死んだ人々にも福音が
第一ペテロ3章18~4章6節

1.序論

みなさま、おはようございます。今、私たちはマタイ福音書を読み進めていますが、月末のみは第一ペテロを扱っています。第一ペテロは短いながらも非常に内容の濃い、充実した内容の書簡ですが、今日の箇所はとても難しい、議論を呼ぶ箇所でもあります。ただ、私の説教はなるべく難しくならないように、みなさんに興味を持っていただけるような話にしたいと思っています。

今日の箇所の話のポイントはいくつかありますが、最も興味深いのは6節の「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられた」という下りです。これを文字通りに受け取ると、死んだ人々も福音を聞くことができる、という話になります。ただ、このように聞くと、私たちがこれまで教えられてきたこととは違うではないか、と不審に思われるかもしれません。私たちは、信仰は生きている間に持たなければならない、たとえ死ぬ瞬間の少し前でもいいから信仰を持たなければならない、なぜなら死んでからは福音を信じて救われるチャンスは失われるからだ、と教えられてきました。死んだ後でも救いのチャンスがある、という考えは「セカンド・チャンス」と呼ばれ、そのようなことを説く方々もおられますが、そういう説は異端として激しく非難されてきました。ペテロは「死んだ人にも福音が宣べ伝えられて救われる」とまでは言ってはいませんが、そういう可能性を含んだ言い方とも読めます。これをどう考えるべきでしょうか?

このことばについてはいろいろな解釈があります。一つの有力な解釈とは、ここで言われている「死んだ人」というのはクリスチャンのみを指す、というものです。つまりイエスが、死んだ後にあの世で霊として存在している人たちに向かって福音を語ったということではなく、死んでしまった人がまだ生きている間に福音が伝えられていた、そしてその人はイエスを信じて死んでいったという、こういう話であるという説です。ここを直訳すると、「死者たちにも福音が宣べ伝えられていた」となりますが、ここを「すでに死んだ人たちにも、彼らがまだ生きている間に福音が伝えられた」と解するのです。このように解することも文法的には不可能ではありませんが、かなり無理筋な解釈だと言えるでしょう。また、この人がクリスチャンだとすると、ではなぜその人は肉において裁かれるのか、という疑問が生じます。この動詞は「弾劾される」、「罰せられる」と訳すこともできます。クリスチャンはその信仰ゆえに迫害されることはあるでしょうが、罰せられるということはないのではないか、と。このように、死んだ人が生前に福音を聞いていたとする説は、一定の人気がある説ではあるものの、解釈としてはかなり無理があるように思います。

さらにいえば、3章19節には「その霊において、キリストは捕らわれた霊たちのところに行って、みことばを語られたのです」とあることに注意が必要です。この一文の意味とは、キリストは十字架に架かって死なれた後、復活をする前に黄泉とかヘブル語のシェオール、あるいはギリシア語のハデスと呼ばれる死者の世界に行って、ノアの大洪水で死んだ人々の霊に向かって語りかけたということです。この箇所からは、キリストが死者の霊に語りかけるということがあったということになります。

この箇所について、ジョエル・グリーンというアメリカの聖書学者が興味深いことを書いています。彼はフラー神学校という福音派の神学校で教えていた方ですが、彼によると原始キリスト教において死者に福音が宣べ伝えられて彼らが回心するという考えは珍しいものではなかったと論じています。グリーンは初代教会における第一ペテロのこの箇所の解釈について、四つの見方を挙げています。①は、キリストはシェオール、黄泉に下ることで人と運命を共有した、②は、ハデス、つまり死の世界を打ち壊した、③は、旧約時代の義人たちの霊を救済した、そして④は、死者に救いを宣べ伝えたというものです。実際、キリストがハデスに降って死者たちに福音を語ったという説はエウセビオスやアタナシウスなど、そうそうたる教父たちによって唱えられています。では、そうだとすると今日の聖書箇所のポイントは何なのか?という疑問が生じるでしょう。その問いを抱きつつ、今日のみことばを読んで参りましょう。

