わたしは言う(2)
マタイ福音書5章38~48節

1.序論

みなさま、おはようございます。今朝は、前回に続いてマタイ福音書において主イエスが「モーセはこう語ったが、わたしはこう言う」というスタイルでのイエスの六つの教えのうち、後半の二つを学んでまいります。

前回と今回の二度に分けたのには理由がありまして、今日取り上げる二つの教えは、前半の四つとは大きくテーマが異なるからです。前半の四つは、それを文字通りにとると大変誤解を生む箇所でもありました。文字通りにとるというのは、主イエスは私たちが心の中で腹を立てるだけで、それは殺人の罪を犯したのと同じだとして、罪の基準を思いっきり厳しくしたというようなものです。心で怒っただけで殺人と同じだということになれば、怒ったことのない人はいないでしょうから、すべての人は殺人の罪を犯したということになります。だから、人類はみな人殺しなんだ、ということを主イエスはおっしゃりたかったのではもちろんありません。むしろ、心の中の怒りを放置して、その怒りの原因に向き合わないでいると、まるでボヤが大火事に発展してしまうように、私たちがその怒りに飲み込まれてしまい、人間関係を破壊するような危険な行動に走ってしまいかねない。そうならないために、早くアクションを起こしなさい、まだボヤである段階のうちに自分の心と向き合い、怒るという負の感情と向き合いなさい、そして相手と和解しなさいという、私たちに行動を起こすように促すのがイエスの意図でした。

しかし、今日の二つの教えは、前半の教えよりもはるかに難しい要素を含んでいます。というのも、前半の四つの教えは基本的には「兄弟」と呼ぶような親しい間柄にある人たちの関係、あるいは最も親密な関係である結婚関係を良好に保つための教えであるのに対し、この後半の関係は「敵」と呼ぶような対立状態にある人たちとの関係を論じたものだからです。ずばりいえば、イエスがここで念頭に置いていた「敵」とはローマ帝国です。イエスの時代のユダヤの人々は、ローマ帝国に植民地として支配されていました。ローマに支配される前のユダヤはハスモン王朝という王家に支配されていたパレスチナの強国だったのですが、内部の権力闘争に関してローマの介入を招き、紀元前63年からユダヤはローマの支配を受けるようになります。ローマの支配はユダヤ人の生活を大変苦しいものにしました。ローマの支配によって一番影響を受けたのが庶民の暮らしです。私たちの例で考えれば、いきなり消費税が今の10%から30%に引き上げられる、そんな感じだったと思います。ローマの課した税金には様々な種類がありましたが、ローマがユダヤ人に課した税は収入のざっと2割程度だったといわれていますから、この消費税のたとえは当たらずとも遠からずだと思います。皆さんも10,000円の買い物をして、支払いが11,000円であるのと13,000円であるのは負担感が全く違いますよね。ユダヤ人はローマの支配下にあることで、このような状態に置かれたのです。そして次にあるのは暴力の恐怖です。ローマの支配はその圧倒的な軍事力に支えられていました。歯向かうものには容赦なく暴力が振るわれ、その最悪のものが十字架刑でした。ユダヤの人々はローマ兵による常習的な暴力におびえながら暮らしていました。そしてさらにユダヤ人の心を重苦しくしたことは、ローマがユダヤの地に持ち込む偶像礼拝でした。ローマ人もユダヤ人が唯一の神のみを礼拝し、偶像を忌避していたことは理解していましたが、ローマにもローマ人が信じる神々がいます。ユダヤの地に駐屯したローマの軍は、時には慎重に、時には大胆に、ローマの神々を礼拝するための偶像やシンボルをユダヤの地に持ち込もうとしました。そのたびにユダヤ人との間に一触即発の対立が生まれそうになります。実際、小さな小競り合いは何度も生じています。ローマの側もユダヤ人の宗教心に配慮していましたが、彼らがそうした配慮を欠く行動をするたびに、ユダヤの暴動を招きそうになったのです。

このように、イエスの時代のユダヤには常に不穏な空気が流れていました。ローマとユダヤの関係は、今日のパレスチナにおけるイスラエルとパレスチナの人々との関係に似ているといえるかもしれません。現代ではユダヤ人のほうが圧倒的な強者ですが、当時はユダヤ人のほうが今のパレスチナ人のような弱い立場に置かれていて、ローマ人を怒らせるとすぐさま暴力で報復されてしまうような状態にありました。そんな中でユダヤ人は敵であるローマ人にどう向き合うべきなのかという非常に重たいテーマが今日のイエスの教えの背景にあります。そのことを頭に入れながら、今日のみことばを読んでまいりましょう。

2.本論

では、38節、39節を読んでいきましょう。このイエスの教え、すなわち「右のほほを打たれたら、左のほほを差し出しなさい」は、イエスの教えの中でもおそらく一番有名なものではないでしょうか。ただ有名であるだけでなく、激しく誤解されている教えでもあります。この教えは、無抵抗主義の教えのように見えます。つまり、友達からいじめを受けている子どもに対して、「なぐられたらもっとなぐらせてあげなさい。千円カツアゲされそうになったら、思い切って1万円渡してやりなさい」と教えているように理解されてきたということです。しかし、もしいじめられている子にこんなアドバイスをする人がいれば、私は許せないと感じるでしょう。それはその子の抱えている深刻な問題を何も解決せずに、むしろもっと悪化させてしまうからです。また、悪いことをしている人をますます調子に乗せてしまうでしょう。「俺悪いことしてないよ。だってあいつが1万円くれるっていったんだから」などと言い出すのは目に見えています。ですから、主イエスともあろう方がこんな愚かなアドバイスをするはずがないのです。では、無抵抗主義ではないのなら、このイエスの教えの真意はどこにあるのでしょうか。

ここで皆さんに考えてほしいのですが、仮に隣に座っている方の右のほほを、右の手で打とうとするとします。その場合、皆さんは右手のてのひらで相手の右のほほを打つことはできませんよね。手の甲を使わないと、右のほほを打つことはできません。つまり、こういうしぐさになります。このように相手を打つことは、古代社会では相手を侮辱することを意味しました。自分と相手とは同格ではないという場合、つまり主人と奴隷とか、また古代社会は男尊女卑でしたので夫と妻のような、明確な上下関係にある人々の上の立場の人が下の立場の人にするのが、この手の甲でほほを打つというしぐさなのです。そしてイエスがここで念頭においていたのは征服民であるローマ人と、被征服民であるユダヤ人のことであったと考えられます。ローマ人はユダヤ人を殴る場合、ユダヤ人は支配される側なので、相手を軽蔑する意図を示すためにわざわざ手の甲で打ったということです。そのようなふるまいをされた場合にどうするべきか、というのがイエスの教えのポイントでした。

この点を踏まえたうえで、ではイエスの「左のほほを差し出せ」という教えの真意はどこにあるのでしょうか。右のほほをてのひらで打つことができないように、左のほほを手の甲で打つことはできません。つまり左のほほを打つには、手のひらを使わざるを得ないのです。そして、手のひらで打つ相手というのは格下ではなく、対等の相手なのです。イエスは手の甲で侮蔑的にユダヤ人を打つローマ人に対し、やり返せとはいいませんでした。そんなことをすればローマ兵は逆上し、さらに激しい暴力をユダヤ人に振るってくるでしょう。そうなると、ユダヤ人も命がけで抵抗し、この二人は殺しあうところまでいってしまうでしょう。しかし、ローマ兵に対して暴力で反撃するのではなく、左のほほを差し出して、手の甲ではなく手のひらで打つように促すことで、そのユダヤ人はローマ兵に対し、「私もあなたと同じ人間だ。私を奴隷か何かのようではなく、対等な人間として扱ってほしい」という意思表示をすることができるのです。イエスは、「目には目を」、「暴力には暴力を」というやり方を認めません。反対に、やられてもただ我慢しなさい、相手に対して卑屈になって、なんでも差し出すので許してください、というような態度も是認しません。むしろイエスは第三の道、暴力を用いずに、しかも相手に卑屈にもならずに、自らの尊厳を主張する道を示そうとしました。暴力を用いずに、しかも暴力に屈しないというのは大変難しいことです。そこには知恵と勇気が必要です。

イエスは、「あなたに一ミリオン行くように強いる者とは、二ミリオン行きなさい」とも言われました。この言葉もローマ帝国による支配を背景にして考えなければなりません。当時ユダヤの支配していたローマには、「徴用」という制度がありました。徴用とは何かといえば、ローマ兵は被支配民であるユダヤ人を一定期間ただで働かせることができるという、とんでもない制度でした。たとえばローマ兵はユダヤ人をつかまえて、「この荷物を一ミリオン運べ」と命じることができました。一ミリオンとは約1500メートルですので、結構な長さです。皆さんも学生時代に1500メートル走をしたことがあるでしょう。新約聖書で最も有名な具体例は、イエスの十字架をローマ兵の命令で運ばされたクレネ人シモンです。彼もいきなりローマ兵に命令されて、荷物を運ぶようにと命じられたのです。しかし、ローマ側もこの制度を乱用すると、ユダヤ人の怒りが爆発するだろうということも理解していました。そこで、ユダヤ人を徴用するとしても一マイルまでだという制限を設けました。そして一マイル以上ユダヤ人を徴用すれば、罰則が科されることになりました。そのような規制に縛られているローマ兵に対し、荷物を運んでいるユダヤ人が「一マイルといわず、二マイル行きましょう」と申し出た場合、どうなってしまうでしょうか。ローマ兵は、上官からの処罰が怖いので、「いや、もういい、これ以上いかないでくれ。荷物をそこにおいてくれ」と言わざるをえないでしょう。ローマ兵としてはばつの悪い、なんだかもっともない姿ですよね。そのような経験をすれば、ローマ兵のユダヤ人を見る目も変わるでしょう。これまでは都合の良い道具のように見なしていたユダヤ人を、明確な意思を持った対等の相手、侮れない相手であるとみなすようになるのです。

