1.序論
みなさま、おはようございます。第一ペテロを毎月の月末に読み進めて参りましたが、今回の箇所は第一ペテロの中でもとりわけ重要で、しかも難しい箇所です。前回の説教でもお話ししたように、この書簡の著者であるペテロはキリストの来臨による世の終わり、そしてキリストによる最後の審判の日が近いという確信を抱いていました。今日は、そのキリストによる裁きがどのようなものかについて語っています。
今日の箇所を考える上で、日本の伝統的な宗教である仏教の教えと比較してみたいと思います。日本で最も信者が多いのが親鸞の始めた浄土真宗だと言われています。これは鎌倉時代の宗教ですが、この親鸞の教えと宗教改革者ルターの教えの類似性がしばしば指摘されます。20世紀最大の神学者と言われるカール・バルトも親鸞とルターは非常に似ているとの驚きを隠しませんでした。では、親鸞の教えとは何かといえば、それが「悪人正機説」です。これはどういう教えかといえば、善人ですら往生、つまり救われるのだから、まして悪人は言うまでもなく救われる、という教えです。善人でも救われるのだから、悪人は言うまでもない、ということです。でも、なんだか逆説的な教えですよね。悪人ですら救われるのだから、善人は言うまでもなく救われるというのなら分かりますが、親鸞の言っていることはあべこべではないかと。この親鸞の教えの本当の意味はひとまず置いておくとして、この教えそのものはクリスチャンにはなじみがあるものかもしれません。パウロは「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」と、キリストの死は罪人、つまり悪人のためだと語ります。また、ルカの福音書のパリサイ派と取税人のたとえも、このような理解を助けます。すなわち、自分は善人だと自惚れているパリサイ派よりも、自分の罪を強く嘆いている取税人の方に神は目を向けてくださるのだと。悪人は自分が罪深いことを自覚して一層強く神の救いを求めるので、自分の力で救われようとする善人よりも神の救いに近いのだ、ということが言われます。
ただ、このように自らの罪深さを深く認めて神の前におののく者ならいざしらず、悪い事をしても悪いとは思わず平気で人を傷つけるような悪人、本物の悪人がそのまま救われるとしたら、そういう考えにはついていけないという人が多いのではないでしょうか?神から目をかけてもらえる罪人、悪人とは、あくまで罪の意識を強く持っているような人であり、罪の感覚がないようなサイコパス的な性格の悪人まで神が救うと考えるクリスチャンは少ないのかもしれません。親鸞の場合は、救われる人間の側がどういう状態にあるか、悔い改めているかどうかよりも、救う側の方の意図を重視します。浄土真宗においては、救い主はイエス・キリストではなく弥勒菩薩ですが、弥勒の願いはすべての人を救うことであり、すべての人には善人も悪人も含まれます。そして普通では救われようのない悪人をこそ、弥勒は一層強く救ってあげたいと願っているわけです。救いは私たちが善を成したからではなく、ひたすら弥勒の願いによって達成されます。ですから悪人こそ救われるのだ、ということになります。これはイエスの「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」という教えと通じるものがあります。
このような悪人正機の教えは、しかし今日のペテロの教えとは相いれないのではないでしょうか。ペテロは「義人がかろうじて救われるのなら、罪人はいったどうなるのか」と語ります。正しい人がやっとのことで救われるのなら、悪人が救われるはずがないではないか、ということです。これはなんだか当たり前の話で、逆説的ではなく、したがってキリスト教的ではない、ということになるのでしょうか?いえ、そのように捉えるべきではありません。私たちは、正しい人が救われて、正しくない人が救われないというのは当然すぎて、そこにはキリスト教的な新しさは何もない、と考えてしまうかもしれません。しかし、そんなことはないのです。実は、「正しい人が救われる」というのは非常にラディカルな教えなのです。この教えを最初に唱えたのがゾロアスター教の教祖であるツァラトゥストラだと言われています。彼は、当時のイラン地方の教えである「金持ちや貴族だけが天国に行って、平民や貧民はみな滅びる」という教え、あるいは「救われるのは男だけだ」というような教えに反対し、「身分はどうであれ、また性別はどうであれ、正しく生きた人は救われるし、正しく生きなかった人はどんなにお金を積んでも救われない」と説きました。つまり神は徹底的に平等・公正な方で、えこひいきは一切ないと教えたのです。このゾロアスター教の教えの様々な要素は、一説にはユダヤ黙示思想を経由して原始キリスト教に流れ込んだとも言われていますが、神の下に、少なくともイスラエル人は皆平等だとする旧約聖書の教えとも相通じるものがあります。
