神の国が近づいた
マタイ福音書4章12~17節

1.序論

みなさま、おはようございます。過ぐる週は終戦記念日でした。戦後80年の記念の年でもあります。私たち日本の国は、この80年間まがりなりにも戦争をせずに歩んでこられました。しかし、1945年より前の80年間は戦争に次ぐ戦争で、日本は何度か勝利を収めましたが最後は壊滅的な敗北で終わりました。これからの次の80年が平和な時代になるか、動乱の時代になるか、正に私たちは岐路に立たされています。

今日は、そのような戦後80年ということを踏まえ、イエスの時代の事を考える前に、少し現代の世界についてお話しします。なるべく分かりやすくお話ししたいと思います。今世界ではいくつもの紛争が続いています。今のところアジアでは大きな紛争はありませんが、しかしアジアには超大国でアメリカの最大のライバルである中国があります。この米中対立の狭間にいる日本は難しい立場に置かれています。今日のアメリカと中国は鏡の裏表のような関係にあります。今、トランプ関税が大きな話題になっていますが、この関税の一番のポイントはいびつな米中関係にあります。昨年のアメリカの貿易赤字はなんと185兆円もあります。日本の一年間の税収の二倍以上という巨額の赤字です。昨年アメリカは、グロスではなくネットで185兆円もの買い物を外国からしたことになりますが、しかもその代金は外国からの借り入れで賄っています。ものすごく単純化すれば、アメリカは毎年外国に185兆円もの借金をしていることになります。ちなみに、一番多くお金を貸しているのが日本です。こうした赤字の結果、アメリカの外国に対する純負債は4000兆円にもなります。日本の国債残高が1000兆円になったと大騒ぎしていますが、日本は家計資産だけで2000兆円もありますので、これくらいは十分吸収できますが、アメリカは国内の人々で貯金が全くないという人が人口の四分の一に達すると言われています。国内の貯蓄が十分ではないので、外国からお金を借りて国を回しているのです。因みにアメリカ政府の負債残高は6000兆円にも達しようとしていると言われています。アメリカは国も家計も借金で生活しているような状態です。

反対に、中国の貿易黒字は155兆円にもなります。つまり中国はこれもグロスではなくネットで155兆円もの商品を海外に売りまくっているのです。アメリカの貿易赤字と中国の貿易黒字がほぼ同じだということが、今の世界の歪みを象徴しています。なぜこんなことになるのかと言えば、中国はモノを作る力はものすごくあるのですが、中国人にはそうしたモノを消費できるだけのお金持ちの消費者が十分にはいないのです。来日中国人の爆買いからも分かるように、確かに一部の中国人はものすごく金持ちですが、大多数の中国人は貧しく、モノを買いまくるだけのお金をもっていません。ですから中国は自国で作った製品が自分の国では売れないので、外国に売りまくるのです。そして、それを一番たくさん買っているのがアメリカ人だということです。しかし、アメリカ人がアメリカで作ったものではなく、中国で作ったモノばかり買うようになると、どうなるでしょうか?アメリカでモノを作らなくなるということは、アメリカで仕事がなくなってしまうということです。モノづくりの仕事がなくなると、もっと賃金の安い、地味な仕事しかなくなります。しかし、そうした仕事は大量の移民が奪っていくという状況になります。こうして追い詰められたアメリカのかつての中産階級の人々の怒りがトランプ政権を生み出したのです。

反対に中国は、輸出を続けるためにはライバルの国々との競争に打ち勝たなくてはなりません。今や中国はインドやベトナムなど、多くの輸出のライバルと戦わなければなりません。彼らに勝つには、賃金を下げて製造コストを下げないといけません。しかし、低賃金に留めておく結果、人民は豊かにならず、中国国内での消費は盛り上がりません。ですので、ますます作ったモノは外国で売るしかないという悪循環に陥ります。

このように米中のもたれあいのような貿易関係は中国人民もアメリカ国民も豊かにせずに、一部のグローバル企業や資本家のお金持ちだけが儲かるという歪んだ構造をますます強化します。没落した中産階級がとんでもない方向に向かう危険性は、かつて第一次大戦で敗れたドイツの中産階級が徹底的に痛めつけられた結果ナチスを生み出してしまったケースからも明らかなのですが、しかし各国の政治の行方を決めるグローバル企業や富裕層はグローバリゼーションという企業に有利な国際商業体制を何としても維持しようとします。中産階級の復活を公約に当選したトランプ政権ですが、果たして今の高圧的な関税政策でそれが実現できるのか、甚だ心配なところです。

恐ろしいのは、外国にモノを売りまくるという国家戦略が出来なくなる中国で人民の貧困問題がますます深まり、それを打開するために外国への拡張政策を取ってしまうということです。これはかつて満州国を作った日本のやり方ですが、それと同じ轍を踏んでしまうかもしれないということです。そうならないためには、中国が人民を豊かにして内需主導の健全な経済成長に移行することなのですが、それが実現できるかどうかが今後の世界の状態を決定するように思われます。中国もアメリカも超格差社会で、アメリカではウォール街のエリートが、中国では共産党幹部ばかりが儲かる仕組みになっていますが、この超格差社会を何とかしない限り、世界は再び大戦争の時代に突入してしまうかもしれません。

さて、なぜ説教の冒頭でこんな国際政治経済の話をしたのかといえば、それはこの話がイエスの神の国の話と大いに関連しているからです。イエスの時代のユダヤの人々も、中産階級の没落という問題に直面していました。当時のユダヤは、ローマ帝国の植民地になり、ローマから搾り取るだけ搾り取られた結果ユダヤの民衆は貧困に苦しみ、生活苦に追い込まれた人々は四つの道を選びました。取税人、売春婦、強盗、そして物乞いです。こうした職業は、中産階級から脱落してしまったユダヤの人々がやむなく選んだ生き方だったのです。取税人はローマのために人々から税を徴収する仕事ですから、人々からはローマの犬として蔑まれます。それでも生きていくためには仕方がないと、そういう道を選ぶ人たちがいました。売春婦、あるいは遊女になるのも貧困の故でした。かつて戦前の日本で農家の娘さんたちが貧しさのゆえに遊郭に売りに出されたように、当時のユダヤの若い女性たちは泣く泣くそのような生き方をすることになりました。しかし、体を売ることすらできない体の不自由な貧しい男性たちは物乞いという道を選びました。選んだというより、それしか生きる道がなかったのです。反対に、暴力を用いてでも社会の理不尽に立ち向かっていく人たちもいました。強盗というと、押し込み強盗のような恐ろしいイメージがありますが、当時の強盗はユダヤの民衆から人気がありました。それは彼らが同胞のユダヤ人ではなく支配者のローマ人や、ローマと協力して懐を肥やしていたユダヤ人を標的にしていたからです。彼らはいわばレジスタンスの闘志でした。

このように、極端な格差社会の中で生きていた人々は様々な方法で生き延びる道を模索していました。そうした中で、最終的にユダヤの人々の心を捉えたのが最後の道、暴力で抗う道でした。しかも、彼らの正典である聖書にはこうした力による抵抗を支持するように思える記述がありました。それが「聖戦」です。聖戦とは、力なきユダヤの民が神の力によって強大な敵を打ち破るという奇跡的な戦いのことです。ユダヤの人々は、今こそこの聖戦を通じてローマの支配を打ち破り、神の支配、神の国を打ち立てようという希望に突き動かされるようになります。しかも、聖書にもそうした未来を指し示す預言があるのです。神の国到来の預言として有名なのがダニエル書の一節です。ダニエル書2章44節をお読みします。

この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。

このダニエルが語った永遠の国こそ、イエスの時代の人々が願った「神の国」、「天の御国」です。イエスはこの神の国をもたらそうとしているのですが、しかしこれは当時のユダヤの人々が考えたように、暴力によってもたらされるようなものではないのです。イエスはこのユダヤ社会の問題、超格差社会の問題への怒りを、外部のローマに向けさせるのではなく、むしろユダヤ社会そのものを変革させようとしました。それは旧約聖書に書かれているヴィジョン、助け合い、相互扶助によって形成される社会です。イエスはこのような、人々が愛し合い、助け合う社会を再び作り上げようとします。そのために、この社会からはじき出されてしまった人々、取税人や売春婦、物乞いや強盗たちに語りかけ、彼らをイスラエル共同体の中に連れ戻そうとします。もちろん、ローマによる力の支配を容認したわけではありません。しかし、力には力で対抗するというのはイエスのやり方ではありませんでした。むしろ、イスラエル社会を世の光として輝かせ、その光によってローマを変えていこうとしたのです。このようなヴィジョンをイエスは人々に理解させなければなりませんでした。

2.本論

さて、前回はイエスが荒野でサタンの試みを受けたところを見て参りました。イエスのバプテスマのヨハネによる洗礼、荒野での四十日間の断食、そして今度はバプテスマのヨハネの逮捕です。かなり目まぐるしい展開ですが、このヨハネの逮捕はイエスにとって非常に大きな意味がありました。なぜなら、この時からイエスの公生涯が始まったからです。イエスは、ある意味でヨハネの働きを承継しつつ、同時にヨハネと袂を分かったと言えます。ヨハネの志を受け継ぎつつ、彼から離れたということです。この二つは矛盾しているように思われるかもしれません。しかし、ヨルダン川のあるユダヤの地を離れてガリラヤに北上したことは、ヨハネの教団の本拠地を離れたということです。ヨハネが捕まった後も、彼の弟子たちはヨルダン川にいたのですから、イエスは彼らから離れたということです。イエスがヨハネ教団のガリラヤ支部となったわけでもありません。なぜならイエスは今後、ヨハネの弟子たちと連携して宣教活動をしたわけではないからです。このように、イエスは自らの活動について、明らかにヨハネのそれとは一線を引いています。同時に、ヨハネが捕まった後に宣教活動を開始したというタイミングも重要です。このタイミングは、イエスが自らの活動について、ヨハネを引き継ぐものだと見なしていたことを示唆します。つまりイエスはヨハネの活動をそのままそっくり受け継いだというよりも、批判的に継承したということです。神の支配が近いというヨハネの主張そのものは正しい、けれども、ではどのようにその支配が到来するのかという点については、イエスはヨハネとは異なるヴィジョンを抱いていたのです。

イエスはこう語りました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この言葉は、3章2節にあるバプテスマのヨハネの言葉と全く同じですね。天の御国というのは直訳すれば天の王国です。前に、マタイはマルコ福音書を参照し、マルコ福音書を拡大してマタイ福音書を書き上げたという話をしました。マルコ福音書では、イエスは「時は満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と語っています。マルコでは「神の国」がマタイでは「天の御国」になっています。何が違うのでしょうか?答えはこの二つには全く違いはありません。では、なぜマタイは「神の国」を「天の御国」に変えたのでしょうか。マタイは、福音書の読者にユダヤ人が数多くいることを想定していました。ユダヤ人には十戒があります。そこでは、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」と命じられています。ですから「神」という言葉を「天」に置き換えたのです。日本語でも「天に唾する」と「神に唾する」というのは意味は同じですよね。それと同じように、マタイもなるべく「神」という言葉を用いないようにしたのです。

このイエスの宣べ伝えた「神の国」、「天の御国」はローマによる力の支配とは異なる形の支配を目指します。「支配」という言葉の意味、概念すら変えてしまおうとしたのです。支配という言葉には否定的な響きがありますよね。何と言いますか、無理やり相手を従えるという感じです。ピラミッド型の構造で、上に行けば行くほど権力とお金が集まるので、人々は互いに競い合い、少しでも上を目指そうとする、そして頂点にたどり着いたものが支配をするという、そんな具合です。しかしイエスは、上に立つ者が奴隷として仕えるという、まったく逆の世界を作り出そうとします。ですからイエスは、ピラミッドの底辺にいる人々を救い出し、支えようとしたのです。しかもそれを義務感や正義感からではなく、愛によって、困難な人生、屈辱的な人生を余儀なくされている人々への共感の力によって成し遂げようとしたのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスが「神の国」、「天の御国」の宣教を始めたことを学びました。イエスが取り組もうとした問題は、現代にも通じる問題です。それは「超格差社会」の問題です。イエスの時代の人々は、この格差問題を解消するために、暴力革命の道を選ぼうとしました。現代の資本主義体制に対しても、これを暴力革命によって打倒しようという思想がありますが、それと同じようなことを当時のユダヤの人々は考えていたのです。

しかし、イエスにはまったく別のヴィジョンがありました。もちろんイエスも当時のユダヤのエリートたちを厳しく批判しました。彼らは貧しい人たちのことを考えずに、自分たちの私腹を肥やすことばかり考えていたからです。けれども、イエスは彼らを暴力的に打倒しようとはしませんでした。むしろ暴力を拒み、十字架の道を選びました。イエスは最期まで、仕えるという生き方を身をもって示したのです。

私たちの時代も格差社会という大きな問題を抱えています。この問題を、暴力や敵意ではない形で解決するにはどうすればよいのか?そのためには、私たちは外部の敵ではなく内なる貪欲と戦わなければなりません。社会のトップにいる人たちがお金のことしか考えないようだと、私たちも彼らから悪い影響を受けてしまいます。合法的な搾取が出来ない人は、非合法な搾取、オレオレ詐欺のようなことに走ってしまうのです。しかし、私たちは今の社会の腐敗したエリートではなく、イエス様こそを私たちの模範、目指すべき姿とするべきです。イエスがその教えと自らの生き方によって示した生き方によってのみ、「神の国」は到来するのです。私たちもこれからますますイエスの生き方を深く学んでまいりましょう。お祈りします。

天におられます我らの父よ。私たちはあの大いなる敗戦から80年の間、曲がりなりにも平和を享受できましたが、その間も世界では多くの悲惨な戦争がありました。これからの未来を平和な時代とするために、あなたの教会を用いてください。そのためにも私たちにより深く主イエスのことを学ばせてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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