わたしは言う(1)
マタイ福音書5章21~37節

1.序論

みなさま、おはようございます。私たちはマタイ福音書に収録されているイエスの「山上の垂訓」を読み進めています。新約聖書全体の中でも、最も有名な箇所と言えるこの一連の教えにはとても有名な箇所が多いのですが、今日お読みした箇所もまさにそのようなところです。しかし、同時にこの箇所は最も誤解を招きやすい箇所だとも言えます。

イエスは、モーセの教え、律法によればこう言われているが、私はこう言う、ということを六つ語っています。今回はそのうちの四つを、次回の説教では残りの二つを取り上げます。いうまでもなく、モーセというのは旧約聖書における最大・最高の預言者です。彼は神と語り合ったとされる預言者であって、彼の言葉はまさに神の言葉だと信じられていました。そのモーセを向こうに回して、「モーセはこう言ったが、わたしはこう言う」というイエスはいったい何者なのか、と当時のユダヤ人たちは思ったことでしょう。イエスがモーセを上回る権威を主張しているのだとしたら、イエスはまさにイスラエルの歴史を塗り替えようとしているということになります。モーセ以上の預言者が現れるということは、まさにイスラエルの歴史の転換点だからです。とはいえ、モーセを通じて語られた神の教えは、あくまでも神の教えです。もしイエスがモーセの教えを否定しているのだとしたら、イエスは神の教えを否定していることになります。たとえイエスが神だとしても、つまりかつてモーセに語りかけたのが実は受肉前の神であるイエスだったとしても、神が一度語ったことを後から否定したり、あるいは変えてしまうというのはいろいろ問題があります。神も気が変わるのだ、ということになれば、ここで語られているイエスの言葉もまた後で変えられるということになってしまわないでしょうか?しかし、そうなると「神のことばはとこしえに立つ」と信じている私たちは困ってしまいます。ですから、イエスがモーセの言葉を否定した、というような理解には大きな神学的問題があるのです。このイエスの教えには誤解があると申しましたが、その誤解の一つはイエスがモーセの教えを単純に否定した、というような理解です。

別の誤解もあります。それは、イエスがモーセの教えをさらに厳しくした、ハードルを上げてさらに厳格化したというような理解です。すなわち、モーセは殺人を禁止したけれど、イエスは心の中で怒るということを罪とした、心で怒るだけでそれは殺人と同じ罪なのだと、罪の定義を変えた、厳格化したというような理解です。実際、このような理解がキリスト教の神学の歴史に甚大な影響を及ぼしてきました。実際に行動に移さなくても、心の中で良からぬことを思っただけでアウトだ、それは罪なのだ、となれば、どんな人も罪を犯さないわけにはいかなくなります。どんな人間にも、ふっと悪い考えが思い浮かぶことがあります。しかし、普通はそういう悪い考えを振り払って罪を犯さないわけで、そういう人は別に何も悪くないように思えるのですが、そういう場合まで「それは罪だ」となってしまうと、もう逃げ場がなくなってしまいます。そのような考えに囚われていたのが宗教改革者のマルティン・ルターでした。ルターは宗教改革を始める前、非常に熱心な修道士でした。彼の行いは完ぺきで、だれもが認める立派な修道士でしたが、彼自身はまったくそのようには思えなかったのです。というのも、ルターにとっては単に正しく行動するだけでは十分ではなく、動機においても完全ではなければならないと考えていたのです。つまり、神様から怒られるのが怖いとか、あるいは神様から褒められて報いを受けたいと考えるのはアウトなのです。なぜならそれらの動機は不純だからです。ではどのような動機ならよいかと言えば、それは神への純粋な愛です。神への純粋な愛に基づいて良い行動をすること、それ以外は罪だ、というのがルターの考えでした。しかし、これでは苦しすぎますよね。ルターは自分の内面を見つめ、そこに常に不純な思いがあるのを見て取りました。彼は繰り返し悔悛、罪の告白をしますが、しかしいくらやってもきりがありません。心とは移ろいやすいもので、内面を見つめれば見つめるほど「自分は悪い思いを抱いているのではないか」と不安になってしまうのです。そうしているうちにルターは、このような無理難題を人間に課す神を憎むようになってしまったと書き残しています。しかし、人は行動のみならず、行動の動機においても完全でなければならないなどという教えは聖書の中にあるのでしょうか?ルターは、今日のイエスの教えの中にそのような神の要求を読み取ったようなのです。したがってルターは、イエスの山上の説教を実現可能なものとは思わず、むしろこうした教えは人間に自らの罪深さ、無力さを徹底的に示し、人は神の恵みに頼るしかないのだという結論に導くためのものだと見なしました。これがいわゆるルターの「律法の第二用法」と呼ばれるものです。しかし、このようにイエスの教えを実行できないもの、実現不可能なものと見なすことこそ、イエスの意図を甚だしく誤解するものなのです。イエスは誰にもできないような無理難題を教えたのではなく、むしろ彼の意図はこうした教えを行うことで人々が平和に、幸せに暮らすことだったからです。では、イエスの意図とは何なのか、そのことを見て参りましょう。

2.本論

イエスの最初の教えは、腹を立てることについてです。ここで気を付けなくてはならないのは、兄弟にむかって「ばか」と言っただけで、だれもが地獄の火で焼かれなくてはならないと理解するような直解主義、つまりイエスの誇張表現を文字通りの意味でとってしまうことです。家族や友達に「ばか」と言ったことがない人なんてほとんどいないと思いますので、このイエスの言葉を文字通りに取るとほとんどの人が地獄行きという話になってしまいます。しかし、イエスは腹を立てること自体が罪だと言っているのではありません。人間であれば、怒らない人なんていませんし、一日に一回ぐらいはムカッとするのは普通のことです。それをやめろというのは、人間をやめろというような話になってしまいます。むしろイエスのポイントは、人への怒りを放置しておくと、その怒りがどんどん大きくなり大きな火のように大きくなってその人を怒りで飲み尽くし、ついには最悪の殺人という結果すら生みかねないということなのです。創世記で、兄弟アベルに嫉妬して怒ったカインに対して、神はこう言われました。

なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

カインはアベルに対し、激しい怒りを抱いてしまいました。カインはこの怒りに向き合って、その怒りの原因は何なのか、それを深く顧みるべきでした。そして必要ならばアベルともよく話し合い、心のわだかまりを解消すべきでした。カインに必要なのは、怒りに呑み込まれないように適切な行動を採ることでした。しかし、そうしなかったためにカインにとってもアベルにとっても最悪の結果を招いてしまいました。イエスがおっしゃったのは、まさにそのことなのです。怒りが大きくなりすぎないように、直ちに行動を起こしなさいというのがイエスの教えです。イエスはなんと、神への礼拝よりも兄弟との仲直りを優先しなさいとまで教えておられるのです。教会で献金をしようとしていた時に、友達との喧嘩を思い出したら、献金はひとまず後回しにして、すぐにその友達のところに飛んでいきなさい、と教えているのです。これが良いスパイラル、良い方向に一歩進むことです。しかし、何もしないで怒りを心にため込むのは悪いスパイラル、悪の方向に進むことです。その怒りは最悪の場合人殺しに発展しかねません。そうならないように、正しい方向に歩み出せ、ということです。ここで注意したいのは、イエスは「人を殺してはいけない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」というモーセの教えそのものを否定したわけでは決してないということです。むしろ、このモーセの教えを守るためには具体的にはどうすれば良いのか、どのようなアクションを起こすべきなのかを丁寧に教えているのです。

第二の教えも同じです。女性をいやらしい目で見てはいけない、もし見てしまったら地獄に落ちるから、そんなことになるくらいなら目を抉り出せ、という教えを文字通りに取ると、とんでもない話になります。現代は性的な情報で溢れかえっています。テレビを見てもインターネットを見ても、雑誌を見ても性的な刺激が氾濫しています。そして人間である以上、男は裸の若い女性の写真を見せられても何も感じないというわけにはいかないのです。もしそんなことになってしまったら、それはそれで逆に大問題です。男性が若い女性のセックスアピールに何も感じなくなってしまったら、人類は子孫を残せなくなってしまうでしょう。ですからイエスも、若い魅力的な女性をも見ても何も感じるな、感じるくらいなら目を抉り出せ、というような滅茶苦茶なことを教えているのではないのです。これはイエスの教えの特徴である誇張した表現なのです。むしろここでも先ほどの怒りの場合と同じで、女性に邪な思いを抱いてしまったのなら、その思いに向き合って、それが最悪の行動、つまり不倫や、もっとひどい場合は痴漢行為などに発展してしまわないように適切な行動を採りなさいということです。では適切な方法とは何かといえば、一番確実なのはパートナーをしっかり持って、他の女性によそ見しないようにするということでしょう。独身であってももちろん構わないのですが、自分の性的な欲求が抑えられないなら結婚しなさいということを使徒パウロも教えています。もちろん結婚とは別に性的な不品行に走らないためにするものではありませんが、それも理由の一つだというのが聖書の教えなのです。