聖書のメッセージについて言えば、神は弱い立場にいる者、神の前にへりくだる者に憐み深い方だ、という点も重要ですが、神は公平無私な方だ、ということも同時に極めて大切です。神は公平な方なので、あなたがイスラエル人だから、あるいはクリスチャンだからといって、えこひいきすることはせずに、万人を公平に裁かれます。そのような観点からは、不公正な社会の仕組みによってやむにやまれぬ事情で「罪人」の立場に追いやられてしまったような人はともかくとして、自ら罪深い生き方を選んでいるような人が救われないというのは当然だと言えないでしょうか。キリスト教は、弥勒信仰のような万人救済説ではありません。人間には自由があり、救われようと思わないような人を神が無理やり救うこともありません。人間は自由だからこそ責任があり、だから神も人を裁くことができるのです。神の裁きの厳粛さを恐れなさい、というのも聖書の大切な教えなのです。そのような気持ちで、今日のみことばを読んで参りましょう。
2.本論
では、12節から読んで参りましょう。ペテロは、これまでと同じように当時のキリスト者が直面していた理不尽な迫害や苦しみについて語ります。これは、せっかく神の子であるキリストを信じたのに、いわれのない迫害を受けてがっかりしていた異邦人の信徒たちを励ますために、ペテロはこのようないわれのない迫害を受ける人は、キリストが現れたときに大きな報いを受けることになるのだから、といって励ましています。しかし、そのような苦難を受ける原因が自分の悪行、悪い行動に起因するのだとしたら、それは大いに問題です。そのような身から出た錆による苦難をいくら受けても、キリストが現れた際に報いを受けることはあり得ないし、むしろ厳しい裁きを招くことになるでしょう。
ペテロの手紙を受け取った異邦人の信徒たちは今苦難の中を歩んでいますが、その苦難が果たして義人の苦しみなのか、あるいは自業自得の苦しみなのかは不明瞭な部分があります。もし、自業自得で苦しんでいたとしたら、キリストが現れた時に喜ぶどころか、むしろ恥をかくことになります。そうならないように気を付けなさい、とペテロは戒めているのです。そして、彼らの苦難の意味が明らかになる時がすぐ来る、いやもう来ている、とペテロは語ります。
ペテロは「さばきが神の家から始まる時が来ています」と語っていますが、このさばきという言葉の原語のギリシア語はクリマという言葉ですが、それは「弾劾」、つまり有罪判決を下すという意味もありますが、有罪・無罪のどちらもありうるという意味での単に「評決を下す」という意味もあります。ですからさばきが神の家から始まるというのは、神の家すなわち教会が神から有罪判決という厳しい裁きを受けるという意味もあり得ますが、しかしここではそこまでの強い意味はなく、むしろニュートラルな意味で教会が神によって審査を受ける、評価されるというような意味でしょう。使徒パウロも第一コリント3章で、教会が神の火によって評価を受けると語っています。それがいったいどういうものなのか、わかりませんが、私はこの「火」というのはこの世における困難や試練、あるいは迫害だと思っています。人間の真価は苦難の時に問われるということがしばしば言われますが、教会の真価も苦難の時に問われる、ということです。たとえば、とても仲の良い家族がいたとします。しかし、その家族に何らかの不幸や困難が生じたとします。その時に、その家族がバラバラになり、互いを非難し合うか、あるいは困難な時こそ互いに助け合い、より結びつきが強くなるか、そのいずれかで家族の真価が露にされます。同じように神の教会も、困難な中にあっても信仰を捨てずに、ますます信仰に燃えて、また兄弟姉妹の間の愛と助け合いの心が深まるなら、それは真の教会、金の教会です。しかし、困難が生じたからといってすぐにも信仰を捨てる、兄妹間の愛も醒めるということになれば、そのような教会は藁の教会、何かあるとすぐに燃えてしまう教会だということになるでしょう。