1.序論
みなさま、おはようございます。今日が2026年の最初の説教となりますが、この箇所を今年の初めの説教として与えられたことは、何か象徴的なといいますか、大変大きな意味があることであるように思います。この箇所はキリスト教の核心的な部分に係ることだからです。
マタイ福音書を読み進めていくと、「おや?」とか、「これはいったいどういう意味なのか?」と思わされるところがいくつも出てくるのですが、今日の箇所などまさに典型的なところです。なぜ「おや?」と思うのかといえば、それはイエスの教えが私たちの普段考えているキリスト教とは違うことを言っているように思えるからです。胸がざわざわするというか、落ち着かない気持ちになってくるのです。たとえばその一つは、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」という、マタイ22章14節にあるイエスの言葉です。「少ない」というのがキーワードになっています。「いのちの道を見出す者は少ない」とか、「選ばれる者は少ない」と聞くと、「ああ、救われる人って少ないんだな」となんだがガクッとしてしまいますよね。特に日本のように、キリスト教人口が全人口の1%未満の国で、伝道の難しさが身に染みているような国では、いくらキリスト教を熱心に伝えようとも、大した成果が上げられないのではないか、という絶望的な気持ちになってしまうかもしれません。しかし、それは日本という特殊なケースの話で、世界では救わる人は少ないどころか、大変多いという現実があります。世界の総人口の約三割がクリスチャンと言われていますが、今の人口を80億人とすると、少なくとも20億人以上の人がクリスチャンだということになりますし、国によっては3割どころか5割にも上る国もあります。こんなに多くの人が救われているのなら、とても少ないなんていえないじゃないか、と思えてくるのです。日本だって、今でこそクリスチャンの数は少ないですが、これから数百年後になれば状況は全く変わっているかもしれません。仏教だって、初めはなかなか日本に定着しませんでしたが、鎌倉仏教という一種の覚醒時代を経て、広く庶民にも根付きました。同じことがキリスト教で起きる可能性は十分にあるのです。
ただ、今日の箇所はキリスト教人口が日本の人口の1%なのか世界の人口の30%なのか、というような数字の話ではなく、むしろその30%、世界の20億人ものクリスチャンがみんな本当に救われているのか、自称クリスチャンであれば、あるいは洗礼さえ受ければ、本当にみんな救われているのだろうか、という疑問を抱かせてしまうのです。よく、文化的クリスチャンという言葉があります。日本人でも、自分は神も信じないし無宗教だと思っている人も、自分の家が代々仏教の檀家であると、「私は仏教徒です」と答えてしまうように、伝統的にキリスト教国と呼ばれる国の人々は、教会には年一回ぐらいしかず、聖書も全然読まないような人でも「私はクリスチャンです」という人が結構たくさんいます。こういうケースも、本当に「救われている」と言えるのでしょうか。あるいは、確かに信仰心は篤いのですが、「自分は信じている、救われている」という気持ちばかり強くて、他人に対しては全然親切ではない、それどころか信仰を持っていない人を「救われてない人」というぐあいに蔑むような人は、なんとなくクリスチャンらしくないといいますか、そんな人ばかりが天国にいるとすれば天国ってあまり楽しそうではないな、生きづらそうだな、などと思ってしまうかもしれません。何が言いたいかと言えば、「自分はクリスチャンだ」という自覚があれば、本当に誰でも救われているといえるのだろうか、という疑問が生じてしまうのです。たしかに、しばしば言われるような「信じる者は誰でも救われる」という言葉を聞けば、性格的に難があったり、あまり実践面で熱心とはいえないような人でも、信じさえすればみな救われているということになるのかもしれません。しかし、マタイ福音書を読んでいると、そういう見方が本当に正しいのか、疑問を抱かせるような箇所が少なからず出てきます。さきほどの「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」というイエスの言葉もまさにそうです。これはイエスのたとえ話に出てくる言葉で、とある王さまが出てくる話ですが、この王は明らかに神を指しています。この王は立派な名士たちを王の宴会に招きますが、彼らはその宴会に来ようとはしません。そこで、おおよそその宴会にはふさわしくない人たちを通りで見つけては、彼らを宴会に招待します。