そして次のイエスの教えが、その結婚についての教えです。イエスの離婚に関する教えは非常に厳しいです。現在の日本では3組に1組は離婚している、つまり結婚している人の3人に1人は離婚しているということになりますが、イエスは不貞以外の理由で離婚した女性と結婚する者は姦淫の罪を犯すことになる、と語ります。現在の日本で最も多い理由の一つである「性格の不一致」による離婚ではダメだということです。これは厳しすぎる教えのように思えますし、またこのイエスの教えを文字通りに受け止めると自分は大きな罪を犯しているのか、と苦しい思いになってしまうクリスチャンの方もおられるのではないかと思います。しかしここでもイエスは「これをすれば罪です」と人々を責め立てたいのではなく、むしろ事態が悪い方向に行かないように早く行動を採りなさいと勧めているのです。結婚とは好き合った同士がするものですから、結婚する時には離婚するなどとは思わないわけです。それが、顔も見たくないというような状態にまで至ってしまうまでには、様々な危険を示すシグナルがあるはずです。そのようなシグナルをやり過ごすのではなく、早めに動いて関係の修復、和解に努めなさというのがイエスの真意なのです。

そして最後の四つ目の教えが「誓い」についての教えです。この教えも文字通りに捉えてしまうと、自分を非常に窮屈な生き方に追いやることになります。いくつかのキリスト教の教派は「誓ってはならない」ということを「宣誓してはならない」という意味に解して、宣誓しないために裁判官など司法関係の仕事には就くべきではないと教えています。他の教派を批判するのはよくないとは思いますが、しかしこのイエスの教えも文字通りに取るべきではないというのが私の考えです。むしろイエスは、誓いなど不要になるようなしっかりとした人間関係を築きなさいと教えているのです。「誓い」が必要になるのは、語る人の言葉に信用がないからです。この人はウソをついているかもしれないと思うから、「あなたはそれを神にかけて誓えますか?」と念を押すのです。誓いを破れば神に裁かれることになるので、それを恐れて約束を守ってくれるだろう、という思惑が「誓う」という行動の背後にはあるのです。しかし、ある人の言うことが常に信頼できるもので、あの人が「はい」と言ったことは「はい」で、「いいえ」と言ったことは「いいえ」に違いないという信頼関係があれば誓いなど不要になるはずです。イエスはそのような信頼関係を築くために、誓いなど不要になるような信頼のおける言動を行いなさいと教えているのです。これも、円満な人間関係を築くためにとても大切な心構えなのです。

3.結論

まとめになります。今日は「律法ではこう言われてきたが、わたしはこう言う」というスタイルの一連のイエスの教えの中で、最初の四つについて学んで参りました。冒頭でも申し上げたように、イエスは人間には到底守れないような厳しい教え、つまり心の中だけでも邪な思いを抱いてはいけないとか、離婚は絶対禁止だとか、どんな場合でも誓ってはいけないとか、そういうことを教えているのではないのです。それはイエスのことばを直解主義的に受け止めてしまうときに陥る誤解・誤りです。

むしろイエスの真意は、私たちが負のスパイラルに陥らないように、早め早めに適切なアクションを起こせということなのです。殺人や姦淫という大きな罪に陥るまでには、様々な段階があります。そこまで事態を悪化させないためにできることはいくつもあるのです。そのような機会を見逃さずに迅速に行動しなさい、和解のために行動しなさいというのがイエスの教えの意図なのです。

私たちはつい意地を張ったり、あるいは面倒くさいと思って今すぐにすべき行動を先延ばししてしまうことがあります。しかし、今すべきこと、今できることを放置すると事態は確実に悪い方向に向かっていきます。そうならないように、すぐに和解のための行動を取りなさい、それが平和への道だというのがイエスの言おうとしていることなのです。

このイエスの教えは当たり前のようで、なかなか実践に移せないものです。しかしヤコブが言うように、「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」ということは非常に大切なことなのです。イエスの教えを聞くだけでなく、実行していくこと、それこそが平和を築くための道なのです。お祈りします。

私たちに平和への道を教えられたイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日はイエスの非常に具体的な教えを学びました。私たちは「聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそい」者であるべきですが、そのように行動できるように助けてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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