1.序論
みなさま、おはようございます。今日は参議院選挙の日です。今回の選挙は、これまでとは何か違うな、という印象を持っています。候補者たちの演説を聞いていると、「本当に助けてくれますか」、「救ってくれますか」という若者や中年の方々の切実な訴えを聞いた、ということをおっしゃっている方が多かったのです。長引く不況に加えて、急激な物価上昇でもうこれ以上は耐えられない、という人がとても多くなっています。
このように、救いを求める日本の人が増えています。では、彼らが求める「救い」とは何か?それは「死んだ後に天国に行く」ことではないでしょう。もちろん、不治の病で余命いくばくという方であれば、死んだ後にどうなるのかということが重大な問題になるでしょう。しかし、若者たちが求める救いは死んだ後の天国ではなく、今ここで生きていくための食事、また普通の暮らしをするための安定した仕事です。彼らが求める「救い」とは、安心して暮らせる世の中にして欲しいという願い、祈りなのです。なぜこんな話をしたのかと言えば、イエスの時代、またバプテスマのヨハネの時代にユダヤやガリラヤの人々が求めていた「救い」とは「死んだ後に天国に行く」ことではなかったからです。ここを誤解すると、福音書を根本的に誤解することになります。
イエス、またバプテスマのヨハネたちが語りかけた人々はどんな暮らしをしていたのか、ということを知るのは大変重要なことです。今回の参議院選挙で大変注目されている参政党は、「国民負担率」という言葉で私たちの税負担を分かりやすく説明していました。私たちは所得税や住民税、そして消費税などの税を払っていますが他にも社会保険料というものがあります。各党は「消費税を下げます」、「社会保険料を軽減します」と個別の話をしていますが、参政党はそれらをまとめて「国民負担率」という概念で説明していました。そのグラフによると、私が生まれた1970年は国民負担率は25%ぐらいでしたが、いまや46%にまで上がっています。改めて、「こんなに増えていたのか」と驚かされたわけですが、では、イエスの時代のユダヤ人たちの「国民負担率」はいくらだったでしょうか?当時のユダヤ人は神殿税など、律法に基づく税が2割から3割ありました。これだけならよいのですが、当時のユダヤはローマ帝国の植民地だったので、ローマにも人頭税や通行税などを払っていました。これも収入の2割から3割だったと言われています。ですからユダヤとローマの二重課税でだいたい収入の5割から6割を税として納める必要がありました。しかし、それだけではないのです。神殿税というのは律法に基づく税ですから、それを納めないと律法違反、つまり「罪人」になってしまいます。ですから罪人になりたくないユダヤ人はそれこそ借金してでも税を納めます。ローマ帝国に対する税も、納めないと「謀反」とされて厳罰を下されるので、それも借金してでも納めます。こうして農家の人たちは借金を重ねていきました。そして借金が払えないと農地を差し押さえられて小作農になります。小作農になると小作料を納める必要があります。では、彼らが小作料を払う大地主とは誰か?それがなんと宗教指導者、つまり大祭司たちだったのです。当時のローマ帝国は実質的に大祭司の任命権を持っていましたが、彼らは自分たちの代弁者として大祭司を選びました。いわゆる「傀儡政権」です。彼らは大祭司を大地主の一族から選びました。ですから大祭司たちはみな大金持ちの大地主でした。こうしてユダヤの貧しい人たちの富はローマと、ローマに協力する大祭司たちに吸い上げられてきました。こうしてユダヤの貧しい人たちの「国民負担率」はなんと7割から8割に上りました。私たちの国民負担率が46%でこんなに苦しんでいるのに、なんと70%から80%ですよ。しかも、一番金持ちの大祭司たちはほとんど税を払わずに、貧しい人々ほど税負担が重くなるという逆累進課税でした。
このような境遇に置かれたユダヤ人たちの求めた「救い」とは何だったのでしょうか?それは端的に言えば、ローマ帝国がユダヤの地から出て行ってもらうことでした。これは日本人にも分かる部分があるように思います。日本という国は本当の意味で主権を持っていません。なぜなら、アメリカ軍が日本の国土を自由に使う権利を有しているからです。日米地位協定というものがありますが、それにはこう書かれています。
合衆国は、[米軍基地の] 施設および区域内において、それらの設定、運営、警護および管理のため必要なすべての措置を執ることができる。
とあります。つまりアメリカは日本国内にある米軍基地においてなんでも自由にできるということです。日本国内でありながら、日本国の主権が及ばない場所があるということです。それがもっとも顕著なのはもちろん沖縄です。しかし日本はこのような協定を無理やり結ばされているというよりも、むしろアメリカにお願いして米軍を置いてもらっているという面もあります。日本は平和憲法のもとで、建前上は、あくまで建前では、軍隊を持たないことになっています。では軍隊を持たないでどうやって国を護るのかというと、アメリカに守ってもらおうということになります。平和憲法と日米安保はセットだと言われるゆえんです。じっさい、戦後の日本ではこの体制はうまくいったように思えます。日本は戦後80年間戦争をしないでやってこれたからです。けれども、段々本当にそうなのかと思われるようになってきました。むしろアメリカは、日本にアメリカと一緒に世界で戦ってくれることを望むようになってきたからです。アメリカは世界中に軍隊を展開していますが、その一部を日本に肩代わりして欲しいと願うようになってきました。こうなると、日本はアメリカと一緒に海外で戦う、あるいはアメリカの代わりに海外で戦う、ということにもなり得ます。そんなことならアメリカとの関係を見直したい、という声も当然出てきます。でも、アメリカ軍が日本がいなくなったらどうなるのか?そうなったら、日本は自分で自分を守るしかないだろう、こういうテーマも今回の参議院選で論じられるようになりました。
このように、日本人の中にも米軍の存在を問題視する人が増えて来ました。特に米軍基地の近くに住んでいる方々はそうした思いが強いでしょう。しかし、イエスの時代のユダヤ人たちはそれどころではなく、ユダヤの地におけるローマ軍の存在を徹底的に嫌っていました。なぜか?その理由の一つは先ほどお話しした重税の問題があります。ローマへの税、またローマに協力する大祭司たちへの税に苦しめられていたユダヤ人たちはローマの存在を嫌っていました。しかし同時に、宗教的な理由からローマ軍の存在を忌避していました。なにしろユダヤの地は聖地です。神がイスラエルに与えた地なのです。その地に偶像を拝む異教地たちの軍隊が駐留している、そんなことは耐えられないと彼らは思うわけです。イスラエル人の信仰の核心の一つは、土地への信仰です。パレスチナの地は神がアブラハムに与えると約束したものだ、その土地を異教徒たちが汚すのは許せないということです。
このように、経済的、政治的、そして宗教的な理由から、ローマから多くの特権を受けているユダヤのエリート層を除く一般のユダヤ人たちはローマ帝国を徹底して嫌っていました。ですから彼らが求める救いとはローマからの救い、ローマからの解放でした。そのような願い、祈りの中から登場したのがバプテスマのヨハネであり、ナザレのイエスなのです。
2.本論
では、今日のテクストを見て参りましょう。バプテスマのヨハネの登場の場面です。彼は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたからだ」という、マルコ福音書でイエスが宣教の最初に語った言葉とまったく同じことを語っています。ただ、誤解しないようにしていただきたいのですが、ヨハネのいう「天の御国」というのはいわゆる天国、つまり人間が死んだ後に向かう至福の世界ではまったくないということです。むしろ、ヨハネの言う天の御国とは、ローマ帝国が打ち破られてイスラエルが完全な独立と繁栄を獲得する状態を指しているということです。ヨハネはこの地上世界の話をしているということです。天の御国とは神の国と同じ意味です。ユダヤ人は「神」という言葉を口にするのを恐れて「天」という言葉に言い換えていました。日本人も「神に唾する」ではなく「天に唾する」という言い方をしますよね。それと同じです。そして神の御国、神の王国とは神ご自身が支配する国ということです。ローマではなく、神ご自身がこのイスラエルの地を治めてくださる、そのことを「神の国が来る」という言い方で表したのです。ここでバプテスマのヨハネはイザヤ書40章を引用しています。「荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」という下りです。イザヤは何の話をしているかと言えば、イザヤは神がエルサレムに戻って来られて、自ら王となって支配されるという期待を語っているのです。イザヤ書40章10節には「見よ。神である主は力を持って来られ、その御腕で統べ治める」とあります。そのことがさらに詳しく書かれているのがイザヤ書52章7節から8節です。お読みします。
良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのをまのあたりに見るからだ。
これがヨハネのメッセージの背後にある聖書のことばです。簡単に言えば、神がエルサレムに帰ってこられ、そこで王となられる、これが福音であると。バプテスマのヨハネは、このイザヤの預言が実現する日が近づいたということを語っているのです。
ただ、そうはいっても神は人の目では見えるお方ではないですよね。神がエルサレムに戻って来られるとしても、それを見ることはできません。また、神が王になるってどういう意味なのでしょうか?神は初めから世界の支配者なのですから、王になる必要などないのではないでしょうか?いったい、このイザヤの預言はどのように理解すべきなのでしょうか?一番ありそうなのは、神ご自身ではなく、神が選んだメシア、つまりある人が神の代弁者としてエルサレムに現れて、そこで王として戴冠され、神の望まれる支配を行うということでしょう。バプテスマのヨハネもそう考えていたと思われます。そしてヨハネは自分がそのメシアであるとは考えずに、その来たるべきメシアの露払い、メシアのための道備えをするのが自分の使命だと考えていました。しかし、ヨハネはメシアが来るという喜ばしいメッセージだけを携えてきたのではありません。彼は「悔い改めなさい」というメッセージも伝えているのです。それはなぜか?それは、メシアがやって来たとしても、ユダヤ人であればみなが自動的に神の救いに与れるとは限らないからです。神の救いに与るためには、神の民であるユダヤ人の一員であるというのでは十分ではないのです。神は、真に悔い改め、神の立ち返ったものだけを救うのだ、というのがヨハネのメッセージの核心でした。そのような考えは、ヨハネから数百年前に活躍した預言者エゼキエルが強く唱えたものでした。エゼキエルは、ユダヤ人たちが国を失って外国で捕虜として暮らしていた時に、外地で暮らしていたユダヤ人たちにメッセージを語った預言者でした。エゼキエルは彼らがユダヤの地に帰ることができると語りましたが、しかしすべてのユダヤ人が帰れるとは言いませんでした。悔い改めた人だけが帰れるのです。その箇所を見てみましょう。エゼキエル書20章36節から38節までです。
わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地の荒野でさばいたように、あなたがたをさばく。―神である主の御告げ―わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地に入ることはできない。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
このように、エゼキエルはユダヤ人ならみな自動的に救われるというような考えを拒否しました。バプテスマのヨハネもそのようなメッセージを送りました。メシアがやって来ても、あなたがたをみな救ってくれるとは限らない。あなたがた一人一人の神への、また隣人への態度が問題なのだ。アブラハムの子孫だ、というだけでは十分ではない、あなたがもし実を結んでいなかったら、切り倒されるだろう、という非常に厳しいメッセージを送ったのです。ヨハネは自分がメシアの露払いをする役割を担っていると自覚していましたが、そのような理解はある預言者の言葉から来ていました。それは、旧約聖書の最後の書であるマラキ書です。マラキ書4章を全部読んでみましょう。
見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。―万軍の主は仰せられる―しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。―万軍の主は仰せられる―あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼らに命じたおきてと定めである。見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。
ここで、主はメシアが裁きをもたらす前に、預言者エリヤを遣わすと語っています。そのエリヤこそがバプテスマのヨハネでした。ヨハネのことを、「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった」と記しています。列王記は、エリヤの事を「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人でした」と記しています(第二列王記1:8)。ですからマタイはヨハネをエリヤの再来として描いているのです。そして、繰り返しますが、メシアはもちろん救いをもたらす方ですが、彼は悪い者たち、実を結ばない者たちに裁きをもたらす方でもあるのです。ですからヨハネは、人々に悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたのです。
3.結論
まとめになります。今日はイエスの前に現れて、人々に悔い改めを説いたバプテスマのヨハネのことを、主に旧約聖書の背景から説明しました。ヨハネの時代のユダヤの人々の願いは、彼らを支配する異教徒、つまりローマ帝国からの解放でした。それは宗教的な理由だけではなく、経済的な理由も非常に大きかったのです。彼らの生活はあまりにも苦しかった。だから彼らは救いを求めたのです。その救いは神ご自身がもたらすものです。神ご自身がエルサレムに帰って来られるということを預言者たちは語ってきました。しかし、見えない神が来られるというのはどういうことなのか?おそらくは、神はご自身の代弁者としてメシアを送るのだろうと当時の人々は考えていました。メシアが私たちを救ってくれる、という期待を抱いていたのです。そのような期待の中からバプテスマのヨハネが現れました。しかし彼は、メシアがもたらすのは救いだけではないことを強調しました。メシアは裁きをもたらす方でもあるのです。そのような裁きに遭わないために悔い改めなさいというのがヨハネのメッセージでした。
私たちもこのメッセージをしっかりと受け止める必要があります。メシアは二千年前に来られましたが、再び来ると約束しています。その再臨を私たちは待ち望んでいます。しかし、私たちは再び来られるメシアにお会いする準備ができているのでしょうか?だらしない暮らしをして、なまけているところを帰って来た主人に見られて重い罰を受ける僕の話を主イエスは何度もしています。わたしたちがそのような悪い僕ではないと言い切れるでしょうか?私たちは善良で忠実な僕として歩めているでしょうか?そのことを問いながら、バプテスマのヨハネのメッセージを改めて聞きたいと願うものです。お祈りします。
エリヤを遣わし、また主イエスを遣わされた父なる神様、そのお名前を賛美します。私たちもまた、主が再び来られるのを待ち望む者ではありますが、その主の日が暗闇の人ならないように、しっかりと目を覚まして歩むことが出来るように私たちを力づけてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン