律法を成就する
マタイ福音書5章17~20節

1.序論

みなさま、おはようございます。今私たちは、マタイ福音書の「山上の垂訓」を学んでいます。そこには様々な教えがあり、私たちを驚かせるような教えや、胸を打つような教えもあれば、それをどう捉えればよいのか、悩んでしまうようなものもあります。今回の部分も、なかなかとらえどころがないような印象を受けるかもしれません。それは「律法」という大きなテーマを含んでいるからです。

今日の箇所の説明に入る前に、前回の説教で少し補足すべきところがありましたので、まず初めにその点について触れさせてください。前回の説教では「異端になることを恐れるな」というような内容を語らせていただきましたが、「異端」というのは非常に強い言葉なのでその意味を少し補足説明したいと思います。初めに断っておきたいのは、「異端」と「カルト」は違うということです。カルト的な広い意味でのキリスト教の一派があり、そうしたグループはしばしば「異端」とも言われますが、私はそういう意味で異端という言葉を使ってはいません。異端というのは、主流の考え方とは違う、反主流的な考え方のことです。今風に言えばみんなとは違う、「空気を読まない」考え方と言えるかもしれません。どの時代にも、人々の大多数が当たり前だと思っている考え方がありますが、そういう考え方や見方に抗うのが「異端」だということです。その最も有名な例は「地動説」です。太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っているという見方を地動説と呼び、それは今日では当たり前のことですが、かつてはそのような見方が「異端」だとされたことがありました。ガリレオの宗教裁判が有名ですが、かつてのキリスト教はこの「地動説」を異端として否定しようとしました。しかし、結局はそれが正しいことが証明されました。このことはキリスト教の歴史の中でも大きな汚点となっています。今日の世界でも多くの「異端」的な考え方があります。主流の学者たち、あるいは権威を持つ人たちが正しいとする見方に疑問を挟むと「異端」扱いされることが少なくありません。それを恐れて口をつぐんでしまうこともあります。しかし、私も学界の端くれの人間として言わせていただければ、「通説」というものが見事にひっくり返ることは少なくなく、あと50年したら新約聖書学界の風景もまったく変わったものとなるでしょう。ですから、主流の見方と違うからといって、「異端」扱いすることには十分注意したほうがよい、ということを語らせていただきました。 

それに対して、「カルト」というのは全く違う性質のものです。異端とは正反対と言ってもよいです。カルトの特徴は異論・反論を一切認めないことです。つまり、私の言っていることはすべて正しく、それに反することはすべて「異端だ」というようなことを言っている人は限りなくカルトに近いということです。カルトは異端だとしばしば言われますが、カルトほど異端、つまり自らとは異なる意見を徹底的に排除しようとするものはないというのは皮肉なものです。よくキリスト教の信仰者の方々でも、「私の話以外は聞いてはいけない」、「他の説教や、キリスト教の本を読んではいけない、危険だから」と言われたことがあるという話を聞きますが、その手の話にはカルト的なにおいがします。確かにキリスト教には様々な考え方や教派があり、その中には明らかにおかしいと思われるようなものも含まれていますが、だからといって他の見方をすべて遮断したり否定したりすることは非常に危ういものがあります。危険な教えに触れさせないようにするために情報を遮断するのではなく、多くの情報の中から何が正しいのか、何が間違っているのかを識別する力を養うようにするのが教会の使命なのです。カルトの問題点は、信徒に何も考えさせないようにし、頭の中身を支配しようとすることです。信徒を育て、成長させて、自分で何でも判断できるようにさせるのではなく、なんでも自分の言うことを聞く依存的な人間、言うことを黙って聞く従順な駒を作ろうとするのがカルトです。

カルトは宗教だけではありません。政府やメディアにもカルト的になり得るのです。つまり、自分の頭で「批判的に」考える国民よりも、政府の言うことが正しいと素直に信じる国民を作ろうとするということです。しばしば使われるようになった「オールドメディア」という言葉がありますが、それは大手新聞やテレビ局を指す言葉です。情報が限られていた時代は、私たちはテレビや新聞が言っていることが真実だと単純に信じていましたが、インターネットで様々な情報や異なる見方に触れるようになると、人々はこれまで「正しい」と思ってきたことに疑問を感じるようになります。新聞やテレビは世論を誘導できなくなっており、それは最近の選挙結果を見れば明らかです。たしかにインターネットには誤情報も含まれていますし、正反対の意見も多くて混乱させられることもありますが、主流メディアの流す情報であればすべて正しいというような見方もあまりにもナイーブです(ただ、主流メディアはなかなか自分の誤りを認めようとしませんが...)。私たちはこうした時代に自分自身で情報の真偽を判断する力を養う必要があります。これはキリスト教信仰でも同じことです。キリスト教についても様々な教えが氾濫する中で、何が本当に主イエスの教えなのか、よい意味で「批判的に」学んでいく必要があります。なんでも無批判に信じるのではなく、「蛇のようにさとく」なくてはならないのです。

