1.序論
みなさま、おはようございます。さて、突然ですがみなさんはこれまで、「世界の終わりが近い」というような話を聞いたことがあるでしょうか?私が初めてこの手の話を聞いたのは小学校の頃で、ノストラダムスの大預言という話を聞きました。五島勉という人の書いた本がベストセラーになり、テレビでも何度も特別番組がありましたので、かなりの人々がその影響を受けていました。それによると1999年に99%の確率で世界が終わるとのことでした。私が小学生だったのは1970年代の後半だったので、あと20年すると世界が終わるのかと考えると怖かったのと同時に、本当にそんなことがあるんだろうか?とも思いました。
しかし、この1999年という数字は結構多くの若者の中に潜在的な恐怖感を植え付けたように思います。というのも、日本中を震撼させたオウム真理教の地下鉄サリン事件、これは1995年に起きましたが、その教団には多くの高学歴の若者が加入していたことが世間を一層驚かせました。しかも、彼らはノストラダムスの大預言に影響されていて、世界がもうすぐ終わると信じ込み、終末を自らの手でもたらそうとしたのだという説すらあります。海外でも似たような事件があり、ブランチ・ダビディアン事件というのですが、1993年にヨハネ黙示録に記されている終末が近いと信じ込んだ人々がテキサスの教団本部に立てこもり、アメリカ政府と50日にもわたる戦争を繰り広げたという事件がありました。ちなみにオウム真理教にもヨハネ黙示録の影響は大きく、ハルマゲドンをもじったハルマゲどんぶり(!)なるメニューが教団内にあったとか...
しかし、その1999年も何事もなく過ぎ去りました。ただ、その数年後の2001年のアメリカ同時多発テロにより、世界は再び恐怖のどん底に叩き込まれます。あの事件は今でも鮮明に覚えていますが、とても現実とは思えずに映画か何かを見ているのかと思いました。その後に始まったテロとの戦争は延々と続きますが、アメリカのイラク攻撃の理由となった大量破壊兵器の存在というのが実は嘘だということが分かり、アメリカに対する信頼が大きく揺らぎました。アメリカはその後も泥沼の戦争を続けますが、バイデン政権下のアフガン撤退でようやくそれも終わったかと思ったらウクライナ戦争が始まり、ガザの虐殺がそれに続き、相変わらず地上に平和は訪れません。したがって、世の終わりが近いという終末思想は現代人の潜在意識の中に残り続けているように思えます。
けれども、こうした終末の予感、あるいは期待の中に生きていたのは現代人だけではありません。これは私たちにとってはなんとも信じがたいことではあるのですが、新約聖書を記した使徒たちは、紀元一世紀に世界が終わると信じていた、あるいは期待していたのです。私はこの8月にパウロについての論文を書いていましたが、そこで改めて思わされていたことは、パウロが彼の生きていた時から十数年以内にキリストの再臨が起り、世界が終わるのだと本気で信じていたということです。これはかなりショッキングなことです。言うまでもないことですが、パウロが生きていた紀元一世紀にはキリストの再臨はなかったわけで、それどころかパウロの時代から二千年経っても再臨は起きていません。つまりパウロが期待したようには歴史は進まなかったわけです。パウロだけではありません。今日の手紙の著者であるペテロもまったく同じように考えていたのが今日の箇所からも分かります。キリスト教の第一世代の使徒たちはすべからく、彼らが生きているうちに世界の終わりが来ると信じていたようなのです。これは現代に生きる私たちを困惑させる事実であり、「再臨の遅延」問題と呼ばれていますが、今日の聖書箇所を読むうえで無視できない問題でもあります。そのことを考えながら、今日のテクストを見て参りましょう。
2.本論
7節は、「万物の終わりが近づきました」という言葉から始まります。「近づいた」という言葉は「エンギケン」というギリシア語を訳したもので、この言葉はイエスが語った「神の国が近づいた」という言葉とまったく同じものです。この動詞は完了形なので、単に近づいたというだけではなく、「もう来たのだ」、という意味合いもあります。イエスが神の国が近づいたと語った時、単にもうすぐだと言ったのではなく、もう来ているという意味でもありました。同じように、ペテロも万物の終わり、すべての終わりがもうすぐに来ているだけでなく、もうそのような終わりがすでに到来したと言っているのです。というのも、終わりは一瞬にして到来するものではなくある程度の期間を有するプロセスであり、そのプロセスはキリストの来臨で終わるだろうということなのです。しかも、そのプロセスというのは二千年とか三千年というような途方もない長さではなく、ペテロが生きている間、長くても二十年から三十年ぐらいの長さでイメージされていたということです。このような、今の時代は世界の終わりのまさに真っ只中なのだという感覚はペテロだけではなく使徒パウロも持っていました。第一コリントの10章11節には、「それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためなのです」というパウロの言葉がありますが、これは直訳すると、「これらが書かれたのは私たちへの警告としてであり、その私たちに代々の終わりが到来しています」となります。この「到来している」も完了形ですので、世の終わりは未来に来るのではなくもう来ていて、コリントの信徒たちはまさに世界の終わりのただ中を生きているのだ、ということをパウロは述べているのです。先ほども申しましたが、このことは私たちには信じがたいと言うか、受け入れがたいことです。なぜならペテロやパウロが生きていた時代が世界の終わりのただ中なのであれば、世界はとっくに終わっているはずだからです。しかし、実際はそうではなかったのです。この点についてどう考えるべきでしょうか?その答えはたった一つで、世界の終わりを知っている人は誰もいないということです。主イエスさえも、自分はその時を知らないと言っていました。イエスが知らないことを、ペテロやパウロが知っているはずがないのです。しかし主イエスは同時に、その時は突然、思いがけないときにやって来るので、いつでもそれに備えておきなさいとも言われました。ですからペテロやパウロがそれに備えていたこともまったく正しいことなのです。私たちも、その日その時がいつ来てもよいように備えておく必要がありますが、同時にその日その時を知っているという人がいるとするならば、その人の言っていることは間違いなく嘘です。ペテロやパウロすら知らないことを、一体だれが知っているというのでしょうか?
ともかくも、ペテロは主の再臨はもうすぐだという期待と緊張感の中を生きていました。そして学ぶべきことは、その準備の仕方です。ペテロはオウム真理教やブランチ・ダビディアンのように、世界最終戦争に備えて武器や弾薬、非常食を蓄えなさいとは命じませんでした。戦いに備えなさいとは一言も言わずに、ただ「愛しなさい」と命じたのです。これこそが一番大切なことです。世界にこれからどんな天変地異が起ろうとも、どんな恐ろしい戦争が起きようとも、すべきことはただ一つ、それは「互いに愛し合いなさい」ということでした。これはすごいことだと思いますが、これこそがキリスト教の本質なのです。世界がもうすぐ終わるのだから、自分だけは生き残ろう、自分だけは何が起こっても助かるように準備しよう、ではなく、互いに愛し合う、互いに仕え合う、それこそが終末の準備だということです。このことは私たちにも大変大きな教訓を与えます。たしかにペテロやパウロが期待したようには、紀元一世紀に世界の終わりは来ませんでした。それどころか、あれから二千年経っても、そのようなことは起こりませんでした。ですから、これからの二千年の間にもそのようなことは起こらないかもしれません。しかし、もしかすると私たちが生きている時代にそれが起きるかもしれません。こればかりは誰にも分かりませんが、私たちもペテロと同じように、そのような期待と緊張感の中を歩むべきです。でも、だからといって特別なことをする必要はないのです。ただ、祈りの中で日々の生活を過ごし、互いに愛し合い、自らに与えられた賜物を生かして仕え合う、奉仕しあう、これがペテロの命じる終末の準備なのです。
そしてそのような生き方こそ、私たちが本当に恐れるべきものの準備となります。私たちが本当に恐れなければならないのは、ハルマゲドンの戦いや世界最終核戦争ではありません。それらのことは確かに想像するだけでも恐ろしいことですが、もしそんな事態になってしまったら私たちにできることはそんなに多くはないでしょう。もちろん、そのようなことが起きないように、私たちは今世界平和のために全力を尽くすべきですが、しかし世界には私たちの小さな力では抗えないような厳しい現実というものがあります。それでも、そういう起きるかどうかもわからないもの、起きてしまったらどうしようもないことを恐れるのではなく、私たちが本当に恐れるべきなのはすべての人に臨む「最後の審判」です。核戦争を逃れることができたとしても、これだけはすべての人が逃れることができません。へブル人の手紙の著者は「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(9:27)と記していますが、それは真実です。私たちが真に恐れるべきは、主イエス・キリストによる厳粛な死後の裁きです。それは公平・公正に、私たちそれぞれの「行い」に応じて裁かれるというとが聖書に何度も記されています。この裁きに備えることの方が、核戦争に備えるよりもはるかに、はるかに重要なのです。しかし、そのためにすべきことも何も特別なことではありません。むしろ、非常に単純なことです。これも、「愛し合うこと」、「互いに仕え合うこと」です。愛は、多くの罪をおおうからです。私たちは主イエスを信じて正しく生きようとしても、それでも人生において多くの過ちを犯してしまうものです。悪気はなくても、弱さや愚かさによって罪を犯してしまう哀れな存在でもあります。そんな私たちのために主イエスは今でも天で祈っておられますが、私たちにもできることがあります。それが互いに愛し合うこと、仕え合うことです。それが私たちの地上の生涯において神に栄光を帰することであり、また神が喜んでくださることなのです。
3.結論
まとめになります。今日は万物の終わり、世の終わりという重大なテーマについてお話しさせていただきました。初代のキリスト教徒たち、ペテロやパウロは世の終わりが近いという確信の中に生きていて、それどころか彼らはもう世の終わりの時代のただ中に生きているのだと信じていました。実際には世の終わりは来なかったのですが、そのこと自体は重要なことではありません。なぜなら世の終わりがいつなのかは誰にも分からないし、にもかかわらず私たちは常にそれが起きるということの期待や予感の中を歩むべきだからです。重要なことは、世の終わりが近いという強い確信にもかかわらず、ペテロもパウロもパニックにならず、また世の終わりに備えて何か特別な準備をしたわけでもなかったことです。それどころか、彼らはいたって落ち着いた生活を送っていました。世の終わりが明日来るとしても、彼らはいつも通りの生活をしていたのです。彼らが心がけたのはただ一つ、互いに愛し合うこと、互いに仕え合うことでした。そして信徒たちにもそのように命じました。
私たちの時代も戦争だけでなく、地震などの自然災害、あるいは感染症の蔓延や気候変動による食糧危機など、考え始めたらきりがないほどの将来の不安があります。世界が終わるほどの究極の出来事ではなくても、世界の多くの人が苦しむような事象が起る可能性は普通にあります。私たちはもちろん地震対策とか、やれることはやるべきです。準備しているかしていないかで、いざ何かが起った時の結果は変わるでしょう。しかし「天災は忘れたころにやって来る」ということわざ通り、どうも私たちが予想するようには災害は起こらずに、思わぬ形でやってくる可能性の方が高いのです。ではどうすればよいのか?それは神を信頼することです。パウロはこう書いています。
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
私たちの未来のことは私たちが心配する以上に神様が心配してくださっています。主イエスも思い煩うな、「あなたがたの髪の毛さえも、みな数えられています」とおっしゃいました。ですから私たちはペテロが教えるように、日々を平静な心で過ごし、愛し合い、仕え合うべきなのです。そのような思いで今週も歩んで参りましょう。お祈りします。
歴史を導き、司っておられる父なる神様、その名前を賛美します。歴史には始まりがあるように終わりがあります。しかし、それがいつなのかは誰にも分かりません。私たちも、それに備えて歩むべきでありますが、その備えとは愛し合う、仕え合うことです。そのように生きる力をお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン