黄金律
マタイ福音書7章1~12節

1.序論

みなさま、おはようございます。マタイ福音書の「山上の垂訓」を読み続けていますが、この山上の垂訓にはイエスの非常に有名で印象的な教えがたくさんあります。今日の箇所もまさにそのような箇所で、先日教会員の総意で当教会の来年の年間主題聖句にすることが決まった一節も含まれています。

今日の箇所は、大きく分けると三つに分類できます。一つ目は1節から6節までで、裁くことについてです。7節から11節までは良い物を与えてくださる主を信頼すること、そして最後の12節は「黄金律」とよばれる重要な教えです。これらの教えを聞くにあたって大切なことは、これまで何度も申し上げてきたことですが、常識的な視点を失わないということです。具体的には、直解主義、聖書に書いてあることをなんでも「文字通り」、「字義通り」に捉えようというものです。こういう人たちはイエスの言葉の語られている文脈を無視して、あらゆるケースにこの教えを当てはめようとするのです。

今日の箇所で「さばいてはいけない」とありますが、これを直解主義でとる人は、自分の周りの人が罪を犯した場合でも、それを指摘して裁いてはいけないということを主張したりします。しばしば引用されるのはヨハネ福音書8章の姦淫の女の話で、姦通の現場で捕まった女性を裁くべきだと詰め寄る人々に対し、主イエスは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われたところ、誰も石を投げなかったという話です。この話を聞くと、「人間で罪を犯したことのない人はいない。脛に傷のないひとなどいない。だから他人を批判したり、裁いたりしてはいけないんだ」ということになります。私も実際に、ある教会で人妻と不倫をしている教会員を批判する人に対し、別の教会員がこのヨハネ福音書の話を持ち出して、「あなたも同じ罪びとなんだから、他人をさばいてはいけない」と言ったという話を聞いたことがあります。ほかの教会員の罪を指摘して批判する人は、「律法主義者」などというレッテルを張られることもしばしばあります。

しかし、聖書ではそれとはまったく正反対のことを述べている箇所があります。使徒パウロはコリント教会への手紙で、父親の妻を自分の妻にして暮らしているというすさまじいことをしている信徒の罪やほかの罪をさばかないコリント教会の人たちを批判して、こう書き送っています。第一コリント6章2節から3節をお読みします。

あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。

さらには、5章12節と13節でこう書いています。

外部の人たちをさばくことは、私たちのすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の者たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。

とこのように、罪の中でもとりわけ教会の中にいる人たちの罪を裁きなさい、と命じています。ですから教会員の罪を指摘する人をヨハネ福音書8章を持ち出して批判する人は、主イエスと使徒パウロが正反対のことを教えていると言っているのと変わらないのです。

しかし実際は、主イエスも教会内の罪を取り扱うように指示しています。マタイ福音書18章15節から17節をお読みします。

また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

と述べておられます。教会員の罪を責めなさい、とはっきり命じているということです。こういった主イエスやパウロの言葉を無視して、今回のイエスの言葉を持ち出して「さばくことはいけないことだ」というのは問題があるのがお分かりになると思います。では、イエスの教えの意図は何なのか、ということを考えてみたいと思います。

2.本論

では6章1節から読んでまいりましょう。ここで問題となっているのは、「さばく」ことそのものではなく、ダブルスタンダードの問題です。政治の世界でよく言われることですが、他人の罪は責めるのに自分が同じことをしている場合は大目に見る、というような行動をイエスは批判しているということです。政治資金の問題で、ほかの政党の政治家が不適切な行動をしている場合は鬼の首を取ったように批判するのに、自分が同じことをしている場合は「秘書が勝手にやったことで、私は知りませんでした」と言い逃れるようなケースです。これは笑えない話ですよね。日本のことわざでも、他人を批判する前に自分の行動を改めなさい、ということが言われます。「紺屋の白袴」、「灯台下暗し」、「人のふり見てわが身を正せ」などは基本的にみな同じことを言っています。人のことはあれこれ口うるさく批判するのに、自分のおかしな点にはまるで気づいていないような人のことです。主イエスも同じことを言われているのです。「他人の目のちりを取る前に、自分の目の中の梁を取り除けなさい」というのは、人の小さな欠点には異様に敏感なのに、自分の大きな欠点についてはまるで無頓着な人のことを言っています。ですから、繰り返しますがイエスがここで問題にしているのは裁くという行為そのものではなく、むしろ裁きにおけるダブルスタンダード、他人に厳しく自分に甘いというあり方なのです。

では、そのような文脈において6節はどんな意味を持っているのでしょうか。聖なるものを犬にやるな、真珠を豚にやるなという教えです。ことわざの「豚に真珠」のルーツになったイエスの教えですが、ここで言われている「犬」とか「豚」というのはある種の人間のたとえなのは間違いないので、イエス様が人を犬とか豚とか呼ぶことに抵抗を感じる方もおられるかもしれません。しかし、これは誇張表現であっても悪口ではないということに気を付けていただきたいと思います。では、これらのことばはどういう意味かといえば、「良薬は口に苦し」というように、人が時として必要としているのは厳しい批判であり、自分の問題点をずばりと批判してもらうことです。しかし、ある人は批判を一切受け付けずに、むしろ自分を批判する人を憎むようになります。そのような人を批判しても無駄なことだと、イエスはおっしゃりたいのです。つまり「聖なるもの」とか「真珠」というのは正しい意味での他人の批判です。イエスがどんなときにも「裁くな、批判するな」と言っているわけではないことがここからもわかるでしょう。このイエスの教えは、旧約聖書の知恵文学の系譜にあるものだと言えます。箴言にも似たような教えがありますので、そこを見てみましょう。箴言9章の7節から9節をお読みします。

あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵ある者を責めよ。そうすれば彼はあなたを愛するだろう。知恵ある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。

このように、批判というものは聴く耳のある人にしかすべきではない、というのがイエスの教えのポイントなのです。

では、次の7節に行きましょう。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」という大変有名なみことばです。このみことばは当教会の来年の年間主題聖句ですので、これからも折に触れてお話ししたいと思いますが、今日はそのポイントをお話ししたいと思います。このみことばは非常にインパクトがあり、覚えやすいので、いろいろな意味合いで理解されるでしょうが、念のために申し上げますと、これは神様が私たちの願いをなんでもかなえてくれるという意味ではもちろんありません。むしろ、神様は私たちの欲しがるものではなく、私たちにとって本当に「良いもの」、「必要なもの」を喜んで与えてくださるということです。ですから、私たちにとって本当に良いもの、必要なものが試練であるならば、私たちがそんなものは欲しくないと思っていても、本当は必要としている、心の奥底では求めているその試練を与えるということがあるのです。親は子供に良いものを与えますが、その良いものというのはわがままな子供が欲しがるものではなく、むしろ嫌がるものであることもあるのです。なぜそんなものを与えるのかといえば、それが子供のためであると親は知っているからです。そのことを詳しく書いてあるのがヘブル人への手紙です。その手紙の12章5節から12節までを、少し長いですがお読みします。

そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちを自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときには喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。

ずいぶんと長い引用になりますが、父なる神が私たちの内なる求めに応えて与えてくだるものとは、私たちの欲望を満たすものではなく、必要を満たすものだということを覚えておきましょう。ヤコブの手紙でも同じことが言われています。4章の2節と3節をお読みします。

あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

このように、神が私たちの願いに応じて与えてくださるものとは、良いものであり、その良いものというのは私たちの成長のために良いものであり、私たちがいくら願っても私たちのためにならないものはお与えにならない、ということはしっかりと胸に刻むべきことでしょう。

そして、この次の12節に有名な黄金律が来ます。「それで、何事でも、自分にもしてもらいたいことはほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」というみことばです。「それで」、ということばは「したがって」とも訳せます。つまりこの黄金律は「求めなさい」というみ言葉の結論、帰結としてあるということです。これはつまり、神様が私たちの求めるものを与えてくださるのだから、私たちもまたほかの人たちに同じように与えてやりなさい、ということです。神様がよくしてくださったように、他人にもよくしてやりなさい、ということです。ここで注意したいのは、この教えは人が求めるものは何であれ、その人に与えてやりなさいという意味ではないことです。なぜなら神様はそんなことはなさらないからです。神様は私たちの求めに応じてなんでも与えてくださるというようなことはせずに、私たちにとって良いもの、必要なものだけをお与えになるのです。同じように、私たちも人々が求めるならなんでもそれに応えるというようなことをすべきではありません。そんなことをすれば、それは結局人間関係を壊してしまうからです。私たちはむしろ、相手にとって本当に必要なもの、良いもの、自分たちの関係を良くしてくれるものを与えるべきです。そこには知恵と愛情が必要なのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスの有名ないくつかの教えを学びました。これらに一貫した教えとは、相手のためになる、相手にとって本当に必要なものを与えてやりなさい、ということでした。なぜなら神がそのようにしてくださるからです。私たちは時に、相手が求めていなくても、本当に必要としているものを与える必要があります。その一つが耳の痛いアドバイス、助言です。相手が嫌がる場合でも、相手のためになることは時には言わなければならないのです。しかし、相手に助言する際に自分が同じ過ちを犯している場合は、その助言は力を持ちません。ですから私たちは人にあれこれ言う前に、まずは我が身を顧みなければなりません。そうして初めて、人に何か言うことができるのです。

神様も私たちが本当に必要とするものは、なんでも与えてくださいます。神は私たちでさえ気が付かない、私たちの内なる願いを知っておられます。そのような願いに応えてくださいます。しかし、神が与えてくだる「良いもの」は私たちの快楽を満たすものとは限りません。むしろ逆である場合のほうが多いでしょう。ですから私たちは神様が与えてくださるものが自分の期待したものとは違っていたとしても、そこに神の深い思いやりがあることを信じてそれを受け取るようにしたいものです。

神様が私たちをそのように気遣い、与えてくださるように、私たちも隣人に対して同じようにしましょう。それは相手が求めるものになんでも応じるということではありません。むしろ、本当に相手のためになることを進んでしてあげるべきなのです。そのような知恵と愛を持てるように、神に祈りましょう。

私たちを愛し、私たちが本当に求めるものを与えてくださる父なる神様。そのお名前を賛美します。あなたがわたしたちにそのようにしてくださるように、私たちもほかの人たちにすることができるように、力をお与えください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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