2.本論

さて、では今日の聖書箇所の文脈をまず確認しましょう。前回の箇所では、クリスチャンが理不尽な迫害や苦しみに遭うことについて語られていました。ペテロは、「もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです」と語りますが、その善を行って苦しみを受けることの典型としてキリストの受難を思い起こさせます。ただ注意したいのは、18節の訳は意訳しすぎですし、「身代わり」という言葉はギリシア語本文にはありません。より原文に近い聖書協会共同訳では、「キリストも、正しい方でありながら、正しくないものたちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました」となっています。ここではキリストが誰かの身代わりになったということではなく、不法な者たちのために不当な扱いを受けたということが言われているのです。そのため、キリストは肉においては死なれ、霊においては生きました。では、十字架で処刑された後のキリストの霊がどこに行ったのか、というのが19節と20節です。19節では、キリストは「牢屋」に行ったとあります。この言葉は、バプテスマのヨハネが牢に入れられていた時に使われているのと同じ言葉ですので、文字通りの「牢獄」という意味ですが、そこに囚われている霊たちのところに行ったということです。その牢屋にいたのはノアの大洪水で死んでしまった人たちの霊だというのです。イエスの時代から数千年前に生きていた人たちですから、この人たちは死んだ後になんと数千年もの間霊の状態で牢屋に閉じ込められていたということになります。百年でもものすごく長いのに、数千年も牢屋にいるのって、どんな気持ちになるのでしょうか。もう絶望しかないですよね。その人々にキリストはみことばを語った、とあります。この動詞は「ケリュッソー」で、キリストが福音や神の国を宣べ伝えるときに使われる動詞です。ですからここでの一番自然な意味とは、何千年もの間あの世で牢に囚われていた人々にキリストが福音を宣べ伝えたのだ、ということになります。驚くべきことではありますが、これが最も蓋然性が高い解釈なのです。

では、なぜペテロはこんな話をしたのでしょうか?ペテロのここでの関心は、人は信じないで死んだ後に救われることがあるのかどうか、ということではありません。私たちには大変興味深い話かもしれませんが、ペテロはそのことを論じたいわけではないのです。むしろ彼の関心は、大洪水の時に救われたノアと彼の家族8人のことでした。彼らは悪い人たちのただ中にあって、少数派の義人でした。たった8人ですから、少数派といういい方すら適切ではないかもしれません。彼らは正しい人たちだったのに、悪い人たちから相当な嫌がらせや迫害や妨害を受けたことでしょう。なにしろ、人々は飲めや食えやで面白おかしく暮らしているのに、ノアたちは大洪水が来ると信じて一生懸命おかしな方舟を造っているのです。あいつらは頭が狂っている、トンデモ話を信じて人生を無駄にしているとあざ笑う人たちや、方舟建造そのものを妨害する人たちもいたことでしょう。日本でも、南海トラフ地震などを警戒して山奥に引っ込んで自給自足の生活を始める人がいたら、「あの人たちは頭がおかしいのだ」と言われるでしょうが、ノアたちもそのように誹謗中傷に苦しんでいたのです。そのノアたちと、ペテロの手紙の読者たち、すなわち悪い異邦人に取り囲まれている少数のクリスチャンたちは同じ立場にある、ということをペテロは言いたかったのです。ノアの時代に人たちには二つの道がありました。方舟に乗って救われるか、あるいは何千年ものあいだ死者の世界の牢獄に閉じ込められるかです。ペテロは読者に、あなたがたはノアの道を選びなさい、と言っているのです。

さて、キリストの話に戻りますと、キリストは十字架で死なれた後に霊としてシェオールに降って福音を宣べ伝え、その後にからだをもって復活されて、それから天に上ってあらゆる権威の上に立つものとされます。前にマタイ福音書の説教でお話ししたように、イエスはユダヤ人の王として生まれましたが、万物の上に立つ方とされたのは復活の後です。イエスが生きている者だけではなく死んだ者たちの上にも主として立てられているということは、イエスが生きている者にも死んだ者にも福音を宣べ伝えたからだ、ということが言えるのかもしれません。

