1.序論
みなさま、おはようございます。マタイ福音書からのメッセージは今回で三回目になります。今日の箇所も、大変有名な箇所ですが、同時になかなか難しい箇所でもあります。そこで初めに、何がどのように難しいのかについてお話しさせていただきます。
今日の箇所では、三度も「これは、主が預言者を通して言われたことが成就するためだった」という言い回しが登場します。イエスの生涯において起こったことは、旧約聖書の預言者が語ったことの成就なのだ、ということです。その二つについては、どの預言書なのかがはっきりしています。ホセア書とエレミヤ書です。しかし、三つ目のもの、すなわち「この方はナザレ人と呼ばれる」は、どこを引用したのかまったくわかりません。なぜなら旧約聖書には「ナザレ」という地名は出てこないからです。さて、私がなぜこのような話を始めたのかといえば、今日の聖書箇所の理解のポイントが、マタイの旧約聖書の用い方だからです。
問題の、「これは、主が預言者を通して言われたことが成就するためだった」という言い回しですが、みなさんはこの言葉からどんなことを連想するでしょうか?普通に考えると、旧約聖書の預言者たちが主イエスのことを予告していて、その預言がイエスの生涯においてまさに実現したのだ、ということのように思えます。しかし、実際にマタイが引用した箇所を読むと、そのようには解釈できないのです。たとえば今日の交読文で読んだホセア書ですが、マタイはここから「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」という一節を引用しています。ホセアは、イエスがエジプトから連れ出されることを数百年も前に予告していたということになるのでしょう。しかし、みなさんもお気付きのように、これはホセアが未来を預言したものではなく、過去を振り返ったものですよね。ホセア書11章1節、2節は次のようになっています。
イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。
もしこれがイエスとその両親についての預言だということになるなら、イエス様や母マリアはエジプトから脱出した後に偶像のバアルを礼拝するだろう、というような話になってしまいます。しかし、そんなとんでもないことが起きるはずがないのです。イエス様が偶像礼拝をしたなんてことになれば、キリスト教は崩壊してしまいますよね。そうではありません。ホセアはここで、未来のことではなく、イスラエルの過去の歴史を振り返っているのです。イスラエル人はモーセに率いられてエジプトを脱出し、カナンの地に定住しますが、そこで異教の神々、とくにバアルを礼拝するようになってしまったという過去の失敗をホセアは語っているのです。しかしマタイは、このホセアの預言をホセアの時代から数百年未来の出来事を預言したかのように取り扱っているように見えます。でも、本当にそうなのでしょうか?
また、マタイはヘロデ大王がベツレヘムの2歳以下の子どもを虐殺した件について、これも預言者エレミヤによって予告されていた、と語ります。これはエレミヤ書31章からの預言です。しかし、ここでエレミヤが語っているのは過去の出来事ではありません。エレミヤは、彼の生きていた時代に起った出来事、すなわちバビロン捕囚について語っています。エレミヤの時代、ユダ王国はバビロンに征服されてしまい、主だった人々はユダヤの地から連行されてバビロンに連れて行かれました。この連れていかれた人々を嘆いているのがラケルですが、彼女は族長ヤコブの奥さんです。エレミヤの時代からは千年以上も前の時代を生きた女性ですから、エレミヤの時代に生きているはずもありません。ですからここで言われている「ラケル」とは大昔の人物のことではなく、イスラエル人にとっての母なる大地、ユダヤの地を擬人化した存在だということになります。でも、そうなるとマタイは、イエスの時代から五百年以上も前のバビロン捕囚について語ったエレミヤの言葉を、ヘロデによる幼児殺害の預言だ、と言っていることになります。しかしそれもおかしな話ですよね。
しかし、そんなことは当然マタイも分かっていたはずです。彼はホセア書の内容も、エレミヤ書の内容もよく知っていたはずです。では、なぜ彼はこのように一見おかしな旧約聖書の引用をしたのでしょうか?ここがポイントなのですが、マタイはイエスの生涯において起こることのすべてが旧約聖書に預言されていた、といいたいのではありません。そうではなく、彼が主張しているのは、イエスの生涯においてイスラエルの希望はすべて成就したのだ、ということなのです。マタイがラケルの嘆きについて引用したエレミヤ書31章にはどのようなことが書かれているのでしょうか?エレミヤ書31章のメインテーマとは何でしょうか?ご存じのように、そこにはイスラエルの究極の希望と呼べるものが預言されています。そこをお読みします。エレミヤ書31章31節から33節です。
見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らは私の契約を破ってしまった。―主の御告げ―彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ―わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
