偶像にささげた肉(2)
第一コリント10章14~11章1節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は幸いな復活祭がもてたことを心より感謝いたします。今日の説教では、再び第一コリントに戻ります。さて、これまで学んできましたように、8章から今日の箇所までパウロはずっと同じテーマを取り扱っています。それは「偶像にささげた肉」の問題です。この点については毎回話していますが、今回も簡単におさらいしましょう。古代社会では、肉は貴重な食べ物で、今日のようにいつでもスーパーで買えるようなものではありませんでした。では、古代世界最大のブッチャー、お肉屋さんはどこかといえば、それはゼウスやアポロン、アルテミスなどのギリシャ・ローマの神々を祭る神殿でした。こうした神殿で神様をどうやって礼拝したのかといえば、牛や羊などの家畜動物を屠り、そのお肉を燃やして香ばしい香を焚き、それを神々におささげしたのです。しかし、動物の脂肪を全部燃やしたわけではありません。肉のある部分は、神殿の中での食事会や晩さん会に使われ、それでも残った部分は市場に売られたのです。ですから、「偶像にささげた肉」を食べるという場合、二つの問題がありました。一つは、神殿でのお肉の食事会や晩さん会に果たしてクリスチャンは出てもよいのか、それは偶像礼拝になってしまうのではないか、ということで、もう一つは市場で売られているお肉が、偶像の宮で神々に捧げられた肉のお下がりである場合、その肉を食べてもよいのか、という問題でした。今日の箇所は、これまでの議論の締めくくりとしてパウロはこの二つの問いに対して、具体的な指示を与えています。

このような食事に関する問題をパウロが長々とコリント書簡で論じなければならなかった背景とは、実はパウロや他の初代教会のリーダーたちは使徒言行録15章に書かれているエルサレム会議で、「偶像にささげられた汚れた肉を避けるように」ということを、ユダヤ人・異邦人のどちらのクリスチャンも守るようにと決議し、そのように諸教会に教えていたのですが、コリントの人々がこの教えをいろいろ理屈をこねて守ろうとしなかったという事情がありました。彼らは自分たちには知識があり、分別がある、と主張しました。どんな知識かといえば、「偶像などというものは存在しない、それはただの人間の想像の産物である」というものでした。この世には、唯一の神がおられるのみで、他の神々などは存在しないのだ、という知識を、彼らはキリスト教信仰を通して教えられました。偶像にささげた肉は、実は偶像に供えた肉ではない、なぜなら偶像など存在しないからだ、というある種の三段論法です。

また、彼らは自分たちには分別がある、常識があるのだとも主張していました。偶像などいないにせよ、世の中の多くの人々は偶像を信じ、偽りの神々が存在すると信じています。そういう知識を持っていない人たちと、偶像礼拝者だからといって付き合いを避けてしまっては、クリスチャンはこの世で生きていけなくなってしまうではないですか、と。だから、ここは大人になって、彼らの偶像遊びに付きあってみましょう、彼らが行っている偶像の宮での食事会も、単に社交の一環として加わってみようではないか、とこのように理屈をこねたのです。

それに対し、パウロは様々な角度から彼らの誤りを正し、正しい行動を取るように説得に努めます。なるほど、確かに偶像など存在しないし、その知識そのものは正しい、とパウロはひとまず彼らの言い分を認めます。しかし、そのように割り切って考えられる強いあなたがたはよいけれど、信仰の弱い人はどうだろうか、とパウロは問います。あなたがたが偶像の宮で偶像にささげた肉の食事に加わっているのを見て、「クリスチャンでも偶像礼拝に加わってよいのか」と信仰がぐらつく兄弟がいても、あなたは平気でいられるのか、それが本当に愛に基づく行動なのか、とパウロは問いかけます。それからパウロは、自分は兄弟たちの信仰のつまずきになるくらいなら、今後いっさい肉を口にしない、と宣言します。それどころか、兄弟姉妹の信仰の為なら、あらゆることを喜んで犠牲にする、と9章で自分自身を例に引いて論じます。

しかし、10章に入ると、パウロは話のトーンをはっきり変えます。あなたがたは、偶像はいないのだし、偶像など信じていないから、別に偶像の宮に行って偶像礼拝に加わっても大丈夫だ、と考えているかもしれないが、それは大変危険な火遊びだ、とパウロは厳しく警告します。ここでパウロは、旧約聖書の出エジプトに続く、荒野での40年間を思い起こすようにとコリントの読者に促します。彼らはエジプトの奴隷の家から救われました。彼らは神の大いなる御業を目撃し、神を信じたのです。にもかかわらず、偶像礼拝によろめく彼らを神は喜ばれず、そのほとんどが荒れ野で滅んでしまいました。パウロはこの恐るべき出来事を教訓として心に刻みなさい、とコリントの人々に訴えかけます。今日の箇所は、それに続く箇所です。