そして、4章の勧告が続きます。いわれなき迫害に苦しむ読者のクリスチャンたちに、キリストも同じように肉体の苦しみを味わったことを思い起こさせます。キリストの場合は、苦しみを受けたのは人類救済のためでしたが、クリスチャンが苦しみを受けるのは別の理由がありました。それは「罪とのかかわりを断つ」ためだと言われています。これは非常に興味深い見方です。この世で苦しみを受けることがどうして罪とのかかわりを断つことにつながるのでしょうか?いくつかの解釈があるとは思いますが、一つは苦しみを受けることが悔い改めにつながるということではないかと思います。主イエスの有名なたとえ話である「放蕩息子」では、放蕩息子は零落した生活を送ったおかげで正気を取り戻して悔い改めました。キリスト教においても、罪を犯している人に厳しい裁きを与えることがありますが、それは苦しみや罰を与えることそのものが目的ではなく、その苦しみを通じて悔い改めてくれることを願ったものなのです。使徒パウロがコリント書簡でそのことを述べています。そこを読んでみましょう。第一コリント5章1節から5節までです。

あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の間にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。私のほうで、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行いをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。

このパウロの言葉は大変解釈が難しいところではありますが、おそらくは肉体を持っていた時にすでに裁かれた罪は主の日においては裁かれない、だから主の日に救われるためにこの世において裁きを言い渡したのだ、ということではないかと思います。このような解釈は第一ペテロの4章6節にも通じるものがあります。ともかくも、この世で苦しみを受けることにはプラスの面があり、それは罪とのかかわりを断つことにつながるということです。

ここで注意したいのは、ペテロはノアの大洪水に匹敵するような神の裁きが近いと信じていたということです。これはパウロにも言えます。キリストが来られてから二千年も経つのに主の来臨がない時代に生きている私たちには奇妙なことに思えるかもしれませんが、初代教会の人々は主の来臨と世の終わりが近いという確信の中を生きていました。ペテロは5節で「生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方」と書いていますが、直訳すると「裁きを行う準備ができている」、スタンバイしている、というようなニュアンスです。ですからペテロは、ノアの洪水で滅んでしまった人たちのようにならないようにと、読者たちに罪深い人たちの営みに関わらないようにと勧告しているのです。

そして問題の6節ですが、ここは先にも申したように、キリストは死者たちに福音を語った、という解釈でよいと思います。それは十字架の後の黄泉下りにおいてでしょう。キリストは全世界の人々、生ける者も死んだ者もすべての人を裁く方です。ですからその裁きの前に、生きる者にも死んだ者にも等しく福音を平等に語った、ということではないかと思います。ただ、この箇所は極めて難しい箇所なので、これが正解の解釈であるとは言えないということを申し添えておきます。

3.結論

まとめになります。今日はいわゆるキリストの黄泉下りと呼ばれる事柄について語った非常に難解な箇所を取り扱いました。福音を聞くことなく死んでしまった人たちに、福音を聞く機会が与えられるのだろうか、というのは大変興味深い問題で、今日の箇所はその問題に触れている数少ない箇所の一つです。ただ、今日の箇所のポイントはそこにはなく、むしろペテロのポイントは、ノアの洪水に匹敵するような大審判の日が近づいているのだから、あなたがたは身を慎んで敬虔に生きなさい、ということでした。

ただ、先ほども申しましたようにペテロやパウロの活躍した紀元一世紀には、そのような世の終わりは来ませんでしたし、それどころかそれから二千年経っても世の終わりは来ません。「主の来臨の約束はどうなったのか」という嘲りの声が聞こえてきそうですね。この問題は重大な問題なので、改めてお話ししたいと思いますが、一つだけお話ししたいと思います。確かに死者がすべてよみがえるという究極の世の終わりは来ていませんが、しかし聖書の言う「世の終わり」や「主の日」とは必ずしもこのような究極の出来事を指してはいないということです。むしろそれは一つの時代の終わりを指していることがしばしばで、そのような意味での「終わり」は紀元70年のエルサレム神殿破壊において成就しているということです。そのことを主イエスは預言しました。私たちの時代においても、このような究極の終わりではなくても、一つの時代の終わり、終焉が近づいているように思います。そのような時には非常な困難が伴いますが、しかしそういう時にこそ神への信仰に固く立って生きていく必要があります。そのような固い信仰を保つことができるように、主に祈りましょう。

全世界の歴史を司り、裁かれる神よ、そのお名前を賛美します。ノアの時代、ペテロの時代と同じように、私たちも大いなる審判を予感させる時代に生きています。そのような時代を固い信仰をもって生き抜くことができるように私たちを強めてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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