このように、バビロン捕囚という破局の先には「新しい契約」の希望があると、エレミヤは預言しているのです。私が思うに、マタイがエレミヤ書のラケルの嘆きを引用した時に、彼はその先にある新しい契約の希望を意識していたに違いないのです。そして、イエスこそエレミヤによって預言された「新しい契約」を成し遂げる方だ、ということをマタイは言いたいのです。マタイの旧約聖書の引用は、こういう旧約聖書の大きな文脈を意識したものです。ですから私たちはマタイ福音書を読むときに、旧約聖書そのものをより深く理解している必要があります。旧約聖書を知らないと、マタイ福音書は深く味わうことができません。そのような点を踏まえながら、聖書テクストを読んで参りましょう。
2.本論
では13節です。前回は、ヘロデ大王が東方の三博士を使って新しく生まれたユダヤ人の王を見つけ出そうとしましたが、幼子イエスに会った三博士は夢の中でヘロデのところに戻ってはいけないという警告を受けたので、その警告に従ってヘロデに会わずに帰ってしまった、という話をしました。騙すつもりが騙されたと知ったヘロデ大王が怒り狂うのは想像に難くありません。実際、晩年のヘロデの精神状態はまともではありませんでした。これは作り話ではなく、れっきとした歴史書に記録されている実話なのですが、ヘロデ大王の狂気を伝える話があります。それは死の床に就いたヘロデ大王の話です。ヘロデは非常な痛みと苦しみの中で死を待つばかりになっていたのですが、その時彼は恐るべき命令を出します。それはエルサレムの有力者たちを集めて競技場に閉じ込めろという命令でした。そして、自分が死んだらそれらの有力者たちも一緒に殺せという最後の命令を下したのです。なぜそんな途方もない命令を出したのかといえば、ヘロデは自分が死んだらエルサレム中の人々が大喜びしてお祭り騒ぎになるに違いない、そんなことは許せない。しかし、自分と一緒に街の有力者がみんな死んだらエルサレムの人々も悲しむに違いない、だから彼らを殺せというのです。おそろしく自己中心的で無茶苦茶な命令ですが、なんとも物悲しい命令でもあります。ヘロデは自分がそれほどエルサレム中の人々から嫌われていることを自覚していたからです。イスラエルの中で最も大きな権力を持っていた人物にしては、なんと寂しい心の風景でしょうか。ヘロデはユダヤ人たちから尊敬されて愛される王になろうとして必死に頑張ったのですが、かえって自分は誰からも愛されない王になってしまったということを良く分かっていたのでした。自分だけ不幸になるのは許せない、だから一人でも多くの人を道連れにして、彼らにも自分と同じ苦しみを与えてやろうというのです。これは非常に悪魔的な発想です。悪魔も、かつては神の大天使の一人だったと言われています。しかし、自らが神になろうとして神に反逆し、神から裁きを受けてしまいました。自分が堕落して神との交わりを失ったことを知った悪魔は、他の人も自分と同じように堕落させることにすべてを賭けています。悪魔は人間も自分と同じように堕落させようとして私たちを様々な形で誘惑します。悪魔とは、自分と同じ不幸に他人を引きずり込もうとする存在です。晩年のヘロデもまさにそのような悪魔の化身となってしまったのでした。
そのようなヘロデが、騙されたと知って何をするのかは予想がつきます。そこで神は天使を遣わして、ヨセフに警告します。ヘロデが幼子を殺そうとしているから逃げなさい、と。ヨセフはここまでの不思議な出来事の数々を経験し、今やこの幼子こそがイスラエルの希望であることを深く確信するようになりました。ですからこの警告を信じて直ちに行動に移します。まさに夜逃げ同然に、すぐにベツレヘムを離れます。そして、そのおかげでヨセフ一行は命拾いしたのです。なぜならまさにその夜、ヘロデは恐ろしい命令を出したからです。騙されたと知ったヘロデ大王は怒り狂い、ベツレヘム周辺の2歳以下の赤子を皆殺しにせよとの命令を出したのです。さきほどもお話ししたように、ヘロデという人はこのような狂った命令を出しても不思議ではない人物でした。しかし、このような出来事があったという他の歴史的な記述はありません。ヘロデの悪辣さは盛んに喧伝されていたので、ヘロデが本当に嬰児殺害という大罪を犯したのなら、そのことは歴史家たちの注目を集めたはずなのですが、そうした記録はマタイ福音書以外にはどこにもありません。ですので、研究者で出来事の歴史的信憑性に疑問を持つ人が少なくありません。しかし、これまで繰り返しお話ししてきたように、マタイ福音書を読むうえで大事なのはその出来事が本当に起こったかどうかよりも、むしろその意味なのです。マタイがここで間違いなく意識していたのは、出エジプトの出来事です。出エジプト記1章15節、16節にはこうあります。
また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もし男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」
この時、エジプトの王ファラオはイスラエル人の数が増えすぎたので脅威を感じて男の子を殺そうとしたのですが、後の時代になるとそれは違うように解釈されるようになりました。紀元一世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスはイスラエルの歴史について詳しい文書を書き残していますが、その書にはまったく別の記述が残されています。それによれば、モーセの父は夢の中で神からお告げを受けます。それは、あなたの子がイスラエルを救う救世主となるだろうという夢でした。同時に、エジプトの王ファラオの神官も神託を受けて、イスラエル人の子どもがいずれエジプトを打ち破るような人物に成長するだろうということをファラオに告げます。それを聞いたファラオが恐れてイスラエルの赤子を殺せという命令を出したというのです。この話はイエス誕生の話とほとんど同じです。おそらくマタイは、ヨセフスが記したようなモーセについての伝承を知っていたのでしょう。そして、イエスこそモーセの再来、イスラエルを抑圧から救い出す救世主であることを示すためにモーセの話に重ね合わせてイエスの誕生物語を描いたのだと思われます。
というわけで、幼子イエスはヘロデ大王から命を狙われるのですが、それは単にヘロデ大王の狂気によるものであるだけではありません。先ほど述べた悪魔、サタンそのものがヘロデを用いてメシアであるイエスを滅ぼそうとしていたことも忘れてはなりません。そのことを劇的に描いているのがヨハネ黙示録です。ヨハネ黙示録12章1節以降をお読みします。
また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角を持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々を牧するためである。
長くなりましたが、これはイエス誕生と、それを阻止しようとする悪魔との戦いを描いています。女とはイエスの母マリアのみならず、イスラエル民族そのものを指しているのですが、その女が子ども、つまりイエスを産もうとするときに、悪魔はそれを食い尽くそうとしていた、とあります。それは具体的にはどういうことか?その悪魔の手先として動いたのがまさにヘロデ大王だったということです。そこでベツレヘム近郊の二歳以下の子どもを皆殺しにするという恐るべき行動だったのです。
しかし、ヨセフたちはエジプトに逃げたので、かろうじて難を逃れることができました。これが歴史的事実なのかどうかは、正直分かりません。しかし、マタイはイエスの生涯をイスラエルの歴史の縮図として描いているということを再三お話ししてきたように、マタイはイエスの生涯をイスラエルの歴史と重ね合わせています。そしてイスラエルの歴史においてもっとも重要な出来事の一つが「出エジプト」でした。神はモーセを遣わし、イスラエルを奴隷状態から救い出したのです。マタイは、イエスこそ第二のモーセである、再びイスラエルを奴隷状態から救い出す人物であるということを示そうとして、イエスたちのエジプトからの脱出、新しい「出エジプト」を描いたのです。かつてモーセはエジプトからイスラエルを解放しましたが、イエスはもっと巨大な力、罪を用いて人間を堕落させようとする悪魔の支配から人々を解放しようとしたのです。それで、マタイはヘロデ大王が死んだ後イエスたちがエジプトから戻って来たという「出エジプト」の話を描きました。
イエスの家族はユダヤの地のさらに北にあるガリラヤ地方の、ナザレという小さな村に定着することになりました。マタイはそのことを、「この方はナザレ人と呼ばれる」という聖書の預言が実現するためだった、と書いています。しかし、先ほども申しましたように旧約聖書にはナザレという地名は出て来ません。それほど小さな、名もなき村だったのです。では、マタイはなぜイエスがナザレ人と呼ばれることが聖書の預言なのだと主張したのでしょうか。それはおそらく、このイザヤの預言が念頭にあったのではないかと思います。イザヤ書53章1節、2節です。
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
これは、「苦難の僕」と呼ばれる不思議な人物についての預言です。初代教会の人々はこの苦難の僕こそイエスのことなのだと確信したのですが、この苦難の僕は見ばえのしない人だとされています。そして「ナザレ出身」というのはまさに見ばえのしない人なのです。「ナザレ?どこだそれは。そんな誰も知らないようなしょぼい村からメシアが生まれるはずないじゃないか」と人々は言うでしょう。イエスがナザレ人と呼ばれるというのは、まさにイエスがそのような名もない村から全く無名の人物として現れることを指しているのだと思われます。このように、マタイの旧約聖書の用い方というのは一筋縄ではいかない、旧約聖書を非常に深く理解した上での引用だということが言えるでしょう。
3.結論
まとめになります。今日は、イエスたち親子が狂える暴君ヘロデ大王の迫害を逃れてエジプトに逃げ延び、さらにそこから「出エジプト」を果たすという話を見て参りました。この出来事の背後には、人類を救おうとする神の働きと、それに対する悪魔の妨害という、私たちの目には見えない世界、霊の世界の戦いがあったわけです。そのような戦いを描くためにマタイは旧約聖書、イスラエルの歴史の重要な出来事である「出エジプト」をその舞台背景として用いました。モーセがかつてのイスラエルの人々をファラオの支配から解放したように、イエスも世界の人々を悪魔の支配から解放します。その解放の出来事を予告するのが、この幼子イエスの出エジプトだったのです。
私たちはすでにイエスによる解放が実現した世界に生きています。この後、成長した後のイエスの人生をマタイ福音書は描いていますが、イエスはついに人類解放の偉業を成し遂げます。ですから私たちはもはや悪魔の奴隷ではありません。しかし、出エジプトを果たしたイスラエルの人々を再び奴隷にしようとファラオの軍隊が追いかけてきたように、私たち主によって自由にされた民に対しても悪魔の追撃は終わることがありません。私たちは未だにそのような戦いの中にいます。しかし私たちには主イエスとその御霊がついています。私たちを守り導く方がおられるのです。ですから勇気を持って、信仰を持って歩んで参りましょう。お祈りします。
出エジプトを導かれた神、そのお名前を賛美します。私たちはすでに自由にされた民ですが、しかし悪魔の攻撃はやむことはありません。どうか私たちを守り導き、栄光のゴールへと導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン