矢田洋子
教会が誕生したその時、人々はいろいろな他国の言葉で話し出したと、使徒言行録は報告しています。教会は「キリスト・イエスにおいて一つ」(ガラ3:28)であり、「みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を」(Ⅰコリ1:10)と使徒パウロは強く呼びかけていますし、「一つのからだ…一つの御霊」(Ⅰコリ12:13)で、また、「主は一つ、信仰は一つ」(エフェ4:5)です。しかし、教会はその誕生の時、使徒言行録で、一人一人が多様な言語で語り出しているということを覚えたいと思うのです。明らかに思想統制や画一化では決してないことは、教会自身が忘れてはならない大切なことだと思います。
集まっていた人々が突然、様々な言語で語り始めたという出来事は、使徒言行録のペンテコステだけでなく、旧約聖書の創世記11章のバベルの塔の物語も同じです。その二つの物語の中で、言語が多様になった理由は、一見、正反対のようにも見えます。ペンテコステの時、人々が聖霊を受けて様々な言葉で話し出したのは、世界伝道の先取りという神の恵みの奇跡と言うだけにも見えますし、一方、バベルの塔では、悪い人間たちへの神さまからの罰のように感じて、一見、正反対に見えるかもしれません。でも、じっくり味わって読むと、決して正反対ではなく、むしろ、共通のメッセージが込められているように思うのです。今日は、多くの言語で語り始めた物語に込められた聖書のメッセージを、特に旧約聖書のバベルの塔の物語から探っていきたいと思います。
創世記11章。その頃、全地は一つの言葉、一つの話し言葉であった。人々が町を建て、頂が天に届く塔の建築を始めてしまったので、神さまはそれを妨げられた。人々はバラバラな言葉を話すようになり、お互いの言葉が聞き分けられなくなって高い塔の建設事業は継続不可能になった。そして神さまは人々を全地に散らされた。バベルの塔の物語です。
この物語は、言語の多様性の「原因譚」だとよく解説されます。昔の出来事の記録というよりも、今の現実世界の状況や意味をその起源を物語る形で説明する物語。この世界に実際に数多くの言語がある理由を昔話の形で説明しているとよく解説されるのです。この時、神さまが人間の言葉をバラバラにした、混乱させたと書いてありますけれども、言葉が多様になったこと自体については、旧約聖書をそのまま読んでみると、その言語の多様性については悪いとは言っていない。むしろ、言語の多様性についてはいいことのように書いてあると思います。
神さまがこの時、人々の言葉をバラバラにさせたのは、頂が天に届く高い塔の建設をやめさせるためでした。高い塔の何が悪かったのでしょう。神さまは何を赦されなかったのでしょう。よく言われる一つの説明は、天まで届く高い塔は、神の領域を侵すことだから悪いという理由です。聖書で「天」とは、神さまの居ます場所を第一に指す言葉です。空とか宇宙とかいう意味以上に、神さまの領域を意味します。神は天地の造り主、人間と神様は、被造物と創造主。絶対的な違いがある。にもかかわらず、それを知らずに神の領域を侵犯しようとしている。神を神としない決して赦されない罪。神に取って代わろうとする人間の傲慢の象徴。その意味も十分あるとは思います。ただし、私たち、天地万物の造り主を知っている私たちが勘違いしてはならないのは、私たちは神を知っているから大丈夫。あの人たちは神を知らず、神を神としていなから滅びる、のように単純な教会の自己正当化に利用してはならないということです。
創世記11章がそれよりももっと強調しているのは、この町の名前「バベル」と表現されているところだと思います。バベルの塔の「バベル」とは、古代バビロニアのことです。古代バビロニアのいくつもの都市の真ん中には、「ジックラト」という背の高い宗教建造物があったことが発掘でいくつも見つかっています。ジックラトは、日干し煉瓦で造られた四角い階段ピラミッド状の背の高い建物で、一番上にはバビロニアの神々の神殿があるという構造をしていたことがわかっています。バベルの塔の絵画ではよく、円形の段々の高い建物のように描かれていますが、おそらくそれもジックラトを念頭において描かれた絵だと思います。ジックラトは、その四角い版で、四角い建物の上に四角い建物、その上にまた四角い建物、と段々に積み重なった構造をしていました。バベルの塔の物語は、バビロニアの町にあったジックラトという宗教建造物を否定しているのは疑いようがありません。
ジックラトは、天と地がここでつながっていると内外に知らしめる目的で建てられたものだったようです。我々こそが神と世界を結んでいる。だから我々が世界の中心なのだという主張です。創世記11章は、バベル、バビロンは悪だと言っているだけではなく、バビロニア宗教のジックラトが象徴しているように、神の権威を持ち出して、自分勝手な正義を押し付け、神を理由に他を支配する。それをダメだとはっきり言われていることを私たち忘れないようにしたいと思います。
日本では、この10-30年位でしょうか。「宗教」というものが全部ひっくるめられて、危険なものと言われることが多くなってきた気がします。宗教に入ったら自主性を失うとか、怪しい、怖いとか。確かに、そのような、神の権威を借りて他者を支配しようとするようなタイプの宗教はたくさん存在します。また、残念ながら、聖書を信じ、イエスさまを信じているはずの教会でも、自分たちの正義を押し付ける形の“怪しい”宗教に成り下がっているところもあります。でも聖書は、ジックラトが象徴するような神の威を借りて他を支配しようとすることは神さまがお赦しにならない、と伝えています。私たちは、自分勝手な正義を神様の真実と同一視してしまわないように、その歪んだ真理で周りを支配しようとしてしまわないように気を付けていきたいものです。
バベルの塔の物語で、神さまが人間の悪い企みを阻止するために具体的になさったのは、人間たちの言葉をバラバラにすることでした。ここには明らかに「バベル」との言葉遊びがあります。混乱させる・バラバラにするというヘブライ語は「バラル」で、町の名前「バベル」と音がそっくりです。「バベル」の町の塔だから「バラル」、混乱、バラバラという言葉遊びにすぎないかもしれません。それでも、ここではっきりと、人間の悪い行いを阻止するために、神さまが人々の言葉をバラバラに多様化させたと物語られているのです。
実は私は最近まで、このバベルの塔の話が嫌いでした。社会で暮らす中で、私の言葉が通じないとか、相手の言葉がわからない、なぜここまで誤解されるのか、通じない、と悲しくなることがよくあったからです。どうして神さまは別のやり方ではなく、「言葉」をバラバラにするやり方にしてしまわれたのだろう。人間同士、分かり合えないのは、神さまがそうされたからなのか。神さまが言葉を多様化させて、分かり合えないようにされたのなら、あきらめるしかないのかと、悲しくなっていた時期が長くありました。
でも、バベルの塔の物語をじっくり読んでみると、そうではない。分かり合えないのが神からの罰と書いてあるわけではありません。人間が同じ言葉を使って、言葉が一つであることに関して「良くない」という表現が使われているのです。「彼らは皆一つの言葉を話しているから、このようなことを始めてしまったのだ」(創11:6)。決定的な悪を実行するようになってしまった一番の原因を、一つの言葉を話しているからだと言っているのです。
この一つの「言葉」という単語は、もともとのヘブライ語では「唇」という単語です。「一つの唇」だと言っているのです。「全地は一つの唇であった」(11:1)。「一つの唇だからこんなことを始めてしまった」(11:6)のだ。ヘブライ語の「唇」という単語には、人間の唇から出る言葉の意味もあります。神の言葉のことは、「唇」とはいいません。「唇」は、人間が発する言葉の内でも、口先だけの言葉によく使われます。
「全地は一つの唇であった」。私たちが全く同じ言葉を口にするのはどんな時かを想像してみたいと思います。礼拝での話は後ですることにして、まずは世俗の日常生活で、全く同じ言葉をいろいろな人々が口にしているという状況を思い浮かべてみましょう。それはおそらく、一人一人は何も考えず、何の責任も持たずに口先だけで言っている場合が多いのではないかと思います。たとえば、全体主義や思想統制がある場合、または口裏合わせ、あるいは同調圧力や忖度によって、一人一人は考えず、意志も責任も持たず、ただ言われたままの同じの言葉を口に出し、その通りに行動する状況になってしまうことがよくあります。テレビの刑事ドラマでこんな話がありました。一人の人が階段から落ちて死ぬという事件があって、その目撃者たち一人一人に刑事役の主人公が話を聞きに行った。すると彼らは皆、全く同じ言葉で事件の話をした。「何もなかったのに、突然AがBに殴りかかってきました。10発くらい殴ったとき、Bが振り払うとAは勝手に階段から転げ落ちて行きました」。皆の言い方が、数字も順番も表現もあまりに同じなのはおかしいと、そのドラマの主人公は、目撃証言が口裏合わせの嘘だと見破って、事件の真相を解いていったのでした。このように、日常生活で人々が全く同じことを言う状況、一つの唇だという状況は、たいてい変な強制力が働いているのではないかと思います。もし一人一人がそれぞれに、思いを尽くし、精神を尽くし、思考を尽くして、心の底からの言葉を口にしたならば、全く同じ言葉にはならないはずだからです。
人々が赦されない悪へと突っ走ってしまった原因は、「一つの唇」だったことだとバベルの塔の物語は言っています。その時代、王の命令が絶対で、人々には意志の自由がなかったのかもしれません。意志を持とうとさえ思わなかったかもしれない。王が「天まで高くレンガを積み上げよう」と言ったから、人々は言われた通り、何も考えないで「天まで高くレンガを積み上げよう」と口々に言って積み上げ続けた。あるいは、周りがそう言って、そうしていたから、周りに合わせて同じ言葉を言い、同じことをした。そんな全体主義的だから、忖度社会だから、一人一人が自分自身の問題として考えないから、自分でしっかりと感じないから、自分で責任をもっていないから、こんな悪いことをし始めたのだと語られているのだと思います。
考えてみれば、私たちの人間社会で実際に起きている最悪の状況の多くのものも、「一つの唇」が原因で起こり、ひどくなっているように思います。宗教を理由にした戦争も、もっと身近ないじめとか、寄ってたかっての誹謗中傷も。だから、神さまは人々の言葉を多様にされたのでしょう。バベルの塔の物語で神さま言葉を多様にしたのは、人間の悪い行いへの罰なのではなく、一人一人の人間が、ちゃんと自分の言葉を持ちなさい。本当は持っているはずだと気づかせることだったに違いないと私は思います。私たちは一人一人異なる個性をもった人間ですから、自分自身の心の底からの言葉を口にしたなら、それぞれが違う言葉を持っているはずなのです。それなのに、自分を持たず、あるいは自分を押し殺して、自分の責任なしで上に合わせ、周りに合わせて「一つの言葉」を話すようにすぐに歪んでしまう。そうではなく、ひとりひとりがしっかりと自分自身の頭で考え、自分自身の意志をもつならば、「一つの唇」が原因の悪は止まる。
もちろん、人がそれぞれ自分の言葉を持つとき、隣の人の言っていることがまずは分からなくなることでしょう。バラバラだと感じる。分からないという意識、それによって人は他者を意識できるようになって行くのだと思います。「一つの唇」では他者はいません。共に生きようという他者はいません。言葉が違うから、他者を意識する。他者を意識しつつ、共に生きていきたい。共に理解し合おうとする。そんなところから、本当の一致は生まれてくるのではないかと思うのです。
バベルの塔の物語では、言葉が多様になった人々は、全地に散らされて行きました。自分たちだけの閉ざされた生き方ではなく、周りの人と共に生きるようにと。散らされて行ったのは決して罰ではないはずです。創世記は最初から、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」、どんどん散らされていけ、世界に出ていけと言っているのです。この時、人々がそれぞれ自分の言葉を持つようになり、言語が多様になったのは、そこにいた人々の真の一致のためだけではなく、出て行った先で出会ういろいろな人々とも、分かり合おうとし、大切なものを分かち合うためでもあったに違いないと思います。
新約聖書の使徒言行録2章の教会誕生の時、人々の言語が多様になった理由も、同じではないかと思うのです。「皆が一つ所に集まっていた。すると突然、天から激しい風が吹いて来るような音が聞こえ、…炎のような舌が分かれ分かれに現れて、ひとりひとりの上にとどまった」(使徒2:1-3)。聖霊とは、神さまの霊、神さまの力、そして神の言葉そのものであるイエスさまの霊、イエスさまの力です。イエスさまという神の言葉が一人一人に臨んだとき、「舌」が分かれ分かれになって一人一人のところに留まった。一つの言葉が、一人一人それぞれに、それぞれの形で臨んだということでしょう。「すると、みなが聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話し出した」(使徒2:4)。その一人一人が一つの唇ではなく、いろんな言葉で話し出したのです。
「舌」は「唇」と同じく、人間の口から出る言葉を指すことの多い言葉です。神は唯一、イエスさまはひとり。神の言葉であるイエスさまの力が人間に及ぶ時には、ひとつなる神の言葉は、一人一人の人間に分かれ分かれに、一人一人にしっかりと届くようにそれぞれの形で臨んでくださるということに違いありません。そして、一人一人が、それを私にくださった恵みの言葉なのだと自分自身のものとしてしっかりと受け入れ、御言葉に生かされて歩むとき、私たちはまずそれぞれが自分自身になって、一人一人違う言葉を話すようになる。御言葉をしっかりと受け取り、御言葉に生かされて生きる時、人の口から出る言葉は多様になるはずだし、そうでなければならないということかと思います。
もちろん私たちは礼拝の中で声をそろえて同じ言葉を口にしています。それはどう考えればよいのでしょうか。先ほど、主の祈りを共に祈り、使徒信条をもって共に信仰告しました。それは、この言葉にひとりひとり心を合わせましょうというもので、私たちひとりひとりの違いをないがしろにするものではないことを確認しておかなければいけません。主の祈り、使徒信条。それは教会のはじめの頃から大切にし続けてきたものです。
ペンテコステの日、ひとつの神の言葉は分かれ分かれに、それぞれにちょうどいいそれぞれの仕方で一人一人の上に臨み、それぞれ形で一人一人にとどまった。人々は御言葉であるイエスさまの霊をそれぞれに自分のものとしてしっかり受け取ったので、まず、一人一人は口先ではなく、それぞれ自分自身の言葉で話し出した。それが、教会誕生の最初に起こったことだったと言ってよいかと思います。そして、それぞれの言葉を持った人々は、他者に気づき、共に生きる者として、違いを認識しつつ、自分自身を見つめ直しつつ、これだけは欠けてはならない共通部分をはっきりさせていったのだと思います。そうやって初代の教会の人々が見出した信仰の一致の現れが「主の祈り」や「使徒信条」として大切にされ、今の私たちまで伝えられてきたのです。
ですから、私たちが「主の祈り」や「使徒信条」を唱えるときには、口先だけにならないようにしたいと思います。自分自身の祈りとして主の祈りを祈り、自分自身の信仰告白として使徒信条を告白することを目指したい。そのためには、鵜呑みのオウム返しでは意味がありません。たとえ自分の信仰が未熟であっても、浅はかなキリスト理解であっても、自分自身の思いや考えをなかったことにしてはいけない。そうではなく、礼拝で声をそろえて祈り告白しているのは、むしろ私たち一人ひとりがその時の自分の信仰、自分の思い、自分の考えを自覚し、大切にしつつ、「主の祈り」や「使徒信条」と対話するためだと私は思っています。それは最初の頃の教会の人々と共に生きるための対話です。それによって教会が大切にしてきた信仰を受け継ぐことになります。
私たちは御言葉をいただき、御言葉に生かされて生きています。真の神の言葉であるイエスさまが、私たちひとりひとりのそれぞれの形で、御言葉としてやって来てくださいました。まずはそれをしっかり自分のものとして受け取って、権力の言われるままや忖度ではなく、それぞれが自分自身の言葉を持って生きる者となりたいと思います。それが、バベルの塔の物語を通して私たちにも知らされている主の御心に沿う生き方です。主に喜ばれる真の一致は、それぞれ自分の言葉を持ったものが、共に生きるために対話することから生まれます。周りの人たちとの対話、そして、歴代の教会が信仰の真髄として受け継ぎ続けてきた言葉との対話です。それぞれの人が持つようになった自分自身の言葉は、そのような対話を通して、真の一致を探ると同時に、よりしっかりとそれぞれ自分自身の言葉となっていきます。そのそれぞれの言葉は、周りの世界に出て行って、神さまを知らない多くの人々に、教会の一致した信仰を伝えるために用いられるようになるはずです。