ここまででおわかりのように、「左のほほを向ける」や「二マイル行く」というイエスの指示は、無抵抗主義ではなく、むしろ一種の自己主張、自分を見下す相手に対し、暴力を用いずに自らの尊厳を主張する方法、しかも非常にクリエイティブな方法だといえます。このような行動を実際に行った有名な人物がいます。それはイギリスの植民地支配に対して暴力を用いない抵抗を行ってインド独立を勝ち取ったマハトマ・ガンジーです。ガンジーはクリスチャンではありませんが、イエスの教えの意図をよく理解し、実践に移した偉大な指導者でした。私たちは侵略や暴力に対して、暴力で対抗しようとします。しかし、今日のように破壊的な武器が戦場で用いられる場合に、「目には目を」で対抗していくことはおそろしい結果を招くことになります。だからといって、無抵抗で我慢するのもよくありません。それは何の解決ももたらしません。イエスは、まったく新しい方法を示しました。イエスは、その行動を通じて自分を見下す相手を驚かせ、相手に自分も意思と誇りを持つ人間であることを示し、それによって相手との対話のきっかけを作り出そうとするように教えているのです。それが相互理解、和解への道だからです。

「和解」というのがこのイエスの教えのキーワードです。敵を敵とみなす限り、いつまでも対立状態は解消されません。目には目を、は果てしない報復の連鎖を招き、一方が決定的なダメージを受けるまで戦いは終わりません。実は無抵抗主義にも同じ問題があります。人間はいつまでも我慢できるものではありません。あまりにも理不尽な要求をされれば、窮鼠猫を噛むということで、最後は捨て身の反撃を招くでしょう。この場合も破滅的な戦いという結果に終わるのです。そうならないために、敵との対話の機会を作り、互いに相手を理解し、よりよい関係へと変換を図るべきなのです。イエスは「敵を愛しなさい」と教えました。これは感情の問題ではありません。自分に害をなそうとする人を好きになれるはずはありません。ですから、「愛しなさい」というのは感情のことではなく、行動のことです。つまり敵に対しても、「私はあなたの敵ではない、あなたと理解し合いたい」というメッセージを、行動を通じて送ること、示すことなのです。そのためには、いやな相手を、「こいつは敵だ、悪い奴だ」と決めつけずに、相手も神が創造した人物であり、神の愛の対象なのだと認識しなければなりません。そのような、敵を敵としてではなく、リスペクトすべき相手だと認識することで、対話の糸口、平和への道、和解への道が拓かれるのです。イエスのこれらの教えのポイントは「平和づくり」です。

3.結論

まとめになります。二回にわたって、イエスの「モーセはこういうが、私はこういう」という一連の教えを学びました。今回は特に後半の二つの教えを学びましたが、これらは誤解を生みやすい教えでもあります。イエスは悪者の理不尽な行動に対してひたすら我慢しなさい、何をされても無抵抗でいなさいと教えたわけではありません。ただ我慢しても、それは問題の解決にはなりません。だからといって、「敵を憎んで、相手を滅ぼすまで戦い続ける」、「やられたらやりかえす」というのも破滅的な道です。とくに、今日のような破壊的な武器を人類が持つようになってしまった現状では、こうした道は勝者なき戦い、自滅への道でしかないのです。

それに対し、イエスはそのような敵との対話を促すような行動を示しました。暴力は用いませんが、それでも相手をはっとさせる、驚かせるような行動をとることで、相手の自分を見る目を変えさせて、対話につながるようにするのです。そのためには当然知恵が必要です。特に相手が圧倒的な武力を持っている場合、イエスの時代はローマがまさにそうでしたが、そのような相手と対峙するためには、相当な知恵と勇気、そして命を懸けるほどの覚悟が必要です。私たちの時代には、先ほども申しましたようにガンジーのような人がいました。しかも、ガンジーは非暴力でしたが、他方で武器を持って戦ったチャンドラ・ボースのような人もいて、ある意味でガンジーの行動を補完しました。ですから、何が何でも武器を持ってはいけないということでは必ずしもないのです。それは現実主義ではなく原理主義です。イエスは柔軟な方で、原理主義者ではありませんでした。それでも、イエスご自身は最後まで武器を取ることをせず、むしろ十字架の道を選びました。私たちはそのことを重く受け止めなければなりません。

大事なことは、武器を持っていいのか、いけないのか、というような抽象的な議論ではなく、平和を作り出そうとする意思です。そのためには妥協すら必要でしょう。知恵も必要です。今日のような戦争の泥沼にはまっている時代、大事なことは一方的な正義を振りかざして「敵」を敵として憎むのではなく、むしろ相手を理解し、和解の道を探ることです。そのために、私たちはイエスの教えに真摯に耳を傾ける必要があるのです。お祈りします。

平和の主であるイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。どうか戦争のやまない今日、私たちが平和づくりのために祈り、行動することができますように、力をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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