こうした人々はラッキーにも王様に招かれて王宮で御馳走にありつけそうだと喜んで、いそいそと出かけていきます。ここまでは、何のたとえなのか分かりますよね。今日でも、社会で立派な人たちだとされている人がキリスト教に冷淡だったり無関心だったりするのに対し、社会から見下されているような人たちが喜んで福音に応答する、というようなことがしばしばあります。このイエスのたとえも、そのことを示しているように思えます。そういう人たちは、招きに応じさえすればみんな救われるのだ、と。しかし、なんとこうして招待された多くの人たちは、いざ宴会場に入ろうとしたときにふさわしい装いをしていないということで入場を拒否されてしまうのです。ただでごちそうにありつけると思ってやってきたのに、目の前でニンジンをぶら下げられて追い返されるという、非常に残念な結果になってしまいました。ここでの「ふさわしい装い」というのはクリスチャンにふさわしい行動、行いを指していると思われます。信じているといっても、ふさわしい行い、良い行いをしない者は結局は神の国に入れないということを教えているようなのです。マタイが言う「広い道」を通る人というのも、これはキリスト教を信じないで世の中の価値観に流されていく人ということではなく、むしろ自分はクリスチャンだと思いながらも世の中の価値観に流され、クリスチャンらしく生きない人なのではないか、と考えられるということです。しかし、そのような結論は「信じれば、ただ信じるだけで救われる」という多くの人がキリスト教に抱くイメージと衝突してしまうのです。「行いがなくても、信じるだけで救われるのがキリスト教でしょう?行いがないからといって、神の国から除外するなんて、おかしいじゃないか」という反論がありそうですよね。行いによって救われるのなら、ほかの宗教と何も変わらないじゃないか、キリスト教のすばらしさ、これはキリスト教だけでなく浄土真宗もですが、そのすばらしさは「行いによる救い」ではなく「信仰による救い」を説いていることだ、とこのように考える人がとても多いということです。
しかし、行いがなくても信じるだけで救われるなどとは、イエスは一言も言ってはいません。では誰が言っているのかといえば、パウロです。パウロ書簡には、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのだ、という教えが繰り返しでてきます。そしてそこから「信仰義認」、平たく言えば「信じるだけで救われる」という教えが生まれ、それこそがキリスト教の本質だと見なされるようになったのです。ただ、このような教えはよくよく慎重に考えなければなりません。いくらパウロが言ったことであろうと、それがイエスの教えと矛盾するのであれば、そこに価値はありません。私たちを救うのはパウロではなくイエスだからです。パウロが本当は何を言おうとしたのかを説明するのは今回の箇所の目的ではありませんが、それではなぜパウロの話をしたのかといえば、おそらく今日の箇所はこのパウロの教えを意識している箇所だろうと思われるからです。こういうと驚かれるかもしれません。パウロがイエスを信じるようになるのは、イエスが十字架で死なれて昇天した後であり、この山上の説教を語っている時点ではパウロはイエスのことを知りもしなかったはずだからです。パウロが活躍する前の時期に、イエスがパウロの教えを意識して何かを語るはずがないだろう、ということです。ただ、注意してほしいのは、確かにイエスの活動の時期はパウロの活動時期の前ですが、このマタイ福音書が書かれたのは、パウロが活躍した時代よりもずっと後のことだということです。マタイ福音書の執筆記事は紀元80年代だとされていますが、パウロ書簡が書かれたのは紀元50年代だと言われています。マタイ福音書は、パウロ書簡よりも30年、あるいは40年も後に書かれた福音書なのです。ということは、マタイ福音書を読んだり聞いたりした人たちは、パウロの教えについてかなり知っていた可能性が高いのです。説教者は聴衆のことをいつも考えます。自分が何を考えているかだけでなく、相手が何を考えているのかを意識しなければ、意味のあるコミュニケーションが成り立たないからです。マタイも、マタイ福音書を書いているときに、自分が記しているイエスの教えが聴衆や読者にどのように受け止められるのかを強く意識していたはずです。そして特にマタイは、パウロの教えを曲解して「行いがなくても信じればよい」などと考える信徒に対して非常に大きな危惧を抱いていたものと思われます。これはマタイ福音書におけるイエスの教えを慎重に読んでいけば分かることですが、今日の箇所はまさにその典型です。マタイは、イエスの教えの中でも行いの重要性を強調する教えに特に注目し、それらを集めて一つにまとめ、この箇所で非常に明確な形で提示しているということです。この点に注意しながら、今日のテクストを読んで参りましょう。
2.本論
では、13節からです。ここでは「いのちに至る道」と「滅びに至る道」という、二つの道が示されています。いのちに至る道は狭く、滅びに至る道は広いと言われています。このイメージは、クリスチャンには当惑させるものかもしれません。なぜなら、キリスト教神学では「狭い道」とは行いで救われようという厳しい道で、ユダヤ教的なものだと考えられてきたからです。ユダヤ人は自らの行いで救われようという厳しい道、険しい道を進もうとしてきたけれど、イエス・キリストはそのような狭すぎる道ではなく、もっと「広い道」、誰でもできる道を切り開いたというのです。すなわちイエスは人類の身代わりとして死ぬことで、良い行いはなくてもイエスを信じるだけで救われるという、もっと広い道を作ってくださったということです。しかしイエスは、救いに至る道は決してそのような安易なものではない、とくぎを刺します。では、いのちに至る狭い道とはどんなものなのか、ということをイエスはさらに示していきます。
イエスはまず、預言者たちについて語ります。預言者の良し悪しを判断する基準として、イエスは「実」で判断しなさい、と言います。では預言者の「実」とは何でしょうか?預言者ですから、預言ができることや、エリヤやモーセのように奇跡を行うことでしょうか。そう考える人に冷や水を浴びせるのが次のところです。22節と23節にはこうあります。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』
これはかなり厳しいことばですよね。主イエスの名によって預言したり奇跡を行った人たちですら救われないというのはいったいどういうことなのか、イエス様、いくら何でも厳しすぎませんか?という気がしてきます。しかし、このイエスの言葉を記したマタイは、おそらく彼の生きていた時代の教会のことを思い描いてこの言葉を記したのだと思います。パウロ書簡からもわかるように、原始キリスト教、つまりイエスが昇天してから数十年間、パウロが活躍していた時代は教会の歴史にとって例外的な時代でした。というのも、イエス様やパウロのような特別な人たちだけでなく、一般の信徒たちの間にも聖霊が力強く働き、彼らも預言をしたり奇跡を行うことができた時代だったということです。パウロは第一コリント書簡の12章10節で次のように記しています。
ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
このように、コリント教会の一般の信徒たちは奇跡を行ったり預言をすることができたのです。彼らは、嫌な言い方をすればいわゆる「平信徒」で、特別な役職についている人たちではありませんでした。では、彼らは奇跡を行うくらいだから人格的にもモーセのように高潔な人たちだったかといえば、コリント書簡を読めば分かるように、全然そんなことはありませんでした。コリント教会では、問題のある行動をする人が驚くべき奇跡を行うというような、そういう特殊な状態だったのです。パウロは「正しくない者は神の国を相続できない」とはっきり語っています。主イエスの聖名によって奇跡を行う力があれば、日ごろの行いがいくらだらしなくても救われるとか、そういうことは決してないということです。マタイ福音書の今日の箇所も、このような初代教会の状況を反映しているものと思われます。奇跡を行う能力があれば救いは間違いないというような誤解を解くために、マタイはこの厳しいイエスの教えをここに書き記したのだと思われます。
また、21節には次のような主イエスの言葉があります。
わたしに向かって、『主よ、主よ』と呼ぶ者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです。
これも厳しい言葉ですよね。イエスに向かって主よ、主よ、と呼ぶ人はクリスチャンしかいないわけですが、そのように主を求める人でも御国に入れない人がいるというのは衝撃的です。自分の行いに自信がある、私は神のみむねを行っていると自信をもって言い切れるクリスチャンはそんなに多くないと思うので、このイエスの言葉も私たちを不安にさせます。しかし、この言葉もある種のパウロ主義に対する誤解を解くためだとも考えられます。なぜならパウロは旧約聖書のヨエル書を引用して「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ロマ10:10)と言っているからです。このパウロの言葉を拡大解釈して、「主の御名さえ呼べば、誰でも救われる、行いとかクリスチャンらしい生き方とかは必要ない」という風に考える人がおそらくマタイの時代にいたのでしょう。なぜそういえるかといえば、それから二千年経った今でもそのように考える人がいるからです。マタイは、イエスの言葉としてそのような誤解、ある種のパウロ主義に反対し、口先だけではだめだ、信仰には行動が伴わなければならないということを強調したかったのでしょう。
このマタイの言わんとするところは、イエスの山上の説教の最後のたとえに端的に示されています。それは岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人のたとえです。イエスの話を聞くだけで行わない人は、自分が持っていると信じている信仰をたやすく失うだろうと説教者マタイは警告しているのです。そのような「信仰」は砂の上に建てた家のようなもので、困難が来ると簡単に壊れてしまうというのです。
ここで誤解しないでいただきたいのですが、「行いが大事だ」、「行いが必要だ」という場合の行いとは、一切罪を犯さないこと、完璧な行いのことという意味ではないということです。行いが必要ないという人のしばしば使うロジックは、神様の求めるのは中途半端な行いではなく、完璧な行いだけれども、それは不可能なのだ。だから救いと行いとは無関係なのだ、というものです。しかし、一切の過ちを犯さない人など誰もいないということは、誰よりも神様ご自身がご存じです。神様は人類と何千年も付き合ってこられたので、そんなことが人間には不可能であることをご存じです。神様が求めているのは、私たちの力の及ぶ限り努力することです。それだけです。その行いがどんなに不完全でまずいものだったとしても、神様はそんな私たちを支えてくれます。あなたは自分の子どもや教え子が何かを一所懸命やろうとしているときに、その努力が完ぺきではないからと言って見捨てるでしょうか?そんなことはないはずです。むしろ精いっぱい手助けするでしょう。もし見捨てるとすれば、「私はやりやります。頑張ります!」と口では言いながら、何もしようとしない人、自分では指一本動かさないような子どもや教え子であれば、あなたも助ける気をなくすでしょう。神様も、この点では人間の親や指導者とそれほど大きく変わらないのです。「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコ1:22)というヤコブの教えは本当に真実なのです。
3.結論
まとめになります。今日は山上の垂訓の最後の教えを学びました。そこで言われていることのポイントは、「聞くだけでなく実行しなさい」ということでした。山上の説教には様々な教えがあり、チャレンジを与えるものも少なくないですが、それらの教えをただ聞いて、「イエス様ってすごい、素晴らしい教えだ!」とただ感心するのではなく、実際に自分の手足や頭を動かして実行しなさいということです。日本の伝統的な教えで中国から伝わった儒教には「知行合一」というものがあります。本当に知る、理解するためには行動が必要だということです。イエスの教えの本当の意味は、こうして私や誰かの説教を聞いているだけではだめです。それを実践して初めてその意味が分かる、そのすごさが分かるのです。私も今年の年初に何か新しいことをやろうと思って将棋入門の本を買いましたが、その本がそんなに素晴らしても、私がその本を読んで実際に練習やけいこをしないことにはその本は単なる宝の持ち腐れです。ないのと同じです。ですから私たちも聖書を読んだり聞いたりするだけでなく、それを実践しましょう。ただ、気を付けたいのは実践すると言ってもイエスの意図をちゃんと理解しないでしゃにむにそれを行おうとしてはいけないということです。「右のほほを叩かれたら左のほほを向けなさい」という教えに込められたイエスの意図を理解せずに、ただそのまま実践しようとすればかえってもっとひどいことになります。まずイエスの意図をきちんと理解して、そのうえで実行すべきなのです。ですから聖書を学ぶことはとてもとても大事です。しっかり学び、そのうえで実行する、今年もそのように歩みたいと願うものです。お祈りします。
天におられますわれらの父よ、そのお名前を賛美します。主の年2026年が始まりました。ことしもみことばを聞き、それを正しく理解し、そのうえで実行できるように私たちを導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