2.本文

パウロははじめに、単刀直入にこう言います。

ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。

「ですから」とは、13節までのイスラエルの荒野での出来事を教訓としなさい、という意味です。彼らが滅んでしまったように、滅んでしなわないようにしなさい、ということです。パウロは、「私は賢い人たちに話すように話します」と書いていますが、ここには皮肉が込められています。「賢い人」というのは、この手紙の4章10節に登場する言葉ですが、ここでパウロは、あなたがたは賢いが、私はあなた方から見れば愚かです、と皮肉を込めて書いています。パウロはここでも、「賢いはずのあなたが、こんなことも分からないのですか、判断できないのですか」と皮肉交じりに彼らを「賢い人」と呼んでいるのです。彼らは偶像の宮で食事をすることがどんなことなのか、その本質を見抜くことが出来なかったからです。たしかに神々などはいません。神はお一人だからです。しかし、悪霊たちは存在しており、偶像の背後にはこうした邪悪な霊が潜んでいる、とパウロは警告します。あなたたちは自分たちは賢い、霊的だなどと誇りながら、このような霊的な事柄を見抜く力を持っていないのかと、パウロは叱責しているのです。

そしてパウロは、主の聖餐を例に引いて、彼らに訴えかけます。主の杯を飲むとは、キリストの血にあずかるものであり、主のパンを食するとは、キリストの体にあずかることです。あずかる、と訳されている言葉は「コイノニア」であり、「交わり」という意味です。主の杯とパンをいただくことは、主キリストと交わることなのです。またそれは同時に、同じ一つの杯を飲み、一つのパンを食べる兄弟姉妹同志の交わりでもあります。実に聖餐を共にいただくことで、私たちは主にあって一つとなるのです。キリストと一つになり、また兄弟姉妹と一つになります。

しかし、この偉大な「コイノニア」の真理は、恐ろしいことに、偶像の宮での食事にも当てはまってしまいます。コリントの人々が偶像の宮、いやむしろ悪霊の宮で食事をすれば、彼らは悪霊たちとコイノニア、つまり交わりを持つことになるのです。悪霊たちと一つのからだになってしまうのです。パウロはこのようなことを前にも述べています。それは6章16節で、「遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか」と書いていますが、これは軽い気持ちで戯れに売春宿に行く教会員に対する警告でした。ここでは遊女ではなく、悪霊と一つからだになるということを警告しているのです。コリント教会の人々は偶像の宮で食事してもなんともない、何の害も受けない、とうそぶいていますが、とんでもない、むしろ彼らは悪霊の仲間になってしまうのです。しかもその彼らが主キリストの聖餐にもあずかっているとすればどうでしょうか。彼らはキリストと一つになり、同時に悪霊とも一つになることになります。しかしそんなことをすれば、主の怒りを招かないでしょうか。主はねたむ神です。他の神々、いや悪霊と二股をかけられることをお許しになるでしょうか?

パウロはここで、申命記の32章を引用します。これはモーセの惜別の歌と呼ばれるものですが、モーセはイスラエルの人々に偶像礼拝の危険性を強く警告します。申命記の16節と17節をお読みします。「彼らは異なる神々で、主にねたみを引き起こし、忌みきらうべきことで、主の怒りを燃えさせた。神でない悪霊どもに、彼らはいけにえをささげた。」と、このように書かれています。古代のイスラエル人たちは、まことの神を忘れ、他の神々、というより悪霊ですが、それらにいけにえをささげたのです。偶像の宮に行く人々は同じことをしているのだ、とパウロは警告します。パウロは明らかにこのモーセの言葉を意識して書いています。あなたたちは偶像の宮で脂肪を食らい、酒を飲んでいるが、それは偶像礼拝でもなんでもない、なぜなら心の中でそんな神々など信じていないからだ、と言うだろう。しかし、神がそんな言い訳に納得されるだろうか。あなたがたは真の生ける神のねたみを恐れないのか。それともあなた方は、自分たちが神より賢く強いとでも思っているのか、と警告するのです。

このように、パウロは異教の神殿における食事会や晩さん会に、単なる社交儀礼だとして参加しようとするクリスチャンに対し、明確に「ノー」という指示を出しています。それらは単なる付き合いではないのです。それは悪霊と一つからだにあることであり、同時に神にねたみを起こさせ、神を敵に回す行為になると厳しく警告しているのです。

さて、次いでパウロはもう一つの問題について指示を与えています。それは、市場で売られているお肉の問題です。これは私たちの身に当てはめても分かりますね。私たちもお寺や神社の境内で行われる食事会に参加してはいけないと言われれば納得できるでしょうが、スーパーマーケットで売っているお肉を食べていいのかどうかという問題は、全然話が違うと思うでしょう。スーパーで売っている肉は宗教とは無関係だからです。しかし、当時のコリントでは事情が異なっていました。お肉は希少な品で、どこにでも安価で売っているような品ではありませんでした。また、お肉専門のブッチャーもいませんでした。むしろ、神殿で神に仕える祭司様がブッチャーでした。祭司は神にささげる動物の肉を切り分け、ある部分は煙にして神々にささげ、ある部分は神殿での食事のために用い、残った部分を世俗の用途、つまり市場で売るために取り分けたのです。ですから市場で売っている肉の多くは宗教儀式に使われた動物の肉でした。パウロは神殿における偶像にささげた肉の食事は禁じましたが、では市場で売っている偶像にささげた肉はどうなのか?この問題を扱うのが23節以降です。結論から言えば、

パウロは、市場で売られている肉が偶像の宮からのお下がりかどうかはいちいちチェックしなくてよろしい、と、ここでは非常に物分かりのいいようなことを教えています。けれども、先のエルサレム会議での決定をとことん守ろうとする人たちには、パウロは妥協をしていると思えたかもしれません。そこでパウロは旧約聖書の言葉を引用して、自分の判断を正当化しています。詩篇24編1節には、「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」とあります。

この世にあるものは、すべて主のものである。偶像の宮で使われた肉も、元はと言えば主のものである地にある動物から取られたものなので、それを食べても問題ない、というのです。なんだか、偶像の宮での食事を禁じる時とは言っていることが違う気がしますが、そこは深く問わないことにしましょう。しかしパウロはこの場合でも、肉を食べてはいけない特殊なケースについて語ります。

しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です」とあなたに言うなら、そう知らせた人のため、また良心のために、食べてはいけません。

パウロはここで、「良心のために食べてはいけません」と言っていますが、それは自分の、自分自身の良心のために肉を食べてはいけない、とは言っているのではないことに注意が必要です。むしろ、あなたに親切心から「これは偶像にささげた肉です」と教えてくれた仲間のクリスチャンがいたなら、その人の良心のために肉を食べるのを諦めなさい、と言っているのです。ここでもパウロは「他人の益のために」という原則から考えています。あなたは確かに自由です。地にあるものは、何を食べてもよいのです。それによって自分の良心が傷つけられることはありません。しかし、あなたの行動によってもし他の人の良心が傷つけられるのなら、その自由を諦めるべきだ、というのがパウロの教えです。パウロは、「どうしてわたしの自由が、他人の良心によってさばかれる、左右されることがありましょう」と書いていますが、これはパウロ自身の意見ではなく、パウロの言っていることに反発をするコリントの信徒の意見を述べているのです。あなたはどうして自分の自由が他人の良心のために制限されなければならないのか、と思うかもしれないが、しかしあなたの行動が教会を建て上げるだろうか、他人の益になるだろうか、そのことをよく考えなさい、と言っているのです。もしあなたの行動によって他の人が信仰的につまずいてしまうのなら、その人のためにもキリストが死んでくださったことを思い起こしなさい、とパウロはいいます。キリストの死が、あなたの行動のために無になってもいいのか、真剣に考えなさい、とパウロは問いかけているのです。そしてパウロは、32節ではこう書いています。

ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。

他人の信仰のつまずきとならないようにしなさい、他人の良心を傷つけないようにしなさい、これが私たちの行動を決める原理になります。私たちは主にあって自由ですが、私たちが自由にふるまったために他人がつまずくことのないようにしなさい、というのがパウロの教えのエッセンスなのです。パウロ自身も、自分の利益ではなく他人の益のために、彼らの救いのために行動しました。そして、そのように行動することこそ、「キリストに倣う」ということなのです。キリストの生き方とは、自分の益ではなく、他人の益を求める生き方でした。パウロはこのことを理解し、この点においてキリストに倣う者となりました。そしてパウロは、次のように語って、「偶像にささげた肉」に関する長い勧告を締めくくっています。

私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私をみならってください。

この、キリストを見倣ってください、というのはよく聞く言葉ですが、キリストを見倣っている私も見倣ってください、というのはなかなか言えないことです。このように言うためには、よほど厳しく自分自身を律しなければなりません。私も、とてもここまで言えないなと思いますが、しかしパウロを見倣って最善を尽くしたいと改めて思わされました。

3.結論

まとめになります。今日は8章から続く「偶像にささげた肉」の問題についての締めくくりの勧告を学びました。パウロは偶像にささげた肉を、異教の神々を祭る神殿で食べることは禁じましたが、そのお下がりが市場で売られている場合、その肉を食べることについては容認しています。しかし、それが偶像にささげた肉だと言われたうえで差し出された場合は、食べてはいけないと教えています。ここでのポイントは、あなたの行動が他の人に及ぼす意味を考えなさい、ということでした。あなたが偶像の宮で食事をしたり、偶像にささげた肉を平気で食べるのを見た人々は、偶像礼拝を軽く考えてしまうかもしれない、そういう事態はなんとしても避けなければならない、というのがパウロのポイントでした。ここから私たちも大事な教訓を学ぶことができるように思います。確かに、この「偶像に供えられた肉」という問題そのものは、現在に生きる私たちにはほとんど関係のない事柄です。私たちがタイムトラベルをして、紀元1世紀の時代に生きるのでもない限り、このパウロの教えは直接私たちの日々の生活には関係のないものです。しかし、このパウロの肉についての教えの背後にある原則は今の時代にも適用できます。

例えば、もし皆さんがお引越しをして、新しい土地に暮らすことになり、そこの教会に通うとします。その教会では、クリスチャンは禁酒だと教えられたとしましょう。実際、バプテストの教会では禁酒を教えている教会は少なくないのです。あなたは、それはおかしい、なんと堅苦しい教えだ、と憤るかもしれません。私は自由なクリスチャンであり、何を食べてはいけないとか、呑んではいけないなどと言われる筋合いはない、と思うかもしれません。そこで、あなたがこれまで通り、自由にお酒を呑みます。それを見て、今まで好きなお酒を何十年も我慢して生きてきた兄弟があなたに立腹したとします。あなたは、それは見当違いな八つ当たりであって、自分が本当は飲みたいのを我慢しているから、私にもお酒を我慢しろというのはおかしい、あなたもわたしと一緒に飲めばいいではないか、と思うかもしれません。しかし、その兄弟はもう何十年もお酒を呑むのはよくない、という信念を持って生きてきたのです。昨日今日、禁酒を決めたのではありません。聖書にも、彼の決意を支持するような聖句が実際にあります。そのような兄弟と、酒を呑むのがいいのかどうか、言い争いをすることで、果たして教会は恵まれるでしょうか。教会の信仰が強まるでしょうか。むしろ、その人の信仰のために私がお酒を我慢すればいいのではないか、とそのように考えられないか、とパウロは私たちに問いかけているのです。

 今、お酒の話をしましたが、もちろんこれは一つの例です。しかし、信仰のためだといって、何かを断っている人、我慢している人々は実際にいるのです。そういう人のことを、「なんだかおかしなことをしているな」と思えるなら、あなたは強い信者なのです。しかし、あなたの強い信仰によって、弱い信仰の人を笑ったり、裁いたりしてはいけない、とパウロは教えているのです。

 あるクリスチャンの人たちは、真剣に君が代、日の丸に反対しています。また、天皇が大嘗祭などの、神道の宗教行事を行うことに反対しているクリスチャンの方もいます。こういう方々は、左翼的だと同じクリスチャン仲間からも非難されることがあると聞きます。お前たちのせいで、クリスチャンが世間から白い目で見られてしまうのだ、共産主義と一緒だと思われてしまうのだ、と。日本人なのだから、国歌や国旗に誇りをもって何がいけないのか、そんなことを信仰の問題にするのはおかしい、と思う方もおられるでしょう。しかし、もし君が代、日の丸が仲間のクリスチャンの良心を傷つけるのなら、私たちはその人たちの良心のために行動することも真剣に考えるべきです。それが「キリストに倣う」という具体的な行動なのです。そのために、私たちがたとえいくらか不利益を被ることがあったとしても、です。パウロの教えは、このようなチャレンジを私たちに投げかけています。私たちがパウロの問いを真剣に受け止められるように、一言お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。これまで何回かかけて、パウロの偶像にささげた肉についての具体的な教えを学んできました。そこからは、私たちは常に他の人たちの信仰を助けるために、またそのつまずきとならないように行動すべきだということを学びました。どうか私たちも、今日の日本において、パウロが指し示した原則に従って行動することができますように、そのための知恵と勇気をお与えください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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