ペテロは、彼の読者である信仰者たちが遭遇している困難が、神の与えた試練、彼らを試すための試練である可能性を示唆しています。だからこそ、彼らはしっかりと目覚めていて、動揺せずにますます兄弟兄に励む必要があります。そのように歩み続ければ、キリストが現れた時に大いなる誉れを受けることになるでしょう。しかし、言うは易しで、それは簡単なことではありません。「義人でさえかろうじて救われる」と言われているように、多くの人がそのような困難な状況の中で信仰を捨ててしまうということがあり得るのです。私たちも、このペテロの警告を真剣に受け止める必要があります。アメリカにはプロスペリティ・ゴスペル、「繁栄の福音」、すなわち福音を信じると豊かになれる、幸せになれる、金持ちになれるという非常に都合の良い教えがあり、クリスチャンは世の終わりにあるといわれる患難に遭うことがないとも教えます。そのような教えを信奉しているクリスチャンが次々と襲い来る困難に直面したら、その信仰に疑問を抱かないでしょうか。下手をすると信仰を捨ててしまうことすらあるでしょう。ですからそのような騙しごとの教えに惑わされてはなりません。むしろ神のキリスト者は必ず試練に会うというのが聖書の教えです。そして、そのような時こそ自らの信仰が試されているという意識を持って固く立つ必要があります。
では、信仰を持たない人はどうなのでしょうか。そのような人に次々と試練が襲った場合に、その人は正気を保てるでしょうか。いやむしろ、そのような理不尽な状況に怒ったり、絶望したりしてニヒリズムに陥ってしまう危険性が高いと思います。神などいない、すべてが偶然だと信じている人にとって、次々と降りかかる困難には何の意味もなく、単なる偶然、サイコロの目だということになります。その偶然の結果、ひたすら苦しいことが続くのだとしたら、人生に何の希望も持てなくなってしまうでしょう。やってられるか、という気分になるでしょう。そのような人の終わりがどれほど暗いものか、想像に難くありません。人間社会がそのような人ばかりになれば、まさしく生き地獄になってしまいます。愛もなく、助けないもなく、憎しみや虚無感に包まれた社会だからです。そのような社会にさせないためにも、私たちは福音を伝えていく責任があります。
3.結論
まとめになります。今日は、第一ペテロから、世の終わりに起きるさばきについて学びました。世の終わりは非常に困難な時代になります。クリスチャンだからといって、そのような困難に遭わないというようなことはありません。むしろ、はじめにクリスチャンにそのような困難な状態が降りかかる可能性の方が高いでしょう。私たちはそうした状況を、何か思いがけないもののように考えるべきではありません。むしろ、神から与えられた試練として前向きにとらえる必要があります。そのような困難を受けるのが、信仰のためであったのならなおさらそう言えます。信仰のために苦しむのなら、大いなる報いがあるというのが聖書の約束だからです。「さばきは神の家から始まる」と言われているように、そうした困難はまず教会から始まります。しかし、では教会の外の人々は安全無事かといえば、決してそうではありません。むしろ、神は教会に試練を与えた後に、全世界にさらに大きな困難を与えることになるでしょう。そのような試練を前にして、確固たる信念や信仰を持たない人がどのようになってしまうか、考えただけでも恐ろしくなります。虚無主義、ニヒリズム、人生には何の意味もないのだから、せいぜい生きている間は出来るだけ面白おかしく生きなきゃ損だ、と考えているような人たちはそうした状況に耐えられないでしょう。教会の使命は、人々をそのようなニヒリズムの泥沼から救い出すことにあります。私たちの人生には意味があります。私たちは愛し合い、仕え合うために創られた者です。イエスはその生涯において、そのような生き方を示してくださいました。私たちもそれに倣って歩んで参りましょう。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。ペテロは世の終わりと、その時に起きる試練や困難について語りました。それがいつなのかは誰にもわかりませんが、私たちはいつでも主に信頼し、ニヒリズムに抗って歩むことができるように助けてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン