界における地獄はさらに徹底的なもので、より一層暗いものです。死後の地獄とは、私たちの心の闇がはっきりと明らかになる状態、私たちの暗い衝動が実体化された世界なのです。私たちがそのような地獄を心の中に育てているとき、私たちは死んでいるのです。肉体の死を待つことなく、霊は死んでいます。しかし、イエスの語る真理のことばを信じ、それに従うときに、私たちの心には天国が生まれます。その時私たちは死からいのちへと移るのです。私たちの死にそうになっている霊、枯れかかった霊は、再び生きるようになるのです。

イエスがラザロを復活させたのも、そして自分自身が死者の中からよみがえられたのも、それは主イエスが私たちを今ここで、霊的な死から救い出して、生きる者とすることができることを示すためなのです。このような霊的な再生、復活は、肉体の死を待つことなく実現します。いやむしろ、肉体の死の前にこのような霊的な復活を経験しなければならないのです。今ここで、イエスを信じ、従うことで復活は起きる、始まるのです。世の終わりにあるというからだのよみがえりとは、今既に実現している霊的な復活が実体化されるものです。ですから霊的な復活を遂げている人にとって、肉体の死とは死ではありません。それは単なる通過点に過ぎません。ですから死を恐れる必要はないのです。しかし、霊的な再生を遂げずに、心の中で地獄的な霊性を育ててきた人にとっては、肉体の死は恐ろしいものになります。生きているときには隠されていた心の闇が、白日の下にさらされるようになるからです。自分がどんな人間なのか、その真の姿を直視しなければならなくなるからです。地獄とは落下です。落下とは、神から離れるということです。生きている間は、私たちは神から離れっぱなしになることはありません。肉体のある人間は、自分では意識してなくても神から完全には離れられません。なぜなら善人にも悪人にも神の恵みが等しく与えられるからです。生きている人には、みな太陽も水も空気も与えられています。それらがみな神からの恵みだったのだと、人は死んでから思い知るでしょう。しかし、神に背を向ける人生を続け、そうしたまま死んでいった人は、死んでからはますます神から遠ざかっていきます。神から見れば、それは果てしのない落下です。肉体があること、生きていることがなぜ恵みなのかといえば、肉体がある限り、この神から遠ざかっていく運動にも歯止めがあるからです。しかし、肉体を失って裸の霊の状態になると、神に近づく人はますます神に近づく一方、神から遠ざかる人、堕ちていく人はますます落ちていきます。生前において神から霊的な水や食料を受けることのなかった人は、死んだあとは神からの肉的な養いも霊的な養いも両方とも失ってしまいます。神からどんどん離れて行ってしまうのです。それが落下、フリー・フォールです。そのような悲惨な状態に陥らないために、私たちは生きている今、復活の主イエス・キリストを通じて主に立ち返り、主と共に復活のいのちを経験する必要があるのです。主イエスはよみがえりであり、いのちです。そして主イエスが私たちに復活のいのちを与えてくださるのは、未来ではなく今ここにおいてなのです。

3.結論

まとめます。今日は主の復活を祝う日ですが、主が復活されたことが私たちの救いにとって如何なる意味を持つのかを考えてみました。主イエスは、ご自身が死者の中から復活する前から、死人をよみがえらせる力を持っておられることを示されています。その最も有名なケースがラザロの復活です。しかし、このように死んだ肉体をよみがえらせることだけが復活なのではありません。むしろ、もっと重要なのは神から離れて死んだようになっている私たちの霊の復活です。将来与えられる復活のからだとは、この復活した霊に対応するからだです。ですからからだのよみがえりが未来の出来事であっても、私たちは今ここで主の復活を経験できるのです。いやむしろ、今ここで復活を経験しなければならないのです。私たちが復活のいのちを経験するために必要なことは主を信じ、主のことばを守り行うことです。そうすることを通じて、私たちの霊のますますいのちを取り戻し、神の似姿としての人間として歩めるようになるのです。そのことを可能にしてくださった復活の主に感謝しましょう。お祈りします。

天の父なる神様。あなたの御子の復活に感謝し、御名をほめたたえます。私たちもその復活のいのちに与る者としてください。私たちの霊を日々新たにし、あなたの民としてふさわしいものとしてください。また、多くの人たちがあなたのいのちに与ることができるように、当教会の伝道の業を祝してください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

ダウンロード