さて、脱線しましたが、本論に入ろうと思います。今回は「律法」についてのイエスの教えです。イエスは律法について非常に肯定的なことを語りますが、それがなかなか私たちにはなじめないということです。なぜなら、プロテスタントの伝統においては律法はマイナスのイメージで語られることが多いからです。宗教改革者のマルティン・ルターは「律法と福音とは、二つの、全く対立する教えである」と記しています。ルターによれば、律法とは我々人間に何かをしなさいと要求するのに対し、福音は我々にただで受け取りなさい、空っぽの手で恵みをもらいなさいと語るというのです。このように福音をひたすら受け身のものとして捉えることには大きな問題があると思いますが、ルターの影響力は非常に大きく、プロテスタントの一つの伝統的な考え方として収まっています。ただ、注意したいのはルターはこういう見方、考え方をイエスから学んだわけではなく、パウロの手紙、特にローマ書やガラテヤ書から学んだということです。ルターが福音書から学んでいたのなら、決して律法と福音を対立するものとは考えなかったでしょう。さらにいえば、パウロ自身も律法と福音を対立的に捉えていたわけではありません。そのように読める箇所も彼も書簡の中には確かにありますが、しかしパウロはこうも言っています。ローマ書3章の31節にはこうあります。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。

今日はパウロの律法論がテーマではないのでここらへんでやめておきますが、律法と福音が相容れないというような考え方は脇に置いて今日の話を聞いていただきたいと思います。

2.本論

では17節です。イエスはまず、自分は「律法や預言者」を廃棄しようとしているのではないと明言しています。「律法や預言者」というのはすなわち旧約聖書全体のことです。イエスは旧約聖書の教えや預言は必要ないなどとは決しておっしゃらないということです。むしろ自分が来たのはそれらを「成就」するのだと言っています。では、成就するとはどんな意味なのか?預言を成就する、ということの意味は分かりやすいです。マタイは福音書の中で、「これは預言者たちを通して言われたことが成就するためであった」と繰り返し述べていますが、これは預言者たちが語ったことがイエスの生涯において実現したということです。

では、律法を「成就する」とはどういう意味なのでしょうか?それがまさにこの山上の垂訓のテーマなのです。これは単に、イエスがモーセの律法を完璧に実践する、実行するというような意味ではありません。ここでイエスが語っている「成就する」とは、単にそれを誤りなく行うということではなく、さらに前進させる、より深い意味を明らかにするということです。イエスは山上の説教で、「モーセはこう言ったが、私はこう言う」という言い方をします。これはちょっと聞くとモーセの律法を否定しているように聞こえるかもしれませんが、そうではなくモーセの教えの本当の意味や意図を明らかにするということです。たとえば、モーセは結婚している男女では、男の方だけが離婚を申し渡すことができると語りました。ジェンダー平等の現代から見ればおそろしく男尊女卑の教えに見えますが、ではこれが神の真の意図なのかといえばそうではありません。イエスは、当時のイスラエル人の心が頑なだったので、モーセは人々が受け入れられるような教えをいわば妥協して教えたのだ、と語っています。モーセの律法は確かに神の教えですが、生身の人間に対する教えなので、相手が受け入れてくれるようにという配慮も含まれていたのです。イエスが律法を「成就する」と言ったのは、こうしたモーセ律法の限界を突破して、神の本当に意図したことを私は伝えると言っているのです。

律法の限界についてもう少し考えてみましょう。モーセ律法の教えは、主としてイスラエル共同体に適用されるもので、イスラエルと対立する敵国には適用されるものではありませんでした。イエスは『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われてきたと語っていますが、モーセ律法には『敵を憎みなさい』という明文はありません。しかし、モーセの『隣人を愛しなさい』という教えが適用されるのがイスラエル共同体の中だけならば、その外にいる外国人は憎んでもいい、憎みなさいということになります。イエスはそのような解釈は律法の本来意図すること、つまり神の御心ではないということを明らかにします。なぜなら神はイスラエルの神であるのみならず、イスラエルの敵にとっての神でもあるからです。神は万人の神なので万人を愛します。ですから神の民も、自分たちの仲間だけでなく、信仰を共有しない人たちをも愛しなさい、それが神の御心なのだとイエスは教えます。このように、イエスはモーセ律法を単に否定しようとするのではなく、むしろその教えの背後にある神の真の意図を明らかにし、それを行うようにと人々に教えたのです。その「真の意図」についてはイエスがこれから詳しく語っていきます。

18節では、「律法の一点一画も決してすたれることがない」と言われています。ここで特に誤解しないようにしたいのですが、主イエスはここで我々クリスチャンに語っているのではなく、ユダヤ人に対して語っているということです。モーセの律法の難しさは、それがモーセを通じて結ばれた契約の民、つまりユダヤ人のためのものだということです。もちろん我々ユダヤ人以外の民族、異邦人にとっても律法は有益であり、私たちも十戒を唱えたり、『あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい』といった律法の掟を実践しようとします。しかし、ユダヤ人なら必ず受ける儀式である割礼もモーセ律法の一部ですが私たちはそれを行いません。また、豚肉を食べてはいけないといった食事規定もモーセ律法の一部ですが、私たちはそれを守っていません。イエスの言われた「律法の一点一画」にはこれらの割礼や食事規定も含まれるわけですが、私たちはイエスの言いつけにもかかわらずそれを行っていません。これをどう考えるべきでしょうか?ここで、初めて異邦人の使徒パウロが登場します。パウロは繰り返し、「私たちは律法の下にいるのではなく、恵みの下にいます」と語りましたが、ここでいう「私たち」とは主として異邦人を指しているということです。もちろん、語っているパウロは異邦人ではなくユダヤ人ですので、「私たち」の中にパウロが含まれるのならそこにユダヤ人も含まれるはずではないか、という理屈も成り立ちます。しかしパウロは異邦人の使徒として常に異邦人に対して語りかけているのです。それを忘れてはいけません。パウロは、モーセ律法はユダヤ人に対して与えられたものなので異邦人は守る必要はないと考えていました。もちろん律法のエッセンス、つまり神を愛し、隣人を愛するという教えは異邦人にとっても大切なことですが、それは律法の細かな規定を守ることを通じてではなく、聖霊に導かれて歩むことで実現できると教えたのです。このように、異邦人は律法の下にいないというのがパウロの教えでしたが、ユダヤ人は話が違います。今でもユダヤ人は割礼を受けますし、豚肉を食べません。これは契約の民としてのユダヤ人の特殊性です。彼らは今でもモーセ律法を守っているのです。そのようなユダヤ人に対し、イエスは「律法の一点一画も決してすたれることがない」と言われたのです。ですからここの部分に関しては、我々異邦人は「そういうものなのか」と、いわば他人事のように聞くしかない部分があります。「戒めのうち最も小さいものの一つでも破ったならば」と言われても、私たち日本に暮らす人々は豚肉も甲殻類も普通に食べていますから、困ってしまうわけですが、しかしこれはユダヤ人に対して語られた言葉なのです。

とはいえ、イエスの山上の垂訓の教えはモーセ律法とは異なり、私たち異邦人のクリスチャンも守るべきものだということは忘れてはいけません。イエスの教えはモーセ律法の限界、つまり民族宗教としての律法を超えて、あらゆる民族に向けられた普遍的なものだからです。イエスの教えはモーセ律法に基づくものですが、それを超えたものです。それはモーセ律法の持つ歴史的・民族的限界を乗り越えたものです。そのようなイエスの教えを守る人は、モーセ律法を墨守するパリサイ派やサドカイ派の義に勝る義を持つのです。ですから私たちはイエスの山上の教えを心して聞かなくてはなりません。

3.結論

まとめになります。今日はイエスがモーセ律法について語ったところを学びました。私たち異邦人信徒は、異邦人の使徒であるパウロの教えに強い影響を受けています。そしてパウロは、異邦人信徒にモーセ律法全体を守らせようとする試みに断固反対しました。その教えを受けている私たちは、律法の一点一画に至るまでのすべての戒めを守る必要はありません。

それに対し、イエスはこの山上の垂訓をユダヤ人に対して教えました。ユダヤ人に対しては、イエスはモーセ律法のすべてを守ることを要求したのです。それは、モーセ律法とはそもそもユダヤ人に対して与えられたものだからです。同時にイエスは、モーセ律法のより本質的な部分、ユダヤ人のみならず人類全体が守るべき本質的な教え、神の意図をも明らかにされました。そのような教えに私たち異邦人も耳を傾け、従う必要があります。そのことを心に留めて、イエスの教えを今後もさらに学んで参りましょう。お祈りします。

モーセを通じてユダヤ民族に律法を与えてくださった天の父なる神様、そのお名前を賛美します。あなたは御子イエスを通じてさらに勝った教え、「山上の垂訓」を教えて下さいました。私たちに聖霊を与え、どうかそれらの教えを守り行わせてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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